小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その11

 昨年、老中阿部正弘が亡くなり、内政の後を引き継いだのが老中首座堀田正睦だった。既に阿部から堀田は専任外相(外務大臣兼務)に任命されており、幕府としては外国貿易許可の方針を固めていた。

その正式な勅許(天皇の許可)を得る為、二月五日、老中堀田正睦及び副役の幕府旗本勘定奉行川路聖謨(としあき)そして海防掛目付の岩瀬忠震の三人は朝廷の元へ上洛した。手元には将軍家定公より孝明天皇宛に奉呈として黄金五十を携えていた。

彼らはこの「条約勅許奏請」は単に儀式に過ぎず、容易に許可を受け入れてもらえると考えていた。ところが、攘夷派の代表格である水戸の徳川斉昭が事前工作を施しており、公家たちに夷敵の恐ろしさを吹き込み、朝廷内を完全に攘夷思想に染め上げていたのだった。

この日米修好通商条約の案文については多くの時間を費やし、アメリカ側のハリスと入念に議論して作り上げた内容である。したがって本来は岩瀬から説明することが適任であったが、何しろ、岩瀬は身分の低い目付であり、公家と直接口をきける立場ではない。

岩瀬は出来れば外国との貿易をする目的やその利点、日本においての将来の展望そして、清国のイギリス侵略やアメリカが他の国の侵略から守ってくれる姿勢などを詳しく話したかった。しかし、その説明については、あまり趣旨をよく理解していない勘定奉行の川路が額に汗をしながら公家に説明した。

すると、公家たちから思わぬ返事や質問が飛び交った。

「蛮夷どもは、口では調子のええこと言いながら、我々を騙してキリスト教徒にするつもりか、日本を占領するつもりではおまへんのどすか。もし戦争になったら天皇はどこに逃げればええのどすか」

「異国の人は嫌(いや)どす。日本開国して異人はんたちが、京の都に入り込んで来るようなことがあったら、どなんしたらええどすやろ。考えただけで、もう怖おして、食事も喉を通らへんし、夜も眠れへん」

「ところで、キリシタンバテレンゆう国はどこにあるんやのえ」

「アホくさ、公卿に政治のことなんか言われても知らへん。わてらにどうしろと云うのんどすか」

何を話しても、何もわかろうとしない人ばかりであった。中には、

「まあいろいろ意見があるやろけど。どないしても決められへんかったら、伊勢神宮でおみくじでも引いて決めまひょ」

「お、お、おみくじですか」

呆れて岩瀬達は絶句した。話は全く噛み合わないのである。

 

堀田たちは、やむを得ず一旦宿に帰る事とした。そこで、堀田たちは勅許を得るための次なる手段を図っていた。

宿部屋に着くなり、川路聖謨がいかにも無念そうに、

「堀田様、朝廷の公家の方々は、まるで我々の話を聞こうとされませんでしたな。あのような態度に出られると、我々も全く成す術がありません。一体、どうしたら良いのでしょう」

「やはり、噂には聞いておったが、どうやら水戸藩の斉昭殿の手が回っている様だな」

「そ、それは、どういう事ですか」

岩瀬は身を乗り出し訊ねた。岩瀬も憤慨と共に、端から交易など認めようとしない公家たちのあからさまな態度に疑問を感じていた。

「抑々(そもそも)、孝明天皇があれ程までに異国を嫌い、開国に反対なされているのは、強硬に尊王攘夷を唱える水戸の斉昭殿が、外国人は傍若無人な振舞をして神国日本を危うくしているので排除するべきと提言していたと聞いておる。それにより、孝明天皇は異国に対し極めて憎悪を募らせておられるのだろう。それに加え、幕府からの強圧的な統制下に不満を持った公家たちに対しても斉昭殿が同じように攘夷を言い包めていたに違いない」

堀田は、つくづく斉昭を恨めしく思った。岩瀬は更に、

「しかし、何か策を講じなければ、折角ハリスとの条約案がまとまったのに、この儘ですと全てが白紙となってしまい、アメリカとの交易も無くなってしまう。そんなことになれば、益々、日本は危険に晒される事になります」

「そんなことは、わかっておる」

堀田は珍しく、怒りをあらわにした。

「わしに、ひとつ考えがある。こうなっては、九条尚忠様におすがりするしかないだろう」

九条尚忠とは、公卿関白の役職をもつ所謂(いわゆる)、公家の最高位の人物である。堀田は、この公卿に今までの経過を具に話し、勅許を賜ろうと考えたのである。九条尚忠は、前任の鷹司政通の後を継ぎ安政三年に関白となった。朝廷の中で唯一、外国との交易に理解のある公家であった。

交渉は約二カ月を要した。しかし、その九条尚忠卿に幕府との協調路線を推進して条約議案を提出し許可を求めて頂いたにも拘わらずから結果は変わらなかった。

 なぜなら、公家たちの猛烈な抗議活動に阻まれたからだ。それは、孝明天皇侍従職であった公卿岩倉具視を始めとした八十八名の公家たちが条約撤回を求め、抗議の座り込みをするという事件も起きたほどだ。(廷臣八十八卿列参事件