小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その25

  遣米使節

 安政五年十月、長く続いた将軍継承問題も落ち着き、井伊直弼の支えもあり第十四代将軍には徳川慶福が就任し、名を家茂(いえもち)と改めた。

 その年の十二月長崎海軍伝習所に新たな問題ができた。開設後、安政二年十二月頃は伝習生が百二十八名となり、活動も活発であったが、安政四年三月築地に軍艦操練所が新設されると、総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地へ移動となったため、今では伝習所もたった四十五名となった。 

 そんな中、江戸から遠い長崎に伝習所を維持する税制負担が大きいことが問題となり、幕府の海軍士官養成は築地の軍艦操練所に一本化されることが決まったのだ。

 南国長崎といっても年の瀬、師走ともなると、流石に海風が冷たくなっていた。

勝麟太郎はこの時、既に交易日米修好通商条約に基づいて批准書交換のため遣米の計画があることを今年七月外国奉行に就任したばかりの永井尚志から聞いており、何としてでもアメリカという国を自分の目で見たいと永井に嘆願していたのだ。

「木村さん、さっき咸臨丸が江戸に向かって廻航していきました。年開けにはすべての船が、この伝習所から居なくなってしまいますね」

勝は寂しそうに言った。

「そうですね。この伝習所もとうとう閉鎖が来年の二月に決まったそうです」

 木村はあたりを見回しながら、フッと溜息をついた。この数年間の出来事や伝習生の泣いたり笑ったりした顔が次々と頭に浮かんだ。長いような短いような三年間だった。

 木村にとって最も名残惜しいのは、オランダ人のポンペと分かれることだった。医学は勿論の事、基礎科学や物理学などあらゆる学部を熱心に教えてくれた。先日のコレラ蔓延の時は無知な日本人の流言飛語と罵倒にも屈せず、懸命に治療に当たってくれた。こういった外国人から色々な事を学べる日本人は幸せだとも思った。

 伝習所に携わったオランダ人の殆どが帰国の準備をしていたが、ポンペだけは松本良順といっしょに医学伝習所に残った。記録によると、ポンペから直接教育を受けた者が一三三名、治療を受けた者が一四五三〇名いたと云う。日本人から惜しまれながらもポンペが帰国したのは、それから二年後だった。

 

 年開け早々安政六年一月五日に勝麟太郎が朝陽丸で江戸に帰ることとなった。長く生活を分かち合った伝習生たちも同乗している。伴鉄太郎、松岡盤吉、安井畑蔵、他三名。その他にも水夫たちが十数名いた。皆、一度も帰郷していない者ばかりだった。

 その五日の朝、朝陽丸は滑るように出航し長崎を後にした。空は晴天だった。普段見慣れているはずの長崎湾が一層美しく見えた。翌日、下関を抜け瀬戸内海を進むと讃岐の塩飽島(しわくじま)が見える。ここは大小二十八の島々があり、昔はこの辺りの海を海賊衆が荒らし回ったらしい。伝習所の水夫の中にはこの塩飽島出身が十五人以上いた。この水夫たちも一度も帰郷していなかったので、予定にはなかったが、半日ほど碇を降ろすことにした。

「いいか、十日の朝には出発だ。お前たち、それまでには戻ってくれよな」

と言うと水夫たちは躍り上がって喜んだ。勝は、それぞれの端船(ボート)に乗って嬉しそうに里帰りする姿を甲板から見送った。

 翌日、まだ朝陽が上がる前の薄暗い中、水夫たちが思い思いに船に戻ってきた。満足そうな笑みを浮かべ帰ってきた者もいれば、きっと家族との別れが辛かったのだろう。まだ目を赤く腫らして戻ってきた者もいた。

「富蔵、どうだ、かかあは元気にしておったか」

佐柳島の富蔵に、勝は優しく声をかけた。

「勝先生、ほんにありがとのう。おれのおっ母も元気でおったでな。夕べは倅(せがれ)が嫁もらう云うんで、みんなで御馳走食うて祝い酒も飲んできたさね」

「ほほう、そりゃあ良かった。よかったなあ、富蔵」

勝は我がことのように喜んだ。

 十二日の夜明け、艦長室で寝ていた勝は船が大きく揺れるのを感じ、目を覚ました。甲板に出ると、いつの間にか降った雪で辺りは真っ白になっていた。強い風が四角い帆をバタバタと煽っていた。操舵室に入ると伴が必死で舵を取っており、鈴藤も松岡もそこに居た。

「これから、益々激しくなりそうだから、どこか近くの港に退避したらいかがですか」

「いいかい、理屈と実践は大きく違うものよ。これを乗り切ってこそ腕が上がるってもんだ」

 風が更に強くなり、皆、両足を踏ん張っている。立っているのがやっとの状態だ。そこにまた大きな揺れがきた。その拍子に勝は立っていられず、ひっくり返ると、どこかにコロコロと転がっていった。

 鈴藤が舵を代わろうと言ったが、伴の両手は極度の緊張で指先まで固まっていた。やっとのことで手を外し鈴藤と交代する事ができたが、伴はその場に座り込んで、はあはあと激しい息づかいが止まなかった。

勝が腰や腕を擦りながら、ここはどの辺だろうと聞いた。松岡は落ち着いて測量計をにらみながら、

駿河沖ですね。もう少しで御前崎あたりと思います」

 御前崎が近いとすれば、この辺一帯は遠州灘である。太平洋沿岸の中でも気候の荒れやすい場所で、夏は台風の被害が多く、冬は強い西風が吹き波も荒いため、避難港が少なく海の難所と言われている。

 大きな波が次から次と船を襲ってくる。メリメリと大きく船が軋む音がした。先ほどまで雪で白かった甲板も波で洗い流され、ますます揺れが大きくなった。風も渦を巻くように更に強くなった。水主小頭の善三郎が全身波をかぶってずぶ濡れになり這うようにやって来た。

「波が高くて、船が全く前に進みません。このままだといつ沈没するかわからねえです」

 勝も甲板にでると、波で全身びしょ濡れになり、端船(ボート)をすべて切り離せと鬼のような声で水夫たちに指示した。その時、またざざあっと大きな波が勝を襲った。そのまま樽の様に転がった。勝は起き上がると近くにあった太い綱で帆柱に自分の身体を縛り付け、ありったけの声で水夫たちにあれこれと指図した。まるで怒髪天を衝いた様な顔であった。

 どの位時間がたったのかわからない。雪も止んで雲の隙間から少し陽が差してきた。相変わらず風は強いが、幸いにも追い風となったため、船はすでに大島近くまで来ていた。誰もが全身ずぶ濡れとなって身体も冷え切っている。すぐに甲板にいた水夫たちを全員交代させた。勝もよろよろしながら船内に入ってすぐに濡れた着物を着替えた。朝から何も口にしていない。

すると、水夫の大助が

「先生、熱いお茶を一杯、やんなせい」

と言って茶碗を差し出した。

「こんな暴風雨の中でよく湯なんか沸かせたな」

「へい、火鉢にまたがって手でやかんをぶら下げ温めました」

にこにこしながら答えた。

「ありがとよ、操舵室の奴らにも急いで茶をやってくんな」

そう言うと勝は美味しそうにお茶を啜(すす)った。