小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その12
元々日本では天皇や上皇が政治を司り、その天皇を補佐していたのが貴族(公家)であったが、鎌倉時代の頃から政治は征夷大将軍を中心とする幕府が政治を行うことになった。すると、公家たちは幕府から疎ましい存在となり、公家諸法度以後の諸法令による強圧的な統制下で多くの公家は、収入が乏しく内職で糊口を凌(しの)ぐほど今日まで虐げられた。この抗議はその幕府に対し公家たちの鬱屈を晴らす機会ともなっていたからでもある。
岩瀬が京で条約勅許を得るため宿泊していた処が、京都木屋町の瑞泉寺(ずいせんじ)である。この寺には、豊臣家の第二代関白・豊臣秀次の墓がある。秀吉の姉の長男だったが、根拠のない謀反の罪で秀吉に自害させられ、更にその正室、子供、侍女、家臣ら四十九名が斬首された痛ましい悲話が残されている。
この瑞泉寺を宿としていた岩瀬にひとりの男が会いに来た。それは、岩瀬が江戸に戻ろうとしていた矢先のことだった。
男の名は、橋本左内である。福井藩主・松平春嶽(慶永)の右腕として、将軍継承として慶喜を推挙するため京都を中心に政治活動をしていた。特に水戸の斉昭と懇意な公家たちにも遊説し、一橋派としての任務を遂行していた。
橋本左内は、福井藩に仕える医者の子として生まれ、幼少から学問を好み、大坂で緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、安政四年には自ら二十四歳で福井藩の明道館学監心得(副校長)にもなった優れた人物である。
その橋本は、岩瀬たちが京に来ていることを知ると、急ぎ会いに来たのだった。
「岩瀬様、いきなり訪問致し、どうかご無礼をお許しください。拙者、福井藩士橋本左内と申す者。福井藩主松平春嶽様の命により、こちら京の地で次期将軍に一橋慶喜様を推挙するため、各要人に遊説しておるところでございます」
「橋本殿といわれるのか。ところで、私にどの様な御用件でしょうか」
「はっ、不躾ながら昨日、朝廷で公卿様に慶喜様ご推挙の話をしました折、堀田様や岩瀬様が条約勅許を得るためご苦労なされている事を耳に致しました。我が福井藩でも開国しアメリカとの交易には賛同しております。就きましては、及ばずながら拙者からも公家衆に対し働きかけ致したいと存じ参りました」
「貴殿のご尽力なされたいお気持ちには大変感謝致すが、もはや九条様の手にも負えない事。折角ですがお気持ちだけ頂戴いたします」
「そうですか。出過ぎた事を申し上げお許し下さい。私は常々、誰にでも何かの仕事に適する素質があり、世の中が必要とするものは多く、自分が役に立てることが必ずあると信じております。困難に直面した時こそ、優れた人物の立派な行いを見習い、自分もそれを実行していくことが肝要と存じます。どうか岩瀬様、アメリカとの交易を諦めず、日本の開国を陰ながら祈っております。では、失礼いたします」
と言って、橋本は帰って行った。
岩瀬は、この橋本の言葉に叔父の林復斎を思い出し、何故か勇気を貰った気がした。
堀田や岩瀬たちは何の成果もなく江戸城に戻った。京都御所から帰ったばかりの堀田に老中松平忠固が心配そうに声をかけた。
「堀田様、ご守備はいかがでしたか。朝廷からの条約調印の勅許は頂けそうですか」
松平忠固の顔をチラッと見たが、すぐ俯き疲弊しきった顔で
「まず、無理であろう。唯一、開国を理解して頂いた九条尚忠様からも勅許を申し出て頂いたのだが、他の大勢の公家の方々がこれに激怒なされて、とても勅許を得るどころではなかった。ああ、何もかもうまくいかぬ」
と嘆いた。この後、老中首座堀田は勅許失敗の責任を取らされ失脚となるのである。
信濃国上田藩・六代藩主の老中松平忠固(ただかた)は、水戸藩主徳川斉昭らと対立しながらも、終始一貫して開国と交易を主張し、薩摩藩の島津斉彬や福井藩の松平慶永と共に幕府の開国論を唱える老中であった。只、純然たる一橋派でもなく中立的であり、悪く言えば、風見鶏のような姑息な考えを秘めていた。
「そうですか。いかに堀田様や九条関白様の力をもっても無理でござったか」
と残念そうに呟いた。
そこで松平忠固は暫く考えこんでいたが、ふと、何かを思いたち城内を抜け出した。松平忠固が着いたのは、近江国(現在の滋賀県)彦根藩主・井伊直弼の江戸上屋敷であった。