小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その33

 サンフランシスコ

 咸臨丸はサンフランシスコ湾の南にあるアルカトラズ島の近くに来ると「錨を下せ」という勝の凛とした声と共に鼓手の斉藤留蔵の小太鼓が鳴り、ゆっくりと錨を下した。船の前帆柱には日の丸、中央帆柱の上には幕府旗印の中黒の吹き流し、後帆柱には鑑将木村摂津守の家紋丸に松皮菱の旗が潮風に翻っていた。

 埠頭を見ると、今にも海に落ちそうな位に人が集まっていた。凄い歓声が聞こえる。大勢のサンフランシスコ市民が手を振って歓迎してくれている。事前にワシントンから連絡を受けていた市長が、歓迎の準備をしていたからだ。

 アメリカ人からすれば、日本という東洋の異国から初めて太平洋を渡り来航してくる噂は、余程の興味と物珍しい日本人を一目見ようと集まってきた群集で埋め尽くすのは当然であった。

 サンフランシスコは、十年前のゴールドラッシュで急激に栄えた都市である。金が発掘される噂が流れると、それまで数百人の人口が一気に六万人に膨れ上がったのだ。ブームが去った後も街は交易の中心地となり、温暖な気候もあって今もアメリカの主要都市となっている。これにより、当時の街並みには四、五階建ての建物など日本人にとっては、どこも目を見張る物ばかりだった。

船の上で勝は佐々倉を呼んだ

「お前、ふたりばかり供を連れて先に市長のところへ挨拶に行け。浜口と吉岡でいいだろう。それにブルック大尉と中浜に同行をお願いしろ。上陸はそれからだ」

「はっ、わかりました」

「それから、船の中の病人を一刻も早く、医者に見せて手当を受けさせるよう手配してくれ」

 勝は今にも息を引き取りそうな富蔵を早く何とかしてやりたかった。この後すぐブルック大尉が市の役人と連絡をとり、この衰弱した水夫たちを海軍病院に連れていく指示をした。他にも不調を訴える者があり、計十五名が即入院した。

 佐々倉たちは、市長のデシェメカーに迎えられ、そのままインターナショナル・ホテルに宿泊し戻らなかった。

 咸臨丸では次の日、早朝に斉藤留蔵の起床の小太鼓を鳴らすと、全員甲板に集まった。初めて異国で迎える朝だった。「御旗引揚げ」の声がすると、日の丸がするすると揚がり朝日に照らされた。

 勝と木村の顔に爽やかな風が吹いた。改めてアメリカに着いたという実感がわいてきた。

「只今、戻りました」

昨日、市長へ挨拶に行きそのままホテルに宿泊した佐々倉たちが戻ってきた。

「勝艦長、市長が今日の午後一時に歓迎のためにこの艦に参るそうです」

と報告したあと、

「いやあ、昨日は色々と驚くことばかりでした。どこに行っても人だらけで、特にこの国の女は図々しく何やら喋って皆、手を握ってきやがる。わしの頭を見てクスクス笑う奴もおるし、中には物珍しそうに裾を引っ張ってくる奴もいた。本当に無礼な奴らだ」

勝はにやにやしながら聞いていた。

「旅館に行った時もびっくりした。でかい赤い絨毯が敷詰められており、わしらが草履を脱ごうとすると奴らはその上を土足のまま平然と歩いているのだ。それと、天井や壁にたくさんの灯が付けてあるんだ。わしはロウソクにしては随分明るいと思っておったら、それはガス燈って云うらしい。まあ、わしにはよくわからなかったが。それから夕飯を用意してくれたのだが、最初に白い汁を一口飲んで気持ちが悪くなった。何か乳臭くて吉岡はそのまま吐き出してやがった」

そう言っていかにも不平そうだった。吉岡も、あれは本当にまずかったと顔をしかめた。

 

 午後一時に市長がきて歓迎の挨拶をした。歓迎の晩餐を用意しているので、それまでホテルで寛いで下さいと言う。木村は断っては申し訳ないと、市長の後についてボートで波止場に行った。

 そこで初めて二頭立ての馬車に乗った。道ばたは山のような人だかりだ。妙な眼の色をして、金髪や赤毛の髪でこっちを見ている女性もいた。歓迎されているのは分るのだが、あまり気持ちの良いものではなかった。

 インターナショナル・ホテルに着くと、案の定、女性が男たちを押しのけ目立っていた。

「どうして、この国は身の程をわきまえない女が多いのだ」

木村が万次郎に聞くと、

アメリカではレディファーストといって女性を尊重して何事にも優先させる事がこの国の礼儀なのです。男性の女性に対する思いやりでしょう。決して女性が出しゃばる訳ではないのです」

「なるほど、日本では、身分で格差を付けたり、男が女を軽視する傾向がある。これは改めなければ、ならぬかもしれぬな」

「はい、男女が平等という考えですね」

 新聞社が各社押しかけてきた。特に木村摂津守の正装姿に皆、興味をもって次々と質問してきた。この日の身なりは紺の着物羽織、金の羽織紐、縞の袴、白の足袋、脇差、印籠など、どれをとってもアメリカ人の目には第一級の工芸品に見えたのだろう。

 夕方になり、市職員に案内され市庁舎に着くと、二階に通じる屋外の階段まで庁舎からあふれたサンフランシスコ市民がぎっしり埋まっていた。壇上に木村を導いた市長は、しっかりと握手をした。その時、木村は懐から英文の名刺を取り出し市長へ渡し、万次郎の通訳で自己紹介をした。名刺には「KIM-MOO-RAH-SET-TO-NO-KAMI」と印刷してある。おそらく、これが名刺をだした最初の日本人だろう。市長と木村の握手と名刺交換が済むと、木村は市の幹部たちと日本の士官たちとも握手をして欲しいと申し入れた。更に屋外にいるサンフランシスコ市民の人たちも部屋に招き入れ、日米両国民の交歓の場にして欲しいと提案した。

 すると、会場内外の百人を超えるアメリカ人たちは皆、この木村の好意的な配慮に感激し、会場は割れんばかりの拍手が沸き起こった。会場の友好ムードが一気に盛り上がった。

 一連のセレモニーが終ると、木村たち一行は近くのホテルに用意された宴席に招待された。大層な御馳走が出てきた。口に合わない物もあれば、今までに食べた事のない美味しい肉料理が次々と出てきた。箸が用意されておらず、仕方なく見よう見まねでナイフとフォークを使って食べた。中には、どれも口に合わずパンに砂糖を足してやっと空腹を満たしている者もいた。

 そもそも、当時の日本では牛や豚などの肉類は殆ど食べてはいなかったのだ。それでも泡がでるシャンペンというお酒は美味だった。差しつ差されつの賑いが始まった。一行はまたダンスを見せられた。男女が妙な風をしてホール中を飛び廻るその様子が可笑しくて堪らなかったが、皆必死で笑いをこらえた。会が盛り上がったところでサンフランシスコ市長が立ち上がり、

「日本の皇帝とアメリカ大統領の健康を祝して乾杯」

と、杯を高く挙げ、乾杯の音頭をとった。その後も木村総督には大勢の男性と女性が次々と挨拶にきた。木村はさすがに疲れ切って小声で「勝さん、勝さん、帰りましょう」と促した。市長からは是非泊って下さいと言ってきたが、気疲れしたせいか、結局皆揃って咸臨丸に帰ったのだった。