小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その5
「先日の十月二十一日にハリスが将軍家定公に謁見された事はお主も存じておろう」
木村は何も言わずうなずいた。
「その十日程あとに、今度は堀田様の屋敷に何人かの家老や家臣を集め、ハリスを招いてアメリカの真意を皆で聞くことになったのだ。勿論わしも同席した。そこでのハリスの話をわしはしっかり覚えておる。話を聞いてすぐにでも日本は開国すべきだと思った」
その時のアメリカ合衆国外交官タウンゼント・ハリスの話の内容は次の通りであった。
ハリスは演説を始めた。
「我々の望みはあくまで交易であり、かつてのスペインやポルトガルのように、布教をしたいとも考えておりません。日本は今、危機に瀕しています。
我々の大統領は、日本がアヘンで汚染されないか心配しています。
アヘンは金銭だけではなく、健全な肉体を蝕み、犯罪を増加させ、社会を根底から腐らせてしまう。
このようなアヘン禍は、イギリスが清国に武力でもって売りつけたためです。
我々アメリカ合衆国はイギリスとは違います。
我々は世界に植民地を持っていません。ハワイがそうなりたいと思っても、断ったほどです。
このままでは、台湾はイギリスに、朝鮮はフランス領にされるかもしれません。
なぜこのようなことが起こったのでしょう。
それは、条約を結び駐在使を置こうとしなかったからなのです。
かつて、インドもイギリスとの条約を拒み、植民地とされてしまいました。
イギリスは今、ロシアと戦っています。このままでは、満州や樺太を支配し、そこに海軍基地を置こうとするでしょう。
先日、私はイギリスの将軍と話をしました。
清国の次は蒸気船五十隻を連れて日本に自由貿易を迫りに行くと、彼は語りました。
考えてみてもください。イギリスや他国の野蛮さを。
たくさんの戦艦を連れてきて、開国を迫ります。
しかし、我々アメリカは、このハリスがたった一人で、交渉に来ました。
こんな公明正大・実直清廉な私と交渉するほうが、名誉あることだとは思いませんか。
先に私と条約を結びましょう。そうすれば、イギリス・フランスにも連絡を取ります。
自由貿易は素晴らしいのです。
もしあなたの国で飢饉が起これば、外国から食料を輸入できます。
交易すれば、素晴らしい発明品も手に入るのですよ。
しかも輸入品からは関税が取れます。双方とも利益は膨大ではないですか。
鎖国政策によって、日本は平和が続きました。素晴らしいことです。
しかし、そのため現在では武力で劣ります。無謀な勇気にかられたら、危険なことになります。
我がアメリカと条約を結んだら、日本が危機に陥った時、武器弾薬、訓練のための仕官も派遣します。
日本の皆さん アメリカと仲良くしましょう」
むろん、ハリスの言葉はすべてが事実ではなく、ハッタリや駆け引きもあると思われる。しかし、堀田を始め居並ぶ幕府閣僚は、その弁舌に圧倒された。岩瀬もまた、ハリスの言うことに納得ができたのであった。
少し酔いが廻った岩瀬は多弁になってきた。
「ハリスは日本を守ってやるから、先にアメリカと貿易しようと何度も言っておった。しかし、奴らの本音はアメリカとして、イギリスやフランスに東洋の市場を独占されることを恐れ、まずは足がかりとして、我が国との貿易を他国より先に始め、次に狙う中国進出する為に日本を中継地にしたいのよ」
と、木村を相手に講じた。
ペリーが帰国した後、アメリカは下田(玉泉寺)に領事館を設立し、そこに初代在日領事として外交官のタウンゼント・ハリスを就任させた。そしてアメリカは他国に先駆けて、アジアにおける貿易権益の確保を目的に、ハリスに日本との通商条約締結の全権委任を与えていたのだった。
しかし、当時の幕府としては、隣国の清(今の中国)がイギリスに侵略されたことを聞いており、いつか日本も同じように占領されてしまうことを極度に恐れていたため、いつまでも鎖国を続けることが日本を守ることだと、殆どの幕臣が信じていたのだった。それが攘夷派と開国派の対立となっていくのだった。
その後も岩瀬と木村は、いつしか時を忘れるほど遅くまで飲み、やがて木村は頼んでおいた駕籠が来たとの声がかかると、岩瀬と奥方にお礼を述べて宿に帰っていった。