咸臨丸は、その後も風波と闘いながら、北緯四十度線を東へ東へと進んだ。速度は一日に数十キロの日もあれば、二五十キロ以上進む日もあった。 ブルック大尉は困り果てた。自分に指揮権がなく、日本の士官が長崎で習った命令はすべてオランダ語だったので、指…
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