小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その43

  ワシントン

 三月十七日、新見率いる使節団一行を乗せたポーハタン号は意気揚々、サンフランシスコを出港し太平洋を南下して、パナマに向かった。翌十八日、この日、日本では元号安政から万延となったが、その二週間程前に起きた桜田門の襲撃事件などを彼らが知る由もなかった。

 

 ここからは日付が少しややこしくなる。アメリカと日本には時差があり、アメリカは日本より半日遅れている。またこの年は閏年で十九年に七回、日付調整の年である。更に当時日本の三月十八日を太陽暦(現在の暦)に直すと五月八日となる。あまりにも複雑になるので、これから先は、使節団副使、村垣範正の日記の日付で話を進めるとする。したがって、日付より約一か月半、月日や季節は先である。

 

 閏三月四日(太陽暦四月二十四日)、一行は太平洋を南下してパナマのバルボア港に到着した。ここまではサンフランシスコから十七日間を要した。ここで、一行は、日本からずっと長い間、世話になったポーハタン号の乗組員たちに礼を言って別れた。

 現在は、太平洋と大西洋がパナマ運河(1914年開通)でつながっており、そのまま船で横断出来るようになったが、当時はまだ、陸地を地峡鉄道で移動していた。この鉄道はゴールドラッシュの時代に工事を開始したが、その工事は危険かつ困難なもので、十年間の工事期間でなんと労働者の一万二千人を超える犠牲者を出したと云う。開通してから五年後、一行がその鉄道を利用できたことは幸運であった。

 

 使節団一行は、もちろん列車に乗るのは初めてである。この列車は薪を燃料とし、それを釜で燃焼させ蒸気の力で車輪を回転させるいわゆる蒸気機関車だった。一行が始めて見たこの列車前方の右には、我が日の丸の旗、そして左側にはアメリカの国旗が取り付けてあり、いかにもアメリカとしては日本との友好を示していたのだった。いざ列車に乗り込もうとした時、いきなり頭の上から凄まじい「ポォー」という汽笛が鳴り響き、一同皆驚きを隠せなかった。

 村垣の日記には「車の轟音雷の鳴りはためく如く、左右を見れば三四尺の間は、草木も縞(しま)のように見えて、見止まらず・・・更に話も聞こえず、殺風景のもの也」と記してある。

 つまり、列車の騒音が大きすぎて隣の人と話も出来ない。窓から見える景色は早すぎて、手前の七、八mくらいまでは、全く見えず樹木が縞のように見えると、いかにも初めて列車に乗って吃驚した時の感想である。日本で速い乗り物としては馬だけであり、村垣も多少馬術を心得ているが、それとはまるで比べるまでもなかった。

 村垣は常に筆と懐紙を携え日記を付けていた。同行していたアメリカ軍人は「日本人は常に日記を書き、短い文書、言葉など何でも写しをとっていた。まさに蜂のように勉強していた」と書き記している。

 ここで、目付役小栗忠順はひとつの疑問を抱いた。この壮大な鉄道工事と列車運行費用をアメリカ国家としては全く出資していないという事だった。では、この莫大な費用を誰が用意したのか。

この疑問に対し、同行したアメリカ軍人の説明によると、

「総費用は、凡そ七百万ドルかかりました。その費用のすべては国内の富裕層たちから会社設立のために提供され、列車の運賃からでた利益を出資者へ分配されます」

この時、小栗は初めて株式会社の仕組みを理解できた。

 因みに日本でこの株式会社を始初めて行なったのは、勝麟太郎とも深く交流があった坂本龍馬がつくった組織で、長崎の豪商小曾根乾堂の援助の元に海運業を営んだ『亀山社中』が最初と云われている。 

 

 三月六日、地峡鉄道を六十キロほど走ると大西洋(カリブ海)にでた。アスピンウォール(現在のコロン)という港町である。ここにはアメリカ海軍の軍艦ロアノークが待機していた。この頃、アメリカでは既に電信が確立しており、遠く離れたワシントンでは彼らがサンフランシスコに到着して以来、使節団の動向はすっかり把握していたのだった。当時の日本では飛脚か早駕籠がこれを担っていたが、文明の差があまりにも大きすぎて比べ物にならない。

 

 一行は軍艦ロアノークに乗船し、カリブ海からフロリダ州沿岸を経由、十九日間の航海を経て三月二十四日、ようやくワシントンに到着した。横浜出航から、目的地ワシントンまで実に二か月間を要したのである。

 しかし、その航海は咸臨丸乗組員の苦難の連続とは余りにも異なり、すべてをアメリカ海軍に委ねた無難な道程であった。そのため使節団一行はアメリカ軍の言われるままの行動だった。

 新見と村垣は新しい物を見るたびに、とても驚いていたが、小栗だけは常に鋭い猜疑心の目で見ていた。海岸の至るところに砲台が見られた。砲台というのは防衛上見張りを目的にした大きな大砲を設置した要塞のことである。見かけは大層だがその砲台に入ってみると、その多くは飾り物で実用としては疑わしかった。河口の海面へ石を高く桔梗の花の形に積んだその砲台は、日本の函館に幕府が新しく造った五稜郭に似ていた。

 

 兵隊の殆どが、どこかの国の雇い兵だった。小銃や大砲の使い方もうまいとは言えない。優れた兵隊はわずかのようだった。小栗は我が国の兵力をもってすれば恐れるに足りないと言ったが、村垣は砲台の事はよく知らなかったので、何も口出し出来なかった。

当時の蒸気機関車

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その42

 四月四日、咸臨丸は何事もなくホノルルに着いた。アメリカ人の手を借りるまでもなく、運用方の浜口と測量方の小野が中心となって、帰路は殆ど日本人の力だけで進むことが出来た。ハワイで燃料や水・食料を補充した後もしばらく穏やかな航海は続いた。四月二十九日、小雨が降ってきて、少し肌寒くなった。更に五月に入って二、三日暴風雨に遭ったが、もうすぐ日本に帰れるという気持ちが強く少しも怖くなかった。

 

 最後にもうひとり、咸臨丸に欠かせない人物がいた。それは運用方の鈴藤勇次郎敏孝である。鈴藤も長崎海軍伝習所からずっと勝麟太郎と長年苦楽を共にしてきた人である。彼は航海術を学ぶ傍ら、絵画を描くことを得意としていたのだ。あの有名な荒波の中の咸臨丸を見事に表した『咸臨丸難航図』を描いたのが鈴藤勇次郎である。鈴藤はその絵を完成させると木村摂津守へ贈った。しばらくは木村家の家宝としていたが、現在は横浜開港資料館で大切に保存されている。

 

 五月五日、咸臨丸一行は、無事浦賀に着いた。久しぶりに富士山が見え、全員が歓喜に沸いた。

しかし、日本に着いた港では、アメリカの歓迎とはまるで打って変わって静かだった。太平洋横断という偉業を果たした覇者達に対してはあまりにも冷たい出迎えだった。しかも船が港に着くと同時に大勢の役人が小舟に乗り、十手を持って上がり込んできたのだ。桜田門で襲撃事件があって以来、逃亡している水戸脱藩浪人を探していたのである。

「この船に水戸藩の者は乗っておらぬか。隠すとお主らの身のためにならぬぞ」

すると、今にも役人に向かって怒鳴り散らそうとする勝を片手で抑え、

「いきなり、無礼ではないか。我々は徳川将軍の御下賜により遣米使節随行船の一行でござる。それがしは軍艦奉行木村摂津守喜毅である。たった今アメリカより帰国したばかりでござる。この船には、そのような者は断じて隠しておらぬ。いったい何事だ」

不躾な町方役人風情が遠慮なしに船に乗り込んできたことに、木村は怒りを抑えるように言った。

「これは木村様、ご無礼致しました。実は、ふた月ほど前に桜田門近くで大老井伊直弼様が水戸藩脱藩浪人に殺害され、その下手人がいまだに逃亡しており、その者たちを捜索しておりました」

「何、井伊直弼様がお亡くなりになったのか。それはまことか」

「はっ、三月三日、江戸城で雛祭りのため諸大名登城の折、彦根藩行列が桜田門外において襲われた由にございます」

 木村たちにとって、寝耳に水とはこのことであった。木村たちが日本を離れてたった四か月の間に、日本の政治情勢は大きく変わった。更にそれを憂慮した孝明天皇の意向により、元号も三月十八日より安政から万延にかわったのだった。

 

 咸臨丸を品川に移し、翌日、木村摂津守と共に勝麟太郎江戸城で将軍家茂に拝謁した。

傍らから老中のひとりが、

「勝、その方は長崎で長く異人と接してきた者であるから眼光があろう。どうであったか異国に渡って特別目にしたことは何じゃ。わが日本とアメリカとは、いかなるあたりが違うか」

「いや、人間のすることはどの国も同じで、アメリカ国とはいえ、別に異なることはございません」

「いやいや、左様なことはあるまい。御前じゃ。遠慮のう申しあげい」 

勝は薄ら笑うと、

「左様、我が国と違いアメリカでは身分や家柄は全く関係なく、およそ人の上に立つ者は皆その地位相応に賢こうございます。この点ばかりは、まったく我が国とは反対のように思いまする」

老中は、将軍の前で自分たちを愚弄したと思い、見る見るうちに顔色が変わった。

「ううっ、無礼者、ひかえろっ」

と怒鳴った。

 鈴藤勇次郎作『咸臨丸難航図』(横浜開港資料館保管)

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その41

 三月十八日、いよいよ、アメリカの地を離れる日が明日に迫った。新見率いる使節団一行は昨日すでに出港したばかりである。木村は昨日、それを見送ったが、実は自分も使節団のひとりとしてワシントン行きを切望していたのであった。父喜彦に家宝の品々を売り捌き渡米の費用として用意してもらった三千両も殆ど使い果たし、父も望んでいたアメリカ大統領に謁見し批准書を取り交わす使節団の一員として、その渡米目的を自分は途中で引き返す結果となってしまった。

 これは当然予測できた事とは言え、何か父上に後ろめたさを感じる木村だった。ただ、自分が行なってきたことが将来の日本とアメリカの絆づくりになったと自負して信じるしかなかった。

 

 勝麟太郎は帰航に必要な燃料の薪、水、食料などの積荷の最終確認を今やっと終えたところである。爽やかな海風が吹く波止場で一息ついていると、木村が中浜と福沢を伴いやって来た。

「やあ、勝さん、ご苦労様。出航の準備は整いましたか。我々も今、市庁舎に行って最後の挨拶を済ませてきました。市長や幹部の方が明日見送りに来て頂けるとの事です。勝さん、いよいよ明日は帰国ですね」

 波止場には、出航前日にも拘わらず、大勢のサンフランシスコ市民が咸臨丸と日本人を見送りに来ていた。

 その内の何人かの婦人が近寄ってきた。ひとりのとても肥えた婦人が勝を見ると別れを惜しむかの様に急にハグをしてきたのだ。それが余りに唐突だったので、勝はびっくりして思わず後退りした。運悪く足元に置いてあった小さな樽に足をとられ尻餅をついてしまったのだ。

「か、勝さん、大丈夫ですか」

側にいた福沢が慌てて、勝の手を引き上げた。婦人はハンカチで顔を覆い申し訳なさそうに詫びた。

「大丈夫だ。おい福沢、今日の暦本においら、女難の気あり、とか書いてなかったか」

勝は照れくさそうに冗談を言った。

「いや、書いてないと思います。しかし女子(おなご)には大変好かれると書いてあったかも知れません」

福沢も笑いながら答えた。

「いやあ、雷電(らいでん)が襲ってきたかと思ったよ。おいら、日本に連れて帰って勝負させてみてえよ」

 雷電とは、その頃、江戸で大人気の力士の事である。28回場所も優勝して大相撲史上未曾有の最強力士と云われた。

「勝さん、女性にそんな失礼な事を言うとバチが当たりますよ。この国はレディファーストですから」

 すると、勝の後でけたたましく吠える声に驚いて、今度はまともにひっくり返った。一緒にいた女性が抱いていた子犬が勝に向かって急に吠え始めたのだ。勝は身体を縮ませて信じられない程ひどく怯えていた。女性の方もびっくりして謝ると、犬を叱りながらその場から逃げるように去って行った。

 犬の声が聴こえなくなると、勝はようやくまわりを気にしながら、そっと顔をあげた。福沢がもう一度手を差し延べたが、勝はその手を払いのけ、

「おいら、もうアメリカは嫌いだ。早いとこ船に乗って日本に帰ろう」

と半べそをかくように、咸臨丸に戻って行った。

「勝さんが、あれ程犬が苦手とは意外です。木村様はご存じでしたか」

「いや、わたしも知りませんでした。そういえば確かに長崎でも犬をとても嫌っていましたね」

 勝麟太郎がまだ九歳の頃の話である。学習塾の帰り道、突然野良犬が麟太郎に襲いかかり袴の中に頭を突っ込むと陰嚢を噛みきり睾丸が露出するほどの裂傷を負った。通りがかった者が自宅に連れ帰り、医者を呼んで傷を縫合させたが「これは助かるまい」と匙を投げた程だ。その後、高熱が続き回復するまで二か月半掛かったという。それ以来勝は大の犬嫌いになったのだ。因みにこの時、父の小吉(こきち)は、高熱で苦しんでいる麟太郎に向かって「しっかりしろ、麟太郎。ここで死んだら犬死だ」と言ったとか言わないとか・・・

 勝小吉は、生涯無役の不良旗本で、喧嘩や吉原通いばかりしていた。麟太郎が生まれた時は、なんと座敷牢に入れられ、初めて顔を見た時は三歳だった。しかし子煩悩で麟太郎を心配するあまり、小吉は金毘羅へ願掛けや、毎晩水垢離(みずごり)して回復を祈ったそうである。そして、始終小吉は麟太郎を抱いて眠り、他の者に手を出させなかったと云う。麟太郎の破天荒さは父の小吉ゆずりである。

 

 三月十九日、目に沁みるような真っ青な太平洋の中に、いま咸臨丸は滑りだしていた。波止場には市長はじめ多くのサンフランシスコ市民が別れを惜しむように手を振って送り出してくれた。

 木村や勝たちは、陸地に向かい、富蔵とその後を追うように亡くなった岡田や峰吉を偲び、手を合わせた。結局三人が日本に帰れない人となったのだ。水夫の平田富蔵(享年三十三歳)、岡田源之助(享年二十五歳)そして火焚(ひたき)の峰吉だった。ブルック大尉の尽力で、この三人の墓標は現代でも残っており、サンフランシスコのローレルヒルの墓地に埋葬されている。

 

 帰りの航路はブルック大尉の立てた計画に基づきハワイ経由となった。今回、濡れた布団はすべて処分し代わりに新しい毛布を乗組員全員に配った。更に水に弱い草鞋をやめ、ブーツに履き替えるようこれを支給した。水夫たちも最初は抵抗したが、慣れると皆このブーツを相当気に入った様子である。

 

 船はカリフォルニア海流に乗って、常に西に流れるようにスムーズにハワイへ向かった。毎日がうそのように海は穏やかで晴天続きだった。

良く晴れた日、皆、甲板で心地よい風に身体を癒していた。そこには、木村、勝、福沢、万次郎、佐々倉らがいた。

 

「おい、福沢。その妙な傘はなんだ」

と勝は聞いた。すると福沢は自慢げに

「これはアンブレラといってアメリカ人が使うものです。木村様のお土産として雑貨店で買いました」

「ばか言え、そんなものを差して街中を歩けば、すぐ攘夷派の者に斬られるぞ」

「では、家の中で楽しむしかないか」

木村は残念そうに言った。

すると、勝は佐々倉に向かって

「では、佐々倉、お前それを木村さんから譲ってもらえばどうだ」

「私がそれを貰ってどうしろと言うのですか」

佐々倉は不思議そうに聞いた。すると勝は

「お前、以前に家の雨漏りがひどいと嘆いていたではないか」

「そうか、雨漏りした時に家の中で差せばいいか なるほど。 ってそんなバカな!」

 

 皆が大声で笑った後、木村が海を見ながら呟いた。

アメリカの人たちは、どうして日本人にあれほど親切にしてくれたのでしょうね」

 いくらアメリカ大統領の命令だからといっても、ひとりひとりが皆親切にしてくれた。それは決して義務でもなければ報酬を得るわけではない。自らが率先し、当たり前のように困っている人に救いの手を差し伸べている。そこには男女や人種の区別、そして何より家柄や職業の差別がまったくないのだ。そこにあるのは、人間としての『善』と束縛されない自由な言動である。一個人の人間を尊重している。それが自由と平等の国アメリカなのだろうか。木村の問いかけに、皆の頭の中は色々な考えが廻った。

 

雷電 爲右エ門

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その40

 咸臨丸の修理は完全に終わった。最後の点検が済むと木村と勝はもう一度カニンガムの邸宅を訪れ、感謝の意を伝え、別れの挨拶をした。他の乗組員たちも長らく世話になった宿舎を念入りに掃除して、荷物もすべて咸臨丸に積み込んだ。

 そして、サンフランシスコの港に船を碇泊させ、乗組員たちに交代で土産物を買うことを許可した。木村は勿論ひとりひとりにドルで支給したお金を持たせた。

 木村は勝と何人かの乗組員と一緒に病院へ向かった。この病院にはアメリカに着いた時から入院している水夫がいた。すでに一番病状が悪化していた富蔵は帰らぬ人となり、埋葬されている。残りの七人も症状は依然回復せず、とても船に乗って帰国できる状態ではなかった。

 やむなく、吉松と惣八のふたりの水夫に病人の介護を託し二千ドルを預け、そのまま病院に残すことになった。病院の職員たちの親切な介護は徹底していた。入院している人種を問わず、病室を常に清潔に保ち、毎日の清掃を怠らず、衣類、シーツも必要に応じ出してくれ、病人の汚物も気にせず始末してくれた。見舞いに来た木村や士官、水夫たちは、この病院側の人道的な対応に皆深く感動した。だが、中には仲間と別れる辛さで、声をあげて泣き出す者もいた。

 

 木村はそのまま、勝と中浜と共に市長に会うため市庁舎に向かった。そこには、市長と共にブルック大尉が待っていた。ブルック大尉には事前に依頼しておいた事を確認した。

「ブルック大尉、本当に最後までお手数をお掛けします。ところで依頼していた水夫は見つかりましたか」

「大丈夫です。何とか話がついて五人に了解してもらいました」

木村が依頼した事とは、帰国の際、念のため補助要員として日本の船に同乗してもらえる ベテラン航海士を探してもらう事だった。木村は改めてブルック大尉の親切にお礼を伝えた。またデシェメカー市長に、このサンフランシスコの消防士、船員の未亡人団体へ二万五千ドル(約二千両)を寄付する事を伝えた。市長が大いに喜んだのは言うまでもなかった。先日、ブルック大尉に受取を拒まれたお金を有効に使うため、この未亡人団体へ寄付することを思い立ったのだった。

これを寄付しても、まだ幕府に返す五百両と日本の乗組員やアメリカの雇い航海士への給付に充てられる五百両が残る計算となるである。

 

 この日、交代で土産品を買う乗組員を横目に福沢諭吉は、単独行動を取り、精力的にサンフランシスコ市内の主要な場所や施設を訪ね歩いた。本来なら、単独行動は木村が提示した規則に背くことだったが、木村は福沢の渡米の目的をよく理解しており、木村の命令に従ってという名目でこれを許した。

 福沢は単身、着流し姿で出かけた。行き交うアメリカ人が物珍しげに近寄り、いろいろと話しかけてきた。メア島の官舎生活において多くのアメリカ人の家族に触れてきた福沢は、すでに日常会話をこなせる程、英語力を身につけていた。

更に街中を歩いていると、突然雨が降って来たので近くの建物の庇を借りしばらく雨宿りをしていた。すると、若い女性が傘を差しながら、話しかけてきた。まだ十代の可愛い顔をしている。

「あなたは日本という国から船で来た人でしょ。そこでは身体が雨に濡れるので、よかったら私の店の中で雨が止むのを待ってはいかがですか」

と言ってきた。女性が指さしたのは、店どころか線路の上にある列車の車両だった。しかも客車ではなく貨車だったのだ。不思議に思いながらも女性の後を付いて車両に入ると、壁には人物を写した写真がいくつも綺麗な額に入れ飾られていた。中央には円筒の突起物が付いた四角い木箱が三本の脚に支えられ置いてあった。福沢はすぐに、これが写真機で、この場所が写真スタジオだと理解した。

 間仕切りの奥から主人らしき男が出てきた。蝶ネクタイをし、少し突き出た腹を隠すようにベストを着て、ポケットからは懐中時計のチェーンが見えていた。名前をウイリアムといい、タゲレオ式(銀板)写真でポートレートを撮ることを商売にしている。貨車をスタジオとした理由は、すぐ汽車で出張写真を撮りに行けるからという理由らしい。声を掛けてきた女性の名前はドーラ(テオドラ・アリス)と云い、この写真屋の娘だそうだ。十七、八歳にみえたが、歳を聞くとなんと十二歳だというので驚(おどろ)いた。

 店主も福沢の着物姿を見て、最初は一寸びっくりしたが、すぐ街で噂になっている日本人だとわかった。すると急に愛想よく笑いかけ、一枚写真を撮ってはいかがですかと言ってきた。娘のドーラも笑顔で勧めてきた。

 そこで、福沢は娘のドーラさんと一緒に撮ってもらってもいいかと聞くと、主人はすぐOKサインをだした。福沢は案内された椅子に座ると、すぐにドーラは福沢の横に立ち、椅子の背もたれに肘を置くとポーズを決めた。写真はおよそ一時間で出来上がった。料金の二ドルを払い、福沢は礼を言いそのスタジオを出た。雨はすでに止んでおり、思いがけずいい体験と土産ができたと心の中で喜んだ。

しばらく街を観て回っていると、中浜万次郎と出会った。

「やあ、中浜さん、あなたも土産品を探されているのですか。何か面白い物見つかりましたか」

「ああ、福沢さん。おや、あなたは一人で市街を探索していたのですか」

そう言う万次郎もひとりだったが、ここでの万次郎は住み慣れた故郷(ふるさと)のようなものである。

「はい、自分の英語力を試す、いい機会だと思いまして一人であちらこちら歩き回っていたところです。それに、木村様に頼まれまして、何かいい土産品がないか探していたところです」

「そうですか。福沢さん、ちょっとあの書店に寄ってみませんか」

そう誘われ、福沢も興味を持っていたので、中浜の後について書店に入った。少し薄暗くホコリ臭かったが、店の中は意外と広く、英語で書かれた書籍が本棚を埋め尽くすように並んでいた。中浜は店主を見つけると、すぐ「ウェブスターの英語辞書が欲しいのですが、ここにありますか」と聞くと、店主は驚いた顔をした。

 異色の東洋人が入ってきたと思うと、いきなり彼が話した言葉がとても流暢な英語だったので、その意外性にびっくりしたのだ。まして、ウェブスターは辞書の中では当時、高価で貴重だったので、そんな値打ちのある本をいきなり求められた事も、店主にとっては予想外だった。値段は四十ドル、書籍としては決して安くはなかった。更に、「私にも同じ辞書を一冊下さい」と福沢が英語で言うと、店主は飛ぶように喜んで店の奥から真新しい二冊を持ってでてきたのだった。

因みに福沢は木村から頼まれた土産品として、こうもり傘を購入し持って帰った。これは、後にちょっとした笑い話のネタになった。

 福沢諭吉とドーラ

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その39

 咸臨丸帰国

 

 三月十五日、新見率いる使節団が改めてメア島に訪れ、木村総督に今後の話をしにやってきた。木村は造船所の傍らにある事務室に一行を案内すると、おもむろに新見は話を始めた。

「木村殿、船の修理はあと、どの位かかりそうですかな」

「かなり、大掛かりな修理をして貰いましたので、あと六、七日は必要かと思います」

今までもかなりの手間を掛けている様子を見ているので、少し余裕をみて答えた。

「そうですか、我々もかなりアメリカの様子がわかってきました。予想以上にアメリカ人が歓迎してくれたのには、いささか驚きました。この分だと、ワシントンまでの道程も安心して行けそうです。ついては木村殿、本来貴殿のお役目は、我々ポーハタン号の使節団に何か不祥事が起きた時の代わり役として随伴船でここまで来て頂いたことはご承知ですな」

「勿論でございます。無事、新見様ご一行がアメリカにご到着され、私も安堵しております」

「就いては、木村殿のお役目もここまでと云う事で、船の修理が終わり次第、帰国を許そうと考えているが、いかがであろう」

「はっ、新見様の仰せ付けとあらば、それに従う迄でございます」

「そうか、では、その様に致そう。我々は次の出航の準備ができ次第、ワシントンを目指し出立致すつもりじゃ。そち達とは、これで別れる事となる。くれぐれも帰りの航海も無事、乗り切れるよう祈っておるぞ」

「丁重なるお気遣い、誠に恐れ入ります。私共も、新見様ご一行が無事お役目を果たされるよう心よりお祈り申し上げます」

新見達はまた、サンフランシスコに戻った。彼らがワシントンに向け出発するのは翌々日の十七日となった。

 

 咸臨丸の修理もほぼ終わりに近づいた。木村は修理費用がどの位になるのか皆目、見当がつかなかった。

 手元には幕府から借り入れた五百両と木村が自費で用意した三千両の残り二千五百両程ある。五百両の大半は咸臨丸の乗組員へ手当給付金として皆に分け与えていた。また乗組員の治療費、カニンガム提督への見舞金、等々にも当ててきたのだ。そこで、木村は中浜を伴いブルック大尉に相談することにした。

 そこで木村は耳を疑うような事を聞かされた。

「木村さん、ご心配は無用です。今回の船舶修理はアメリカ大統領の命令で行なった事ですので、これに掛かる費用はすべてアメリカが負担します。ですから、一ドルたりとも日本から頂くわけには参りません」

「とんでもない、ここまで何かと便宜を図っていただき、修理の期間の宿舎まで用意して頂いたのに、費用をまったく受け取ってもらえないなど承服できません。何としてでも受け取ってもらわねば日本人として立つ瀬がありません。武士の意地というものです」

「木村さん、私は武士の意地とはよく理解できませんが、これはアメリカが日本に対して友好と感謝の意味も含めています。どうかアメリカ人の好意として気持ちをわかっていただけませんか」

「そこまでおっしゃるのなら仕方ありません。私はつくづく、アメリカ人の優しさと心の広さに感激しています。そんなアメリカと友好国になれる日本は本当に幸せだと思います。心よりお礼を申し上げます。」

 

木村は改めてブルック大尉の顔をみて言った。

「ブルック大尉、あなたが一緒に咸臨丸に乗って頂かなければ、我々日本人の力だけでアメリカに辿り着けたかどうか、甚だ疑問です。更にアメリカに着いてからも、ずっと自宅にも戻らず我々を最後まで見捨てず船の修理の段取りまでもして頂き、この感謝の気持ちはとても言葉では言い尽くせません」

 ブルック大尉は何も言わず木村の言葉を聞いていた。木村は日本から持ってきた千両箱を二箱、目の前に出した。ひとつは日本で両替したドル金貨が入っており、もう一箱には一両小判がぎっしり詰まっていた。

「失礼とは思いますが、あなたへの感謝の気持ちをこんな形でしかお返しできません。どうかお望みの金額をお受け取りください」

すると、ブルック大尉は笑って手を振った。

「木村さん、私も最初は自分に与えられた仕事として、あなたたちのお世話をさせて頂きました。しかし、今では逆にあなた方日本人の誠実さや実直さにとても感動しています。私も色々な事を学ばせて頂きました。この貴重な体験はお金に換えられるものではありません。どうかこのお金は日米親善のために役にたてて下さい」

と言って受け取らなかった。それでも木村が執拗に受け取りを迫るので、ブルック大尉は

「それでは、この一両小判を一枚頂きます。これを貴方と私の友情の徴(しるし)として記念のメダルにします。そして私の家の家宝にします」

と最高の笑顔で云うと、それをハンカチに包み大事そうにポケットにしまった。

 

 事件が起きたのは、その日の昼過ぎだった。木村と勝がドックでほぼ修理が終え、見違えるように綺麗になった咸臨丸を見ながら話をしていると、佐々倉が慌てた様子で駆込んできた。

「どうした、佐々倉、そんな顔して、また風呂釜でも壊れたか」

「勝さん、たいへんです。なにやら、うちの乗組員が女性に乱暴を働いたようで、裁判所に出頭するようにと責任者宛てに連絡が入ったようです。大事にならなければよいのですが」

佐々倉は手に持っていた書面を勝に渡し心配そうに言った。命令書には

〖尋問の節、明日十五日午前九時に出頭せよ サンフランシスコ裁判所〗と書かれていた。

「そりゃ、ホントかい。どうやらただ事ではなさそうですね、木村さん。仕方がありません。おいら責任者として明日裁判所に行ってきます。最悪の場合は覚悟決めなきゃならないですね」

 勝は、翌早朝、身支度を整え、正装で出かけた。折角、アメリカと日本が親密な関係になってきたのに、それをぶち壊すような事態になっては、今までの苦労が台無しとなる。どうやって収束を図るかそればかり考えながら、裁判所に向かった。

 指定された法廷に入ると、そこには法衣を着る三、四人の裁判官がいた。やがて裁判長は居丈高(いたけだか)になって、国籍・年齢・職業等の取調べを開始した。勝は心の中で、多分乗組員の中に重大犯人がでたに違いない、困った事になったと神妙な態度で質問に答えていた。

すると、裁判長は二、三冊の書物を一段と高く掲げ、

「その方、これを何とみるか」

と中を開いて勝の目前に突き付けた。一瞬、しまったと思った。それは、実に日本の春画であった。

しかし、勝はわざと落ち着き払って、

「それは、日本の春画ですが、それがどうかしましたか」

と開き直った。裁判長は一段と声を荒げ、

「その方を呼び出したのは、この儀である。実は昨日サンフランシスコ公園である二人の貴婦人が散策しておったが、日本人の水兵が乱暴にもこの本を貴婦人に強いて与えんとした。そして、その婦人は大いに怒って直に侮辱の訴えを当法廷に起こしたから、法律に依ってそれぞれ取り調べを急ぎ行なう事となったのだ」

 

その位のことで、艦長呼び出しとは何と馬鹿馬鹿しいと、勝は腹立たしい思いをした。

「法律とあれば、致し方ございません。証拠品を持ち帰り、早速取り調べの上、処分いたします」

と答え、その場を去ろうとした。

すると、裁判長は一転してまあまあと別室に勝を案内し菓子と飲み物を出し、丁重に待遇した。そして、

「これは、わたし個人としての話だが、この本は非常に珍しい物である。一旦、あなた方にお返ししますが、改めて私に譲っては貰えないだろうか。実は強与された夫人らも非常に欲しがっている」

 勝は何だかとても忌々(いまいま)しかった。そんなに欲しければ訴訟などせず、最初から素直に受け取ればいいだろう。わざわざ呼びつけて油を搾った挙げ句、今度は春画を下さいとは呆れて物が言えない。勝は、造船所に戻るとすぐに木村に報告し安心させた。また、すぐに犯人もわかったが少し叱っただけで済ませた。

 翌日、勝はわざと大勢の前で厳粛に贈呈式をやってみせた。貰った裁判長は閉口し、婦人たちは早々に逃げ出した。

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その38

 三月十日、使節団一行は、メア島から蒸気船アクティヴ号に乗り換え、サンフランシスコ市街へ行き、インターナショナル・ホテルに泊まった。彼らにとっても初めてのアメリカ人の歓迎と料理には驚きの連続だった。

 副使の村垣範正がホテルの四階から街の景色を見渡している時だった。周りの建物はどれも煉瓦造りだった。村垣はアメリカ軍人の案内人から、この建物は地震以外であれば、火災には強いと自慢気にいう説明を受けていた。すると偶然にも近くの建物で火災が起こった。ところが、周囲の人々は特に驚きもしなかった。近くの建物の屋上に夫婦がいたが、主人は火災を気にすることなく本を読んでおり、婦人は幼児を抱きながらそれを見ていた。時折、夫婦は談笑しながらそれを見ている。やがて大勢の消防士がポンプ車と共に現れ、程なく鎮火した。

 江戸では一旦火事が起きると、周りの町民は家財を荷台で引き大騒ぎで逃げまどう。火消衆が先を急いで屋根の上でまといを振り立てる。消火というより周りの建物を壊すことが仕事だ。村垣は江戸の火事との違いをまざまざと知らされた。

 

 翌々日の十二日は、予定が満載だった。午前中にイギリス・フランス・ロシアの各領事館へ行き領事と面会。引き続きサンフランシスコ市役所へ行き幹部に挨拶。その後、音楽学校で日本からの使節団歓迎の昼食会をする事となり、昨日から来ていた木村総督も中浜やブルック大佐と同席する予定だった。

 ところが、思いがけない事件が起こり、急遽木村はメア島に戻ることになったのだ。実は前日、メア島に碇泊していたインディペンデンス号から祝砲があり、ポーハタン号もこれに応え答砲を行なったのだが、不運にもその一発が波止場を歩いていたカニンガム提督のすぐそばに着弾し、その火気により提督は左肩に衝撃を受け、顛倒してしまった。すぐに邸宅に運ばれたが流血している上に顔面にも火傷を負っており、負傷は決して軽くはなかった。

 使節団に同行していた木村の元にも、すぐその知らせが届き、急いでカニンガム提督の元へ行ったのである。

メア島に戻ると、そのまま提督の邸宅に駆け込んだ。カニンガム提督のそばには心配そうな顔で勝麟太郎も見舞いに来ていた。提督の顔には痛々しい包帯が巻かれていた。

カニンガム提督、大変な目に遭いましたね。お怪我は大丈夫ですか。」

「これは木村さん、わざわざ来て頂きありがとう。おや、今日は歓迎会に出席されるのでは無かったですか」

「いや、それ処ではないと思い、アメリカ海軍に無理を言って船を出してもらい、ここに駈けつけました」

「それは、ご心配かけて申し訳ない。医者が言うには二、三日すれば痛みも落ち着くだろうとの事です」

木村は、カニンガム提督が普段通りの会話が出来ることを知り、とりあえず胸を撫でおろした。

 

 一方、サンフランシスコでは、歓迎会が盛大に行われていた。しかし、市長や市の幹部たちは、すでに前回の歓迎会の時に、人気を博した木村の姿が見えないのを不審に思った。その様子を察したブルック大尉が

「サンフランシスコの皆さん、この場に木村総督の姿が見えないので不思議に思っておられる方も多いかと思います。実は、昨日メア・アイランドのアメリカ軍造船所の司令官カニンガム提督が不運の事故により顔に怪我を負われました。そこで、木村総督は非常に心配され、楽しみにされていたこの歓迎会をやむを得ず欠席され、急遽カニンガム提督のところへ見舞いに行かれました。木村総督にとって、カニンガム提督はかけがえのない友人なのです。この日本とアメリカの友情にどうかご理解下さい」

そう説明すると、会場からは大喝采が起こった。ここでも木村の振る舞いは、アメリカ人に感銘を与えたのだった。

 

 この日、咸臨丸乗組員に悲報が届いた。病院に入院していた水夫の富蔵が息を引き取ったのである。アメリカに着いて、すぐ、勝とブルック大尉が具合の悪い水夫たちと一緒に入院させ、しばらくは治療を受けていたのだったが、衰弱が酷すぎて回復には至らなかった。平田富蔵は瀬戸内海の塩飽諸島の中にある佐柳島(現代はネコ島として有名)という小さな島の出身だった。勝は後日、介護をしていた同じ佐柳島の前田常三郎から、その時の様子を聞き、声を上げて泣いたと云う。

「常、おらもういかん。おめえ、無事日本に帰れたらカカアに宜しゅう伝えてくれ。おらアメリカに来れて幸せだ。何よりも勝先生にわずかだがお役に立てたことがすごく嬉しいんじゃ。先生は、口は悪いがほんに優しい方や。おらみてえな水夫も人間らしゅう扱うてくれた。出来れば一生、おそばについて先生のお役に立ちたかった・・・」

そう言うと、静かに目を閉じた。

 左から富蔵、峰吉、源之助の墓 (サンフランシスコ コルマの丘)

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その37

 三月八日、この修理の最中に幕府の正使を乗せた米軍艦ポーハタン号が十二日遅れで、やっとサンフランシスコに着いたのだった。航海ルートを南太平洋としていたが、途中暴風雨に遭い二月十四日から約一週間、ハワイ(当時はサンドイッチ諸島と呼んでいた)に寄ってきたのだ。そのハワイでは消費した石炭や水を補給し、そこで使節団一行は王宮に招待され、カメハメハ四世とその女王に挨拶を交わしている。また、ハワイでは、すっかり欧米風の建物が立ち並び、情報媒体も充実しており、使節団は週間新聞が二紙も発行されていた事を学んだ。

 因みにこのハワイ諸島は、イギリス、フランスなど欧米諸国から領土を狙(ねら)われたが、決して植民地にはならなかった。 そして百年後の一九五九年にアメリカ合衆国五十州の中で最後に加盟した州となるのである。

 

 ポーハタン号はサンフランシスコに着くと、咸臨丸が航海中の修理をしている事を聞き寄港せず、そのままメア・アイランドに向かった。一刻も早く同じ日本人に逢いたいという気持ちからである。

 勝がドックの中でアメリカの作業員から何やら製図について説明を受けていた。そこへ測量方の赤松が嬉しそうに駈けてきた。

「先生、先生、ポーハタン号がサンフランシスコに到着したと、連絡が入ったそうです」

「なに、本当か。すぐに木村さんにもこの事を伝えてくれ。佐々倉に迎えに行くように言え。俺もすぐ行く。ところで、日本人は皆無事な様子か」

勝は矢継ぎ早に言った。

「はい、使節団は皆、無事に着いたそうです」

 まさに使節団と咸臨丸乗組員との久しぶりの再会であった。木村と勝は造船所で使節団を迎えた。使節団正使である新見正興(四十八歳)と副使の村垣範正(四十歳)そして目付の小栗忠順が、初めてアメリカの地に足を踏み入れたのである。

 正使を任じられた新見正興は、文政五年(一八二二年)江戸で三浦義韶の子として生まれたが、大坂町奉行新見正路の養子となり二十六歳で家督を継いだ。新見家は家康が将軍になる前から手柄をたて、家康から厚い信頼を得、新見の名と家紋を与えられた由緒ある旗本の家柄であった。正興はその十代目当主である。正興自身、若い頃より将軍家定の世話役とし仕え、昨年(安政六年)外国奉行を命じられ、その職務より今回の使節団正使となったのである。

 

一行を迎えた木村が前に出て、

「新見様、船での長旅、さぞお疲れの事と存じます。皆さまご無事でアメリカにご到着でき、何よりでございます」

「うむ、その方たちも無事な様子でわしも安堵致した。誠に大儀であった」

 新見たちは皆元気そうだった。村垣が日焼けした顔で

「木村殿、途中、ハワイに寄って来たので遅くなった。ところで咸臨丸の具合はいかがですかな」

「今修理中ですが、傷みが酷く、まだ何日か掛かりそうです」

「そうですか。しかし、皆、無事な様子で本当によかった」

 

 さすがにお互い異国で再会した日本人同士、懐かしさで喜び合った。使節団一行はひとまずポーハタン号に戻ったが、小栗忠順と勘定方の森田岡太郎はひと晩木村の宿舎に泊まった。小栗は時に三十二歳、幕府直参の中では切れ者として評判で、形相にどこか鋭いものを感じさせた。木村が部屋で酒を用意させている傍ら小栗が勝に話しかけた。

「勝さん、どうですかアメリカは」

アメリカで見る月は、日本で見る月と変わりませんね」

「なるほど、天から見れば日本人もアメリカ人も変わらないってことですね」

「そうです。今はまだ、技術的には日本はかなり遅れているかもしれませんが、あと二十年、三十年たてば日本も欧米並みになるでしょう。いや、ひょっとすれば日本が追い越すかもしれませんよ」

「あはは、そいつは愉快ですね。早くそんな日本が見たいものです」

「おいら、最初は不思議でならなかった。どうして、アメリカはこんなにも早く技術革新が進んでいるのか。でも、何となくわかった気がする。ひとりひとりが自分の仕事に誇りをもっているんだ。誰かから強制的にやらされている訳では無いし、誰も卑屈になってない。皆自由に仕事している。個人の能力を最大限発揮しているんだよ。アメリカは日本のような士農工商の差別はないし、自由に仕事を選べるんだ。金儲けも皆が堂々とやっている。それが、結果的に国を発展させ、豊かになっているんだと思うよ」

勝は、日本とアメリカの差を痛感していた。

「そのためには、武士がいつまでも何もせず威張っているだけじゃあ駄目だ。町人でも商人でも能力のある奴はどんどん日本を引っ張っていける世の中に変えねえとね」

「わたしはそんなに威張ってはおりませんよ」

「あははっ、いや、あなたのような方こそ日本を良いように変えていってください。しかし、小栗殿は先程、天から見れば・・・とおっしゃったが、やはり上から物事を見る癖は武士だからでしょうね。あっ、これは余計な事を口にした。勘弁願います。ところで小栗殿はアメリカで何をご覧になりますか」

「さあ、何を見たらいいか、教えて下さい」

勝はにやりと笑っただけで何も答えなかった。

 小栗忠順勝麟太郎。このふたり、富国強兵において軍艦の必要性については共に一致していたが、その後 日本に帰ってから二人の意見は対立した。小栗は軍艦奉行に就任すると造船所建設へと動き出した。

 これに対し勝は、造船所建設には反対し海軍学校の重要性を幕府に訴えた。その結果、第十四代将軍徳川家茂の大阪湾巡視に同行した際、家茂直々に神戸海軍操練所の許可を得て設立した。すると、多くの生徒達が集まった。一方、小栗の方も説得が実を結び、家茂から造船所建設を認可され、横須賀の地で実現となったのである。

 不思議な事に、このふたりには共通点がいくつもある。生まれはどちらも父が旗本であり、成長するに従って文武に抜きんでた才能を発揮している。剣術においては勝と同じ島田虎之介を師とし、直心影流免許皆伝である。また、性格的にも、常に率直な物言いを上司から疎まれて幾度も役職を変えられ、そのたびに才腕を見込まれ、また役職に戻されているところは可笑しい程似ている。その二人がこうして、異国のアメリカに渡って酒を酌み交わしながら論じているのは、奇遇としか言いようがないのである。

小栗上野介忠順