小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その50 最終話

 使節団帰国

 

 五月十三日、いよいよ、ナイヤガラ号に乗船しニューヨーク港を出帆した。帰国ルートは大西洋からアフリカ喜望峰を廻り香港経由で日本に向かう事とした。

五月二十八日、セントビンセント島ベネズエラの北)に寄り薪や水を補給した。しかし、現地の人々は日本人を見て大いに恐れ、建物のかげや家の中に逃げ込む。日本人を知らないから無理もないと思った。

 六月二十二日、アフリカ、アンゴラのロアンダ港に寄港。飲み水の量が残り少なかったので、大いに助かった。しかも、港には魚類が多く、久しぶりに船から鯛を釣って醤油はなかったが刺身で食べた。鯛を見て改めて日本が恋しくなる程の望郷感だった。しかし、村垣は港で異様な光景を目にした。

 数人の黒人が首に鎖でつながれ、重荷を負わされているのを見たのだ。鎖の先端はポルトガル人男性に握られ、右手に鞭を持っていた。黒人たちが牛のように扱われるのを見て非常にショックを受けた。

 同行したアメリカ軍人から話を聞くと、ここでの黒人は一人あたり十から二十ドルで売買され、アメリカ南部に奴隷として供給されているとの事。欧米人からみると、彼らは色の黒い猿としか見ていないようだ。どうしようもない怒りと悲しみが皆の心に過ぎった。

 

 七月十日、アフリカ、ケープタウン 喜望峰を通過。七月なのに寒さで火鉢のそばを離れられない。

八月十六日、ジャワ(ジャカルタ) アンエル港に投錨。喜望峰は寒く厚手の羽織を着ていたのに、ここは酷暑甚だしい。殆ど赤道直下である。

 ここには、オランダ領があり日本とは通商国であったため、総督に面会を申し入れたところ、快く歓迎すると返事があり、軍隊の出迎えをしてくれた。高官から食事が振る舞われた。日本人の好みを知っているのか、久しぶりに食事が皆の口にあった。何より嬉しかったのは、その夜ホテルに泊まり、入浴出来たことだった。また、オランダ人が日本の醤油を現地の商人に卸していた為、一行は争うように買い漁った。日本人にとってそれ程、醤油はありがたかったのだ。

 

 九月十日、香港に寄港。久しぶりに大勢の東洋人に逢い、街中のあちこちに慣れ親しんだ漢字が書かれた看板をみただけで、なぜか日本に帰ったような気分がした。 

しかし、この頃の香港は、完全にイギリスの植民地化されていた。この島は二十年前のアヘン戦争でイギリスに敗北した後、イギリスに占領され中国の土地なのに、白人男性が現れると中国人が道端に逃げるように移動する。

 中国人は日本人を見ようと通りに群がったが、彼らを追い払おうとして、イギリスの警備員が突然鉄の棍棒で彼らを殴った。これを見て、村垣は日米和親条約を結んでおいて、本当に良かったと実感した。あのまま、イギリスとまともに戦争をして、もし負けていれば日本も完全に清や香港のように植民地になっていたと思うと恐ろしかった。

 

 九月十八日、香港を出港、二十日、台湾を望む、二十三日、琉球諸島を望む。

九月二十七日、伊豆七島が見え、はるか先に富士山が耀いて見えた。皆が歓喜の声を上げた。

九月二十八日、横浜に着く。従者等を下船させ、船はそのまま品川に碇泊した。艦員に別れを告げ、三使は築地軍艦操練所へ到着し、一時帰宅した。凡そ十か月に及んだが、任務を無事成し遂げた。

九月二十九日、新見と村垣・小栗は、江戸城西丸に登城して将軍家茂に拝謁し、復命した。

 副使村垣範正の遣米使節の日記はここまでである。新見たちがどのように報告したかは記されていない。

しかし、将軍家茂は実のところ、アメリカの情勢、文化、技術力などあまり興味がなかったと思われる。なぜならば、井伊直弼が殺害された以降、彦根藩徳川御三家水戸藩とは反目し、幕府の権威は大きく失墜し、それどころではなかったのだ。

 国の情勢はますます渾沌とし、鎖国攘夷派が更に倒幕に走った。そんな中、将軍家茂はあくまで徳川幕府存続が第一であり、公武合体を唱え朝廷との絆を深めるため、孝明天皇の妹和宮との婚約を成立させたのであった。(実際は攘夷派の孝明天皇が幕府の外交政策に怒り、婚約を一年延期した)

 

 したがって、遣米使節団の多くは、先進国の技術、知識などを吸収したにも拘らず、誰もがそれを披露し、アメリカの進んだ文明を語ろうとしなかった。ただふたりを除いては。

 一人が勝麟太郎である。勝の考えは幕府側の立場でありながら、幕府も藩も身分も無くし、有能な人物が新しい政治の基で日本国をひとつにし、日本を欧米並みに強くすることである。

 もうひとりは、小栗忠順である。ただ、勝麟太郎と大きく違うのは、あくまで徳川幕府をより磐石にするために、アメリカの政治・軍備・商業・産業・産業を導入し、富国強兵を目指すという考えだった。しかし、残念なことに、頭の固い幕府の古参でそれを充分理解する者は皆無に等しかった。

 

 一方、アメリカも、あれ程、日本人を大歓迎したにも拘わらず、南北戦争がはじまると、日本の使節団のことや日米通商修好条約など、すっかり忘れ去られてしまったのだ。

  万延という元号の年はわずか一年足らずである。万延は、安政七年三月三日に桜田門外の変があり、江戸城の火災が続いた中、災異(凶事)を断ち切る為、孝明天皇の強い意向により、安政七年三月十八日に於いて改元された。しかし、翌年の二月十九日の文久改元されるまでのたった十一ヶ月の期間である。

 

 この万延元年(1860年)に、遣米使節団は十か月もかけて、日本人としては初めての渡米及び地球を一周したのである。しかし、この偉業も日本とアメリカの夫々の国内紛争という暗い時代の陰となり、彼らが日本に影響をもたらす様なことはなく、殆ど歴史の表舞台にはでなかったのである。実にタイミングが悪かったのだ。たぶん大半の日本人が学んだことは、勝海舟と咸臨丸の荒波の中の航海ぐらいであろう。

 

 その後、本当の意味で先進国の文明や技術を視察と調査する目的で渡米したのは、十一年後、明治六年の岩倉具視使節団であった。しかし、あの熱烈な歓迎はなく、アメリカ人の態度も冷ややかだったと云う。

 

 

  文久元年(1861年)、木村喜毅は江戸向島に向かっていた。アメリカから咸臨丸で帰国した後、井上清直と共に軍艦奉行の職務に復帰し、幕府海軍の仕事に従事していた。この年の五月には軍制掛となり、事実上の幕府海軍長官となった。長崎海軍伝習所以降、順調に出世している。

 向島には、岩瀬忠震の屋敷があった。屋敷と言っても、築地の頃の屋敷と比べ、随分寂しい気がする。井伊直弼の意に反してハリスと勝手に条約を交わし、その後蟄居を命じられていた。井伊直弼が殺害され、しばらくして蟄居は許されたものの体調を崩し、向島に移り住み隠居として過ごしていたが、この七月、妻のまつ江に見守られ息を引き取ったのだった。享年四十四という若さだった。

 木村は、その四十九日法要のため足を運んだのだった。葬儀の際は、勝麟太郎井上清直やハリスも顔を見せていたが寂しい葬儀であった。そしてこの日は、僅かな身内だけの法事であった。

 法事が終り、改めて木村が仏壇に手を合わせていると、まつ江が後ろでそっとお茶を出した。以前、築地の屋敷で岩瀬と飲み明かした頃とは違い、あきらかに憔れたまつ江の顔を見た木村は、俄かに胸に熱いものが込み上げてきた。

「奥方様、何とも寂しい年になってしまいましたね」 

「ええ、でも木村様がこられて、旦那様も喜んでいると思います。実は、木村様にお渡しするよう旦那様から預かっているものがあります」

そう言って、まつ江は巻物をひとつ木村に差し出した。どうやら掛け軸のようであった。

 岩瀬は、以前に椿(つばき) 椿山(ちんざん)という絵師から書画を学んでおり、書斎で何枚も描いていたのだ。木村が手に取った掛け軸には、上部に藤、下部には芍薬(しゃくやく)を配しバランスのとれた優れた構図になっており、それぞれの花びらや葉は繊細な色使いで丁寧に彩色が施されていた。この絵の右上には「辛酉花月(しんゆうかげつ)作」と書かれていた。

 木村は数年前、岩瀬の座敷で、芍薬(しゃくやく)の絵が描かれた掛け軸を眺めたことを思い出した。と同時に盃を持って笑っている岩瀬の顔が懐かしくもあり、悲しくもあった。

この岩瀬忠震筆『藤に芍薬』は現在、愛知県設楽原歴史資料館に収蔵されている。

                                     完

 岩瀬忠震筆『藤に芍薬

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その49

 四月二十七日、一行はフィラデルフィアを出発し、船と列車を乗り継ぎニューヨークに着いた。

マンハッタン島の南端の波止場バッテリーパークからブロードウェイを馬車でパレードすることになった。その圧倒的な歓迎市民の数はこれまで各地で慣れてきたはずの彼らにとっては驚く光景だった。それまでの歓迎は多くて数千人くらいであったが、ここニューヨークの当時の新聞では約八十万人と報道されている。

 約六千五百人の兵士が警備する中、三十台の馬車に乗ってブロードウェイの街中をパレードする日本人の姿は、アメリカ人を魅了させた。羽織姿に丁髷(ちょんまげ)、腰には大小の二刀を差して威儀を正したサムライの姿はアメリカ人にどう写って見えたのであろう。その使節団を一目見ようと大群衆が日米の国旗が掲げられた沿道を埋め尽くしていた。

 夜にはニューヨーク市主催のレセプションが、メトロポリタンホテルで開かれた。また、市内では使節団に関する演劇や歌が上演されたり、土産物が売られたり、「Japanese」と名付けられたカクテルが人気となり、とにかくこの年のニューヨークの夏は「日本」であふれかえったという。

 

 そんな中、日本の使節団にひとりのアイドルがいた。名前を立石斧次郎という。斧次郎は使節団の通辞、立石得十郎の養子で通訳の見習いとして同行を許されていたのだった。小柄で満月のようなふっくらとした丸顔の陽気で闊達な十七歳の少年であった。

 横浜で現在の関税に当たる役所で雑用に従事して、語学の才能に恵まれていた為、他の随行者と違い、かなり外国人慣れしていた。斧次郎は幼名が米田為八だったため、同行者は斧次郎を「ため」と呼んでいた。それがアメリカ海軍士官には「トミー」と聞こえたことから、この愛称でアメリカ人から親しくされていた。

 現地のアメリカ人に溶け込もうと機関士や消防士の中に積極的に飛び込んだり、舞踏会で女性に冗談を言って笑わせたり、パーティではピアノの伴奏でアメリカと日本の歌を唄って喝采を浴びたようだ。

 パレードでは他の使節団が無表情でいる中、彼ひとりは女性からもらったハンカチを笑顔で振り、投げキッスなどすると、その姿にアメリカ女性は大熱狂したという。

 この事を面白おかしく連日報道され、英語が出来、快活で愛想がよく、気取らず社交的な少年と描写されたトミーは雑誌の表紙を飾り、当時の女性の人気者になった。後に「トミー・ポルカ」という歌まで作られたほどだった。なおトミーこと斧次郎は、使節団と一緒に帰国はせず、二か月ほどそのままアメリカに残ったようだ。

 

 しかし、アメリカの実情はそんな、そんな陽気なものではなかった。共和党リンカーンを大統領候補に指名し、南部分離独立が現実の問題として、内戦が起こるかもしれないという恐怖がアメリカ全土を覆っていた。事実、翌年の1861年から五年間、黒人奴隷問題が端を発し、南北戦争が勃発するのであった。今回の異常とも思えるアメリカ人の歓迎ぶりは、不思議な服を着た旅行者を熱狂的に歓迎することで、やはり、この危機的状況から現実逃避したいという気持ちの表れではなかったのか。

 

 五月九日、そろそろ、ニューヨークを出立する日が近づいてきたが、新見、村垣、小栗の三人は、ペリーの未亡人の家に寄るよう勧められた。その家は美しい四階建てで、彼らを迎えたのは、威厳のある物静かな老婆だった。息子は海軍中尉で航海中とのことだった。娘や孫も挨拶に出てきた。マシュー・ペリーは日米親和条約を締結し翌年アメリカに帰国したが、二年前の三月に六十三歳で病気を患い亡くなったと云う。家の中には、日本でもらった品や土産品などが飾られていた。

 ペリーは日本の鎖国をひらき条約を結んだ重要な人物という話をすると、老婆は涙ぐんでいた。

 五月十二日、欧米の先進性を物語る土産品として、ミシン、医療器具、武器、辞書、学術書などを購入した。また、珍しい野菜や花の種も数多く持ち帰ることにした。

 今回、幕府では旅費として使節団に六万両(約八万ドル)を持参させたが、実際の滞在費約十万ドルはすべてアメリカ側が負担してくれた。

 村垣は、パナマに着いた頃から、ジュポンド大佐には何度も幕府で用意した旅費で支払うと交渉していたが、あくまで大統領命令でアメリカ側の負担を譲らなかった。仕方なく、日本に帰国した際、改めてお礼をするとして話を終えた。

 

 当時のニューヨークの新聞には、「日本人がアジアの他の民族と比較して、より優れた文化と組織をもっているということが明らかになった。」と書いている。新見達一行は、心より感謝し ジュポンド大佐へ最後の挨拶をした。世話になった三人の軍人には、それぞれ日本の白鞘刀を贈り、カス長官へはお礼の手紙を託した。

ニューヨーク 歓迎パレード

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その48

 四月二十四日、一行は造幣局を訪れた。小栗は造幣局長のスノーデンと挨拶を交わすと、小栗は上目遣いで局長の顔をみて、早速、話を切り出した。

「ワシントンから既に連絡が入っていると思いますが、こちらでドル貨幣と日本の一分銀貨の分析実験を行なって欲しいのですが宜しいですかな」

「それには準備が必要です。すぐと云う訳にはいきませんので、暫くお待ちください」

「結構です。我々は今夜コンチネンタルホテルに泊まっております。実験の日時が決まれば、いつでも知らせに来てください」

造幣局の中を一通り見学すると、その日はホテルに帰った。

造幣局の一室でスノーデン局長は、部下のロバート・モリスとジェイス・ロングエーカーを呼んだ。

「モリス、日本人が貨幣の分析実験を見たいと言っているが、明日、彼らに付き合ってやれるか。多分、分析の方法を知りたいのだろう。忙しいのに悪いなあ」

「はい、わかりました。一、二時間で済むと思います」 

モリスは気軽に答えた。すると、隣にいたロングエーカーが

「ワシントンの役所から、その話は聞きましたが日本人の中にオグリという者がいて、かなりしつこい性格だから気をつけろと言っていました。まあ、たぶん、大丈夫でしょう。それでは準備しておきます」

 

 その夜七時過ぎてスノーデン局長がホテルに訪ねてきた。

「遅くなりましたが、準備が整いましたので、明日の朝八時に造幣局にお越し願いますか」

「勿論です。では明日改めて伺いますので、宜しくお願いします」

話が終ると少し肥満気味のスノーデン局長は額の汗をかるく拭いながら帰って行った。

 

 目付小栗忠順には、今回の渡米において批准書交換とは別にもうひとつの重要な任務を担っていたのだ。それは日本国内から大量の金が海外へ流出しており、その不平等な金貨交換を正すことだった。

その発端は、今回のアメリカ行きが決まった際、横浜滞在中だったブルック大尉にアメリカについて事前講義を受けていた時の事である。

「私はあなた方日本人がアメリカに渡って、色々な最先端の技術や文化などを学習し将来の日本のために役立てて頂きたいと思っています。私はその為のお手伝いをするつもりです。どうか一日も早く日本人が欧米と肩を並べられる国際人になって頂きたいのです。

 しかし、残念ながら、日本人が金の価値について正しい知識がないため、我らアメリカ軍人の中にも、ドルと小判のレートの差を利用して不当に金儲けに走る輩も少なくありません。これによって、日本国内から大量の金が海外へ流出していると聞いています。このことに私は随分心を痛めております。小栗殿、アメリカに行った際は、是非、この不平等な金貨交換を正して貰うよう交渉して下さい」

 

 小栗がこのことを老中に報告すると、実際、金の大量流出に悩んでいた幕府は直ぐに小栗に対し、アメリカとの金貨交渉を命じた。この頃、幕府は対策として、一枚当たりの品位は変わらないが、大きさと重量を三分の一にした小型の「万延小判」と「万延一分金」を発行して、当面の金の濫出を食い止めていたのだ。

 

ドルと小判のレート差による儲けのからくりとは、次の通りである。

ドル銀貨四枚  → 日本銀貨十二枚と交換 (ドル銀貨一枚=日本銀貨三枚) 日本で両替

日本銀貨十二枚 →  日本小判三枚と交換 (日本銀貨四枚=小判一枚)    日本で両替

日本小判三枚  → ドル銀貨十二枚と交換 (小判一枚=ドル銀貨四枚) 上海・香港で両替

 

 結果的に元手のドル銀貨四枚が両替を繰り返していくとドル銀貨十二枚となり、なんと両替するだけで元手の三倍になってしまうのだ。それにより、アメリカ軍人は差額で莫大な利益を得て、日本の小判(金)はどんどん海外へ流出してしまう最悪な事態となっていたのだ。

 

 この原因となったのは、日米和親条約により下田に駐在するようになった初代アメリカ領事タウンゼント・ハリスが、日米通貨交渉を本格的に開始し、幕府との間で「同種同量交換」が国際的な通例として強引に主張したことからだ。その結果、単純に重さだけでドル銀貨一個と一分銀貨三個と交換することを、含有率を知らない日本側の役人は認めてしまったのだ。実は、そのハリスもこの差額利益を利用して、かなりの額を両替し私財を増やしたと自身の日記に書いている。

 

 四月二十五日朝八時、一行は再び、造幣局を訪れた。いよいよ分析実験が始まった。早速、モリスは両国通貨の一部銀とドル銀貨の一部を削り取り、そこに用意してあった秤(はかり)にかけた。それを見て小栗からすぐ異議が出された。

「これくらいの小片で分析実験したのでは駄目であろう。一分銀一枚、ドル銀貨一枚をそれぞれ丸ごと分析すべきだ。そうでないと、正確な銀の含有率は出せないではないか」

「それには相当時間がかかりますが、宜しいですか」

「承知している。私は最後まで立ち会うから、きちんとやって頂きたい」

 そこで、小栗が持参した箱から取り出したのは象牙で装飾され、三十センチの長さにわたって精緻な目盛りが刻まれ、皿と錘(おもり)が付いている天秤ばかりだった。一方、アメリカ側はだいぶ使い古された鉄で造られており、あまり質の良いものではなかった。小栗の持参した秤で計ると一分の狂いもない精密さだった。

 アメリカ側は慌てた。日本人の目的が単に分析方法を知りたいのだろうと軽く考えていたが、小栗が要求したのは、それぞれの銀貨を丸ごと溶かし分析比較して欲しいというものだった。しかもアメリカ側は一分銀に比べてドル銀貨は銀の量がわずかしか入っていないことを承知していたからだ。

 分析実験は、熱い溶鉱炉の側で銀だけを抽出する作業に小栗たちが見守る中で行なわれた。長く飽き飽きする様な作業であったが、周囲の者は小栗の忍耐力に驚かされた。昼食も一旦 ホテルに帰り食べる予定だったが、弁当を取り寄せ、食べ終わるとすぐに分析を再開した。

 次に含有量を割り出す際、アメリカの技師モリスとロングエーカーたちが手計算で相当苦労している傍(かたわ)らで、小栗は従者にある物を出すように命じた。それは奇妙な形をしており木製の枠の中には、豆のようなひし形の玉がいくつも連なっていた。

それをみたスノーデン局長は不思議そうな顔をして、

「小栗さん、それはなんですか」 

「これは我々が普段、算術に使っているソロバンというものです」

スノーデン局長には、それがどういうものか全く理解できなかった。

 小栗はしばらくパチパチと小気味の良い音を出しながら算盤(そろばん)を弾いていたが、僅かな時間で計算を終えると、あとは煙草を吸ってアメリカ側が終るのを待っていた。やがて、双方の数字を照らし合わせ、答えが正確無比であることに、アメリカの技師たちは仰天したのだった。

 

 分析結果がでた。まず、品質比較分析の結果は、ドル銀貨と一分銀もほぼ同等だった。次に一分銀貨とドル銀貨の銀の含有率の比較結果だ。これには重大な問題が発覚した。一ドル銀貨が約二十四グラムに対し一分銀が約八.五グラムだが銀の含有率はほぼ同じであった。

つまり同じ価値なのに不純物が多いドル銀貨を単純に重さだけで一ドル銀貨=一分銀×三枚としてしまったのだ。これは明らかに同種同量交換の原則に反している事であった。

 

 それなのに、アメリカは今まで一分銀を三分の一のレートで交換してきたという事だ。この分析実験は完全に日本側の勝利だった。小栗は満足そうな笑みを見せた。

しかし、勘定奉行でもない小栗が出来る事はここまでだった。アメリカ側は理解したものの、自国の不利になる合意を容易にはしなかったからだ。この交換レートを日米間で是正するようになったのは、まだまだ先のことである。

 

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その47

 四月八日、デュポン大佐が帰国のことを相談に来た。

「新見さん、先日あなた方が希望されていたポーハタン号に乗って、もと来たように太平洋を渡って帰りたいと仰っていましたが、実はその船がかなり修理しなければならなくなりました。それを待っていると一か月半くらい待って頂くことになるので、代わりにナイヤガラという大きな軍艦をニューヨークから出帆しますので、その船で帰国するというのはどうでしょうか」

「色々と面倒をお掛けします。それでは、その船に乗せて頂く様宜しくお願い致します」

「了解しました。それでは、四月二十日頃、ここを出発しニューヨークに向かいますので、部下の方へもそのようにお伝えください」

どこまでもアメリカ軍は日本の使節団に対し親切だった。新見と村垣は心から感謝の意を述べた。

 その日の夜は天文台を見学させてもらう事となり、デュポンの案内で車に乗った。建物の三階に昇ると、そこには石で固定された長さ三メートルもある望遠鏡がのせてあった。月の表面をみて、不思議な感動を覚えた。他にも土星木星を見て驚いたが、通訳を通しての説明は殆どわからなかった。

 それからの毎日は、各国の公使を表敬訪問し、学校、病院、留置所、機械工場の見学と飽きることのない日々を過ごした。

四月十七日、一行は大統領官邸に行き帰国の挨拶をした。大統領からは記念にと新見と村垣と小栗の三人に金のメダル、更に家臣たちには銀や銅のメダルを贈ってくれた。

 

 ワシントンでは一か月あまり滞在したのだったが、その間、アメリカ軍は常に日本の使節団を接してくれた。しかし、あまりにも滞在が長引いたので、アメリカとしても使節団のための費用が予算を大幅に超えてしまった。また、従者たちもホテル内での暮らしがまるで牢に入れられた様に苦痛を感じ疎ましくなってきたのだ。更にホテルの従業員や一部のアメリカ人も同じように彼らを疎ましく思うようになってきた。

そんな中、漸くワシントンを出立することとなった。   

 

 

 ニューヨーク

 

 四月二十日午前八時、一行はワシントンを出発した。大歓迎の中到着した時とは違い、護衛はなくジュポンド、リー、ポルトルの三人の案内役軍人が同車したのみで、村垣は何だか物足りない感じがした。

 三時間足らずで、列車は五十キロ離れたボルチモアに着いた。その時の歓迎がまた大変だった。儀仗兵としてメリーランド州義勇隊、ボルチモア市護衛軍など総出で十七発の祝砲が放たれた。市長、助役、歓迎委員が出迎え、一行を馬車に乗せ行列を成して歓迎式場のメリーランドインスティテュートに向かった。見物人はワシントンの時より数倍多かった。建物の上には日の丸を掲げ、沿道には旗を振る女子と帽子を振る男性が大声を上げて歓迎してくれた。また、警護の騎兵隊、楽団三、四十人が列を成し、消防士がポンプを乗せた消防車と共に前後左右を守りながらパレードを進めた。

 たくさんの花壇に囲まれた歓迎式場に着くと、ここにも見物人が大勢で迎えた。スワン市長は

「私は、大統領の旨を奉じ、ボルチモア二十五万人を代表して、皆様を歓迎したいと思います。皆さまが当市に来られたことを感謝し、両国の利益を増進し、その商業的繁栄を希望するものであります」

と、いかにも市長らしい歓迎演説をした。

一行は、その後、市内観光地を廻り、ホテルに着くと、ここでは消防隊のポンプ放水などの演習を見せた。

また、夜には花火を打ち上げ、一行を楽しませた。

 

 四月二十一日、特別列車に乗り、ボルチモアを出発しフィラデルフィアに向かった。途中、バルチモアとの中間付近のサスケハナ河で体験したフェリーは衝撃的であった。汽車が止まったので、見ると大きな川があって橋がない。村垣は船に乗り換えるのだろうと汽車から降りる支度を始めると車掌が

「そのまま乗って行きますか、それとも船で行きますか」

と、聞いてきた。

「何を言うのか。このまま汽車に乗っておったら、橋もないのに川を渡れず向こう側へ行けぬのではないか。おかしなことをいう奴じゃ。船に乗り換えるに決まっておろうが」

 しかし、そのまま待っていると、なんと汽車ごと船に乗せ、川を渡ったのだった。対岸に到着すると、レールをつないで又すぐ走り出した。その不思議なことは驚くばかりである。汽車の中で眠っていた者は、川を渡ったことに気付かなかったろうと日記に残している。

 その日、フィラデルフィアでも大勢の歓迎をうけ、コンチネンタルホテルで一泊した。翌日は演芸場に行って舞台劇を観賞。言葉は判らなかったが、動きの多い喜劇だったので、ストーリーはほぼ理解できた。

サスケハナ河フェリーのスケッチ

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その46

 当時のアメリカには大きな悩みがあった。それは人種差別問題だ。南部地方の市民は黒人を非人間扱いし、自分たちの自由な下僕とする奴隷制度を正当化しようとしていたが、北部側の市民はそれに対し強く非難し、将にアメリカは南北で分裂しようとしていた。特にアメリカの首都であるこのワシントンでもあちこちで人種差別が起因とされる暴動が起きており、市民はいつ始まるとも知れない南北戦争勃発の恐怖に皆が不安を感じていたのだった。

そんな折、今回の日本からの珍客はその恐怖から一時逃避する気持ちも強かったため、大勢のアメリカ市民は珍しさと共に使節団を大歓迎したとも考えられるのだった。

 

 四月二日、村垣の日記によると、この日パテントオフィス、百物館に行ったと書いてある。特許局といっても機械、武器、農具等の模型と共に剥製の鳥獣類、そして独立宣言など歴史的な記念物までも展示されていた。また、百物館というのは、自然史博物館のことのようだ。現在もあるこのスミソニアン博物館は、日本人が公式に見学した最初の西洋博物館である。

 まず、彼らをびっくりさせたのは、部屋の窓を暗幕で閉じ暗くすると、眼の前でいきなり放電実験をしたことだ。村垣は突如カミナリが目の前で青白く光る現象に、奇術を見せられたと述べている。

 色々な展示物がある中、村垣が目にしたのは明らかに日本の一般庶民が生活に使用しているものであった。「ニッポンコーナー」と書かれたブースには、婦人の打掛、白無垢の下着、刀剣、鍬、鋤、草履、煙管などが陳列されていたのである。実はこれらは以前ペリーが来日した際、持って帰った品々であった。

すると、同行していた新見従者の玉蟲左太夫が一瞬大声を上げ、顔をしかめた。

「こ、これは、なんと、人間の干物(ひもの)ではないか」

玉蟲がガラスケースの中に見たのは、茶褐色に変色したミイラが子供のものを含め三体並んで横たわっていた。佐野鼎はその横に掲げられている英文の説明書きに目を通した。

「なんとこの死骸は、千年も前のものだと書いてありますぞ」

「な、なんと、千年ですか? わが方の奈良時代にあたりますな」

「うむ、まだ肉や髪も残っているではありませんか」

 使節団にとっては見る物すべて驚きの連続だった。この時、アメリカ政府としては、長く鎖国をして盲目となっていた日本人に各施設を見学させ、欧米の文明を少しでも理解させようとする好意ある計画をたてていた。

 ところが、使節団の目的が批准書交換であり、新見の頭の中は何よりもそれを優先し、急いで幕府老中に報告する事だった。更に同行している目付の監視もあり一行の行動はかなり制限され、折角のアメリカの好意に対し積極的に受け入れてはいなかったのだ。

 しかし、そんな中、従者の加賀藩砲術教官の佐野鼎や仙台藩玉蟲佐太夫など若い武士は、貪欲に博物館、図書館、学校など見学し、何とか理解しながら知識を吸収していた。

 その佐野鼎は、博物館の意義を何となく感じ取っていた。まるで見世物小屋のようでもあるが、何のための展示か。この場所にくれば様々な動植物、科学、歴史、芸術、文化に触れることができ、誰もが平等に、多くの事を学べると考えた佐野は、徐々に教育の大切さを知り、西洋砲術、つまり戦の専門家である自分の人生に漠然と疑問を持つようになった。

 そして日本に帰った佐野は十一年後に現在の開成学園の前身「共立学校」を設立する事となったのである。因みに初代校長の高橋是清勝麟太郎の息子・小鹿と海外留学を共にした仲であり、後の第二十代総理大臣である。

 

 四月三日、村垣たち一行は批准書交換のため馬車で国事館へ向かった。今回は平服のままである。部屋に入ると国務長官レウス・カスが笑顔で握手を求めた。他に事務官が二人いるだけだった。

 批准書交換といっても、なんの儀礼もなく、机の上で条約書を取り交わした。この条約書は和文で大和錦の表紙に、紅の糸で日本綴じにしたもので、奥書に「源家茂」として第十四代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、更に外国事務閣老の名前(新見豊前守、村垣淡路守、小栗豊後守)のサインと花押を書いたものである。それにオランダ語の訳を添えて、黒塗の箱、銀箔、紅の紐付、紅綸子の袱紗に包んであった。

 アメリカ側は英文で、大統領ジェームズ・ブキャナン国務長官ルイス・カスとのサインがあり、同じくオランダ文を添えたものだった。互いが改めて確認したうえで、無事取り交わしを終えた。

 岩瀬忠震とタウンゼント・ハリスが下田沖のポーハタン号で交わした日米修好通商条約を仮締結してから一年九か月が過ぎ、ようやく日米の交易が正式に確認・同意され条約の効力が成立したのだった。

 

 その日の夜はオランダ公使の夜会に招かれ、そこで改めてブキャナン大統領と挨拶をした。その後は大勢の高官や下官と面会したが、さすがに多過ぎて閉口したが、徐々に慣れていく自分が可笑しかった。

 四月四日、例によって馬車で議会議事堂を見学に行った。建築当初の建物は、それほど大きくはなかったが、アメリカ合衆国の加盟州も大きく増えたため、1850年に両翼を大規模に拡張され、一行が訪れた時は中央屋根の大きなドームはまだ工事中だった。

 中に入ると、天井の高さにびっくりした。その下に大きな円形テーブルを囲み、四、五十人の男が一人の者が手ぶりを交え大声で話すのを聞いているかと思いきや罵声が飛び交っている。村垣は 

「何を言い合っているのか、さっぱりわからんが、まるで日本橋の魚河岸のようだな」

と隣の従者にささやいた。民主主義と議会制政治はまだまだ彼らには到底理解し兼ねるのだった。

 

 四月五日、海軍工廠と造船所を見学。車を降りると、ブカナン提督が出迎え、機械をつくる小屋に案内した。その小屋は、レンガで造った大きな棟が十ばかりあった。ここでは、単に船を造っているだけではなく、各種の部品や機械を造るのが目的であった。新見と村垣はただ機械の精密さに驚いていただけだが、小栗はここで一本のネジを拾って懐に納めた。これが、その後の日本の機械産業を大きく進歩させるきっかけとなるのである。

 小栗だけはすべての機械類が鉄を加工して出来ていく過程を興味深く見た。機械だけではない、パイプ、シャフト、歯車、ボルトから大砲、ライフル、さらには生活を支える鍋、釜、ナイフ、スプーン、フォーク、あらゆる生活用品まで作られていた。

 鞴(ふいご)が備えられ金属を加工するには、それを加熱する石炭が使われていた。また、金属を加工する機械の駆動は蒸気機関が用いられ、圧延、切断、穴あけ等の加工が容易に行なわれていた。また、金属同士を繋(つな)げるために『ネジ』というものが必要でその重要性を理解した。当時、日本の機械類はすべて木製だったのだ。

 

 小栗は、ここで、日本とアメリカとの差をまざまざと見せつけられ、日本にも海軍工廠に負けない造船所を造ること考えた。このことが帰国後、横須賀に造船所をつくることに繋がったのだ。しかし、それは直ぐには幕府に受け入れられた訳ではなく、実現したのは明治以降になってからの話である。 

 外にでて腰掛で休めと言うので、みんなで並んでかけた。するとブカナン提督やその他の者が後ろに立って、前の方に箱をすえて記念写真をとった。あとでその写真を一枚ずつ配ってもらった。

 ワシントン 造船所 前列 左から3人目より村垣、新見、小栗