小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その34

 翌日も木村は歓迎攻めにあった。というよりも珍客を一度でも見て話題にしようと押し掛ける見物人ではないかと思った。外出について最初は自由としたが木村は異国で何か間違いが起きてはと、心配して決め事を徹底させた。そして甲板に乗組員を全員集めると、次の通り訓示をだした。

 

・上陸の際は、決して屋内、屋外とも飲食をしてはならない

アメリカ士官の者から饗応と称して酒食を差し出されてもなるべく断ること

・外泊は一切相成らぬ

・上陸歩行の際、一人歩きはならぬ、三人ずつ組んで水主火焚(すいしゅひたき)を連れ歩くこと

・上陸時間は朝五時より正午、または正午より午後五時のこと

・出先で如何様な事があっても相忍んで帰り、帰った事を報告すること

 

 次の日、市長より市民が咸臨丸を見学したいので、是非許可を頂きたいと申し出てきた。通訳した中浜が木村に伝えると、勝さんの了解を取って下さいと言う。更に勝に事情を話すと、

「咸臨丸は日本の軍艦だ。静粛に拝観するならばいいが、しかし女はいけねえ」

と、ぶっきら棒に答えた。

翌日予想以上の大勢の見学者が訪れたが、その中に新聞記者がいた。翌日の新聞には

「当市の婦人たちは面目を失った。日本人は女性に理解がない」

と非難の記事が載った。中浜はこれを訳し勝に伝えたが、気にする事はないと言ってせせら笑った。

 もうひとつ話題になったことがある。見学者の中に一人女性が紛れていたのだ。この女性はどうしても船を見たいという願望から、女人禁制と聞いて、男性の恰好をして帽子を深くかぶって潜入したのだが、何故かこれを木村が見破り、咎めるどころか帰りがけにある包みをこの女性にそっと渡した。女性は家に帰り包みを開くと、日本製の美しい櫛が入っていたと云う。女性は感激してこれを知人に話したところ、いつの間にか日本人の美談として噂が広まったのだ。

 

 

  桜田門外の変

 

 咸臨丸がサンフランシスコに到着して七日が過ぎ三月三日となった。実はこの日、日本では大事件が起こっていたのだ。大老井伊直弼江戸城で行われるひな祭りの行事に登城する為、彦根藩屋敷から江戸城に向かう道中で、浪人たちに行列を襲われ、殺害されたのだ。(桜田門外の変

 

井伊直弼水戸藩をはじめ次々と一橋派を蟄居や処刑をし、その過激さから反感を買い、最後まで勅書の返納に反対していた水戸藩士族が脱藩して、遂に井伊直弼暗殺の企てをしていたのだ。また、薩摩藩でも暗殺と同時に京へ向け三千人の兵をあげる準備をしていた。

 その計画は水戸藩士の高橋多一郎、金子孫二郎を中心に図られており、高橋は薩摩藩との調整連絡役を、金子は井伊直弼の襲撃計画の指揮を担っていた。