小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その26

 勝が江戸に帰り着いたのは一月十五日だった。

勝にとっても江戸帰国は伝習所開設以来だから、実に五年ぶりなのである。家族の顔も久しく見ていなかった。勝は品川に着くと、お世辞にも立派とは言えない赤坂田町の屋敷に帰った。屋敷といっても借家である。薄っすら雪が降った後だったが、玄関はきれいに掃き清めてあった。妻のお民が六歳になる末っ子の四郎と共に出迎えた。お民の目は僅かに潤んでいた。

「お帰りなさいませ。長崎でのお役目お疲れ様でございました」

「変わりはないか。四郎、具合はどうだ」

次男の四郎は幼い頃より病気がちだった。勝には四郎を含め四人の子がいる。

「相変わらずです。少し咳が出る程度ですが大丈夫です」 

「小鹿(ころく)はどうした」

「お母さまと近くの出店に行きました。お孝とお夢もいっしょです。もう、そろそろ戻る頃です」

 その日の夜は、久しぶりに近所の知り合いも集まり、賑やかに過ごした。皆が帰り、子供たちも床に就いた後、勝はお民に向かい、しみじみと言った。

「お民、おいら今度、軍艦操錬所教授方頭取よ。来年あたりアメリカに行くことになると思うよ。お前にも本当に苦労かけたな。これからは、もう少しましな屋敷に移って楽をさせないとバチが当たるなあ」

 その後しばらくして、江戸幕府蕃書調所(洋学研究所)の杉亨二が世話をしてくれた赤坂氷川神社の西側にある武家屋敷に家族共々引っ越した。田町の屋敷に比べるとかなり広くゆったりした住居となった。

尚、木村喜毅も伝習所閉鎖に伴い、二月には江戸に帰り目付に復職した。

 

 江戸は、勝が五年前長崎に行った頃の状況とはまるで違った。当時は将軍家定が病弱ということもあり、老中阿部正弘が幕政の総責任者であり、安政の改革を進めていた。海防の強化、人材育成、各研究機関の設立、海外技術も積極的に取り入れようとしていた。長崎海軍伝習所もその一環であった。

 しかし、老中阿部が亡くなった今、幕府を仕切っているのは大老井伊直弼である。井伊は同じ開国派でも積極的に海外の文物を取り入れようとする考えはなく、むしろ、日本には国学があり、洋学などやる必要がないという考えだった。これは勝の考えと真逆であった。

 江戸に戻った勝は、築地の講武所の中にある軍艦操練所で「軍艦操練所教授方頭取」という役職で幕府海軍の教育を任じられた。そこで勝は長崎時代の上司である永井尚志の下で海軍訓練生を相手に軍艦の操舵術だけでなく洋式調練、砲術などの教授をしていた。永井もこの二月に外国奉行から軍艦奉行に異動となった。この頃の軍艦操練所は既に幕府海軍教育の中核施設となっていたのである。

 

 六月に入り、その日も梅雨が続く小雨の中、勝麟太郎は、赤坂の屋敷に帰る途中だった。虎ノ門を過ぎたあたりで物陰から急に男が飛び出してきた。頭を手拭で頬被りし、着物の裾を尻に絡(から)げた如何にも怪しい浪人風の男であった。勝は一瞬、盗人か物取りかと思い傘を捨てると、腰の刀に手をかけ鯉口を切った。

「異国と手を結ぶ奴は許せねえ」

と叫ぶと男は脇差を抜き斬り込んできた。

 瞬間、勝は刀を抜くと同時に右に払い、踏み込んでそのまま刀の反りで相手の小手を打った。男は、たまらず刀を地面に落とすと、そのまま逃げ去ってしまった。

 近頃、むやみに攘夷を口にし、刀を振り回す輩がいると聞いていたが、その類いだろうと勝は思った。勝も十代の頃に直心影流の島田虎之助の道場に通い、相当腕を磨いていたのだった。因みに勝はその後の生涯で二十回ほど命を狙われたという。

 安政六年八月、外国奉行の永井尚志と水野忠徳が、昨年ハリスと締結した日米修好通商条約に基づき、批准書交換を目的に遣米を幕府に建言した。批准書とは、仮条約に対し日本とアメリカが国家として正式に確認及び同意を示す書類のことである。つまり国家代表として、日本側の将軍徳川家茂アメリカ大統領の名の元で交わす重要な約定である。

 この事は、ポーハタン号で岩瀬忠震とハリスが米国ワシントンで実行すると約束した事項であった。

この批准書交換については、ハリスからも日本人使節団を乗せ渡米するための軍艦ポーハタン号を準備しているので、早くまとめるよう要請が出ていた。

大老井伊直弼もこれを承諾しており、具体的な日程と人選を早急に決める事となった。幕府内部では、外国奉行の水野忠徳を中心に評議が行なわれ、意見が激しく交わされていた。

「我らは使節団を八十名と伝えた処、ハリスからポーハタン号には多数のアメリカ人が乗っている故、もう少し人数を減らせぬかと云ってきておる。如何致そうか」

「それならば、別船を仕立て、ポーハタン号に随行させるという手もござろう」

「成程、その別船に本船に乗る人数分の一部と荷物を引き受けることも出来るな」

しかし、これに烈しく反対する者もいた。

「我が幕府はご存じの通り、財政は非常に厳しい状況にある。その様な時に莫大な金を掛け別船を出そうなどと甚だ論外でござる。その資金をどこから捻出するおつもりか」

また、別の反対意見もでた。

「わずか三年程度、長崎で航海技術を学んだといっても、近海での訓練だけであろう。いきなりわが国だけで太平洋を渡るなど到底無理な事ではないのか。陸地が見えない洋上では位置確認も困難であろう」

すると、水野忠徳が

「遠洋での航海技術は充分に学んでおる。それに日本の海上での測量技術は高水準に達している。何よりも、以前から申し上げている通り、遠洋航海は海軍操練所の悲願でござる。これは我が国の海軍の技量を試みる、よい機会ではござらぬか。是非とも納得頂きたい」

更に言葉を足して、

「別船はあくまで日本人のみで船を操り渡米することが重要だと存ずる」

と強調した。まだ別船に不満な者もいたが、他の老中たちからは賛同の声が多かった。

「うむ、万が一、正使に何か支障が起きた場合、代わり得る副使を乗せる船としよう」

「では、長崎海軍伝習所で航海術を学んだ者たちが適任と思われるがいかがでしょう」

そこで水野が人選について提案した。また随伴船となる別船に最新型スクリュー船の朝陽丸を指名した。

「まず、別船の副使を長崎海軍伝習所二代目所長の木村喜毅を推挙する。そして、軍艦操練所教授方頭取の勝麟太郎を艦長とするのが、適任かと思われる」

 

 しかし、水野はこの評議の後、横浜で起きたロシア海軍士官殺害事件の責任を問われて、十月二十七日に軍艦奉行に異動。更に十月二十八日には閑職である西の丸留守居に左遷された。その為、水野はポーハタン号での遣米使節団には加われなかったのである。当初、正使を外国奉行水野忠徳とし、副使を永井尚志に決めたが、ふたりとも一橋派であった事を理由に処罰対象となったのだ。

 勝麟太郎