小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その21

 しかし、この条約締結は岩瀬と井上の独断行為であり、当然井伊直弼にとってみれば誠に心外であった。井伊はあくまでも朝廷勅許を前提にしていたからである。しかし、彼らが調印を断行してしまったのは、大老井伊直弼の責任であり、言い訳が出来ない状態である。

井伊はまずは、その日のうちに条約に調印したことを宿次奉書(速達便)で朝廷へ報告した。江戸城での評議を終え、井伊は彦根藩邸に戻った。すぐさま、家臣の長野守膳と側役兼公用人(秘書)の宇津木景福(かげよし)のふたりを部屋に呼んだ。

「この様な結果となってしまったのは、いずれにせよわしの責任である。無念の極みである」

いつになく弱気な態度をみせた。

「ついては、始末をつけて、近々大老の座を辞任せねばならぬと思うが・・・」

すると宇津木がたしなめるように、

「殿、確かに熟慮に足らぬところはござったかもしれませんが、ここで大老を辞する事は決してなりませぬ。今、大老を辞任しては、条約問題の責任が将軍にまで及びかねず、更に徳川慶福様の次期将軍の継承が揺らいでしまう事となりかねませぬ。何卒、お考え直し願います」 

 次いで長野守膳も

「しかし、このままですと一橋派が殿に責任を問いに来ることは間違いないでしょう。取り敢えず体裁を保つためにも違勅の責任者という形で、堀田正睦殿と松平忠固殿を罷免し老中の座を退いてもらうことが宜しいかと存じます。おふたりは一橋派と繋がっている節があると聞き及んでおります」

 長野守膳の情報網は驚くべきものがある。彼の配下には、城内には勿論、主要港の船問屋、朝廷の御用達、町奉行など全国に数知れない間諜(スパイ)を置き、公家の中にも密かに内通している者もいた。長野はこれらの情報により、世の中の動向を常に把握していたのだ。この事は井伊直弼すら知らなかった。

「殿、この際ですから、一橋派を徹底して排除なされてはいかがでしょうか」

長野が進言した。

 井伊直弼は、間違いなく幕府第一主義である。すべてが幕府中心であり、徳川幕府がこれからも永続的に政を担っていくのであり、これを決して絶やしてはならない。これが彼の心情であった。だからこそ、その幕府に対し禍の及ぶものは徹底的に排除し、幕政を覆そうとする一橋派を決して許す訳にはいかなかったのである。井伊はこの時、ふたりの提言により新たな決意を固めたのである。それはやがて日本中を震撼させる弾圧事件となっていくのであった。(安政の大獄

 

 翌六月二十三日、堀田正睦を条約勅許奏請の不首尾と無勅許の条約調印の理由で老中職を罷免及び蟄居とした。しかし、一番の理由は堀田が一橋派に寝返ったことだった。この処罰で堀田は二度と世に出ることはなく、失意のまま元治元(一八六四)年死去したのだ。同時に、井伊より疎まれていた松平忠固も条約締結の違勅を理由に、老中役を罷免された。忠固にとってみれば、とばっちりとも云える処罰だった。

 案の定、日米条約を朝廷の許可なく締結した事を聞きつけ、江戸城には大勢の一橋派が押し寄せた。最初に登城したのが、意外にも一橋慶喜だった。

これが井伊直弼慶喜の最初の出会いだった。徳川幕府において井伊は大老という最高職で実際の政権を握っていたが水戸家は尾張家と紀州家と並ぶ御三家である。立場は上でも一橋徳川家当主の慶喜を無碍には出来なかった。

「これは、一橋慶喜様、わざわざお越し頂き誠に恐縮でございます」

と丁寧に挨拶した。

大老殿、お初にお目に掛かります。不躾ながら儀礼的な挨拶は省かせて頂きます。早速ですが、この度、朝廷のお許しがないままアメリカと交易の条約を交わしたと聞き及んでおりますが、それは誠でございますか。誠そうなれば、井伊殿のご心意を賜りたい。是非ともお聞かせ願いたいのですが」

「はっ、恐れ入ります」

と言いゆっくり頭を下げた。

「調印を断行されたのは、井伊殿の独断でございますか」

「はっ、恐れ入ります」

「井伊殿は天皇や朝廷のご意思を蔑ろにされているのですか」

「恐れ入ります」

「き、貴公はわたしを愚弄されているのですか」

慶喜は唇を震わせながら言い放った。

「滅相もございませぬ」

井伊は平然と更に頭を下げた。

慶喜はすくっと立ち上げると、プイと顔を背け、そのまま部屋を出ていってしまった。

この時、慶喜は二十一歳。政治的駆け引きなど微塵もできず、ただ、朝廷に対し礼節に欠いているという理由だけで単独行動してしまったのは、まだ未熟としか言いようがない。

 その翌日、今度は徳川斉昭と慶篤(慶喜の兄)父子、そして尾張藩徳川慶勝の三人が登城した。

また、福井藩松平慶永(春嶽)も井伊邸で面談のあと登城した。本来の登城日でもないのに登城することは異例のことで「不時登城(ふじとじょう)」と云われている。

斉昭たちは昼食も提供されずに五時間も待たされた挙げ句、直弼の老獪な応対の前に何の成果も得られず、逆に不時登城で城内を騒がせた不始末を問われることとなった。(押しかけ登城)

 これを罪として、井伊は徳川慶篤と慶勝を隠居謹慎処分とし、斉昭は既に隠居だったので蟄居処分とした。謹慎とは屋敷からの外出が禁じられる刑罰だが、斉昭の永久蟄居は自宅の一室に軟禁状態に置かれ、謹慎よりはるかに厳しい刑罰であった。