小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その17

井伊直弼大老となったその頃、長崎の海軍伝習所では、ある人物が訪れようとしていた。後に井伊直弼へ反旗を翻そうとした大名である。四月も半ばを過ぎたその日、長崎湾の波は穏やかで、霞(かすみ)かかったおぼろ雲が大きく流れていた。木村と勝は並んで伝習所近くの波止場に立っていた。もうすぐ到着するという知らせを聞き、少し緊張気味の素振りを見せながら、賓客(ひんきゃく)を待っていた。やがて、沖に停まっている一隻の軍艦から小舟に乗り換え、一行は波止場に着いた。

「島津様、お待ちしておりました。」

木村は丁寧にお辞儀をして迎えた。「大儀でござる」とひと言、言うと笑顔で会釈を返した。はっきりした目鼻立ちがいかにも聡明な君主という印象を与えた。薩摩藩島津斉彬(なりあきら)である。

後に活躍する西郷隆盛大久保利通小松帯刀(たてわき)など多くの藩士を輩出した薩摩藩の名立たる大名である。また、篤姫を将軍家定に正室として送り出したのもこの島津斉彬であった。

「島津様、先般は厚いおもてなしを賜わり、誠にありがとうございました」

後ろに控えていた勝麟太郎が前に出て挨拶をした。勝は、一月前、練習艦の咸臨丸で薩摩へ巡航した際、たまたま指宿に滞在していた島津斉彬公と山川港で謁見し、斉彬は船に乗り込んで軍艦や大砲について長時間にわたり談議を重ねた。しかも薩摩内の反射炉を見学させてもらい、厚い饗応を受けている。それ以来、勝は斉彬公の先進的な考えに感銘を受け、すっかり崇拝しているのであった。

木村と勝は島津一行を海軍伝習所へ案内し、斉彬公より軍艦についていくつかの質問があったが、オランダ人に説明をさせ、その通訳を勝が行なった。一行はその日のうちに薩摩に帰航した。

薩摩藩(現在の鹿児島県)の歴史は古く鎌倉時代より代々島津家が藩主となっている。島津斉彬はその十一代藩主である。藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、アメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、藩士に造船法を学ばせ、安政元年(一八五四年)に日本で最初の洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。また、精力的に新しい技術を取り込み、軍艦や大砲用の製鉄に必要な反射炉溶鉱炉など集成館事業と呼ばれるアジア初の近代的西洋式工場群を築いている。

更に福井藩主の松平慶永(よしなが)、宇和島藩伊達宗城(むねなり)、土佐藩山内豊信(容堂)、水戸藩徳川斉昭らと共に積極的に江戸幕府の政治に参画した。養女篤姫の輿入れもその幕政介入の一環である。

 薩摩藩 斉藤斉彬