小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その50 最終話

 使節団帰国

 

 五月十三日、いよいよ、ナイヤガラ号に乗船しニューヨーク港を出帆した。帰国ルートは大西洋からアフリカ喜望峰を廻り香港経由で日本に向かう事とした。

五月二十八日、セントビンセント島ベネズエラの北)に寄り薪や水を補給した。しかし、現地の人々は日本人を見て大いに恐れ、建物のかげや家の中に逃げ込む。日本人を知らないから無理もないと思った。

 六月二十二日、アフリカ、アンゴラのロアンダ港に寄港。飲み水の量が残り少なかったので、大いに助かった。しかも、港には魚類が多く、久しぶりに船から鯛を釣って醤油はなかったが刺身で食べた。鯛を見て改めて日本が恋しくなる程の望郷感だった。しかし、村垣は港で異様な光景を目にした。

 数人の黒人が首に鎖でつながれ、重荷を負わされているのを見たのだ。鎖の先端はポルトガル人男性に握られ、右手に鞭を持っていた。黒人たちが牛のように扱われるのを見て非常にショックを受けた。

 同行したアメリカ軍人から話を聞くと、ここでの黒人は一人あたり十から二十ドルで売買され、アメリカ南部に奴隷として供給されているとの事。欧米人からみると、彼らは色の黒い猿としか見ていないようだ。どうしようもない怒りと悲しみが皆の心に過ぎった。

 

 七月十日、アフリカ、ケープタウン 喜望峰を通過。七月なのに寒さで火鉢のそばを離れられない。

八月十六日、ジャワ(ジャカルタ) アンエル港に投錨。喜望峰は寒く厚手の羽織を着ていたのに、ここは酷暑甚だしい。殆ど赤道直下である。

 ここには、オランダ領があり日本とは通商国であったため、総督に面会を申し入れたところ、快く歓迎すると返事があり、軍隊の出迎えをしてくれた。高官から食事が振る舞われた。日本人の好みを知っているのか、久しぶりに食事が皆の口にあった。何より嬉しかったのは、その夜ホテルに泊まり、入浴出来たことだった。また、オランダ人が日本の醤油を現地の商人に卸していた為、一行は争うように買い漁った。日本人にとってそれ程、醤油はありがたかったのだ。

 

 九月十日、香港に寄港。久しぶりに大勢の東洋人に逢い、街中のあちこちに慣れ親しんだ漢字が書かれた看板をみただけで、なぜか日本に帰ったような気分がした。 

しかし、この頃の香港は、完全にイギリスの植民地化されていた。この島は二十年前のアヘン戦争でイギリスに敗北した後、イギリスに占領され中国の土地なのに、白人男性が現れると中国人が道端に逃げるように移動する。

 中国人は日本人を見ようと通りに群がったが、彼らを追い払おうとして、イギリスの警備員が突然鉄の棍棒で彼らを殴った。これを見て、村垣は日米和親条約を結んでおいて、本当に良かったと実感した。あのまま、イギリスとまともに戦争をして、もし負けていれば日本も完全に清や香港のように植民地になっていたと思うと恐ろしかった。

 

 九月十八日、香港を出港、二十日、台湾を望む、二十三日、琉球諸島を望む。

九月二十七日、伊豆七島が見え、はるか先に富士山が耀いて見えた。皆が歓喜の声を上げた。

九月二十八日、横浜に着く。従者等を下船させ、船はそのまま品川に碇泊した。艦員に別れを告げ、三使は築地軍艦操練所へ到着し、一時帰宅した。凡そ十か月に及んだが、任務を無事成し遂げた。

九月二十九日、新見と村垣・小栗は、江戸城西丸に登城して将軍家茂に拝謁し、復命した。

 副使村垣範正の遣米使節の日記はここまでである。新見たちがどのように報告したかは記されていない。

しかし、将軍家茂は実のところ、アメリカの情勢、文化、技術力などあまり興味がなかったと思われる。なぜならば、井伊直弼が殺害された以降、彦根藩徳川御三家水戸藩とは反目し、幕府の権威は大きく失墜し、それどころではなかったのだ。

 国の情勢はますます渾沌とし、鎖国攘夷派が更に倒幕に走った。そんな中、将軍家茂はあくまで徳川幕府存続が第一であり、公武合体を唱え朝廷との絆を深めるため、孝明天皇の妹和宮との婚約を成立させたのであった。(実際は攘夷派の孝明天皇が幕府の外交政策に怒り、婚約を一年延期した)

 

 したがって、遣米使節団の多くは、先進国の技術、知識などを吸収したにも拘らず、誰もがそれを披露し、アメリカの進んだ文明を語ろうとしなかった。ただふたりを除いては。

 一人が勝麟太郎である。勝の考えは幕府側の立場でありながら、幕府も藩も身分も無くし、有能な人物が新しい政治の基で日本国をひとつにし、日本を欧米並みに強くすることである。

 もうひとりは、小栗忠順である。ただ、勝麟太郎と大きく違うのは、あくまで徳川幕府をより磐石にするために、アメリカの政治・軍備・商業・産業・産業を導入し、富国強兵を目指すという考えだった。しかし、残念なことに、頭の固い幕府の古参でそれを充分理解する者は皆無に等しかった。

 

 一方、アメリカも、あれ程、日本人を大歓迎したにも拘わらず、南北戦争がはじまると、日本の使節団のことや日米通商修好条約など、すっかり忘れ去られてしまったのだ。

  万延という元号の年はわずか一年足らずである。万延は、安政七年三月三日に桜田門外の変があり、江戸城の火災が続いた中、災異(凶事)を断ち切る為、孝明天皇の強い意向により、安政七年三月十八日に於いて改元された。しかし、翌年の二月十九日の文久改元されるまでのたった十一ヶ月の期間である。

 

 この万延元年(1860年)に、遣米使節団は十か月もかけて、日本人としては初めての渡米及び地球を一周したのである。しかし、この偉業も日本とアメリカの夫々の国内紛争という暗い時代の陰となり、彼らが日本に影響をもたらす様なことはなく、殆ど歴史の表舞台にはでなかったのである。実にタイミングが悪かったのだ。たぶん大半の日本人が学んだことは、勝海舟と咸臨丸の荒波の中の航海ぐらいであろう。

 

 その後、本当の意味で先進国の文明や技術を視察と調査する目的で渡米したのは、十一年後、明治六年の岩倉具視使節団であった。しかし、あの熱烈な歓迎はなく、アメリカ人の態度も冷ややかだったと云う。

 

 

  文久元年(1861年)、木村喜毅は江戸向島に向かっていた。アメリカから咸臨丸で帰国した後、井上清直と共に軍艦奉行の職務に復帰し、幕府海軍の仕事に従事していた。この年の五月には軍制掛となり、事実上の幕府海軍長官となった。長崎海軍伝習所以降、順調に出世している。

 向島には、岩瀬忠震の屋敷があった。屋敷と言っても、築地の頃の屋敷と比べ、随分寂しい気がする。井伊直弼の意に反してハリスと勝手に条約を交わし、その後蟄居を命じられていた。井伊直弼が殺害され、しばらくして蟄居は許されたものの体調を崩し、向島に移り住み隠居として過ごしていたが、この七月、妻のまつ江に見守られ息を引き取ったのだった。享年四十四という若さだった。

 木村は、その四十九日法要のため足を運んだのだった。葬儀の際は、勝麟太郎井上清直やハリスも顔を見せていたが寂しい葬儀であった。そしてこの日は、僅かな身内だけの法事であった。

 法事が終り、改めて木村が仏壇に手を合わせていると、まつ江が後ろでそっとお茶を出した。以前、築地の屋敷で岩瀬と飲み明かした頃とは違い、あきらかに憔れたまつ江の顔を見た木村は、俄かに胸に熱いものが込み上げてきた。

「奥方様、何とも寂しい年になってしまいましたね」 

「ええ、でも木村様がこられて、旦那様も喜んでいると思います。実は、木村様にお渡しするよう旦那様から預かっているものがあります」

そう言って、まつ江は巻物をひとつ木村に差し出した。どうやら掛け軸のようであった。

 岩瀬は、以前に椿(つばき) 椿山(ちんざん)という絵師から書画を学んでおり、書斎で何枚も描いていたのだ。木村が手に取った掛け軸には、上部に藤、下部には芍薬(しゃくやく)を配しバランスのとれた優れた構図になっており、それぞれの花びらや葉は繊細な色使いで丁寧に彩色が施されていた。この絵の右上には「辛酉花月(しんゆうかげつ)作」と書かれていた。

 木村は数年前、岩瀬の座敷で、芍薬(しゃくやく)の絵が描かれた掛け軸を眺めたことを思い出した。と同時に盃を持って笑っている岩瀬の顔が懐かしくもあり、悲しくもあった。

この岩瀬忠震筆『藤に芍薬』は現在、愛知県設楽原歴史資料館に収蔵されている。

                                     完

 岩瀬忠震筆『藤に芍薬