小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その30

 咸臨丸

 一月十二日夜、木村は築地の軍艦操練所からボートで品川沖に停泊中の咸臨丸に乗り込んだ。最後まで見送ってくれたのは父の木村喜彦と姉の久邇(くに)だった。木村は三千両もの大金を協力してくれた父に改めて感謝し涙ぐんだ。その家族とは今朝、涙して水盃を交わした。これが最後かもしれないという想いが心に秘めていたからである。

 木村が船内に入ると、勝は既に乗船しており部屋で寝ていた。また熱がぶり返し、具合が悪そうだった。十三日の朝、咸臨丸は品川から横浜港に寄り、そこでブルック大尉ら十一人を乗せた。横浜港には船が多く、その隙間をくねくねと上手に擦り抜けた。運用方鈴藤勇次郎の舵取りはさすがだ。

ブルック大尉も日本人の舵取りが意外に上手だったので、この調子ならと少し安堵した。

十六日夕刻、浦賀に寄港した。そこで水と生鮮食料品などの補給品を三日間かけて積み込んだ。

 十九日、浦賀を出港。咸臨丸の帆先には大きな日の丸が翻っていた。いよいよ、アメリカにむけて長い航海が始まった。少し風が強かったが空は快晴だった。はるか西には雪で化粧した富士山が見えた。

 一方、使節団を乗せたポーハタン号の出航日は三日遅れの一月二十二日。アメリカ本国艦隊の精鋭艦ともいえるこの軍艦は咸臨丸と比べると、はるかに安定感があり、重量三七六五トン、速力十一ノットとかなり性能がよい。

 この船には、正使の新見正興及び副使の村垣範正、そして目付の小栗忠順の三人を含め八十人の遣米使節団を乗せていた。目的は日米修好通商条約の批准書を交わすことである。随行船と違い、こちらはアメリカに招かれた使節一行であった為、いわゆるお客様扱いである。咸臨丸と違い、船を操行する者は一切いない。殆どが新見や村垣ら三人の従者などだ。なぜ、こんな大人数の従者が必要だったのかは理解できない。おそらく、護衛とは名ばかりで、初めての異国を直に見たいという好奇心だけだろう。しかし、この若い従者たちの中から、明治以降になって活躍する人物を多く輩出したのだった。

 一方、咸臨丸の二日目は昨日と打って変わって、黒い大きな雲が重く圧し掛かかっていた。雪も風にあおられ舞っていた。寒さも身にしみるのだが、暖房器具は火鉢だけだった。皆、殆ど茶ばかり飲んでいた。

 勝は咸臨丸を操船するための航海当番を決めた。士官が二人一組となり四時間交代で勤務に就くように割り当てていた。編成は次の通りであった。運用方とは船の舵取り役のことである。

第一番 佐々倉桐太郎(運用方)  赤松大三郎(測量方)

第二番 鈴藤勇太郎 (運用方)  松岡磐吉 (測量方兼運用方)

第三番 浜口興右衛門(運用方)  小野友五郎(測量方兼運用方)

第四番 根津欽次郎 (運用方)  伴鉄太郎 (測量方兼運用方)

最初の佐々倉・赤松組が正午から午後四時まで当直を務め、その四時間ごとに当番を交代した。

 佐々倉達はいきなり強烈な風波の洗礼を受けた。この日は西からの季節風が強く吹き付けていた。沖合に出た咸臨丸は蒸気を用い、針路を南東にとったが、この年は記録的な季節風で荒れ、いきなり困難な航海が始まった。翌日、今度は東北に進路を変えた。船は黒潮の急流に遮られて激しく翻弄された。翌二十二日、二十三日と雨風は更に強くなり、とうとう後部の帆柱の帆が破られてしまった。

 連日の激しい風波で船酔いが続出した。真っ先に倒れたのは艦長の勝麟太郎だった。勝は高熱のまま船に乗り込んで以来、体力を消耗していた。もともと、勝は船に強い方ではなかったが出航以来、ずっと艦長室に籠りっぱなしだった。木村総督や士官はじめ乗組員の殆どが船酔いで寝込んでしまい、食事もとることが出来なかったのだ。あれ程、日本人だけで太平洋を乗り切ってやるとか、アメリカ人なんかを頼りにしないと粋がっていた彼らがこのざまなのである。

 折角、決めた組編成も五日目あたりから、休む者ばかりで大きく崩れてしまった。ブルック大尉は早くからこれを予想しており、アメリカ水兵六人を二班に分けて咸臨丸の操舵や見張りに付かせていた。かれらは長年の経験を積んでおり、ある程度の高波は全く平気だったので、煙草をふかしながら、動けなくなった日本人を冷ややかな目で見ていた。日本人で船酔いせずに働いていたのは、測量方の小野友五郎と通弁の中浜万次郎、そして福沢諭吉の三人だけだった。

 前列中央 小野友五郎