小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その44

 三月二十五日、一行がチェサピーク湾入口の軍港ノーフォークに着くと、責任者のデュポン海軍大佐、世話役ポーターなど四人の案内役である軍人が挨拶にきた。その中にはペリー艦隊でオランダ語通訳を担ったポートマンの姿もあった。そこから川蒸気に乗り換えポトマック川を遡りワシントンDCの南にある海軍造船所に着いた。

 その歓迎ぶりは騒々しいほど盛んだった。綺麗に飾った四頭だての馬車が用意されており、それに乗ると列の先頭を騎兵隊や赤い上着と白いズボンで統一された楽隊に先導された。沿道は熱狂する観衆に埋め尽くされ、両側の三階や四階の窓から女や子供がたくさんの花束を投げたり、鐘を鳴らしたりする大歓迎の中をパレードは進んだ。使節団七十七名、全員が馬車に乗ったので、その数は大変なものであった。村垣はまるで江戸の祭のような騒ぎを見て、嬉しさの反面なぜ遠慮もなくあのように騒々しく振る舞うのか困惑した。 

 この群集の中、同行した軍人のジョンストンへ婦人から突飛な質問があった。同行されている方は男性ですか、女性ですか、という。然して、初めて日本人の結髪をみたものは、性別もわからない程だったのか。日本では月代(さかやき)といって、頭のてっぺんの髪を剃り、側面と後頭部だけ髪を残し、後ろの髪の毛の束を前の方にちょこんと乗せてあるが、それ程、アメリカ市民からみてサムライが奇妙な容姿に映ったのは、当然といえば当然だったのであろう。

翌日の新聞には次の通り記載されていた。

 頭髪は両側と後方を除き凡ての部分剃り去られ、残りの髪は長く束ねられ天辺は白い糸で結われ三インチの房を残しこれを油で固め、前額の方に持ち行き留止め置く。これは丁髷(ちょんまげ)の事だ。彼の縮緬(ちりめん)の帯には日本の刀を帯び、宝玉の飾りで巧妙に作られた鞘に納めている。彼等のズボンは甚だ広く、花鳥の美しき刺繍で覆われている。これを平たい紐で後部にて結ばれている。これが袴の説明である。更に、彼等の足元は白い布で覆い、半ば短靴下、履物は藁製、平らな畳と二本の紐で出来ている。足袋(たび)と草履(ぞうり)の説明をこの様に書いている。

 

 やがて、一行はウイラードホテルに入った。ちなみにこのホテルが最初に受け入れた重要な客は、この使節団であり、翌年には第十六代大統領になったエイブラハム・リンカーンも家族で宿泊している。

 

 村垣はホテルに入ってその宏荘美麗に驚いた。日本の旅籠とは全く違うのだった。入口から入ってすぐの大広間はまるで、二階の部屋をすべて取り除き直接屋根まで届くような天井の高さと直径二m以上あるような太い柱が圧巻だった、そして、その高い天井から鎖で吊り降ろされた複数の照明にも吃驚した。部屋数は六十部屋あり、各室には善美を尽くし、特に東洋趣味の美術品や西洋を思わせる絵画が飾ってあった。

 

 昼食を済ませた新見と村垣は三階の広さ十五畳もある特別室に案内された。二人は相部屋となった。そこには、床の上に綺麗に整えられたベッドと椅子が置かれていた。

「新見様、これではどこにも座る場所がござらんなあ。どれ、わたくしが、しとねを作ります故、しばらくお待ちくだされ」

と言うと、村垣は絨毯と椅子を片付け、ベッドから毛布を引っ張り出して床に敷き、そこにふたりは座り、胡坐をかいた。

「新見様、私はあの騒々しい歓迎ぶりには随分度肝を抜かれましたが、この豪華な建物は見るもの聞くもの、すべてに驚きました。このようなところを旅籠にするとは、アメリカという国はいったいどれ程の金持ちが住んでおるのでしょうな」

「いやあ、わしも驚嘆しすぎて腰が抜けそうだ。流石にワシントンはアメリカの都と聞いておったが、サンフランシスコの旅籠とは異なり、また一段と見事な造りだのう」

「そういえば、先程、昼餉の最後に出された氷菓子は、口の中で冷たくとろける甘さで、いやあ、もう絶品でしたなあ」

 昼食にアイスクリームが出されたことは村垣にとって、かなり嬉しかったらしい。おそらくアイスクリームを口にした最初の日本人がこの遣米使節団一行だと言われている。この時代、アメリカでは製氷工場はボストンにただひとつしかなかった。したがって、この氷菓子は非常に珍しくそれほど貴重なものだった。

 しかし、柔らかなベッドは最初、彼等に快感を与えたが、結局床に布団を敷いて寝ることにした。

 このホテルにはしばらく滞在することになるが、アメリカ人は朝の八時と午後の三時に二度の食事をし、晩の五時に茶を飲んでパンに少し肉をそえて食べるのが普通らしいが、こちらは日本式に三度食べさせるように言ったので、わざわざ別室でその用意をして貰った。しかし、このことはホテル側にとって大変、気を使わせることになったらしい。

 こんな話もあった。

朝、メイドが来て新しい白布を持ってきて部屋に入ってきた。彼女はシーツを取り替えると言ってベッドから枕カバーをとりはずした。そこにはベットリと黒いものがこびりついており、メイドは顔をしかめた。村垣はハッとした。昨夜は久しぶりに風呂に入り供の者に髷(まげ)を結い直させ髷を固めるため、新たにビン付け油をつけたまま寝たのを思いだした。村垣は「まことに相済まん」と言ってそのメイドに十ドル札を手渡した。すると、メイドはとても喜び、「センキュー、センキュー」と言いながら出ていった。村垣はチップを渡すことも覚えたのだ。しかしそれ以来、木村は持参した箱枕を使うことにした。

 

 三月二十六日、この日は日曜日でアメリカでは休息日であったが、ホテルの外にも中にもアメリカ人の群集があふれていた。一目、日本人を見ようと殺到している。村垣が部屋に入ってくるなり、

「新見様、外は大勢のアメリカ人で大変なことになっておりますぞ。いま、廊下を歩いて来るだけでも大勢の人から手を握られ、どこぞの婦人から抱きつかれ、口を近づけて来たので、やっと逃げてきたところです」

「ああ、村垣殿、その窓の下を見て見よ。こちらも物凄い人だかりなっておる。先ほど、わしが過って窓から紙片(メモ用紙)を落としたのだが、それを争うように取り合っておった。何も書いておらぬ紙なのに。仕方なく、扇子やら錦絵、和紙を投げ与えると、これも皆で奪い合っておった。この国の者達のすることは本当に不思議じゃ。理解しかねる」

 しかし、これが慣例となってしまい、土曜日の午後になると、窓下に群集がひしめき、他の従者たちも笑いながらこぞって窓から骨董的な諸品を投げ込むことになった。

「まるで、浅草寺の豆まきの様だな。わしは住職になった気分だわい。面白い」

 

 往来では、子供が指をまるめ銭の形をして「ゲブミー」「モネー」と騒いでいるのを見て村垣は聞いた。

「あの子供らは、貧しいのか。ずいぶんと銭を欲しがっておるようだが」

すると、通訳のアメリカ軍人は、

「いえ、そうではありません。日本の貨幣は珍しいので記念に一枚欲しがっているだけです。きっと、それを貰えば友達に見せびらかして自慢するのでしょう」

村垣はなるほどと言って頷いた。

  副使村垣    正使新見    目付小栗