小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その40

 咸臨丸の修理は完全に終わった。最後の点検が済むと木村と勝はもう一度カニンガムの邸宅を訪れ、感謝の意を伝え、別れの挨拶をした。他の乗組員たちも長らく世話になった宿舎を念入りに掃除して、荷物もすべて咸臨丸に積み込んだ。

 そして、サンフランシスコの港に船を碇泊させ、乗組員たちに交代で土産物を買うことを許可した。木村は勿論ひとりひとりにドルで支給したお金を持たせた。

 木村は勝と何人かの乗組員と一緒に病院へ向かった。この病院にはアメリカに着いた時から入院している水夫がいた。すでに一番病状が悪化していた富蔵は帰らぬ人となり、埋葬されている。残りの七人も症状は依然回復せず、とても船に乗って帰国できる状態ではなかった。

 やむなく、吉松と惣八のふたりの水夫に病人の介護を託し二千ドルを預け、そのまま病院に残すことになった。病院の職員たちの親切な介護は徹底していた。入院している人種を問わず、病室を常に清潔に保ち、毎日の清掃を怠らず、衣類、シーツも必要に応じ出してくれ、病人の汚物も気にせず始末してくれた。見舞いに来た木村や士官、水夫たちは、この病院側の人道的な対応に皆深く感動した。だが、中には仲間と別れる辛さで、声をあげて泣き出す者もいた。

 

 木村はそのまま、勝と中浜と共に市長に会うため市庁舎に向かった。そこには、市長と共にブルック大尉が待っていた。ブルック大尉には事前に依頼しておいた事を確認した。

「ブルック大尉、本当に最後までお手数をお掛けします。ところで依頼していた水夫は見つかりましたか」

「大丈夫です。何とか話がついて五人に了解してもらいました」

木村が依頼した事とは、帰国の際、念のため補助要員として日本の船に同乗してもらえる ベテラン航海士を探してもらう事だった。木村は改めてブルック大尉の親切にお礼を伝えた。またデシェメカー市長に、このサンフランシスコの消防士、船員の未亡人団体へ二万五千ドル(約二千両)を寄付する事を伝えた。市長が大いに喜んだのは言うまでもなかった。先日、ブルック大尉に受取を拒まれたお金を有効に使うため、この未亡人団体へ寄付することを思い立ったのだった。

これを寄付しても、まだ幕府に返す五百両と日本の乗組員やアメリカの雇い航海士への給付に充てられる五百両が残る計算となるである。

 

 この日、交代で土産品を買う乗組員を横目に福沢諭吉は、単独行動を取り、精力的にサンフランシスコ市内の主要な場所や施設を訪ね歩いた。本来なら、単独行動は木村が提示した規則に背くことだったが、木村は福沢の渡米の目的をよく理解しており、木村の命令に従ってという名目でこれを許した。

 福沢は単身、着流し姿で出かけた。行き交うアメリカ人が物珍しげに近寄り、いろいろと話しかけてきた。メア島の官舎生活において多くのアメリカ人の家族に触れてきた福沢は、すでに日常会話をこなせる程、英語力を身につけていた。

更に街中を歩いていると、突然雨が降って来たので近くの建物の庇を借りしばらく雨宿りをしていた。すると、若い女性が傘を差しながら、話しかけてきた。まだ十代の可愛い顔をしている。

「あなたは日本という国から船で来た人でしょ。そこでは身体が雨に濡れるので、よかったら私の店の中で雨が止むのを待ってはいかがですか」

と言ってきた。女性が指さしたのは、店どころか線路の上にある列車の車両だった。しかも客車ではなく貨車だったのだ。不思議に思いながらも女性の後を付いて車両に入ると、壁には人物を写した写真がいくつも綺麗な額に入れ飾られていた。中央には円筒の突起物が付いた四角い木箱が三本の脚に支えられ置いてあった。福沢はすぐに、これが写真機で、この場所が写真スタジオだと理解した。

 間仕切りの奥から主人らしき男が出てきた。蝶ネクタイをし、少し突き出た腹を隠すようにベストを着て、ポケットからは懐中時計のチェーンが見えていた。名前をウイリアムといい、タゲレオ式(銀板)写真でポートレートを撮ることを商売にしている。貨車をスタジオとした理由は、すぐ汽車で出張写真を撮りに行けるからという理由らしい。声を掛けてきた女性の名前はドーラ(テオドラ・アリス)と云い、この写真屋の娘だそうだ。十七、八歳にみえたが、歳を聞くとなんと十二歳だというので驚(おどろ)いた。

 店主も福沢の着物姿を見て、最初は一寸びっくりしたが、すぐ街で噂になっている日本人だとわかった。すると急に愛想よく笑いかけ、一枚写真を撮ってはいかがですかと言ってきた。娘のドーラも笑顔で勧めてきた。

 そこで、福沢は娘のドーラさんと一緒に撮ってもらってもいいかと聞くと、主人はすぐOKサインをだした。福沢は案内された椅子に座ると、すぐにドーラは福沢の横に立ち、椅子の背もたれに肘を置くとポーズを決めた。写真はおよそ一時間で出来上がった。料金の二ドルを払い、福沢は礼を言いそのスタジオを出た。雨はすでに止んでおり、思いがけずいい体験と土産ができたと心の中で喜んだ。

しばらく街を観て回っていると、中浜万次郎と出会った。

「やあ、中浜さん、あなたも土産品を探されているのですか。何か面白い物見つかりましたか」

「ああ、福沢さん。おや、あなたは一人で市街を探索していたのですか」

そう言う万次郎もひとりだったが、ここでの万次郎は住み慣れた故郷(ふるさと)のようなものである。

「はい、自分の英語力を試す、いい機会だと思いまして一人であちらこちら歩き回っていたところです。それに、木村様に頼まれまして、何かいい土産品がないか探していたところです」

「そうですか。福沢さん、ちょっとあの書店に寄ってみませんか」

そう誘われ、福沢も興味を持っていたので、中浜の後について書店に入った。少し薄暗くホコリ臭かったが、店の中は意外と広く、英語で書かれた書籍が本棚を埋め尽くすように並んでいた。中浜は店主を見つけると、すぐ「ウェブスターの英語辞書が欲しいのですが、ここにありますか」と聞くと、店主は驚いた顔をした。

 異色の東洋人が入ってきたと思うと、いきなり彼が話した言葉がとても流暢な英語だったので、その意外性にびっくりしたのだ。まして、ウェブスターは辞書の中では当時、高価で貴重だったので、そんな値打ちのある本をいきなり求められた事も、店主にとっては予想外だった。値段は四十ドル、書籍としては決して安くはなかった。更に、「私にも同じ辞書を一冊下さい」と福沢が英語で言うと、店主は飛ぶように喜んで店の奥から真新しい二冊を持ってでてきたのだった。

因みに福沢は木村から頼まれた土産品として、こうもり傘を購入し持って帰った。これは、後にちょっとした笑い話のネタになった。

 福沢諭吉とドーラ