小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その13

  将軍継承

薩摩藩島津斉彬の養女となった篤姫徳川将軍家に輿入れする為、将軍の正室として相応しい格式高い家柄になる必要があり、一旦は名目上、天皇に最も近い公卿の近衛忠煕の養女となった。その後、近衛家からの教育係だった御年寄幾島を伴って大奥に入り、安政三年十一月に家定の正室となったのである。幾島は斉彬との連絡役でもあった。 

江戸城の本丸御殿は、南から北に向けて表向・中奥・大奥の順に三つの区域からなり、表向と大奥を確実に分離している。中奥は、将軍の居住で御座之間には政務をとる部屋がある。表向と中奥は女人禁制で代わりに坊主衆が務める。中奥と大奥の間には厳然(げんぜん)とした堀があり、将軍の出入りを合図する「お鈴廊下」と呼ばれる二本の廊下のみでつながっていた。

また大奥は将軍の私邸で御台所を中心に奥女中たちが生活しており男子禁制である。その御台所に仕えるのは、五百人余りといわれる奥女中であった。

大奥中庭には池があり、その周りにはたくさんのツツジが植わっている。穏やかな春陽を浴び、花をいつでも開く用意をしていると言わんばかりに蕾がほころび初めていた。

穏やかな陽のあたる濡れ縁を挟み、御台所部屋で篤姫島津斉彬の言葉を思い出していた。実は篤姫は 斉彬から密命を受けていたのだ。

「ペリー来航以来、幕府は攘夷派と開国派に分かれ紛争が絶えない。そこで何よりも大事なるは何か。すなわち幕府の立て直しである。お篤はその為にこそ、江戸城に入り御台所となったこと、心得ておいて欲しいのじゃ」

「家定様との間に世継ぎをもうける事が最も望ましい。しかし、これまで二度の正室を迎えたが、子をなさないままに二人とも病死している。そこでじゃ、そちがこのまま男子を授からなければ、早いうちに次なる将軍を 定めなければならぬ。その鍵となるのが一橋慶喜様だ。よいか、次のお世継ぎは慶喜様にと、家定様をいかにしても説き伏せることにある。このこと肝に銘じておくように」

その時の斉彬の真剣な眼差しが今でも時々篤姫の脳裡に浮かんでは重圧をかけていた。すると俄かに、庭の横から、家定の声が聞こえた。

「篤、篤、篤はいずこじゃ」

と子供が母親を探すような声がした。

「殿、ここにおりまする」

「殿、足元があぶのうございます。お気を付けなされませ」

「篤、あちらの庭でメジロがつがいで鳴いておったぞ。可愛いもんじゃのう」

「それは良うございましたね」

と優しく微笑んだ。

もし、どこかで家臣がこれを見ていれば、殿はうつけではあるまいかと噂を広げたに違いない。そんな家定の子供じみた振る舞いであった。 

「殿、お体に障ります。そろそろ部屋にお戻りください」

家定は素直に篤姫の言葉に従った。

「そうじゃ 篤、そちの国元薩摩より島津が送ってくれたさつま芋があったであろう。その芋で今度、そなたに旨い芋菓子をつくってやろう」

「えっ、殿がわたくしに、でございますか。嬉しゅうございます」

思い起こせば、篤姫が輿入れした最初の頃、家定は、全く篤姫には目もくれなかった。しかし、彼女には忍耐力があり大きな広い心の持ち主であったので、人からは多分に温和に見え、決して怒りや不満を口にしたことがなかった。そんな篤姫に家定はいつしか心を許し、従順な態度を示す様になっていた。家定は決してうつけではないのである。ただ極端に人見知りが強く、興奮すると、身体の一部が痙攣(けいれん)してしまう体質だったのだ。そして、幼少の頃より病弱の身体を今なお引きずるのだった。

ハリスが安政四年十月、将軍徳川家定に謁見することが出来、大統領親書を読み上げている。ところが、ハリスの日記によると謁見の際、将軍は目と口のひきつりや痙攣(けいれん)などが起こり、言葉を発する際には、頭を大きく後方へ反らして足を踏み鳴らしてからでないと喋れなかったと書かれている。

 第十三代将軍 徳川家定