小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~  その1

開国

安政四年(一八五七年)秋。ようやく残暑も和らぎ、数日前まで一面にゆたかな稲穂が揺れていたが、今ではすっかり刈り獲られ、残された稲の切り株が行儀よく並んでいた。

長崎に赴任した木村喜毅(よしたけ)にとっては半年ぶりの江戸だった。老中堀田に長崎伝習所の報告を終え、神田から日本橋を過ぎ築地へと続くゆるい坂道を木村は岩瀬忠震(ただなり)の屋敷に向かっていた。すでに陽射しもそれほど暑い季節ではないが、首元にはうっすら汗がにじんでいた。すると、五間程先の方で、なにやら手拭を首に巻いた男が動かぬ荷車をなんとか引っ張ろうと、もがいている様子を目にした。木村は男に近寄ると、

「そこの者、だいぶ難儀されているようだが、いかが致した」

男は恐縮したように、

「へい、これはお武家様、実はこいつが、どうにも動がねえんで困っておりやす」

どうやら、荷車の車輪が轍(わだち)にはまって抜け出せずに往生しているようだった。

「どれ、わしが後ろから押してやろう」

「と、とんでもねえ、お武家様にその様なことさせる訳にはいがねえです」

「なに、構わぬ」

木村は荷台のうしろにまわった。

「それ、押すぞ」

それを聞いて、男もぐっと力を入れて荷車を引いた。すると一気に車は轍(わだち)を抜け、すうっと前に進むことできた。

「これはお武家様、誠にどうも、ありがとうごぜえやした」

首に巻いた手拭を手に持ち替えると、頭を深々と下げながら言った。

「何、困った時はお互い様よ」

木村はその場を離れまた先を急いだ。後ろで男はいつまでもぺこぺこと頭を下げていた。

 

暫く進むと、目の前に白い漆喰の土壁に黒い腰板を施した塀が現われた。八寸角の欅を両側に構えた門はそれ程大きくはないが、訪ねて来る者に威厳を感じさせる造りであった。門を潜ると大きく枝ぶりの良い松が三、四本、木村を迎えた。玄関で家人に声を掛けると、女中が迎えた。

「長崎から参った木村喜毅でござる。岩瀬殿はご在宅でおられるか」

女中に案内され、十畳ほどの客間に通された。

床の間には芍薬を描いた掛け軸が吊られていた。淡い紅色の花びらと常盤色の葉脈が細かい筆遣いで見事に描かれていた。これを眺めながら待っていると、障子が開き、嬉しそうな顔をしながら岩瀬忠震が入ってきた。切れ長の目で少し目尻の上がった上品な風貌、浅いえくぼがあった。

「おおっ、木村殿よくぞ来られた。待ちかねておったぞ」

岩瀬が床の間を背に座ると、木村も笑顔で

「ご無沙汰しておりました。お元気そうでなによりでございます」

まずは型通りの挨拶をした。

この家の主人岩瀬忠震は、血縁を辿ると仙台藩伊達政宗の子孫にあたる。忠震は設楽貞丈(さだとも)の三男であったが、二十二歳の時に岩瀬忠正の婿養子となり岩瀬家の家督を継いだ。母方の叔父は三年前ペリーと日米親和条約を締結した国学者の林復斎(林大学頭(だいがくのかみ))である。

その後、二十五歳の若さで神田湯島の昌平坂学問所の教授になったが、老中阿部正弘に、その才覚を認められて海防掛目付(外交官・監査役)となり、安政二年、長崎海軍伝習所の開設にも尽力した人物である。

そして木村喜毅もまた同じ年にその老中阿部に江戸城西の丸目付に登用された。この時に、木村を強く推したのが十二歳年上で就学時代先輩の岩瀬忠震(ただなり)だった。それ以来、二人は昵懇の仲である。

その木村は長崎海軍伝習所の初代総監(所長)永井尚志(なおゆき)の後を継ぎ、二代目としてこの五月、老中阿部に命じられ二十七歳の若さで目付役のまま、長崎海軍伝習所の取締として赴任したのであった。