小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その37
三月八日、この修理の最中に幕府の正使を乗せた米軍艦ポーハタン号が十二日遅れで、やっとサンフランシスコに着いたのだった。航海ルートを南太平洋としていたが、途中暴風雨に遭い二月十四日から約一週間、ハワイ(当時はサンドイッチ諸島と呼んでいた)に寄ってきたのだ。そのハワイでは消費した石炭や水を補給し、そこで使節団一行は王宮に招待され、カメハメハ四世とその女王に挨拶を交わしている。また、ハワイでは、すっかり欧米風の建物が立ち並び、情報媒体も充実しており、使節団は週間新聞が二紙も発行されていた事を学んだ。
因みにこのハワイ諸島は、イギリス、フランスなど欧米諸国から領土を狙(ねら)われたが、決して植民地にはならなかった。 そして百年後の一九五九年にアメリカ合衆国五十州の中で最後に加盟した州となるのである。
ポーハタン号はサンフランシスコに着くと、咸臨丸が航海中の修理をしている事を聞き寄港せず、そのままメア・アイランドに向かった。一刻も早く同じ日本人に逢いたいという気持ちからである。
勝がドックの中でアメリカの作業員から何やら製図について説明を受けていた。そこへ測量方の赤松が嬉しそうに駈けてきた。
「先生、先生、ポーハタン号がサンフランシスコに到着したと、連絡が入ったそうです」
「なに、本当か。すぐに木村さんにもこの事を伝えてくれ。佐々倉に迎えに行くように言え。俺もすぐ行く。ところで、日本人は皆無事な様子か」
勝は矢継ぎ早に言った。
「はい、使節団は皆、無事に着いたそうです」
まさに使節団と咸臨丸乗組員との久しぶりの再会であった。木村と勝は造船所で使節団を迎えた。使節団正使である新見正興(四十八歳)と副使の村垣範正(四十歳)そして目付の小栗忠順が、初めてアメリカの地に足を踏み入れたのである。
正使を任じられた新見正興は、文政五年(一八二二年)江戸で三浦義韶の子として生まれたが、大坂町奉行新見正路の養子となり二十六歳で家督を継いだ。新見家は家康が将軍になる前から手柄をたて、家康から厚い信頼を得、新見の名と家紋を与えられた由緒ある旗本の家柄であった。正興はその十代目当主である。正興自身、若い頃より将軍家定の世話役とし仕え、昨年(安政六年)外国奉行を命じられ、その職務より今回の使節団正使となったのである。
一行を迎えた木村が前に出て、
「新見様、船での長旅、さぞお疲れの事と存じます。皆さまご無事でアメリカにご到着でき、何よりでございます」
「うむ、その方たちも無事な様子でわしも安堵致した。誠に大儀であった」
新見たちは皆元気そうだった。村垣が日焼けした顔で
「木村殿、途中、ハワイに寄って来たので遅くなった。ところで咸臨丸の具合はいかがですかな」
「今修理中ですが、傷みが酷く、まだ何日か掛かりそうです」
「そうですか。しかし、皆、無事な様子で本当によかった」
さすがにお互い異国で再会した日本人同士、懐かしさで喜び合った。使節団一行はひとまずポーハタン号に戻ったが、小栗忠順と勘定方の森田岡太郎はひと晩木村の宿舎に泊まった。小栗は時に三十二歳、幕府直参の中では切れ者として評判で、形相にどこか鋭いものを感じさせた。木村が部屋で酒を用意させている傍ら小栗が勝に話しかけた。
「勝さん、どうですかアメリカは」
「アメリカで見る月は、日本で見る月と変わりませんね」
「なるほど、天から見れば日本人もアメリカ人も変わらないってことですね」
「そうです。今はまだ、技術的には日本はかなり遅れているかもしれませんが、あと二十年、三十年たてば日本も欧米並みになるでしょう。いや、ひょっとすれば日本が追い越すかもしれませんよ」
「あはは、そいつは愉快ですね。早くそんな日本が見たいものです」
「おいら、最初は不思議でならなかった。どうして、アメリカはこんなにも早く技術革新が進んでいるのか。でも、何となくわかった気がする。ひとりひとりが自分の仕事に誇りをもっているんだ。誰かから強制的にやらされている訳では無いし、誰も卑屈になってない。皆自由に仕事している。個人の能力を最大限発揮しているんだよ。アメリカは日本のような士農工商の差別はないし、自由に仕事を選べるんだ。金儲けも皆が堂々とやっている。それが、結果的に国を発展させ、豊かになっているんだと思うよ」
勝は、日本とアメリカの差を痛感していた。
「そのためには、武士がいつまでも何もせず威張っているだけじゃあ駄目だ。町人でも商人でも能力のある奴はどんどん日本を引っ張っていける世の中に変えねえとね」
「わたしはそんなに威張ってはおりませんよ」
「あははっ、いや、あなたのような方こそ日本を良いように変えていってください。しかし、小栗殿は先程、天から見れば・・・とおっしゃったが、やはり上から物事を見る癖は武士だからでしょうね。あっ、これは余計な事を口にした。勘弁願います。ところで小栗殿はアメリカで何をご覧になりますか」
「さあ、何を見たらいいか、教えて下さい」
勝はにやりと笑っただけで何も答えなかった。
小栗忠順と勝麟太郎。このふたり、富国強兵において軍艦の必要性については共に一致していたが、その後 日本に帰ってから二人の意見は対立した。小栗は軍艦奉行に就任すると造船所建設へと動き出した。
これに対し勝は、造船所建設には反対し海軍学校の重要性を幕府に訴えた。その結果、第十四代将軍徳川家茂の大阪湾巡視に同行した際、家茂直々に神戸海軍操練所の許可を得て設立した。すると、多くの生徒達が集まった。一方、小栗の方も説得が実を結び、家茂から造船所建設を認可され、横須賀の地で実現となったのである。
不思議な事に、このふたりには共通点がいくつもある。生まれはどちらも父が旗本であり、成長するに従って文武に抜きんでた才能を発揮している。剣術においては勝と同じ島田虎之介を師とし、直心影流免許皆伝である。また、性格的にも、常に率直な物言いを上司から疎まれて幾度も役職を変えられ、そのたびに才腕を見込まれ、また役職に戻されているところは可笑しい程似ている。その二人がこうして、異国のアメリカに渡って酒を酌み交わしながら論じているのは、奇遇としか言いようがないのである。
小栗上野介忠順