小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その28

 十二月に入り、一緒に同船することとなったブルック大尉らが、品川沖で出帆を待つ観光丸を視察した。観光丸は十年前にオランダで建造された船だが、幕府が所有している蒸気船の中で最も古く、老朽化していた。ブルック大尉は、一目見るなり

「この船でアメリカへ行くのは無理だ。ほかのスクリュー船に変えて欲しい」

軍艦奉行の水野に訴えてきた。

 ブルック大尉の説明で、水野と井上も確かに外輪船の観光丸では遠洋航海は向かない、冬の荒れた海を航海することは無理と判断した。仕方なく、また朝陽丸に変更することにした。勝が提言したことが今頃になって、やっと受け入れたのであった。

 勝が怒るのは当然である。その時のことを「万事甚(はなは)だ不都合ならん」相当憤慨した事が、勝の妹順子の夫である佐久間象山(西洋砲術家)への手紙に書かれている。

 しかし残念ながらこの時、朝陽丸は少し前に長崎に向けて出航したばかりだった。そして、神奈川に碇泊していたスクリュー船は咸臨丸だけだった。性能は朝陽丸とほぼ同じである。こうして、コロコロと随伴船が検討される中、年の瀬も押し迫った安政六年十二月二十四日、最終的に観光丸から咸臨丸に変更が決まったのである。

 

 咸臨丸の主な性能は次の通り

建造元 オランダ製(幕府が十万ドルで発注、竣工安政四年 航海時は建造して三年目)

重量  六百二十トン

全長  約四十九m   幅 約九m

出力  百馬力   

速力  六ノット(一ノットとは一時間に一海里(千八五二m)進む速さ)

燃料  石炭   船材 木

 

 ところが、再び荷の積込み命令を受けた水夫や火焚(ひたき)たちが激怒したのだ。無理もない。観光丸の不具合修理をやっと済ませ、大量の荷物の積込み作業が夜を徹して行われ、作業終了直前だったからである。

「冗談じゃない。アメリカ人が一言言っただけで、急に船を変更するなんて許さねえ。俺たちをまるで馬や牛のようにこき使いやがって。俺たちは殆ど徹夜で荷を観光丸に運び込んだんだ。馬鹿にするのもいい加減にしてくれ」

 怒りは相当なものだった。もう船から降りると言い出す者さえいた。水夫たちが、三度目の荷物の積替え作業がどれほど重労働だったかは、その量をみれば想像が出来る。

米     十一トン

水     二十トン

醤油    二石三斗

焼酎    七斗五升

味噌・香物 各六樽

砂糖    七樽

茶     五十升

その他に、小豆、大豆、胡椒、唐辛子、麦、かつお節、梅干し、酢、塩、豚、鶏、家鴨

石炭    五十トン  その他 灯油、ロウソク、炭、薪、麻、シャボン 等々

 勝もさすがにこの時は、水夫たちをすぐに宥めることが出来ない。そこで勝がとった方法は意外だった。勝はあえて水夫たちを説得する事は全くしなかった。それどころか、その日以来、勝はある覚悟をもって二、三日仕事を一切しなかった。これに困ったのは木村だった。木村は慌てて水夫小頭の曽根仁作を呼び出し、事情を話した。

「小頭、勝さんが怒って、あれから全く仕事に出てこなくなってしまった。あれ程、アメリカに行きたがっていたのに、お役目を辞退されるなどと申されたが、いったいどういう事だろう」

 曽根はそれを聞いてびっくりした。木村や曽根は勿論のこと、今回乗組員に選ばれた殆どの水夫は長崎海軍伝習所で勝と長年苦楽を共にしてきた者ばかりだった。それだけに勝が念願だった渡米を止めると言った事は、かなりの衝撃だった。

「俺たち水夫や火焚のことを一番わかって下さっているのは勝先生だけだ。その勝先生が出航間際でやめちまうなんて、そんな事あり得ねえよ。わかった。俺たちが悪かった。木村様、何とか勝先生を説得して、またおいら達と行くって言ってもらうよう、お願い致します」

 曽根は涙ながら訴えた。その数日後、勝が再び船場にやって来た時は、水夫全員が両手を挙げて大喜びした。長崎時代から水夫たちと信頼関係を築いていたからこそ出来た勝の行動だった。

 更なる課題が乗組員の中で起きた。役職名が軍艦奉行・総監の木村と軍艦操練所教授方頭取の勝とは船内での立ち位置が微妙であったのだ。本来、船を運行する場合、総責任者は船将であるが、このふたりのどちらが総責任者なのかも曖昧だった。木村の方が役職としては上なのだが、船に関しての知識は殆ど無いに等しい。船の運転、針路、その他海上の指示は勝の方が適していたからである。つまり、乗組員たちは、指揮権が誰にあるのか分からないので、命令系統に混乱を生じていたのだ。

 しかし、勝としてはアメリカまでの航海を無事に達成する事が第一だった。役職で揉めるような馬鹿な真似は絶対したくはないのだ。木村さんの立場も充分理解している。そこで、勝は「船中申し合せ書」という船内の規則を定めた。

 

・船内で一日に一人当たりが使用する水の量と使用目的を定め、無駄使いを固く禁ずる

・衣服について汗を掻いたり、雨や雪で濡れた場合、速やかに着替え清潔な身なりに努める

・火鉢など火の始末に充分注意をして、火事など絶対起こさぬよう注意する。

・食物で腐ったものは速やかに捨て、酸味を生じたものを口にしてはならない

・艦内で病人を発生させないための心配りと船上の共同生活の秩序を守ること

・水夫に命ずる時は、あくまで公用のみとし、私用で命ずることを禁止する

・この規定は、航海上、身分の上下に関係なく全員が厳守すること

そして、あくまで木村総督が総責任者であり、船の運航上問題が発生した場合は皆の意見を聞き、最終的に勝が判断するとも伝えた。そこで、正式に勝が艦将であると皆が納得した。

 乗組員の人数も決まった。日本人九十六名、ブルック大尉含めアメリカ人十一名、総勢百七名。咸臨丸の定員が八十五人乗りだから、かなりの定員オーバーである。しかも大量の食糧、燃料に加え、大砲が十二門も搭載している。これだけでも不安材料は充分あった。

ブルック大尉