小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その20

 その日の夜、江戸城大広間の一室で緊急重臣閣議が行なわれていた。

上座には大老井伊直弼、その左横には老中首座堀田正睦、老中松平忠固、脇坂安宅、太田資始、間部詮勝大目付永井尚志、また右側には若年寄、目付などが並んだ。そして、下座には海防掛目付岩瀬忠震下田奉行井上清直の二人が座していた。

 口火をきったのが、老中堀田だった。ハリスからの情報として、英仏連合艦隊がすでに日本に向かっており、日本の危機が迫っている状況を改めて説明した。そして、ハリスからの日米条約の締結提案に話が及ぶと、岩瀬が口を開いた。

「恐れながら、条約締結の仔細につきましては、わたくし岩瀬から申し上げます。いま、イギリス・フランス連合艦隊が強硬に迫ってくる状況において、日本が侵略される危機に瀕しております。これを打開する為には一刻も早く日米条約を交わし友好国としてアメリカの力に頼るほか、手立てはないかと存じます」

更に岩瀬は持っていた書状を取り出し、

「イギリス・フランスが無理難題を持ちかけた時には必ずアメリカが介入し日本を守ると、この通り誓約書を頂いております」

岩瀬は必死にハリスとの約束を説明した。これに対し、老中や若年寄の殆どが即時条約断行論を唱えた。堀田正睦松平忠固も口を揃えて条約締結の緊急性を説いた。ひとり目を閉じ沈黙していた井伊直弼が口を開いた。

「わしもアメリカとの条約締結には異論がない。交易も徳川幕府にとって利益があると考えておる。

 しかし、その為には、どうしても朝廷の勅許が必要である。朝廷のお許しがない限り、条約を交わすことは、断じて出来ないのだ。改めて方々に申し上げる。条約締結は朝廷勅許後である」

その後も閣議は夜を徹して行なわれた。白々と夜が明けたころ、閣議は結論が出ないまま取り敢えず閉会となった。井伊は岩瀬と井上を別室に呼んだ。

「いいか、岩瀬殿。いま朝廷に対しあらゆる策を講じ、何とか勅許を頂けるよう画策しておる処だ。ハリスに対しては、勅許を得るまで何かと理由をつけて出来るだけ締結を延ばすのだ」

 井伊が言う策とは京都に人脈の広い長野守善に公家との交渉を命じた事だった。この時井上が

「はっ、我らも出来るだけ延ばしに延ばす様、努める所存です。しかし、如何にしても延期できぬ時は、いかようにすれば宜しいでしょうか」

「うむ、やむを得ぬ場合は調印も致し方ないが、出来るだけ延ばせ、とにかく延ばすのだ」

井上は、一瞬、ほんの僅か笑みを見せたが、それをすぐさま隠し、

「やむを得ずなどと、そんな料簡では、とてもハリスを説得することなど出来ぬと思うております。我らは、何としてでも、延期するよう交渉致します」

決死の覚悟という表情をつくってみせた。井伊直弼は、「では、頼んだぞ」と言ってその場を離れた。この時、井伊直弼の腹の内は、危急に迫り勅許のいとまがない場合、政を幕府に委任されているという建前から臨機応変に非常処置をとらなければならない、という考えもあった。

 岩瀬と井上のふたりは、早駕籠を用意させ、急いで品川に向かった。ふたりの頭の中には、締結を引き延ばす意思など微塵もなかった。井伊の「やむを得ない場合は調印も致し方ない」という言質を取ったからである。逆にここで、一気に調印してしまおうという覚悟が出来たのであった。

同時に岩瀬は朝廷勅許を得るため、あの無知な公家たちと交渉している時間など毛頭無いとも考えていた。そこには、あの日訪ねてきた橋本左内の言葉も頭にあった。

 品川に着くと、そこには木村喜毅が待っていた。昨日、岩瀬が品川で咸臨丸を待機するよう頼んでおいたからだ。

「岩瀬様、あなたから言われ通り、旗も五枚用意しておきました」

「かたじけない。それを船の先端と帆柱に目立つよう取り付けてください」

それは、日本の国旗、日の丸だった。以前、ペリーが来航し日米親和条約を結んだ際に日本側には国旗がなかった。岩瀬はこれから各国と交渉を渡り合うには、国の象徴である国旗は常に欠かせないものだと知っていたからである

因みに、この日の丸は岩瀬忠震の先祖でもある仙台藩伊達政宗が、徳川家康の許可を得、スペインに派遣した慶長遣欧使節和船に掲げたものでもある。

六月十九日午後三時、岩瀬と井上は国章旗の日の丸が翻る咸臨丸からポーハタン号に乗り移った。ふたりが甲板に着くと、すかさず、ハリスがニコニコして握手を求めてきた。

「岩瀬さん、井上さん、おめでとう。会議がうまくまとまったのですね」

といきなり言ってきた。実は、二日前このポーハタン号で話をした後、別れ際に岩瀬は

「ハリスさん、もし閣議の結果、条約締結決議となった時には我々は日本の国旗を船に掲げてやってきます。その時こそ、本当に交易の条約を交わしましょう」

と言ってあったのだ。

 三人は早速、調印用の大きなテーブルの前に座った。条約文は、日本語、英語、オランダ語にて作成された書類が用意された。内容を互いに確認するとそれぞれの書類には三人の署名が記された。アメリカ側はタウンゼント・ハリスとサインされ、日本側のふたりの署名には、「井上信濃守」と「岩瀬肥後守」と書かれた後に花押が記された。

「岩瀬さん、井上さん本当にありがとうございました。私は岩瀬さんが外交官で本当によかったと思っています。あなたとでなければ、この条約を結ぶことができなかったでしょう。」

改めてふたりと固い握手をした。周りにいた補佐官たちの拍手がいつまでも鳴りやまなかった。船上では両国の国旗が翻り、二十一発の祝砲が神奈川湾にとどろき渡った。

 思えば極めて奇遇である。ペリーと林復斎林大学頭が締結した日米和親条約の五年後、新たにハリスと岩瀬忠震が結んだ日米修好通商条約。その林復斎と岩瀬忠震は奇しくも姻戚関係である。

この叔父と甥が揃って日本とアメリカを友好国に築き上げたことは、果たして偶然なのであろうか。

何かしらの運命の糸が彼らの偉大な職務を繋いでいたのではと思わざるを得ない。

 日米修好通商条約   井上信濃守・花押  岩瀬肥後守・花押