小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その49

 四月二十七日、一行はフィラデルフィアを出発し、船と列車を乗り継ぎニューヨークに着いた。

マンハッタン島の南端の波止場バッテリーパークからブロードウェイを馬車でパレードすることになった。その圧倒的な歓迎市民の数はこれまで各地で慣れてきたはずの彼らにとっては驚く光景だった。それまでの歓迎は多くて数千人くらいであったが、ここニューヨークの当時の新聞では約八十万人と報道されている。

 約六千五百人の兵士が警備する中、三十台の馬車に乗ってブロードウェイの街中をパレードする日本人の姿は、アメリカ人を魅了させた。羽織姿に丁髷(ちょんまげ)、腰には大小の二刀を差して威儀を正したサムライの姿はアメリカ人にどう写って見えたのであろう。その使節団を一目見ようと大群衆が日米の国旗が掲げられた沿道を埋め尽くしていた。

 夜にはニューヨーク市主催のレセプションが、メトロポリタンホテルで開かれた。また、市内では使節団に関する演劇や歌が上演されたり、土産物が売られたり、「Japanese」と名付けられたカクテルが人気となり、とにかくこの年のニューヨークの夏は「日本」であふれかえったという。

 

 そんな中、日本の使節団にひとりのアイドルがいた。名前を立石斧次郎という。斧次郎は使節団の通辞、立石得十郎の養子で通訳の見習いとして同行を許されていたのだった。小柄で満月のようなふっくらとした丸顔の陽気で闊達な十七歳の少年であった。

 横浜で現在の関税に当たる役所で雑用に従事して、語学の才能に恵まれていた為、他の随行者と違い、かなり外国人慣れしていた。斧次郎は幼名が米田為八だったため、同行者は斧次郎を「ため」と呼んでいた。それがアメリカ海軍士官には「トミー」と聞こえたことから、この愛称でアメリカ人から親しくされていた。

 現地のアメリカ人に溶け込もうと機関士や消防士の中に積極的に飛び込んだり、舞踏会で女性に冗談を言って笑わせたり、パーティではピアノの伴奏でアメリカと日本の歌を唄って喝采を浴びたようだ。

 パレードでは他の使節団が無表情でいる中、彼ひとりは女性からもらったハンカチを笑顔で振り、投げキッスなどすると、その姿にアメリカ女性は大熱狂したという。

 この事を面白おかしく連日報道され、英語が出来、快活で愛想がよく、気取らず社交的な少年と描写されたトミーは雑誌の表紙を飾り、当時の女性の人気者になった。後に「トミー・ポルカ」という歌まで作られたほどだった。なおトミーこと斧次郎は、使節団と一緒に帰国はせず、二か月ほどそのままアメリカに残ったようだ。

 

 しかし、アメリカの実情はそんな、そんな陽気なものではなかった。共和党リンカーンを大統領候補に指名し、南部分離独立が現実の問題として、内戦が起こるかもしれないという恐怖がアメリカ全土を覆っていた。事実、翌年の1861年から五年間、黒人奴隷問題が端を発し、南北戦争が勃発するのであった。今回の異常とも思えるアメリカ人の歓迎ぶりは、不思議な服を着た旅行者を熱狂的に歓迎することで、やはり、この危機的状況から現実逃避したいという気持ちの表れではなかったのか。

 

 五月九日、そろそろ、ニューヨークを出立する日が近づいてきたが、新見、村垣、小栗の三人は、ペリーの未亡人の家に寄るよう勧められた。その家は美しい四階建てで、彼らを迎えたのは、威厳のある物静かな老婆だった。息子は海軍中尉で航海中とのことだった。娘や孫も挨拶に出てきた。マシュー・ペリーは日米親和条約を締結し翌年アメリカに帰国したが、二年前の三月に六十三歳で病気を患い亡くなったと云う。家の中には、日本でもらった品や土産品などが飾られていた。

 ペリーは日本の鎖国をひらき条約を結んだ重要な人物という話をすると、老婆は涙ぐんでいた。

 五月十二日、欧米の先進性を物語る土産品として、ミシン、医療器具、武器、辞書、学術書などを購入した。また、珍しい野菜や花の種も数多く持ち帰ることにした。

 今回、幕府では旅費として使節団に六万両(約八万ドル)を持参させたが、実際の滞在費約十万ドルはすべてアメリカ側が負担してくれた。

 村垣は、パナマに着いた頃から、ジュポンド大佐には何度も幕府で用意した旅費で支払うと交渉していたが、あくまで大統領命令でアメリカ側の負担を譲らなかった。仕方なく、日本に帰国した際、改めてお礼をするとして話を終えた。

 

 当時のニューヨークの新聞には、「日本人がアジアの他の民族と比較して、より優れた文化と組織をもっているということが明らかになった。」と書いている。新見達一行は、心より感謝し ジュポンド大佐へ最後の挨拶をした。世話になった三人の軍人には、それぞれ日本の白鞘刀を贈り、カス長官へはお礼の手紙を託した。

ニューヨーク 歓迎パレード