まつもと物語 その3

 街の銭湯

 

 ふたりは別れると、田岡は城西町にある自宅に向かった。

田岡の家は、以前祖父が米問屋をやっていた頃、松本駅南側の博労町(ばくろちょう)(本庄一丁目)という町に大きな店舗兼住居を構えていたが、終戦後、道路拡幅のため市から移転命令があった。それを機に病身となった祖父や母の再婚もあって、その米問屋の店をたたみ住居を引き払って今の城西町に移転してきた。

 

 母は祖父の実子で女ばかり五人姉妹の末子であるが、上の四人は他家に嫁にいったり病死しているので、戦争で亡くなった安夫の父も田岡家に婿養子としてきた。祖父は半ば強引に母を松本高等女学校(蟻ケ崎高等学校)に入学させた。何故なら、現在は男女共学だが昭和50年までは女子高であり、母が入学したころはイイトコの令嬢だけが通うお嬢様学校と呼ばれていたらしい。

 この蟻ケ崎高校も歴史が深い。明治になって、まだ女子が学問を目指すことを重んじていない時代に、米国で教育を受けた津田梅子が女子大学の津田塾を設立した年が明治33年であり、その翌年34年に日本で初めての旧制女子専門学校として、「日本女子大学」が東京文京区で開学した。この松本市においても逸(いち)早く同年に「松本高等女学校」として開校したのが、現在の松本蟻ケ崎高校の前身である。

 

 三男坊だった新しい父も、母と再婚する時は祖父の養子として田岡家に婿としてきた。その後、祖父の資金援助もあり城西町に新築した。義父は家族皆にとても優しかった。特に安夫に対しても進学を奨め、合格した時は誰よりも喜んでくれた。

義父は大手家電メーカーの製品を街の商店に卸す仕事をしている。ここ最近は、テレビや電気洗濯機の販売が好調で、給金もそこそこ良くなったらしい。

 この昭和34年という年は、戦後の日本として高度経済成長期でGDP(実質経済成長率)が10%以上を達成し、後に「岩戸景気」とよばれる好景気であった。その為、「三種の神器」と呼ばれた家庭用電気機器(白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機)が全国的に普及し、父の会社もその波に乗っていたようだ。

 

 田岡安夫は家に着き「ただいま」と玄関の上がり框(かまち)を跨(また)ぐと、居間から十五歳下の弟が迎えにでてきた。

「お帰りなさい、お兄ちゃん」

と言って抱きついてきた。弟の健(たけし)はこのずいぶん年上の兄が大好きである。小さい頃から遊び相手になってあげていたので、実の父より懐いている。

「健、どうしたんだ? その手は」

健の手の甲や手首にアカチンが塗られてあった。

「今日、学校の帰りにみんなとチャンバラごっこして、まさる君にやられた。でも、もうそんなに痛くないよ」

 この頃の男の子たちの遊びと言えば、六十㎝くらいの長さで棒の刀をつくり、それを振り回すチャンバラごっこだった。それは、その頃の娯楽として時代劇映画が流行っており、東映スターの侍が悪者を斬るシーンがかっこ良かったからだ。

 

「今ね、テレビでお笑い三人組を観ていたところだよ」

と言いながら、安夫の手を引っ張りながら居間に連れてきた。最近、白黒テレビを父が会社から少し安く買ってきたので、居間にテレビが設置された。家にテレビが運ばれてきた時は弟の健が手を叩いて喜んだ。テレビが一般家庭に普及してきたといっても、まだとても高額で実際置いてある家庭は一割程度だった。14型で一台7万円くらいだ。公務員の平均給料が月1万3千円くらいだから簡単には買えない。だから、近所の子供たちは、夕方になるとテレビのある家に押しかけてきた。

人気だったのはNHKの「チロリン村とくるみの木」という指人形の番組だ。そのほかに「月光仮面」「とんま天狗」「七色仮面」「まぼろし探偵」など毎週欠かさず見ていた。

松本市にもテレビが普及されてきたので、昨年の昭和33年に美ヶ原王ヶ頭にテレビ塔が建設され、NHKとSBC(信越放送)が開局された。

 

「安夫、夕ご飯はもう食べたの? 用意する?」  

と母が台所から声をかけた。

「いや、同僚の宮下と飲んできたから、いらない。 あっ、でもやっぱり何か少し食べたいな」

すると、母は、

チキンラーメンなら、一つ残っているわよ。今、用意してあげるから待ってなさい」

「ああ、助かる。タマゴあったらひとつ落としてね」

ニ年前に日清から発売されたこの即席麵は世界初のインスタントラーメン「即席チキンラーメン」であり、発売以降、手軽にラーメンが食べれるということで爆発的な人気だった。

「それ食べたら、健を銭湯に連れてってあげて」

自宅にも風呂があるが、小さくて狭いので、ほとんど使わない日が多い。それにお湯の出もよくない。だから、安夫たちは近所の銭湯にいく事を楽しんでいる。

 

安夫は、健を連れて近所にある「さつき湯」という銭湯に向かった。

赤いポストの角を曲がると、入り口に寺のような破風の小屋根が目立つ。昔、僧侶達が身を清めるため寺院に「浴堂」を設置したことが銭湯の起源らしい。だから銭湯の玄関の屋根は寺院の形を残していると、安夫は誰かに聞いたことを思い出した。

 

 入り口には、右が青字「男」、左が赤字「女」と書かれた大きなのれんが掛かっている。簀(す)の子の上で下駄を脱ぎ、それを木札の付いた下駄箱に入れ、摺りガラスの付いた木製戸を開けると番台に座っていたおばちゃんが「いらっしゃい」と微笑んでくれた。番台にはなぜか座布団に座った福助の置物がある。そして料金表に大人十七円、小人七円、洗髪十一円と書かれていた。壁には「孔雀城の花嫁」と赤いタイトル文字が 描かれ、総天然色・主演大友柳太朗・美空ひばりと書かれた東映の映画ポスターが貼られていた。

 脱衣所には竹で編んだ大きな脱衣籠が床に置いてある。脱衣棚もあるが、安夫は健といっしょに脱いだ服を籠に入れた。浴場に入るといきなり正面のきれいな絵が目に入った。富士山とその下に松原が広がる海と帆掛け船が描かれており、見慣れているはずだが何度みてもいい。

 健がいきなり湯舟に入ろうとすると、知らない爺さんが「こら、からだを洗ってから入れ」と叱った。あわてて、安夫に身体を流してもらい、ふたりは一緒にタイル貼りの湯舟にざぶっと入った。大きくお湯があふれて縁(ふち)を流れた。

「ふう~、気持ちがいい!」

たっぷりとお湯が張られている大きな浴槽は最高に心地よかった。家の小さな風呂とは段違いだ。何度も洗っては浴槽に入りを繰り返して、石鹸で泡をつくって遊んでいる健の背中を流してあげていると、近くの男の子が急に「おかあちゃ~ん、お父ちゃんがもう出るって!」と大声をあげた。すると、隣の女湯のほうから「はいよ~」と返事が聞こえた。この家族が出口で待ち合わせする合図だろう。

 その時、ガラッと洗い場のガラス戸が開き、いかつい顔のお兄さんが入ってきた。背中や腕に青黒い入れ墨が彫ってある。きっと、西堀町の〇〇組のお兄さんだ。この頃は、こういう極道のような人が当たり前のように入ってきた。安夫と健は、もう充分温まったので、早々に上がり湯を掛け脱衣所に戻った。

 

「お兄ちゃん、あれ飲みたい」

と健は湯上りの赤い頬っぺでケースの中の牛乳を指さした。安夫は番台のおばちゃんに小銭を渡し「これ、貰うよ」と言ってコーヒー牛乳を取り出し健に渡した。健は、いっちょ前に腰に手をあてて、ゴクゴクと飲み干した。

 

「お兄ちゃん、気持ちよかったね。明日も来ようね」

と、帰り道に健は手拭いで濡れた髪の毛をこすりながら、無邪気に言った。

「今日ね、隣の正ちゃんとね、フラフープの勝負して、僕のほうが長く回して勝ったんだ。ねえ、すごい?」

そう言ったかと思うと、勝手にひとりで歌いだした。

「た~んぽぽ、た~んぽぽ、ゆら~ゆらと~」歌詞は間違っているが、どうやら学校に「劇団たんぽぽ」がやってきて、児童劇を観たようだ。

 

 家に戻り、四畳半の子供部屋で健を寝付かせると、安夫は居間に入った。義父と母がテレビで皇太子・美智子様の特別番組を見ていた。先日の四月十日、皇太子殿下と正田美智子さん(現在の上皇ご夫婦)がご成婚され、ミッチー・ブームとして大変な話題となっていた。今日も東京・浅草のちょうちん行列で大勢の人がはしゃいでいる画像が流れている。

「義父(おとう)さん、美智子様って本当にきれいで気品のある人ですね」

「そうだな。一般女性を皇室に迎えることは珍しいことだそうだが、確かに素敵な女性だよな」

 皆でテレビを観ていたが、不意に母がふり向いて安夫に言った。

「そうだ、安夫、郷原(ごうばら)の伯祖父(おおおじ)ちゃんが身体こわして寝込んでるらしいよ。お前、悪いけど見舞いがてら様子を見てきてくれないかね。今度の休みは何か予定あるの?」

「いや、大丈夫だよ。敏男おじちゃん、そんなに具合悪いの? じゃあ今度の日曜日に行ってくるよ。でも、だいぶ前に行ったきりだから、おじちゃんの家わかるかなあ」

「それなら、地図を描いておくからお願いね。郷原街道の郷福寺(きょうふくじ)ってお寺の近くまで行けばわかると思うよ」

 

 塩尻市郷原には田岡敏夫という長年大工をしている祖父の弟夫婦が住んでいる。今は塩尻だが、安夫が生まれる前から博労町の祖父の実家のはなれに住んでおり、主に松本地域の寺や神社の大工仕事をしていた。塩尻に移住してからは安夫も小さい頃に何度か母と郷原へ行き、そこで積木をつくってもらい遊んだ記憶がある。 

        昭和34年頃の人気テレビ番組 

    「チロリン村とくるみの木」「月光仮面」「とんま天狗」「七色仮面