小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その47

 四月八日、デュポン大佐が帰国のことを相談に来た。

「新見さん、先日あなた方が希望されていたポーハタン号に乗って、もと来たように太平洋を渡って帰りたいと仰っていましたが、実はその船がかなり修理しなければならなくなりました。それを待っていると一か月半くらい待って頂くことになるので、代わりにナイヤガラという大きな軍艦をニューヨークから出帆しますので、その船で帰国するというのはどうでしょうか」

「色々と面倒をお掛けします。それでは、その船に乗せて頂く様宜しくお願い致します」

「了解しました。それでは、四月二十日頃、ここを出発しニューヨークに向かいますので、部下の方へもそのようにお伝えください」

どこまでもアメリカ軍は日本の使節団に対し親切だった。新見と村垣は心から感謝の意を述べた。

 その日の夜は天文台を見学させてもらう事となり、デュポンの案内で車に乗った。建物の三階に昇ると、そこには石で固定された長さ三メートルもある望遠鏡がのせてあった。月の表面をみて、不思議な感動を覚えた。他にも土星木星を見て驚いたが、通訳を通しての説明は殆どわからなかった。

 それからの毎日は、各国の公使を表敬訪問し、学校、病院、留置所、機械工場の見学と飽きることのない日々を過ごした。

四月十七日、一行は大統領官邸に行き帰国の挨拶をした。大統領からは記念にと新見と村垣と小栗の三人に金のメダル、更に家臣たちには銀や銅のメダルを贈ってくれた。

 

 ワシントンでは一か月あまり滞在したのだったが、その間、アメリカ軍は常に日本の使節団を接してくれた。しかし、あまりにも滞在が長引いたので、アメリカとしても使節団のための費用が予算を大幅に超えてしまった。また、従者たちもホテル内での暮らしがまるで牢に入れられた様に苦痛を感じ疎ましくなってきたのだ。更にホテルの従業員や一部のアメリカ人も同じように彼らを疎ましく思うようになってきた。

そんな中、漸くワシントンを出立することとなった。   

 

 

 ニューヨーク

 

 四月二十日午前八時、一行はワシントンを出発した。大歓迎の中到着した時とは違い、護衛はなくジュポンド、リー、ポルトルの三人の案内役軍人が同車したのみで、村垣は何だか物足りない感じがした。

 三時間足らずで、列車は五十キロ離れたボルチモアに着いた。その時の歓迎がまた大変だった。儀仗兵としてメリーランド州義勇隊、ボルチモア市護衛軍など総出で十七発の祝砲が放たれた。市長、助役、歓迎委員が出迎え、一行を馬車に乗せ行列を成して歓迎式場のメリーランドインスティテュートに向かった。見物人はワシントンの時より数倍多かった。建物の上には日の丸を掲げ、沿道には旗を振る女子と帽子を振る男性が大声を上げて歓迎してくれた。また、警護の騎兵隊、楽団三、四十人が列を成し、消防士がポンプを乗せた消防車と共に前後左右を守りながらパレードを進めた。

 たくさんの花壇に囲まれた歓迎式場に着くと、ここにも見物人が大勢で迎えた。スワン市長は

「私は、大統領の旨を奉じ、ボルチモア二十五万人を代表して、皆様を歓迎したいと思います。皆さまが当市に来られたことを感謝し、両国の利益を増進し、その商業的繁栄を希望するものであります」

と、いかにも市長らしい歓迎演説をした。

一行は、その後、市内観光地を廻り、ホテルに着くと、ここでは消防隊のポンプ放水などの演習を見せた。

また、夜には花火を打ち上げ、一行を楽しませた。

 

 四月二十一日、特別列車に乗り、ボルチモアを出発しフィラデルフィアに向かった。途中、バルチモアとの中間付近のサスケハナ河で体験したフェリーは衝撃的であった。汽車が止まったので、見ると大きな川があって橋がない。村垣は船に乗り換えるのだろうと汽車から降りる支度を始めると車掌が

「そのまま乗って行きますか、それとも船で行きますか」

と、聞いてきた。

「何を言うのか。このまま汽車に乗っておったら、橋もないのに川を渡れず向こう側へ行けぬのではないか。おかしなことをいう奴じゃ。船に乗り換えるに決まっておろうが」

 しかし、そのまま待っていると、なんと汽車ごと船に乗せ、川を渡ったのだった。対岸に到着すると、レールをつないで又すぐ走り出した。その不思議なことは驚くばかりである。汽車の中で眠っていた者は、川を渡ったことに気付かなかったろうと日記に残している。

 その日、フィラデルフィアでも大勢の歓迎をうけ、コンチネンタルホテルで一泊した。翌日は演芸場に行って舞台劇を観賞。言葉は判らなかったが、動きの多い喜劇だったので、ストーリーはほぼ理解できた。

サスケハナ河フェリーのスケッチ