小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その24

 その後、朝廷の中で評議が行なわれ、幕府にも同じ勅諚(天皇の命令)を出すことが決まり、水戸藩より二日遅れて幕府に着いた。これを知った幕府は、水戸藩に諸藩への伝達を厳しく禁じ、この勅書を即返納するよう命じた。これに対し、水戸藩内でも意見が割れた。

「幕府が申される通り、我々水戸藩が諸藩に対し写しを配るのはおかしいではないか。大老井伊様の命令通り、即刻この勅書は幕府に返却するべきだ」

「いや、わざわざ、天皇が我々水戸藩に下賜されたものだ。幕府に返さなくてよい。いや絶対に返してはならん」

 尊王攘夷を言い続ける激派は、返納を阻止しようと気勢を挙げ、益々過激になっていった。水戸藩主慶篤はこれを鎮撫しようと父徳川斉昭と相談し、勅書を幕府返納することに決断した。

しかし、この決断に水戸藩士族達はまたしても強く反対し結局返納することはなかった。

 これに対し激怒した井伊直弼は、密勅は天皇の意思ではなく、水戸藩の陰謀とし、密勅降下に携わった家老安島帯刀を切腹、京都留守居役鵜飼吉右衛門を斬首。密書を直に水戸藩に届けた鵜飼幸吉には特に厳しかった。斬首の上、獄門(さらし首)となった。左大臣近衛忠熙は失脚し落飾謹慎とした。

 これが安政六年八月「安政の大獄」の始まりである。ちなみにこの梟首(きょうしゅ)は鵜飼幸吉ただひとりである。よほど井伊直弼を憤慨させたかが分かる。また、福井藩主・松平慶永徳川斉昭島津斉彬と共に幕政を改めようとしていたが、その工作を画策し、京や江戸で一橋慶喜擁立の政治活動に奔走していた橋本佐内も伝馬町牢屋敷で斬首された。享年二十六歳だった。

 尚、強烈な尊王攘夷派で「烈公」とも言われた斉昭も失脚し、この年八月に水戸で病死した。また、朝廷においても堀田や岩瀬たちの条約締結勅許に尽く反撥し、廷臣八十八卿列参事件に関わった公家たちの多くも処罰の対象となった。

 そして、吉田松陰も処罰された最後のひとりである。松陰は安政四年に松下村塾を開き、何人もの名士を育てた。その後、幕府が無勅許で交易条約を結んだ事に激怒し、倒幕を企んだ。江戸伝馬町牢屋敷に投獄された後、別件で取り調べ中、老中暗殺計画である新任老中首座間部詮勝の要撃策など倒幕を計画した事を自ら告白したことから死罪となった。吉田松陰の場合は、思想に考えが片寄り過ぎていた傾向がある。弟子の久坂玄瑞高杉晋作桂小五郎や友人の多くは、過激な松陰に自重を唱えていたと云う。

 安政の大獄とは、尊王攘夷を強く訴え、一橋慶喜を擁立し今の幕政を倒さんとする反幕派を尽く排除しないと、世の中の秩序が乱れ徳川幕府が維持できない。幕府第一主義で、強い危機感を抱いた井伊直弼がやむを得ず取った強硬手段である。

しかし、その多くは理不尽な独裁政治で度を越えた残忍な処罰としか言いようがなかった。

 弾圧されたのは尊皇攘夷派や尾張藩主・徳川慶勝福井藩主・松平慶永土佐藩主・山内容堂など一橋派の大名そして公卿、志士らで、連座した者は百人以上にのぼった。因みに、同じ地下工作をしていた斉彬の部下は、辛くも薩摩に逃げ切った。この七年後、斉彬の意思を継ぎ西郷隆盛率いる薩長が新政府軍となり倒幕する事となる。(戊辰(ぼしん)戦争)