小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その43

  ワシントン

 三月十七日、新見率いる使節団一行を乗せたポーハタン号は意気揚々、サンフランシスコを出港し太平洋を南下して、パナマに向かった。翌十八日、この日、日本では元号安政から万延となったが、その二週間程前に起きた桜田門の襲撃事件などを彼らが知る由もなかった。

 

 ここからは日付が少しややこしくなる。アメリカと日本には時差があり、アメリカは日本より半日遅れている。またこの年は閏年で十九年に七回、日付調整の年である。更に当時日本の三月十八日を太陽暦(現在の暦)に直すと五月八日となる。あまりにも複雑になるので、これから先は、使節団副使、村垣範正の日記の日付で話を進めるとする。したがって、日付より約一か月半、月日や季節は先である。

 

 閏三月四日(太陽暦四月二十四日)、一行は太平洋を南下してパナマのバルボア港に到着した。ここまではサンフランシスコから十七日間を要した。ここで、一行は、日本からずっと長い間、世話になったポーハタン号の乗組員たちに礼を言って別れた。

 現在は、太平洋と大西洋がパナマ運河(1914年開通)でつながっており、そのまま船で横断出来るようになったが、当時はまだ、陸地を地峡鉄道で移動していた。この鉄道はゴールドラッシュの時代に工事を開始したが、その工事は危険かつ困難なもので、十年間の工事期間でなんと労働者の一万二千人を超える犠牲者を出したと云う。開通してから五年後、一行がその鉄道を利用できたことは幸運であった。

 

 使節団一行は、もちろん列車に乗るのは初めてである。この列車は薪を燃料とし、それを釜で燃焼させ蒸気の力で車輪を回転させるいわゆる蒸気機関車だった。一行が始めて見たこの列車前方の右には、我が日の丸の旗、そして左側にはアメリカの国旗が取り付けてあり、いかにもアメリカとしては日本との友好を示していたのだった。いざ列車に乗り込もうとした時、いきなり頭の上から凄まじい「ポォー」という汽笛が鳴り響き、一同皆驚きを隠せなかった。

 村垣の日記には「車の轟音雷の鳴りはためく如く、左右を見れば三四尺の間は、草木も縞(しま)のように見えて、見止まらず・・・更に話も聞こえず、殺風景のもの也」と記してある。

 つまり、列車の騒音が大きすぎて隣の人と話も出来ない。窓から見える景色は早すぎて、手前の七、八mくらいまでは、全く見えず樹木が縞のように見えると、いかにも初めて列車に乗って吃驚した時の感想である。日本で速い乗り物としては馬だけであり、村垣も多少馬術を心得ているが、それとはまるで比べるまでもなかった。

 村垣は常に筆と懐紙を携え日記を付けていた。同行していたアメリカ軍人は「日本人は常に日記を書き、短い文書、言葉など何でも写しをとっていた。まさに蜂のように勉強していた」と書き記している。

 ここで、目付役小栗忠順はひとつの疑問を抱いた。この壮大な鉄道工事と列車運行費用をアメリカ国家としては全く出資していないという事だった。では、この莫大な費用を誰が用意したのか。

この疑問に対し、同行したアメリカ軍人の説明によると、

「総費用は、凡そ七百万ドルかかりました。その費用のすべては国内の富裕層たちから会社設立のために提供され、列車の運賃からでた利益を出資者へ分配されます」

この時、小栗は初めて株式会社の仕組みを理解できた。

 因みに日本でこの株式会社を始初めて行なったのは、勝麟太郎とも深く交流があった坂本龍馬がつくった組織で、長崎の豪商小曾根乾堂の援助の元に海運業を営んだ『亀山社中』が最初と云われている。 

 

 三月六日、地峡鉄道を六十キロほど走ると大西洋(カリブ海)にでた。アスピンウォール(現在のコロン)という港町である。ここにはアメリカ海軍の軍艦ロアノークが待機していた。この頃、アメリカでは既に電信が確立しており、遠く離れたワシントンでは彼らがサンフランシスコに到着して以来、使節団の動向はすっかり把握していたのだった。当時の日本では飛脚か早駕籠がこれを担っていたが、文明の差があまりにも大きすぎて比べ物にならない。

 

 一行は軍艦ロアノークに乗船し、カリブ海からフロリダ州沿岸を経由、十九日間の航海を経て三月二十四日、ようやくワシントンに到着した。横浜出航から、目的地ワシントンまで実に二か月間を要したのである。

 しかし、その航海は咸臨丸乗組員の苦難の連続とは余りにも異なり、すべてをアメリカ海軍に委ねた無難な道程であった。そのため使節団一行はアメリカ軍の言われるままの行動だった。

 新見と村垣は新しい物を見るたびに、とても驚いていたが、小栗だけは常に鋭い猜疑心の目で見ていた。海岸の至るところに砲台が見られた。砲台というのは防衛上見張りを目的にした大きな大砲を設置した要塞のことである。見かけは大層だがその砲台に入ってみると、その多くは飾り物で実用としては疑わしかった。河口の海面へ石を高く桔梗の花の形に積んだその砲台は、日本の函館に幕府が新しく造った五稜郭に似ていた。

 

 兵隊の殆どが、どこかの国の雇い兵だった。小銃や大砲の使い方もうまいとは言えない。優れた兵隊はわずかのようだった。小栗は我が国の兵力をもってすれば恐れるに足りないと言ったが、村垣は砲台の事はよく知らなかったので、何も口出し出来なかった。

当時の蒸気機関車