小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その42

 四月四日、咸臨丸は何事もなくホノルルに着いた。アメリカ人の手を借りるまでもなく、運用方の浜口と測量方の小野が中心となって、帰路は殆ど日本人の力だけで進むことが出来た。ハワイで燃料や水・食料を補充した後もしばらく穏やかな航海は続いた。四月二十九日、小雨が降ってきて、少し肌寒くなった。更に五月に入って二、三日暴風雨に遭ったが、もうすぐ日本に帰れるという気持ちが強く少しも怖くなかった。

 

 最後にもうひとり、咸臨丸に欠かせない人物がいた。それは運用方の鈴藤勇次郎敏孝である。鈴藤も長崎海軍伝習所からずっと勝麟太郎と長年苦楽を共にしてきた人である。彼は航海術を学ぶ傍ら、絵画を描くことを得意としていたのだ。あの有名な荒波の中の咸臨丸を見事に表した『咸臨丸難航図』を描いたのが鈴藤勇次郎である。鈴藤はその絵を完成させると木村摂津守へ贈った。しばらくは木村家の家宝としていたが、現在は横浜開港資料館で大切に保存されている。

 

 五月五日、咸臨丸一行は、無事浦賀に着いた。久しぶりに富士山が見え、全員が歓喜に沸いた。

しかし、日本に着いた港では、アメリカの歓迎とはまるで打って変わって静かだった。太平洋横断という偉業を果たした覇者達に対してはあまりにも冷たい出迎えだった。しかも船が港に着くと同時に大勢の役人が小舟に乗り、十手を持って上がり込んできたのだ。桜田門で襲撃事件があって以来、逃亡している水戸脱藩浪人を探していたのである。

「この船に水戸藩の者は乗っておらぬか。隠すとお主らの身のためにならぬぞ」

すると、今にも役人に向かって怒鳴り散らそうとする勝を片手で抑え、

「いきなり、無礼ではないか。我々は徳川将軍の御下賜により遣米使節随行船の一行でござる。それがしは軍艦奉行木村摂津守喜毅である。たった今アメリカより帰国したばかりでござる。この船には、そのような者は断じて隠しておらぬ。いったい何事だ」

不躾な町方役人風情が遠慮なしに船に乗り込んできたことに、木村は怒りを抑えるように言った。

「これは木村様、ご無礼致しました。実は、ふた月ほど前に桜田門近くで大老井伊直弼様が水戸藩脱藩浪人に殺害され、その下手人がいまだに逃亡しており、その者たちを捜索しておりました」

「何、井伊直弼様がお亡くなりになったのか。それはまことか」

「はっ、三月三日、江戸城で雛祭りのため諸大名登城の折、彦根藩行列が桜田門外において襲われた由にございます」

 木村たちにとって、寝耳に水とはこのことであった。木村たちが日本を離れてたった四か月の間に、日本の政治情勢は大きく変わった。更にそれを憂慮した孝明天皇の意向により、元号も三月十八日より安政から万延にかわったのだった。

 

 咸臨丸を品川に移し、翌日、木村摂津守と共に勝麟太郎江戸城で将軍家茂に拝謁した。

傍らから老中のひとりが、

「勝、その方は長崎で長く異人と接してきた者であるから眼光があろう。どうであったか異国に渡って特別目にしたことは何じゃ。わが日本とアメリカとは、いかなるあたりが違うか」

「いや、人間のすることはどの国も同じで、アメリカ国とはいえ、別に異なることはございません」

「いやいや、左様なことはあるまい。御前じゃ。遠慮のう申しあげい」 

勝は薄ら笑うと、

「左様、我が国と違いアメリカでは身分や家柄は全く関係なく、およそ人の上に立つ者は皆その地位相応に賢こうございます。この点ばかりは、まったく我が国とは反対のように思いまする」

老中は、将軍の前で自分たちを愚弄したと思い、見る見るうちに顔色が変わった。

「ううっ、無礼者、ひかえろっ」

と怒鳴った。

 鈴藤勇次郎作『咸臨丸難航図』(横浜開港資料館保管)