まつもと物語 その24

   黒門復元

 

 その一カ月後は、松本市において大事なイベントが予定されていた。

昭和35年4月23日の土曜日、松本城の黒門の復元工事が文化財保護委員会の申請許可となり市川清作氏設計監修の元にようやく完成し、松本市民や来賓を招き完成披露式である「松本城黒門落成記念お城まつり」が行なわれる日だった。

松本城管理事務所と松本市役所・博物館が主催となって、式典の準備は行なわれた。もちろん田岡も準備委員として多忙の日々が続いた。

式典の次第、招待客のリスト、完成披露式のポスター配布、式場の飾りつけなど手落ちのない様、やるべき作業が沢山あった。

当日になると、幸いにも晴天に恵まれ、松本城はいつもながら華麗な姿でそびえ立っていた。朝早く会場に着いた田岡は、準備とチェックに追われていた。他の職員と紅白幕の取り付け作業を行なっていると、学芸員の福島がスーツ姿でやってきた。黒門の説明が彼の役割だった。

「おはよう、田岡さん、何か手伝う事ありそうですか?」

「あっ、福島さん、おはようございます。とりあえず主な作業は終わったので、特にないと思います。あとは、最終チェックだけです。福島さん、今日は案内役ご苦労様です。大勢の人が来ると思いますから大変ですよね」

「うん、忙しくなりそうだから、花岡さんにも手伝ってもらうつもりです。もう、そろそろ来る頃なんだけど」

すると、後ろの方から。「おはようございます」とウワサの妙子が小走りでやってきた。

「やあ、おはよう。あれ、花岡さん、今日の格好は決まっているね」

福島は、少しひやかすように言った。妙子もスーツ姿だが、首に巻いたスカーフがとてもおしゃれだった。

田岡も「ホント、す、素敵だね」と、以前はとても口に出来なかった言葉を、今日は口ごもりながらも何とか言えた。

 

 そろそろ、式典の時間が迫ってきた。司会は草間係長だった。草間はこういったイベントの司会は得意であったから、余裕の笑顔でマイクの前に立っていた。会場には、降旗市長や教育長・博物館館長のほかに市議会議員や民間の多額寄付者を担当係が案内し集まってきたので、田岡は、所定のパイプ椅子に案内した。

二の丸の広場には、すでに大勢の市民や観光客が集まっていた。腕に腕章をつけた新聞記者も何人かカメラを構えて待機している。近くの空でパン、パンと祝砲の花火が鳴った。

 

 いよいよ、式典の開始時間だ。司会の草間係長が、第一声をあげた。

「皆さま、大変お待たせ致しました。只今より松本市・市政五十周年記念事業と致しまして、松本城黒門復元工事の完成披露式典を開催致します。私、本日の司会進行を務めさせて頂きます松本市役所観光振興課の草間と申します。どうぞよろしく申し上げます。まず式典開催に先立ちまして、最初に松本城黒門等復元協賛会・会長でもあります降旗徳弥松本市長より皆様にご挨拶をさせて頂きます」

 降旗市長の挨拶から始まり、式典は次第に沿って順調に進行していった。松本城保存会の会長、松本市教育委員会会長、松本博物館館長など、揃って胸にバラのリボンを付け、お祝いの挨拶が続いた。

 次にテープカット、記念撮影が終わると、いよいよ説明役の福島の出番だ。事前に田岡が用意していたマイクを福島は手に取り、大勢の見学者を前に福島の声が明瞭な説明を響かせていた。妙子も多くの見学者に対し個別に質問の受け答えをしていた。

田岡が大勢の市民の列を誘導していると、後ろから聞き覚えのある声が掛かり振り向いた。

「あっ、清水先生、おはようございます」

「たくさんの人が来ているね。とても盛況そうでよかった」

「はい、ありがとうございます。先生も見学されますか?」

「いや、私は今度でいいよ。図書館へ行くついでに、ちょっと様子を見に来ただけだから。別の日にゆっくり見させてもらうよ」

「先生、例の手紙のことですが、面白いことがわかりました。帰りにまた博物館へ寄ってください。お昼ごろお待ちしています」

「本当かい? じゃあ、後でまた寄るから聞かせてくれ。じゃあ、がんばって」

 

 昼近くになってもお城祭りの催し物が続き、人出が減ることはなった。田岡は、別の職員に案内係を代わってもらい博物館へ戻ろうとすると、ちょうど清水先生もやってきた。

「先生、ちょっと中で話をしましょう。あの手紙、すごく興味深いですよ」

と言って、ロビーの隅にある長いすに案内した。

「先生、先日お会いした時もお話しましたが、例の古文書を東京の歴史学者の教授へ渡し調べてもらったのですが、どうやら、大久保長安の長男で大久保藤十郎という人から松本城主だった石川康長宛の手紙だったのです」

「やはり、そうだったか。それって、本物だったのかい?」

「はい、東京で筆跡鑑定してもらった結果、どうやら本物のようです。ですが、手紙の中身は隠し文といって密書のような物らしくて、結局内容はわからなかったみたいです。なにか暗号のようなもので、わざと第三者が見ても解読できない様にしたものらしいです」

「そうなのか、道理で読めなかったはずだな」

「ところが、その手紙に裏書きされた文章が機械で読み取ることができて、その文面を教授が手紙に書いて送って下さったんです。いまそれを福島さんが預かっているのですが‥。 先生、ちょっと待っていてください。僕も自分のノートに写してあるので、よかったら見てください」

と言って、自分のノートをカバンから取り出し、先生に広げて見せた。

『辰ニ林アリ林ニ水アリ ソノ釜狭ニ𣑊アリ 此レ越後様ノ預物ナリ』

「確かに、謎かけみたいな文面だね」

「それで、今、福島さんや花岡さんと、この謎の文面を解読中なんですが、どうやら、大久保長安から預けられた小判か黄金を康長がどこかに埋蔵したんじゃないかって、今度その場所と思われる林城跡にみんなで行ってみようという事になったんです。ね、先生、面白そうでしょ?」

「あはは、まるで宝探しだね。本当だったらすごいけど、そんな物が発見されたら、みんな腰を抜かすんじゃないか?」

清水先生は、にわかにその話を信じることができず、半ば夢物語のように聞いていた。

「うん、夢があっていいねえ。見つかったら私も是非その黄金を拝みたいものだ。ははっ」

そう言いながら、もう一度、ノートに書かれた文面をみた。

「しかし、これが本当にその古文書に裏書きされていたとすれば、何を意味するものか興味があるね。お宝はともかく、解読してみたいものだ。私もその解読チームの一員にしてもらえるかな。なんか少年探偵団 みたいだな。いや、私だけ老年探偵団か、あははっ」

「はい、是非お願いします。福島さんにも後で話しておきます」

 

 

     薄川沿い

 

 それから、一週間後の日曜の朝、皆は松本駅前に集合した。田岡、福島、妙子そして清水先生も同行することとなった。目指すは林城跡である。先導は学芸員として何度も行ったことのある福島だ。福島は車の免許を持っていたが、日曜日で半分私的な部分もあり職場の車を借りることはさすがに気が引けた。歴史的根拠があればよいが、今回だけはあくまで個人的な調査とし皆も同意した。清水先生は、「お宝探しのハイキング」と称していたが、実は初めていく林城跡の見学が目的である。

 四人は、駅から市電に乗り、あがたの地にある旧松本高等学校前で降り、ここから林城跡までは歩いていく事にした。

 

 大正八年に設立した、この旧制松本高等学校は、大きなヒマラヤ杉に囲まれたこの校舎は木造洋風建築物であるが、大正時代のロマンを感じさせる建物である。一時信大の文理学部として継承されたが、旭町に信大が移転されると、昭和二十五年に廃校となった。その後校舎は重要文化財となり現存している。

 

 薄川にでると、川沿いは桜の並木がほぼ満開であった。しばらく歩くと、南に千鹿頭山(ちかとうやま)が見える。この頂上には千鹿頭神社というお宮があり、七年に一度御柱祭が行なわれる。有名な諏訪の御柱祭は坂落としで知られているが、ここの千鹿頭では頂上のお宮を目指し、西の神田と東の林地区の両方から二本ずつの御柱を大勢の人々が急な坂道を太い綱で引き上げる。そしてお宮の周りに四本の御柱を建てる祭事だ。 以前は里引きの途中、道路脇にテーブルが置かれ振る舞い酒を誰でも自由に飲めた。

 

 皆は薄川の上流に向かって桜の下を歩くと実に気持ちが良かった。皆、背負いのカバンに水筒とおにぎりを入れ、ハイキングというより遠足のようであった。

「ねえ、田岡さん、なにか小学校の遠足を思い出さない? たしか、あそこの千鹿頭山へも行ったよね」

妙子は、突然、思い出したように田岡に話しかけた。

「うん、行ったね。ずいぶん田んぼの横のじゃり道を歩いた記憶がある。急な山道を歩いて登ると展望台があって見晴らしがよかった事を覚えているよ。そこでみんなとおにぎり食べたよね。なんか懐かしいな」

 田岡も小学校の頃の思い出がよみがえってきた。

「あのさ、二年生のころ、ふたりでお城のまわりを歩いて源池の井戸へ行ったことって覚えてる?」

妙子は、ちょっと首をかしげて考え込んだが、ふっと笑顔をみせて、

「ええ、覚えてるわ。でも源池の井戸じゃなくて、北門大井戸だったよ」

「ええ~。源池の井戸じゃなかったかな。そこで、僕がポケットからキャラメル出して二人で食べたんだよ」

「違うったら、北門大井戸で、オレンジの丸いガムを食べたんだよ。私の記憶の方が絶対、確かなんだから!」

「そうだっけ? ずっと源池の井戸でキャラメル食べったって思っていた」

「もう~、安夫ちゃんたらあ。しっかりして!」

 少し前を福島と歩いていた清水先生が、振り返って、

「なんか、おふたりさん、楽しそうだね。二人とも小学校の同級生って言ってたよね。なんかいいね。いやあ結構、結構!」

と、少し羨ましそうに、ふたりをひやかした。

 

 薄川の周辺は建物が疎らな一面の田園である。しばらく歩くと、こんもりと木が生い茂っている小高い山のふもとに着いた。

「あの橋が金華橋ですね。やっと林城の登り口まで来ました。桜が奇麗だからちょっと休憩しませんか?」

「そうだな、少し喉も乾いたから、この辺で休もう」

清水先生がそう言うと、桜の並木が見える薄川の土手に皆は腰を下ろした。福島も一息つくと、 

「ここの桜も毎年きれいに見えますよ。先生、実は僕の実家はこの近くなんです。山辺中のあたりなんですが、子供の頃、この辺でもよく遊んでました」

「そうかね。じゃあ、この辺は自分の庭みたいなもんじゃないか」

「先生、戦時中アメリカ軍の爆撃機B29が飛んできて、この辺に爆弾が落ちたって知ってます?」

「ああ、落ちたのは知っていたが、この辺りだったんだね。じゃあ、こんな実家の近くに落ちてびっくりしただろう?」

「そうなんです。逃げると言っても防空壕もないし、家族みんなで居間の隅で布団被って震えてました。凄い地響きだったのを覚えています。とにかく怖かったんですが、誰も怪我人がでなくて良かったです」

 

 昭和二十年三月二日、アメリカ軍の爆撃機松本市にも飛来した。金華橋を中心に薄川の下流500mの所に三発、北に一発の爆弾が投下された。幸い死傷者は出なかったが、山辺小学校の窓ガラス約五百枚が爆風で割れ、爆弾の破片で近くの墓石がえぐられた。戦争末期、空襲を逃れて軍需工場が次々と松本に疎開してきた為、それを狙った爆撃だった。この林地区の地下にも軍需工場がつくられたが、結局完成することはなかった。

 また、この里山辺地下工場をはじめ、長野県には多くの強制労働者が朝鮮・中国から連れてこられたという。特に中国人は捕虜として扱われ、地下トンネルを造るため過酷な労働を強いられたようだ。

 

「話によると、この林城の周りの集落にも地下工場が張り巡らされていたようです。まったく、松本にこんな黒歴史があるなんて情けないですよ。戦争なんて二度と起こして欲しくない」

「福島さんは、兵隊の赤紙っていうのは来なかったんですか?」と田岡が尋ねた。

「僕はその頃、信大の学生だったから。でも戦争末期は学徒出陣といって、学生も対象になったんだ。もう少し、戦争が長引けば僕にも召集令状が来たと思う」

「それにしても、もうちょっと爆弾がずれていたら、大事な林城跡が壊されていたかもしれないね」

「そうなんですよ。ホント危なかったです。ところで先生、話は変わりますが、この近くに昔、徳川家康の先祖が放浪の旅をしていて、藤助という人が助けたって伝説があるのは、ご存じですか?」

「いや、知らないねえ。初めて聞く話だ」

「僕も郷土を調べていて、初めて知ったのですが、家康の先祖で松平有親父子が諸国放浪の旅をしていて、この林城を造った小笠原清宗の次男・林藤助を頼りこの地に来たそうです。その日は雪の降りしきる寒い日で寒さと飢えで絶望的だった親子が、やっと藤助の家にたどり着いたのですが、藤助は何ももてなす物がなかったそうです。そこで雪の中、藤助はようやく一羽の野兎をとらえ、それを馳走したところ父子は甚く感動したということです。

その後、家康が幕府を開くにあたり、『我が家運が開けたのは、かの兎のお陰』と毎年正月に兎のお吸い物を頂く吉例となったそうです。その名残りでこの先に小笠原氏の菩提寺・広沢寺という寺があるんですが、その南に兎田という史跡があるのです」

「へえ、こんな場所にも、徳川家康にまつわる伝説が残っているんだね」

「そうなんです。松本の郷土歴史を色々調べていると、時々こういった逸話に出会うので結構面白いです」

 田岡も福島の話を聞いて合点がいった様子をみせた。

「そう言えば、徳川家康の小説の中にも何度か兎の話が出てきたのを覚えてますが、そういった経緯があったのですね」

「じゃあ、そろそろ、城跡を見に行こうじゃないか。福島君、先導よろしく!」

「わかりました。ちょっと上り坂が急で、道幅も狭いので気を付けて歩いて下さい」

 

               松本市 薄川沿いの桜並木

まつもと物語 その23

   教授からの手紙

 

 三月に入ると、いくらか寒さは和らぎ、朝夕の自転車通勤も少し楽になった。安夫は職場で新しい観光客誘致の企画書をまとめ上げている最中だった。

「田岡さん、二番に外線です。福島さんと言う方です」

女子職員が声を掛けた。安夫が受話器をとると、

「もしもし、福島です。先ほど一ノ瀬教授からようやく手紙が届きました。よかったら、こちらに来られますか?」

「わかりました。後ほど伺います」

例の返事のことだとすぐわかり、田岡は急いで机の上の書類を片付け、博物館へ向かった。

建物の玄関に着くと、そのままいつもの研究室の部屋に足を運んだ。もう何度も通っているので、受付でも顔なじみとなっている。部屋のドアを開けると、丁度、福島と妙子が教授の手紙を読み終わったところだった。

「こんにちは、教授からの手紙って、例の返事ですよね。なにが書いてありました?」

「ええ、とっても興味深いことが書いてあるのよ。こちらに座って田岡さんも読んでみて」

妙子がすぐに手紙を渡してくれた。

 

「拝啓、先日は、ご多忙の中、松本城をご丁寧に御案内頂き、また詳細なご説明を賜り誠に有難うございました。今回の松本城につきましては、当日本城郭協会において非常に参考となりました事、重ねて感謝申し上げます。

さて、早速ですが、先般貴殿よりご依頼いただいた古文書の解析につきまして次の通りご報告致します。

 まず、手紙自体は日付と紙質と墨の状態から江戸初期のものと断定致しました。また、この手紙に記されていた差出人の大久保藤十郎の筆跡を大学の研究部門に鑑定依頼をしましたところ、大久保藤十郎の手紙の現存が少なく僅かに残っている手紙の筆跡と比較した結果、花押を含めほぼ当人であると推定致しました。

 また、宛先の石川玄蕃頭(石川康長)の息女と大久保藤十郎は婚姻しており、石川康長は藤十郎の義父となり姻戚関係ですので、手紙のやり取りがあった事は充分可能性があり、今回の手紙もその一部と考察されます。

次に、この手紙の内容についてですが、通常の文面とは異なり、文章が著しく不自然であり、意味不明な箇所が多くみられます。これは、手紙の内容が第三者に読み取り出来ない様にする、いわゆる密書のたぐいと推察されます。この時代、重要な通信を秘密裏に送る場合、敵方に知られないように文面を複雑にする隠し文といわれる手法は実際に用いられたようです。

 しかし、具体的な隠し文が殆ど現存しておらず、同手紙を解読するための手法や互換表等は不明の為、本文解読はおよそ困難と思われます。

ただし、裏書きされた部分においては、大学所有の高解像装置を用い文字認識を行いましたところ、別紙の文章が読み取れました。つきましては、同文を添付させて頂きますので、ご参考に願います。  敬具」

 

 一ノ瀬教授からの手紙はこの様な内容だった。そして、もう一通の追伸と書かれた手紙が皆の興味を引いた。

 

 追伸

「ここからは、私個人的な見解を申し上げます。あくまでも仮説ですが、参考になればと思い書かせて頂きました。先日も藤十郎の父、大久保長安の話をさせて頂きましたが、この手紙の所々の文面や断片的な 文言から、軍資金としてその一部を嫡男の藤十郎を通し、松本藩主の石川康長に預けていた事が推測されます。また、歴史学者の多くが、松平忠輝の次期将軍を想定しその軍資金を貯蓄していたことはほぼ間違いないだろうと見解を示しています。実際、自宅の蔵や箱根の埋蔵場所から大金や金塊が見つかっており、その他複数の場所にも軍資金としての隠し金が存在する可能性は充分あると考えられます。

 私は今回の手紙にはそれらに関連した重要な内容が書かれているものと推測致しました。何故なら、わざわざ隠し文の手法を使い、その手紙を大天守の小屋裏に隠すという行為もそう考えれば筋が通ります。仮にその預り金を康長がどこかに隠しているとすれば、城中ではなく別の場所に埋蔵されていることも考えられます。

 その手掛かりが、手紙の裏書きです。かなり文字が薄く読み取るにも困難でしたが、次のような文面と思われます。福島さん始め地元の皆さんの方が松本の地理に詳しいかと思いますので、参考になれば幸いです」

この様に追記されており、その裏書きされていたという文面が次の通りだった。

 

 『辰ニ林アリ林ニ水アリ ソノ釜狭ニ𣑊アリ 此レ越後様ノ預物ナリ』

 妙子は古文書の裏書きとして、何かが書かれている事は知っていたが、結局読み取ることが出来なかった。しかし、この一ノ瀬教授の手紙を読んで何かが閃いた。同様に福島もそれに感づいた様子だった。だが田岡には当然何のことやら全くわからなかった。

「ねえ、福島さん、以前に石川康長の改易理由について、調べたことがあったでしょ。その中に、家臣のふたりが対立して争った際に、藩主である康長がその家中騒動を収めきれなかった事もその理由のひとつではないかって言ってましたよね」

「そうだね、確かふたりの主導権争いが原因という事だったね」

「それなんだけれど、争いの原因が単なる政権争いだけでなく、大久保長安との関係を断ち切るかどうかで対立したという資料を読んだことがあるの。ひょっとして、この手紙にそれも関係しているんじゃないかしら」

すると田岡が、福島に向かって、

「それって、どういう事ですか? 二人の家臣が対立したというのは初めて聞く話ですけど」

「そうですね。それでは田岡さんにも少しその話をしておきましょう」

 

 

     二人の家臣

 

 慶長15年(1610年)2月、二代目城主・石川康長の松本城はすでに完成しその雄大な姿で城下町を見下ろしていた。城下には次第に民家が増え善光寺街道沿いの旅籠も軒を並べる様になってきた。また、本丸には康長の住まいを兼ねた藩の正政庁となる本丸殿もすでに出来上がり、内堀を挟んで二の丸御殿の普請も完了していた。地方大名が築城した城でこれほど見事な御殿を兼ね備えた例は少ない。本丸御殿は建坪830坪、部屋数60、そして二の丸御殿も建坪600坪、部屋数50もある大屋敷だった。

その二の丸御殿の一室で、ふたりの武士が声をひそめて何やら話をしている。ひとりは、若手実力者の伴三左衛門、もうひとりは同輩の上野弥兵衛だった。

「伴殿、この様な身分不相応な城を建て、近頃幕府から睨まれておるという噂をご存じか?」

「うむ、実はわしもそれを心配しておるのだ。聞くところによれば、関ヶ原の戦以降、外様どころか譜代大名のお取り潰しも相次いで行なわれていると言うことだ。幕府は何かにつけ、粗探しをしては改易の種を探しているそうだ。わが藩も、先代の徳川家出奔の恨みをどこかで晴らそうと間者を忍ばせておるに違いない」

「まったく、殿には困ったものだ。駿府の大御所様より信濃を安堵されたことで油断されておるようだが、気掛かりでならぬ」

「それにしても、あの年寄りにもいい加減、隠居して欲しいものよ。そう思わぬか上野殿?」

「あの年寄りというのは、家老の渡辺金内殿の事か。うむ、確かにあのお方がいつまでも殿のそばにいると何かと殿に諫言できぬな。これからは、伴殿を中心にわれら若手が政権を担っていかねば石川家の安泰が危ういことになりそうだ。いっその事、渡辺殿に家老の座を退いてもらうよう迫ってみるか」

 一方、松本藩筆頭家老・渡辺金内は、日頃の伴三左衛門の無遠慮で厚かましい態度に辟易していた。このふたりの主導権争いが徐々に加熱し始め、ついに御前会議で当主の康長が居るにも拘わらず家老の渡辺金内が激昂した。

「だまらっしゃい、若造のくせに殿に諫言するとは、百年早いわ! 余計な手立てをすれば却って幕府にあらぬ疑いを掛けられ、それこそわが藩のお家取り潰しを招くことになるのがわからぬか! このバカ者ども!」

と顔いっぱいに皺を寄せ、入れ歯を飛び出さんばかりに伴を叱りつけた。すると康長は、

「やめぬか、ジイ! ふたりともわが藩を思えばこその意見とわしはみるが、同じ藩内で争い事がいつまでも続くようであれば、その事で幕府から目をつけられる事にもなりかねん。二人とも自重せよ。よいか!」

 

 しかし、この争いは、とうとう幕府の耳に入り「家中の揉め事を治められぬ当主は罷免に値する」と、改易の種にもなりかねなかった。そこで、幕府奉行を牛耳っていた大久保長安がこの事を穏便に収めるため乗り出した。長安の息子・大久保藤十郎は松本藩・石川康長の娘を正室としている。したがって親戚関係でもある。長安にしてみれば息子の義父の危機を救うのは当然であった。

 そこで、長安石川康長の後見人でもある宿老秋山治助を仲介として送り込み、伴三左衛門を中枢から駆逐することで無事騒動を終結させた。だが、伴三左衛門は納得せず、その後も金内に対し嫌悪を抱き続けた。時にはあわや刃傷沙汰になりかけた事もあった。

 

 それから三年後の慶長18年(1613年)五月、石川康長の元に江戸から知らせが届いた。家臣が蒼ざめた顔で、

「殿、大変でございます。大久保長安どのが病で急死されたと知らせが参りました。それだけではございません。長安殿が亡くなられて、八王子の自宅を調べたところ、床下より大金が発見され、生前に金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたことが発覚したとの事でございます」

「なに、長安殿が亡くなられただと! しかも不正な金が出てきたということか?」

「はい、いかにも。いま、幕府内ではそのお裁きで相当、皆が混乱している様子。長安殿の嫡男・大久保藤十郎殿への厳しい取り調べも近々あろうかと思われます」

「すぐ、皆の者を広間に集めるのだ。家老の金内を呼べ、伴もじゃ。うむ、これは一大事だ。どうしたものか」

城中に居た家臣は、取る物も取り敢えず、すぐさま広間に向かった。

「皆の者、良く聞け、長安殿が先月、中風が原因でお亡くなりになった。その後、幕府役人のお屋敷改めがあり、蔵や床下から蓄財が大量に見つかったとの事じゃ。その為、婿の大久保藤十郎が詰問を受けているとの事。いずれ長安殿の所業が暴かれる事は間違いないだろう。そうなれば、七人の嫡子たちの切腹はもちろん、大久保家断絶となろう。それだけで治まればよいが、これを理由に親戚関係であるわが石川家も連座して改易になるやも知れぬ。いったいどうすればよいのじゃ。金内!なにか方策はないか?」

「はっ、そう言われましても、大久保殿の不正が発覚しまっては、いずれ当家に何らかの処罰が下されるのは逃れようがないと存じます」

 痩身の老人となった家老渡辺金内も力なく返事をした。すかさず伴が口を開いた。

「殿、三年前、私が殿に諫言申したことをお忘れではございますまい。あの時、大久保殿から署名を求められ、それをお断り申せばこの様な心配をなさらずとも良かったのではござりませぬか。ましてや、あのような物を預からねば幕府からあらぬ疑いを掛けられることも無かった‥」

「伴、いまさら、その様な事をもうすな!」

「はっ、しかし」

「黙れと申しておる!確かに予が軽率であったかもしれぬ。しかし、それがなくとも、単に親戚という理由だけでどの道、幕府は改易を迫ってくるだろう。わしも覚悟を決めねばならぬか‥」

「殿、では、あの預物は如何致しましょうか?あれが幕府の目にとまれば、面倒なことになりませぬか?」

「伴、あとでわしの部屋に参れ。その時に指示いたす」

その夜、康長は伴に、くれぐれも内密に行動せよと指示を与えた。

 その後、慶長18年(1613年)十月十九日、大久保長安と親戚関係にあった石川康長は幕府からの改易処分が下された。つまり康長が造った松本城及び松本領土のすべてを没収されたのだ。また、弟の康勝、康次も大久保長安と領地隠匿を謀った罪で改易された。康長は豊後佐伯(大分県)へ流罪に処せられた。

 また、改易の理由は、八万石大名の分限を超えた城普請が原因とされた。つまり、一介の地方大名である松本藩石川康長が立派過ぎる天守と広域な城下町を造り上げたことが幕府の嫉(ねた)みを買ったのではないかという説もある。

 

福島が話終わると、裏書きされていたという文面に皆が目を寄せた。

『辰ニ林アリ林ニ水アリ ソノ釜狭ニ𣑊アリ 此レ越後様ノ預物ナリ』

「すると、やはりこの文面に隠されている場所が書かれていると考えていいのよね」

と妙子は眼を輝かせて言った。

「花岡さん、謎解きが得意でしょ。どう解かりそう?」

と福島が促した。

「林とか水って書いてあるから、どこか川が流れている山の中ってことじゃないかしら。でも山の中なら、森って書くはずよね。水も川じゃなくて池とか湖ってことも考えられるし。あっ、そうだ!きっとお堀の水の中のことよ。すると城のお堀のどこかしら。辰って龍のことでしょ。龍が付く地名とか伝説とか‥。やはり金塊とか重要なものを隠すくらいだから、そう簡単にわからない様にしているんでしょうね」

「いや、そうとも限らないよ。最後に越後様の預かり物って書いてあるけれど、越後様って多分松平忠輝の事だと思うよ。越後って新潟のことだけれど当時の忠輝の領地って確か越後だったはずだから。石川康長もいずれ家康が亡くなれば、その軍資金を忠輝に献上するつもりだったと考えると、それ程難しい場所ではないかもしれない。逆に解りにくければ折角の軍資金が永遠に見つからず無駄になってしまうからね」

すると、田岡が口を挟んだ。

「なるほど、やっぱり、忠輝って人の軍資金を預かっているってことですね。ところで、この木へんに在って漢字はなんて読むんですか?こんな漢字見たこと無いです」

「ちょっと待ってて、いま漢字辞典もってくるね」

 

妙子は、隣の部屋から分厚い辞書をもって戻ってきた。

「え~と、木へんに在‥ あっ、あった。これヤマブキって読むのね。ヤマブキって普通なら山に吹くって書くけど、山吹の木が目印ってことなのかなあ」

「花岡さん、ヤマブキって黄金のことだと思うよ。よく小判や黄金のことをヤマブキ色とか言わないか」

「さすが物知りの福島さん! と、いうことは、やっぱり、この釜狭という場所に小判か黄金が埋蔵されいるってこと? ねえ、なんだかワクワクしてこない?」

そう妙子が言うと、三人は次第に興奮してきた。すると、妙子が急に大きな声をだした。

「わかったわ! 辰って龍の事じゃなくて、きっと当時の時刻とか方角の事よ。たぶん辰の方角という意味じゃないかしら」

妙子の話を聞いて、すかさず福島は松本市の地図を机に広げた。

松本城を起点として辰の方角、つまり方角十二支で言うと、辰は東南東だから‥」

と言って、松本城の上に定規をあて、鉛筆で延長線を引いた。その先を見ると皆、声をそろえる様に、

林城!」と叫んだ。

「そうだ。辰の方角にあるのは林城跡だよ。だから辰二林アリなんだ! じゃあ、水は薄川ってことじゃないか?」

「でも、釜狭ってどこ? 薄川にそんな場所あったかしら」

皆は、急に黙り込んでしまった。

「まあ、別に慌てることはないから、じっくり考えよう。近いうちに皆で林城跡へ行ってみないか」

福島のその一言で、皆が納得した。

    松本城天守と本丸御殿、二の丸御殿、古山寺御殿 復元イラスト

まつもと物語 その22

   師走

 

 それから、ひと月が過ぎ十二月に入った。師走と言うだけあって庁舎の中も皆なぜか忙しく動き回っている様に見えた。

田岡も、観光推進の資料作りや松本城の案内板と駅構内に貼る宣伝ポスター作製にも手をとられていた。そこに同僚の宮下が声をかけてきた。宮下は、地域環境課から上下水道計画課へ異動していた。

「おい、田岡、頑張ってるかい。忙しそうだね」

「おう、宮下じゃないか、久しぶり。どうしたんだい?」

「ちょっと総務課に用があって来たんだが、その帰りさ。実は、同期の連中が集まって忘年会でもやらないかって話になってお前も誘おうと思って寄ったんだ。二十日ごろを予定しているんだが、お前も出れるかい?」

「いいね。なんとか都合付けるよ。場所とか時間決まったらまた連絡してくれる?」

「わかった。じゃあ、田岡も出席するってことで決まりだな。ところで、今も総務課の由美子に声を掛けて きたんだが、あとひとり女子が足りなくてさ。実は五対五の男女で計画したいんだ。忘年会は口実で男女合同の飲み会をしたいだけさ。お前だれか心当たりないか?」

「急に言われてもなあ。同期で女子って言っても、そんなに居ないんじゃないの?」

「いや、別に同期じゃなくてもいいよ。どこの部署でもいいから誰か探しておいて。頼んだよ、じゃあな」

それだけ言うと後姿を見せ、そそくさと帰って行った。

「おい、そんなの押し付けられても困るよ。まったくもう」

とは言ったが、田岡の頭の中にはひとりの女性を思い浮かべていた。

 

 妙子とは、一週間前に初めて二人で食事をした。一応お城の説明をしてもらったお礼として田岡から誘ったのだが、しっかりデート気分で楽しかった。しかし、少し緊張していたせいだろうか料理の味は殆ど覚えていない。嬉しかったのは、いつだったか誕生日の話をした事を妙子は覚えていて、少し早かったがプレゼントとして白と緑のストライプ柄の毛糸マフラーをもらったことだ。その日以来、毎日それを首に 巻き通勤しているが、極めて心地よく最高に暖かかった。

 十二月二十四日、クリスマスイブにあわせ、予約しておいた洒落た店に男女十人が集まった。宮下が企画した飲み会である。田岡は当然、妙子を誘い隣同士の席についた。同世代の男女なので気楽に楽しむことが出来て話も盛り上がった。プレゼント交換した時は皆が全員クラッカーを鳴らしたりし、はしゃぎまくった。うるさ過ぎて途中、店員から注意されたほどだった。

 

 年の瀬も迫った二十九日、家族で縄手通りの歳末市に出掛けた。軒を連ねて屋台が並び、お正月の縁起物、松飾り、達磨などが店先に置かれていた。どの店主も大きく元気な声で客寄せしていた。義父は玄関に飾る注連飾(しめかざ)りや達磨を買い、母は伝統工芸品の「御神酒の口」の手ごろな大きさの物を一対(二本)買った。御神酒の口とは、松本地方で古くから伝わる神棚に供えるお神酒のトックリの口に飾るもので、ひとつの竹を細かく縦に裂き水引のような形にした神様を迎える縁起ものである。

弟の健は、自分の勉強机に飾りたいと言って20㎝ほどの門松を安夫に買ってもらい満足している。

 田岡家でも家族全員での大掃除を終え翌日、大晦日となった。沢山のお皿に盛られた刺身やお寿司、茶碗蒸しなどが並ぶ夕食を前にした。義父が「今年一年、なにかと災害や大きな台風が続いたが家族全員無事で過ごすことが出来、何よりだった。皆、ご苦労様でした。来年も良い年を迎えられよう願い乾杯しよう。かんぱ~い!」と声をかけると、皆もそれに倣った。

 そして、テレビでは恒例のNHK紅白歌合戦が始まった。昭和三十四年は第十回目となり、司会は紅組・中村メイコ、白組・高橋圭三だった。母が年越しソバを用意すると皆で美味しそうに啜った。健はさすがに起きていることが辛そうで安夫が部屋に連れて行った。紅白は全部で五十組の歌手が競い、トリを飾るのは歌姫・美空ひばりだった。そして十五分前になると、各局共同で「ゆく年くる年」を放送し、除夜の鐘を聞くというのが定番となった。

 

 

     新年の大雪

 

 昭和35年元旦、晴天のなか新年を迎えた。前日、わずかに雪が降ったらしく、薄っすらと家の周りが白くなっている。

安夫の住んでいる城西町に東西まっすぐ延びた道路があり、住宅に挟まれたその正面には、雪で化粧した常念岳が見事な程くっきりと見えた。後に誰が付けたか、この道を「常念通り」と言う。

 

 田岡家は毎年元旦に蟻ケ崎の塩釜神社で初詣をしている。城西町に移転後はこの神社が田岡家の氏神様である。建物自体決して大きくはなく、どちらかと言うと目立たない存在である。総本社は宮城県塩釜市にある。宮城県には塩釜神社が多数あり、祭神は塩土老翁神といって海や塩の神様らしく伊達政宗も何度か寄進したらしい。しかし、なぜその塩釜神社の分社がこの松本にあるかはわからない。

この神社では、初詣をする信者に長寿飴を頂ける。健も毎年これを楽しみにしている。欲張って三個貰おうとした健を母が叱った。

安夫も神殿に向かい拝礼をして振り向くと、そこに清水先生がやってきた。先生が田岡に気が付くと

「明けましておめでとうございます」とお互い深く頭を下げ挨拶した。

「先生もこの神社で初詣ですか。うちの家族は毎年ここで初詣しているんです」

「田岡君もか、うちもそうだよ」と笑顔でかえした。田岡はとなりの和服を着た婦人に対し、

「あっ、奥様。去年の夏ころ、先生のお宅にお邪魔した田岡です。その節はお昼も頂きありがとうございました」

「はい、覚えていますよ。よかったらまた遊びにいらっしゃい。ご迷惑でなければ主人の戦国話に付き合ってくださいな」

「はい、その時は喜んで伺いますので、宜しくお願いします」

すると、母が近寄ってきて、

「清水先生、息子の安夫がお世話になっております。私も一度だけ、高校の卒業式の時お会いしたと思います」

「そうですか。高校の時は田岡君も実に勉強熱心な生徒さんでした。昨年、偶然に会ってからも何度か親しくさせて頂いてます」

軽く会釈して帰ろうとしたが、安夫は思い出したように先生を引きとめ、

「先生、例の古文書のことですが、実は去年の11月ごろ、東京から偉い歴史学者の教授が松本城を見学しに来られたのです。その時に、手紙の内容の鑑定をお願いしたところ快く引き受けて頂ける事となり、いま持ち帰って調べて頂いてる最中だと思います。何だか隠し文といって謎の密書みたいですよ」

「それは本当かい。内容がわかったら、是非私にも連絡してくれないか」

「もちろんです。その時はすぐ連絡しますので、楽しみに待っていて下さい」

家に帰ると、健は母からお年玉をもらった。小袋を開けると中から岩倉具視五百円札が出てきた。「やった!」と言って両手を挙げ喜んだ。いつもは三百円くらいだったが健にとって今年は景気が良い。事前に安夫が母に渡しておいたからだ。

 

 正月七日になると、田岡家は恒例の七草粥が朝食に出される。家族でフウフウしながら熱い粥を食べるのが楽しみであった。すると健が、学校で教わったのか、

「僕、七草を全部言えるんだよ。みんな聞いてて、じゃあ言うよ。 セリ、ナズナ、ゴボウ、ハコベラホトケノザスズナスズシロ、これぞ七草! どうすごいでしょ?」

それを聞いて皆は吹き出して笑った。義父が、

「おい、健、ゴボウじゃなくてゴギョウだろ。ゴボウは草じゃなくて野菜じゃないか。あははっ」

みんなが笑う中、健ひとりだけムスッとした顔で皆をにらんだ。

 

「そうだ、今度の日曜日、深志の天神様へお参りに行こう。健の頭が良くなり成績が伸びますようにってね」

「その日ってあめ市もやっているよね。健、お兄ちゃんが飴買ってあげるから一緒に行こうね」

と、いじけている健を母と安夫がご機嫌をとった。

 この「あめ市」の由来は、川中島の戦いで知られる甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が争っていた時代、駿河今川氏真が武田の支配地に塩の供給を止める戦略をとった。甲斐の領民を困らせるこのやり方に義憤を持った上杉謙信が越後から信濃経由で武田領へ塩を送った。このルートが千国街道の「塩の道」である。この時に、塩が松本に着いた日が一月十一日であった。

 

この日を記念して「塩市」が始まったと伝えられている。江戸時代になると松本の最大行事となり、城下で塩や飴を売ったり、華やかな行列で祭りを祝った。そんな中で宮村天神(現在の深志神社)の神主が塩を売るようになり、それが現代になり「塩市」が「あめ市」とも呼ばれるようになった。今ではこの日に、武田軍と上杉軍に分かれ綱引き大会も行なわれている。

 

 一月十五日は、小正月といって新年の祝いの締めくくりの日で、豊作や家内安全を祈願する行事でもある。そして成人の日でもあった。この日は戦後の一九四八年から法律で定まり祝日と決まった。元来、この十五日に公家や武家で男性の成人式「元服の儀」が行われた事に由来するが、時代の変化と共に現在は第二月曜となった。

 

 松本では、この小正月に「三九郎」を行なう。どんど焼きともいうが、木で組んだやぐらにワラを巻き松飾りやダルマを焚き上げる行事である。女鳥羽川や薄川など町内ごとに行なうが、健の町内は大門沢近くの広い田んぼを借りそこで行なう。健が楽しみにしているのは、柳の枝の先にまゆ玉という緑や黄色のカラフルな団子を付け、三九郎の残り火でそれを焼きながら食べる事である。「三九郎」とは、凶作、重税、疫病の三つの苦労(三苦労)を払う為など諸説ある。

 

 それから、数日後の夜中から降り続いた雪が、翌朝になると20㎝以上積もっていた。この年も何度か雪が降ったが、これ程の大雪は久しぶりだった。安夫は義父と一緒に家の周りの雪かきを始めたが、雪はなかなか止みそうもなく、一度雪かきをした場所も降り続ける雪ですぐに元通りの真っ白な状態になった。

 安夫は、仕方なく庁舎まで歩いていく事にした。近くに停めてあった車がすっぽり雪で覆われている。道路ではタイヤにチェーンを巻いた車も深い雪でスリップしていたが、とうとう動けずに立ち往生となった。数人が後押ししてやっと道路わきに寄せた。運転手はもう諦め車から出ると、降りしきる雪の中で茫然としていた。

 道路わきの歩道をゴム長靴でなんとか城の近くまで歩いてきたが、石垣も雪で覆われ堀の中も氷が張っていたのか、その上に積もった雪で辺り一面が真っ白の中、天守の黒い板塀だけが目立った。

ようやく庁舎に着いたときは、定時を過ぎていたが、数人の職員が玄関前と駐車場を必死で雪かきを続けていた。その両脇にはすでに積み上げられた雪で大きな山が出来ていた。

安夫も一旦は席に着いたが、すぐさま雪かきを手伝った。その日は、殆ど仕事らしい仕事は出来なかった。

翌朝になってやっと雪が止んだが、結局、降り続いた雪が42㎝と記録された。安夫はその日も歩いて 庁舎に向かったが、所々の踏み固められた雪が凍っていて何度も転びそうになった。

 この大雪で、市内だけでも相当被害がでた。農業用のビニールハウスやガレージなど降雪の重みで潰れてしまった箇所は数知れず、道路での交通障害やスリップ事故も多発し、怪我人も市内だけで数十人出たと報告があった。

松本市役所としてもこの大雪被害に対し対応策で追われ、警察署、消防署、自衛隊とも連携して市内の除雪作業を進めた。

 

 その日、家に戻ると、玄関先には積もった雪の山をくり抜いてかまくらが作ってあった。健の仕業なのは見てすぐわかった。

「ただいま」と玄関にはいると、長靴や濡れたジャンパー、カッパなどが所狭しと掛けてあった。義父も濡れた服をストーブの前で乾かしていた。いま、雪かきを終えて家に入ったところだと言う。

「まったく、この大雪には困ったものだ。毎日、雪かきが続き身体中があっちこっち痛い。手にも豆が出来てしまったよ」

と言って体中を擦っていた。安夫も同じく疲れ切った表情でその場に座り込んだ。

すると、母がでてきて、「二人とも銭湯にでも行ってくれば」と促したので、健も誘って三人でいつもの 銭湯に行った。

 

 皆は銭湯の大きな湯船に身体を沈めると、生き返った心地がした。

「やっぱり、銭湯はいいよなあ。疲れが抜けていくような気がする」

あまりの気持ちよさで少し長湯をしたので、湯冷めをしないように厚着をして三人は銭湯から出た。雪がまだあたりに山積みになっている中、三人は煙のような息を吐きながら歩いた。健が持っていた手拭いをパンパンと音をだして広げてみせた。

「見て、見て、手拭いが板になっちゃった。面白い!」

濡れた手拭いが瞬時に凍るほど、外は冷え切っていた。皆の髪の毛もまだ少し濡れていたので、前髪やもみあげの部分が凍って白髪の様になっていた。本当に昭和の松本の冬は寒かった‥。

 


           松本市 縄手 歳の市

まつもと物語 その21

   大久保長安

 

 長安の父・大蔵信安は祖父の代より継承された猿楽師(狂言師)であり、その次男として天文十四年、甲斐国で生まれた。信安は猿楽師として武田信玄のお抱えであり、息子の長安は信玄の家臣となり武田領の黒川金山などの鉱山開発に従事していた。

 その後、信長・家康連合軍の侵攻(甲州征伐)により武田家が滅亡すると、長安は鉱脈発掘に長けた山師の才能を認められ家康の家臣として仕えるようになった。更に長安大久保忠世の長男・大久保忠隣の 与力に任じられ、姓を大久保に改めた。そして、甲斐の内政再建を任された長安釜無川笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘に尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建した。この実績を家康から認められ関東の検地にも貢献し土地台帳の作成もした。

更に家康直轄領の事務を一切取り仕切る関東代官頭に登り詰めた。そして天正19年(1591年)に家康から武蔵国八王子八千石の所領を与えられたのだった。

 

 それから七年後の慶長3年(1598年)8月18日、伏見城で秀吉が死去した。

秀吉より「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受け頭角を現してきた家康に対し、幼い頃より秀吉から可愛がられ豊臣家を託された石田三成にとって、それは苦々しい思いだった。

 慶長五年六月、家康は豊臣政権に対し反逆を企てたとして上杉景勝を討つ為、会津征伐として大阪を 発った。その留守を狙い石田三成が決起し、毛利輝元大阪城に呼び寄せ西軍の総大将にした。その後三成は家康の家臣鳥居元忠が在城する伏見城を攻撃し、これを契機に慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いが始まった。

 しかし、この戦いは小早川秀秋の寝返りにより大谷吉継へ攻撃したことを機にわずか半日で徳川軍の勝利となった。この戦の勝因は家康が事前に小早川秀秋毛利輝元と密約を交わしていたと言われている。その証拠に毛利軍は家康の背後に陣を構えていたにも拘らず、様子見をしていただけで西軍不利と見極めると、戦いに加わることなく早々に陣を引き払い自分の領土安芸国(広島)へ帰ってしまった。

 一方、家康から上田の真田昌幸を平定せよと命を受けた徳川秀次の軍勢は、狡猾な真田の反撃に手を焼き、結局上田城を落とすことは出来なかった。この時、石川康長も秀次に従い上田城の攻略に参戦したが結果を残すことが出来なかった。しかし、石川康長は家康の会津征伐に従い、更にこの関ヶ原の戦いでも東軍に付いたことで、所領を安堵(領地を認められること)することが出来たのだった。

 

 そして、この関ヶ原の戦いで、徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役(しちょうやく)を務めたのが大久保長安だった。輜重役とは戦いにおいて必要な食料・被服・武器・弾薬を調達し輸送を担う役目のことである。戦いが終わると、豊臣家の支配下にあった佐渡金山や兵庫の生野銀山が徳川直轄になり、島根の石見(いわみ)銀山も含め全国の 金銀鉱山のすべてを長安が開発する事となった。

 この長安による金銀の産出量は莫大な量でありその後の江戸幕府に豊かな財源確保が出来た。特に銀の産出量はこの時代において世界の3~4割を占め、国内の貨幣の流通量を増やすだけでなく、海外との 貿易輸入において、生糸、砂糖、漢方薬高麗人参や武器等の支払に充てた。その為、この鉱脈は幕府直轄としその管理も厳重なもとに置かれた。

 慶長八年、家康が天皇から将軍に任じられると、長安も家康の六男・松平忠輝御附家老となり年寄(老中)になった。更に関東における交通網の整備など一切を任されることにもなった。この頃、長安の所領は八王子9万石に加え、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されたと言われている。こうして、奉行職を兼務した長安の権勢は強大なものになったのである。

 また、長安の長男・大久保藤十郎石川康長の娘と結婚させるなど、自分の息子七人を次々と有力大名の娘と婚姻させ、家康の六男・松平忠輝伊達政宗の長女・五郎姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝や伊達政宗とも親密な関係を築いた。長安は権力を更に肥大化させ、その権勢と諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。

 

 一ノ瀬教授は、ここまで長安の説明をすると、一息ついた。

「どうだね、ここまでの大久保長安の昇進や功績はすごいだろう?」

「はい、家康の家臣団で戦に強かった武将の話はよく聞きますが、大久保長安の事は初めて知りました。このような官僚も重要な役割を果たしていたんですね」

佐渡金山とか石見銀山というのは君も聞いたことがあると思うが、その長安が開発した鉱山なんだ。その他にも日本橋を起点とした東海道中山道などの交通網の整備も行なっていて、一里とか一町、一間(六尺)という間尺や一里塚なども長安がつくり上げた単位なんだよ」

「では、大久保長安って偉大な人物だったんですか?」

「ところが、そうではないんだ。あまりにも急激に大出世し大金を自由に出来るようになると、人間が堕落し邪な考えを持つようになるとよく言われるが、長安も正にそういう道を歩むようになってしまったのだよ」

教授の話は更に続いた。

 

 好調に思われた長安だったが晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、各種代官職を次々と罷免されるようになってしまった。その理由として採掘量の低減だけでなく、長安の日頃の振る舞いに家康は眉をひそめるようになったのだ。それは金山奉行などをしていた経緯から派手 好きであり、無類の女好きで側女を80人も抱え豪遊をしたり、政事において口を挟むようになったと家臣からの噂を耳にしたからだった。

 しかし、慶長17年に栄耀栄華の暮らしを続けてきた長安が中風を患い、その後わずか一年で死去したのだった。享年69歳である。

 この長安の死後、大変な不祥事が発覚したのだ。生前に鉱山経営で不正蓄財をしていたとの疑いが生じたのだった。

その住居である八王子の屋敷改めの際に、何と蔵から黄金七十万両とおびただしい量の銀銭が出てきた。他にも村正の名刀だけで百振りもあり、外国から入ってきた珍しい品の数々、家康でさえも手に入れる ことが出来ないものばかりであった。更に長安の居室の床下からひとつの石櫃が発見され、その中から三通の驚くべき文書が出たのだ。

 

 その一通が「家康の死後、松平忠輝を将軍にし、長安が関白になる」という計画書だった。次の一通は その計画に参加する者の連判状である。そして残る一通は「佐渡をはじめ、全国の金山から掘り出された黄金の半分をこの計画の為の資金とするため、埋蔵した」という秘密文書と絵図だった。

 これを知った家康は驚愕し烈火のごとく怒り、長安の遺体を棺から引きずり出させ、駿府安倍川河原で磔に処し財産すべてを没収し遺児七人全員を切腹させ、遂に大久保家は断絶した。中でも長男・大久保藤十郎への詰問は厳しかったが「若輩ゆえ調査には応じられぬ」と最後まで拒否し続けたという。

 また、長安を庇護していた大久保忠隣は即刻改易され、居城だった小田原城を取り壊された。また姻戚関係にあった石川康長、老中青山成重、常陸国藩主・堀利重、安房国藩主・里見忠義ら多くの大名も連座で改易処分を受けている。

なお、三通の文書は現在その行方がわからず、恐らく後の徳川幕府により秘密裏に焼き捨てられたと思われる。

 しかし、その後幕府が編纂した『慶長年録』に依ると、この長安の文書の存在自体は明らかであり、絵図に記された埋蔵場所とされた箱根仙石原から約2㎏の金塊と黄金の刀を幕府が探し出している。その他にも伊豆金鉱山周辺(縄地村)や越後、信濃の地にも埋蔵されたとあるが、これは未だ発見されていない。

 

 教授の話が終わると、福島が質問を加えた。

「先生、その連判状には誰の名前が書いてあったのですか?」

「それが、資料が乏しくて実際、誰の名前が書かれていたのか分かっていないんだよ。しかし、歴史家の考察としては大久保長安が家康の六男・松平忠輝に忠義を示すものとして各大名に署名を集めたものと考えられている。おそらく石川康長も長安に言いくるめられ、その署名をしたひとりと思われるが、その黒幕が伊達政宗ではないかと考えられているんだ。

 当初、家康は伊達家と徳川家が姻戚関係になればお互い対立しなくなると考え、自分の息子の忠輝と伊達政宗の娘・五郎姫を結婚させ、更に忠輝の教育を政宗に任じたのだが、どうやらこれが裏目に出たらしい。伊達政宗は次の将軍を忠輝に担ぎあげ、自分の思い通りに洗脳していき、いずれ自分が将軍の座を奪おうと虎視眈々と天下を狙っていたと考えられている。その準備として、大久保長安から裏金を渡し忠輝に忠義を示すという名目で各大名に連判状に署名させたらしい。そしてその軍資金として長安は隠し金を蓄えていた、というのが我々歴史学者の仮説なんだよ」

「まるで、どこかの政治家が裏献金を配っているようですね」

「ははっ、そうかもしれないね。いつの時代も同じような輩が多いからね。そして、家康の方では大坂の陣で豊臣家を完全に滅亡させると、残りの生涯で唯一伊達政宗だけが油断できない武将として憂慮していたんだね。つまり三男・秀忠を二代目将軍とし後継者にしたんだが、その座を伊達政宗の後ろ盾で六男・忠輝に奪われることを心配していたんだ。

 しかし家康は死去する前に、二人の仲を引き離すため忠輝を永久対面禁止とし、政宗に秀忠の後見人を命じ徳川幕府安泰を成したという事なんだ。結局、弟松平忠輝は家康の死後、兄である二代目将軍徳川秀忠から改易を命じられ諏訪の配流屋敷で余生を過ごし、死去したのは九十二歳だったらしいですよ」

「なるほど、よくわかりました。先生、お話を聞かせて頂きありがとうございました」

「いや、いや、なんだか、大久保藤十郎の話をするつもりだったが、家康と伊達政宗・忠輝の対立の話になってしまったね」

「いえ、面白い歴史の話を聞けて良かったです。ところで先生、この後の予定はどうされますか?」

田岡が訊ねると、一ノ瀬教授は時計を見ながら、

「ああ、もうこんな時間かね。そろそろ帰り支度をしようかな」

「えっ、先生。もうお帰りですか? もう一泊されてはいかがですか。宜しければ明日は市内を案内致しますが‥」

「ありがとう。しかし、東京へ戻ってやらなければならない仕事もあるから、これで失礼するよ」

「そうですか。では駅まで車でお送りいたします」

田岡が教授を駅までタクシーで送ると、忙しそうな素振りをしてそのまま東京へと帰って行った。

           大久保長安が開発した佐渡金山

まつもと物語 その20

    一ノ瀬教授

 

 田岡は自分の職場で書類をまとめていた。福島から聞き取りしたメモを見ながら、今まで教えてもらった松本城や城下町の歴史をレポートとして書き記していた。妙子から聞いた伝説もタイトルをつけてまとめてみた。

 

・小笠原家が守護として長く松本の地を治めていた歴史

林城とその周りの支城(井川城、深志城など)

小笠原長時が武田軍から追われ諸国を放浪する経過と小笠原流の伝授

小笠原貞慶が放浪の旅から三十三年ぶりに深志城へ帰還(松本城と名を変える)

・初代城主石川数正の出奔と松本に移封された経過

石川数正・康長父子の松本城と城下町づくりの経緯

松本城の構造と特徴

松本城の危機と市川量造、小林有也の功績

・明治の大修理と昭和の大修理

・玄番石伝説 ・駒つなぎの桜 ・二十六夜神伝説 ・多田加助と傾いた城伝説 など

 

しかし、松本歴代城主として小笠原家以降の戸田家・松平家・堀田家・戸田家に関してはまだまだ話を聞けていない。特に最後の信濃松本藩主・戸田光則においては興味深いので、後日また福島さんから聞き取りしたいと考えていた。

 

 そこへ、上司の草間係長が田岡の席にやってきた。

「田岡君、どうだいレポートの方は順調かい?」

草間は書類を手に取り、ざっと目を通すと、

「略まとまったみたいだね。うん結構詳しく書かれているね。ここまで調べるの大変だったろう。ご苦労様」

「はい、福島さんたちに色々教わったので助かりました」

「実は、田岡君にもうひとつ頼みたいことがあるんだ。来週、東京から大学の教授がいらっしゃる予定があって、是非、松本城を見学したいとおっしゃっているんだよ。説明は学芸員の福島さんにお願いするとして、田岡君にはその先生のアテンドをしてもらいたいのだが、いいかなあ?」

「その大学の教授ってどんな方なんですか?」

「課長の話だと、早稲田大学の一ノ瀬教授といって日本城郭協会の理事もされており、有名な歴史学者の先生だそうだ。松本は初めてではないが、改めて松本城のことを勉強したいとおっしゃっている。君も色々勉強してきたみたいだから丁度いいと思ってね」

「そうなんですか。はい、わかりました。失礼の無い様案内をさせて頂きます」

「じゃあお願いするね。これが相手先の電話番号だ。事前に連絡取り合ってくれ。福島さんには頼んでおいたから、あとの段取りも君にまかせるよ。そうだ、さっきのレポートも教授に差し上げたらどうだね」

「えっ、そんな偉い先生にお渡しするなら、もう一度、しっかり書き直します」

「君、よかったら庶務課に頼んでそのレポートをタイプライターで打ってもらったらどうだ」

「大丈夫です。なんとか清書します」

田岡は、大変な仕事を引き受けてしまったと少し後悔する反面、その歴史学者の先生に会えることがすごく楽しみになった。

 

 十一月も半ばを過ぎ、松本はもう冬といってもいい。広葉樹はもうすっかり葉を落とし細い枝ばかりで ある。紅葉の時期はもう過ぎてしまい、山の頂は白く化粧している。街中を行きかう人々は誰もが身体を厚手のコートで覆っていた。

田岡は駅の改札口で教授を出迎えていた。電車が着くとどっと人が出てきた。田岡は頭上に「一ノ瀬様」と書いた画用紙を掲げていると、それに気づいた一人の老紳士が近づいてきた。

「市役所の方ですか?」

「あっ、はい、私、松本市役所の田岡と申します。一ノ瀬先生ですね。お待ちしておりました」

「わざわざ、出迎えに来てもらいご苦労様ですね。どうもありがとう」

田岡は歴史学者の大学教授と聞いていたので、勝手に居丈高(いたけだか)で尊大なイメージをもっていたが、優しそうな笑顔で物腰の柔らかそうな感じの先生であった。

「先生、長い時間電車に乗られ、お疲れになりましたでしょう」

「ああ、さすがに四時間以上も座っていると、腰が固まってしまったよ。ははっ」

駅舎をでると、天気は良いが風が冷たかった。

「やはり、松本は寒いなあ。久しぶりに来たが駅前もすっかり変わって意外と車が多いのには驚いた。でも やっぱり松本は山がきれいだな」

正面には美ヶ原の王ヶ鼻が見える。しかし、たくさんの電線が網の様に張っており、その綺麗な山並みを邪魔していた。

「先生は、以前も松本に来られたと聞いていますが、それはいつ頃ですか?」

「う~ん、確か私が二十歳過ぎで昭和の初めころだったから三十年ぶりかな。上高地へも行ったんだが、とても良かったなあ」

「そうなんですか。先生、今日は浅間温泉に宿をとってありますので、これからご案内いたします。松本城は明日、ご案内する予定ですが宜しいでしょうか?」

「ああ、お願いするよ。楽しみだな」

「では、宿までタクシーで行きます。乗り場はあちらです。あっ、先生お荷物お持ち致します」

その時、チンチンと鳴らしながら一両の路面電車が近くの乗車場に止まった。

「田岡さん、タクシーもいいが、あの路面電車に「浅間温泉行」と書いてある。あれに乗って行こうじゃないか。市内をゆっくり見て行くのも久しぶりでいいからな」

「先生がその方が宜しければ、電車で参りましょう。2~30分ほどで着くと思います」

 ふたりは、急いで電車に乗り込んだ。ゴ~ッと低い音をさせながらゆっくり電車は市内を走っていく。松本製糸工場(旧片倉製糸紡績)近くまでは店舗や民家が密集していたが、横田を過ぎる辺りから急に 民家が疎らで閑散としている。電車は途中十七か所の停留所に止まったが、二十分ほどで終点の浅間温泉駅に着いた。時計を見ると五時をすぎており、あたりは、もう薄暗くなってきた。

 浅間温泉の歴史は古く、西暦七百年ころの飛鳥時代からと推測されている。初代松本藩主の石川数正により「御殿湯」が置かれ、代々の松本城主も通っている。武士たちの別邸も建ち並び「松本の奥座敷」と 呼ばれていた。明治時代に入ると多くの文豪に愛される温泉地となり、竹久夢二与謝野晶子田山花袋正岡子規、伊東佐千夫などが訪れ、この地で優れた作品を残している。

 

 駅舎は二階建てのモダンな建物である。その駅舎をでると、すぐ目の前が「梅の湯」であった。ふたりは この宿に入った。広い玄関ロビーには、朱色の絨毯が敷かれ、いくつも調度品や生け花が置かれている。

 ふたりが「梅の湯」に入ると、すでに田岡の上司の草間と学芸員の福島も着いており、皆で一ノ瀬教授を 迎えた。一通り紹介が済むと、

「先生、お疲れさまでした。部屋でしばらく寛いで頂き、宜しければ先に温泉で身体を癒してください。後ほど広間に食事をご用意致します」

「ああ、ありがとう。ではそうしよう」

 ふたりの仲居により二十畳ほどの広間に八人分の膳が用意された。雪見障子から庭園の明かりがほのかに見える。下から照明を当てた松の木が暗闇の中に浮かび庭木や大きな石が風情を醸し出している。暗くて全体が見えないが、相当こだわって造り上げた日本庭園のようだ。この頃、浅間温泉は全盛期で、どの旅館も贅を極めた建物の拵えを競っていた。

 しばらくすると、副市長と課長三人が遅れて入ってきた。皆、お揃いの浴衣と丹前を羽織り席に着いた。 田岡も入り口に近い下座に座った。そこへ顔を熱(ほて)らせた教授が同じ浴衣丹前を着て入ってきた。

「先生、湯加減はどうでした」草間係長が声を掛けると

「ああ、なかなかいい湯だった。すっかり身体が温まって旅の疲れがとれた気がする。ありがとう」

副市長、課長たちも名刺を出し挨拶が済むと、皆ビールを注ぎ歓談をはじめた。副市長が教授にビールを注ぎながら

「先生は、日本中のお城をご覧なられたのですか?」

「そうですね。私も城廻りは大好きなので、今までいくつも城は見てきました。姫路城、松江城彦根城犬山城は特に歴史深くてよかったですね。実は松本城を若い頃に一度見ているのですが、その時はどちらかと言うと城より山が好きでアルプスばかり気になっていました。ですから、今回、改めて松本城をじっくり見たいと楽しみにしていました」

「そうですか。では明日は学芸員の福島君にしっかり案内させて頂きます。福島君、よろしく頼みますよ」

「はい。わかりました。宜しければ、城をご案内しました後、隣にあります博物館にも是非お立ち寄りください。」

「それは、有難いです。是非見学させて下さい」

そこで、草間係長が口を挟んだ。

「先生、その時に、田岡が作成しました松本城のレポートも、御一読して頂いて宜しいでしょうか。彼が松本城や城下町の事を色々まとめたものです。私もひと通り読みましたが、とても詳細にまとまっていたので何かと参考になると思います。なあ、田岡君」

「あ、はい。いや歴史専門の教授にお見せできるものかどうか恥ずかしいです。あくまで、松本市民や観光客向けにまとめたものですので‥」

「いやいや、田岡さん、歴史学というものは学者だけのものではありません。むしろ多くの一般の方たちに歴史を知ってもらうことの方が大事です。それを分かり易く正しく伝える事が歴史学の本質だと思っています。是非、そのレポートも参考にさせて下さい」

 

 翌朝、「梅の湯」を後にすると、田岡は一ノ瀬教授をタクシーに乗せ松本城へ向かった。外は相変わらず寒かったが、幸いにも晴天に恵まれた。

クルマを降り、教授は天守閣を前にすると、

「やはり、松本城はいいね。この土地にしっかり溶け込んでいるようだ。田岡さん、君の家も松本かい?」

「はい、私も小さい頃より松本城を見て育ちましたが、最近になってようやく松本城の歴史を知りました。もっともっと大勢の人に松本城を知ってもらう為、いま観光振興課という部署で松本城の魅力を地元や県外に発信できるよう準備しています」

「それは、いいことだ。私も少しは協力させてもらうよ」

「先生に、そう言って頂けると心強いです」

すると、「おはようございます」と声がして博物館から福島がやってきた。

「先生、昨日は色々お話を聞かせて頂き、ありがとうございました。宜しければお荷物を館内でお預かりしますので、早速松本城を案内させていただきます」

「ああ、では宜しくお願いします」

 黒門の入り口には、管理事務所の高橋さんが迎えに出ており丁寧にお辞儀をした。実は田岡が事前に「東京から偉い歴史学の先生が見学にいらっしゃるので宜しく」と知らせてあったのだ。

田岡の顔をみると、ニコッと笑って敬礼をして戯けてみせた。

 

 田岡は福島が教授に色々説明しているあとを邪魔しない様に付いてまわった。福島は妙子が話した内容とは違い、かなり専門的な説明をしており、その都度、教授は頷いている。

更に、普段一般公開していない乾小天守の四階・最上階や一階床下の天守台も案内してまわった。

天守閣をひと通り見学し終わると、福島は、また最初の入り口に戻り黒門の櫓の中に教授を案内した。

「先生、この黒門はまだ復元工事の途中ですので、少し足元に気を付けてください。ただ、仕上げもほぼ 終わっていますので、来年の春頃には完成する予定です。実はこれを造るにあたり昔の普請図が見つかりませんでしたので、名古屋城の櫓門を参考に市川清作先生に設計をお願いしたものです。引き続き、二の門として高麗門と控塀を復元できれば完全に枡形の入り口が復元できると思います」

「なるほど、早くそれも出来るといいですね」

この黒門(一の門)は昭和35年に完成するのだが、高麗門(二の門)が完成するのは、それから30年後の平成元年11月になってからである。因みに東からの出入り口である太鼓門も復元されたのは更に十年後の平成11年の事である。

 

空は秋晴れであったが寒さで冷え切った三人は黒門を出ると、まっすぐ暖房で温まった博物館に戻った。

「やはり、松本は冷えるね。天気は良いが風があると身を切られるようだ」

そこへ、妙子がお茶を持って部屋に入ってきた。

「先生、いらっしゃいませ。宜しければ温かいお茶をどうぞ」

「ああ、ありがとう。これはありがたい」と両手で湯呑を抱えると、美味しそうにお茶をすすった。

「福島さん、色々説明してくれたお陰で、松本城の事がだいぶ分かった。とても参考になったよ、ありがとう」

「先生に、そうおっしゃって頂けると私も嬉しいです。少しでも、先生のお役にたてれば何よりです」

「これ程の歴史的文化価値の高い建物をしっかり保存してきたのは、松本の皆さんの努力の賜物と言っていいでしょう。是非、これからも大切に管理して頂くようお願い致します。私も今までいくつか城を見てきましたが、松本城は四百年前の状態をそのまま現在まで残した最も素晴らしい城だと思います」

 

一ノ瀬教授は、満足そうな顔をすると、田岡の方に顔を向けた。

「ところで君は、今の日本に昔からの姿で現存している城がいくつあるのか知っているかい?」

「えっ、すみません。よくわからいです。3、40くらいですか?」

「残念ながら、そんなには無いんだよ。殆どが石垣だけしか残っていなかったし、最近になって復元建築されたものばかりで、建築した当時のまま現存する城は全部で12か所なんだよ。

 その中でも松本城は最も古く1594年に造られているが、他の城の天守はすべて〈関ヶ原の戦い〉の1600以降に建設されたものなんだ。しかも松本城は戦国時代に秀吉に命じられ造った大天守と泰平の世に家光を迎えるために造った月見櫓がみごとに融合されている珍しい天守だ。これだけでも歴史的価値が充分あるといえるんじゃないかな」

 

「そうなんですね。私は他のお城の事は殆ど知りませんが、松本城ってそれほど貴重な城なんですね」

「もともと、お城というのは、敵の攻撃を防ぐために築いた砦のような防御の櫓なんだが、それらは全国 各地に4~5万ほどもあったようだ。その内、石垣や天守のある近代的なお城は戦国末期から江戸初期の50年くらいの間で400ほど造られたんだ。

 しかし、江戸幕府の「一国一城令」により半数以上が取り壊しとなり、170城ほどに激減した。更に 明治時代に入り、お城が無用の長物とされ「廃城令」が出されたのだが、ここでも多くの城が取り壊され、軍用として使える城だけを残そうとしたんだ。その後、西南戦争のような戦が続きその多くが攻撃の的となり、結局天守が残された城は十二城となったんだよ」

「それで、昔のままの形で現存する城がたった十二城しかないとというわけですか」

「そうなんだ。その後も太平洋戦争の空襲で各地の城廓が失われたんだが、戦災や火災を免れた松本城は とても貴重だったので昭和27年に国宝になったんだよ。ほかにも姫路城、彦根城犬山城が同時期に国宝になったがね」

「先生、ありがとうございます。改めて松本城が貴重なお城だと認識しました」

「そうだ、田岡さん。松本城についてレポートを書いたんだってね。ちょっと見せてください」

「すみません。未熟な文章で恥ずかしいですが、こちらです」

田岡から渡された書類をしばらく読むと、

「いいんじゃないかな、わかりやすくて。この伝説の事は私も初めて知ったよ。歴史学において、こういった 伝説や民話も結構参考になるんだよ。田岡さん、君は松本城の観光誘致する仕事をしていると言ったね。この松本城の事を分かり易い文面でお城の中にいくつも案内板をつくって、観光客に読んでもらえる様にしたらどうだろう。きっと興味を引くことだろうし、大勢の人に松本城の貴重価値を知ってもらえると思うよ。

それから、城内の案内板だけでなく、駅前や大きな店舗、県外へのPRもどんどんやるべきだよ。私は 松本城の良さをもっと大勢の人に広めて欲しいと思っているからね」

「ありがとうございます先生、私も同じような事を考えていました。早速取り掛かりたいと思います」

 

 妙子は頷きながら教授がお茶を飲み干すのを見て、

「先生、温かいお茶に入れ替えますね」と新たにお茶を注ぐと、例の古文書を福島に渡し、自分も席に着いた。すると福島が、

「一ノ瀬教授、私達からもひとつお願いがありますが宜しいでしょうか?」

「はい、何でしょうか」

「先生は、歴史を調査する上で、普段いくつも古文書を読んでおられると思いますが、先生にお願いしたいのは、この古文書です」

と言って、田岡が持ち込んだ手紙を机の上に広げてみせた。

「これは、田岡君のおじが明治の末頃、松本城の修理をしていた際に天守の小屋裏で見つけた手紙らしいのです。私たちも何度も解読しようとしたのですが、なかなか文章の解釈が出来ず困っておりました。出来ましたら、先生のお力をお借りして是非鑑定して頂ければと思いますが如何でしょうか?」

「ほう? 天守の小屋裏とは、また妙な処から出てきた手紙ですね」

一ノ瀬教授はメガネを胸ポケットから取り出すと、じっくりそれをながめ始めた。

しばらく、考え込む様子を見せていた教授がやがて口を開いた。

「う~ん、これは多分「隠し文」といわれる密書の様なものと思うのだが、少し時間を頂かないと私にもすぐには解読できないなあ。ただ、大久保藤十郎から石川玄蕃頭宛にわざわざ、こんな謎めいた手紙を送ったというところが気になりますね」

「そうなんです。ところで先生、隠し文とは何ですか?」

「戦国時代や江戸時代初期によく使われた密書のことだ。その頃は通信手段として手紙しかなかったが、重要な文書が万が一、敵方に渡ったとしても、その内容がすぐに分からない様にしたものなんだ。味方同士だけに通じる法則をもって解かないと読めない文章になっている。福島さん、よかったら、ひとまず私に預からせて貰えるだろうか?」

「もちろんです。先生にそうおっしゃって頂ければ助かります。どうやら、私たちの手に負える古文書ではなさそうです。先生、宜しくお願い致します」

「わかりました。出来るだけの事はやってみましょう。」

そう言うと、手紙を丁寧に折りたたみ書類入れにしまうと自分の鞄に収めた。

それを見た田岡が、すかさず教授に問い掛けた。

「先生、すみません、その大久保藤十郎という人はどんな人物なんですか。石川長康とはどんな関係なんですか」

その手紙を叔父から預かっていた田岡にとっては、以前からこの二人がなぜ手紙をやり取りしていたのか疑問に思っていた。ましてや、通常の手紙ではなく何か謎めいた内容だと聞くと、大久保という人物に益々興味がわいてきたのだ。

「それでは、折角なので大久保藤十郎について話す前に、まず、その父・大久保長安という人物から説明していきましょう」

       松本駅前を走る路面電車(通称チンチン電車

まつもと物語 その19

   松本城案内

 

 田岡が外で待っていると、淡いブラウンのジャケットを着た妙子が小走りに玄関から出てきた。

「田岡さんお待たせ。福島さんの話どうだった?」

「うん、色々と僕の知らない話が聞けて面白かったよ。石川父子の話を聞いた後に改めて松本城を見ると何か違って見える気がする。天守閣の中は前にも見た事あるけど、薄暗くて階段が急だったことくらいしか印象にないよ」

「私も最初はそうだったけど、今は大勢の人に色々説明しているうちに増々このお城が好きになったわ。 じゃあ中に入りましょう。あっ、そうだ、その前にこの博物館が建っている場所が、元々お城の二の丸だったって話聞いたでしょ」

「うん、ここに石川数正の屋敷があったんだよね。古山地(こさんじ)御殿(ごてん)っていうんだってね」

「そう、正解! その後明治になって松本中学校を建てたのだけれど、お城の事しっかり勉強したんだね。安夫君えらい、えらい」

「ちょっと! 僕のことバカにしてない? せっかく福島さんが説明してくれたんだから覚えているよ」

「ごめんね。そうだよね。ねえ、ちょっと大名町の通りの方を見て。あの女鳥羽川の縄手までが三の丸で、 総堀があったところまでが松本城だったって聞いたでしょ。昔この辺りに武家屋敷がズラッと並んでいたなんて、なんか想像すると広くてすごくない?」

「そうだね。松本城って天守閣とこのお堀だけだと思っていたから、改めてみると松本城って本当に広かったんだね」

「今、田岡さんが働いている松本市役所だって、元は松本城の三の丸だったところなのよ」

「そうか、そう言われれば、福島さんから見せてもらったお城の地図だと市役所の場所って、昔は武家屋敷 だったところだよね」

「そうよ。ほんと松本城ってすごいんだから! じゃあ、本丸の中へ行きましょう」

 

 妙子と田岡は内堀をわたり正面にある復元工事中の黒門の前に立った。

黒門のすぐ左には入場料を払う管理事務所がある。妙子が「こんにちは」と声をかけると、中にいたおじさんが顔を出した。

「やあ、妙ちゃん、久しぶり。あれ、妙ちゃん髪の毛切ったの? いいねえ、可愛いよ、よく似合ってる」

「えっ、ほんと、ありがと」

「あれ、今日は彼氏を連れてデートかい?」

「やだ、高橋さんたらあ。違うわよ、こちら田岡さん、市役所の観光振興課の方よ。今日は田岡さんを案内しに来たの」

 田岡は、自分が口に出せないでいる妙子の髪型の事を平然と褒めるこのおじさんに嫉妬を覚えたが、ポケットから名刺を出し、

「こんにちは、田岡といいます。今後、松本城を観光促進として何度か伺うことになりますので、宜しくお願いします」

「そうですか。私、ここの管理事務所に勤めています高橋といいます。よろしく」

と愛想よく言った。田岡が入場料を払おうとすると、妙子が、

「私たち、松本市の職員だから入場料はいらないの。いつでも入っていいのよ。そうだ、高橋さん、田岡さんにも証明書渡してあげて」

「ああわかった。田岡さん、今度からこのカードを見せて入ってください。はい、通行手形!」

と言ってビニールケースに入ったカードを田岡に手渡した。そこには「職員証明書 松本市」と書いてあった。

 

 ふたりは改めて黒門の前に立ち、上を見上げた。工事中で一部シートが被(かぶ)さっていたが、扉は開いており太い柱と梁で頑丈そうな門構えだった。柱上部の飾りは秀吉が天皇から下賜されたという『五七の桐紋』が取り付けられ威厳と豪華さが感じられた。

「田岡さん、ここに立って周りを見て。ここは黒門といって本丸に入る重要な入り口よ。いま、復元工事中なんだけど、ここは枡形といって敵がここに侵入した時に、周りから弓や鉄砲で狙われるから逃げようがない場所になっているの。最強の関門だったみたいね」

 黒門をくぐると、芝生を張った広い本丸の庭があらわれた。ここは三十年ほど前までは、松本中学校の運動場として使われた場所でもあった。

「この本丸庭園には石川康長時代に天守と一緒に本丸御殿が建てられたけれど、今から二百三十年前に火事で焼失してしまったのよ」

「その後もずっと建て替えなかったの?」

「その時の城主は七代目城主・戸田光慈って殿様だったんだけれど、財政困難だったし、徳川幕府から勝手に建て替えや改築する事が禁止されていたの。だから仕方なく、ここはそのまま庭にして政務を二の丸御殿に移したそうよ。でもその二の丸も明治維新後、筑摩県庁として使っていたけれど、明治九年にやはり火事で焼失してしまって今は何も残っていないわよ」

「あっ、その話、前に職場の同僚から聞いたことがある。長野市と県庁所在地で競っていたけれど建物焼失したので負けたって」

「そう、よくご存じね。本当にそれが原因で県庁が長野市に決まったかどうかは知らないけど」

 芝生を城に向かって進むと、大天守と右の乾小天守が並んでいて、ここから見る城もかっこいいと思った。すると妙子はその右側に立っている苗木を指差した。

「これ、桜の木の苗木なんだけれど、ここに昔大きな桜の木があって『駒つなぎの桜』という伝説があるのよ」

「え、どんな話なの?」

「では、これからその伝説を話します。

この松本城が完成した頃、加藤清正が江戸からの帰りにお祝いの為にこの城に寄りました。それで帰るときに石川康長がお土産として選りすぐりの名馬二頭連れてきて桜の木の下に並べ、どちらか優れていると思う方の馬を一頭差し上げたいと伝えたそうです。すると、清正は『あなたほどの目利きが選んだ馬をどうして私が選ぶことが出来ましょうや』と言い、二頭とも連れて帰ってしまいました。後でその理由を聞くと、一頭を選べば一方は駄馬という事になり、また劣っている方の馬を選べば清正は見る目が無いと笑われることになる。そこで二頭とも連れて帰ることにしたという事でした。これを聞いた人々は『さすが、清正公』と言って大いに感心したというお話です」

「ふ~ん。なんか加藤清正の方が康長より一枚上手でしたって話みたい」

「ううん、ちょっと違うんだけどな‥。実はこの話、福島さんから聞いて私が管理事務所の高橋さんに話したら『それは面白い』と言って、どこかから苗木を持ってきて、去年、私と一緒に植えたのよ。あと、何年かすればここで満開の桜が天守閣の横で見られると思うと楽しみだわ」

 

 もうひとつ、松本城には花に関わる伝説がある。月見櫓の前の庭に大きな白いぼたんの花が咲いているがこれも伝説となった『小笠原ボタン』である。天文十九年、武田軍が林城小笠原長時を攻めた際、長時が愛(め)でてきた『白ぼたん』を武田の兵に踏まれることを危惧し、祈願所であった山辺兎川寺の住職にその株を託し落ち延びた。そのぼたんを兎川寺檀家の久根下家が「殿様の白ぼたん」として四百年あまり守り続けてきたが、久根下家の子孫が昭和三十五年に十六代小笠原当主に経緯を話し、松本城の本丸に再び植えたという話である。

 

 その時、妙子の後ろから外国人の老夫婦が声を掛けてきた。

「チョット、スミマセン。少し話を聞きたいです」

妙子は、外国人を見ると明らかに戸惑った。なぜならその後、英語でペラペラと色々尋ねてきたからだ。すると、それを聞いた田岡が流暢な英語で答えた。妙子はキョトンとした顔でそれを聞いていたが、話が終わると老夫婦は笑顔で「アリガトゴザイマス。オオキニ」と言って天守閣に入って行った。ほっとした妙子が、

「今の外人さん、最後にへんな日本語を言っていたわよね」

「うん、なんか関西弁が入っていた」

「それにしても、田岡さん英語得意なの?すごいね」

「うん、大学の時、英文学科にいたからね。このお城はいつ頃建てられたのか? とか誰が建てたのか?とか色々聞かれたから説明しておいた。僕もまさか、こんなに早く人に説明できるとは思わなかった。しかも外国の方に。なんか自分でも嬉しい気がする」

「へえ、よかったね。早速、福島さんから教えてもらった知識が役にたったね」

「うん、それから、さっきの外人さん、色々日本のお城を見て回っているらしいよ。それで今まで見てきた中でこの松本城が一番素敵なお城だって誉めていたよ」

「まあ、嬉しい!」

「僕のやろうとしている観光振興の仕事も県外の人たちだけでなく、これからは外国の人たちにも分りやすい案内板とか必要だよね。ねえ花岡さん、これから大勢の人に分りやすい松本城の案内文とか説明文つくりたいから協力してくれない?」

「もちろん、いいわよ。私も手伝うから頑張ってね。じゃあ、天守閣の説明をしていくね」

「はい、お願いします」

 ふたりは、大天守を見上げた。全体的に城は白い漆喰と黒漆塗りの下見板で出来ており、これが防水の役割をして雨や信州の極寒から守っている。そしてこの白と黒の対比が絶妙の重厚感と美しさを醸(かも)し出している。加えて、軒下の垂木にも白漆喰で被われ、この平行垂木が美しさと豪華さを引き立たせていた。

 ちなみに、現在でも毎年十月頃、専門の職人さんが下見板全面に黒色の漆を上塗りしている。この細目なメンテナンスが松本城をいつまでも美しく保っている大事な作業である。

また、三階・四階部分の屋根には、三角形の『千鳥破風』や頭部に丸みをつけた『向唐破風』という変わった屋根がついているが、これは威厳を表す装飾屋根である。この破風屋根があるから、松本城はかっこよく見えると妙子は説明した。

「うん、確かにその破風って屋根が付いていなかったら、平凡な屋根にしか見えないかもしれないね」

「あの大天守の左側にあるのが、月見櫓でそこと繋げたのが辰巳附櫓ね。この部分はあとから増築したのよ」

 この月見櫓は辰巳附櫓と共に寛永10年(1633年)に四代目城主松平家で、家康の孫でもある松平直政によって増築された櫓である。

その月見櫓は周りには『朱塗りの刎高欄』という廻り縁がデザイン意匠としてひときわ目立っている。

 

 この建物は、徳川三代将軍家光が寛永11年、上洛の帰り道で長野の善光寺参詣を願い、途中の宿城として松本城に来る予定となり急遽、将軍をもてなすために造った櫓である。しかし、実際には途中、中山道木曽路で落石があり結局家光は松本に来ることはなかった。もし来城が実現していたら、家光公には大いに喜んで頂けただろうか?

 この増築部分はいずれも泰平の世になって造られた建物であり、大天守・乾小天守の迎撃型の造りとは全く異なっている。

 戦乱期と泰平期の異なる時代に増築した櫓が、見事に融和され松本城が出来上がっているのも、大きな魅力のひとつと言う説明だった。

 

「じゃあ、そろそろ天守の中に入ろうね」

「うん、お城の中に入るのって、何年ぶりだろう。たぶん小学生以来かも‥」

 

 乾小天守と大天守を繋ぐ渡櫓の真下に大手口と呼ばれる入り口がある。いきなり急な階段を上ると一階の広間になる。中は薄暗くケヤキの太い柱ばかりが目を奪った。壁側には50㎝下がった通路があり、これは、戦闘の時に武士が矢玉を持って走る「武者走り」というそうだ。内堀に面した壁には外の敵兵に向け弓矢や鉄砲を撃つ「狭間」と呼ばれる小さな窓がたくさんある。

「これが石落としという仕掛けよ。今ふたを開けるから、ちょっと覗いてみて」

そういうと妙子は内ぶたを外した。田岡はそっと覗くと急な傾斜の石垣をそこから見下ろすことが出来た。

「ここから、石垣を登って来る敵兵に大きな石や熱湯を浴びせる為に造ったらしいけど、実際には弓や鉄砲で頭上から攻撃する目的だったみたい。この『石落』は全部で十一か所あるのよ」

「こんな所から攻撃されたら、石垣をよじ登って来る敵兵も堪らないよね。攻める方も守る方も必死だね」

「そうね、更にここの壁は特に厚くしてあるの。30㎝くらいあるから、敵が鉄砲で撃ってきても貫通しない様に頑丈に出来てるそうよ。それから、狭間は特に敵から鉄砲で狙われやすい所だから、壁の内側に厚さ8㎝の防御板が二枚入っているんだって。完璧ね」

田岡は、次に内部に目を移すと、薄暗い中に太い柱が林の様に立っている。

「それにしても、太い柱ばかりだね」

「そうね、相当荷重が掛かってそうだから、この位太い柱が必要なのね。全部で89本あって、その内60本が二階と繋がっている通柱よ。松本城って明治と昭和に二度大修理しているけれど、この柱は四百年前建てた時の柱だそうよ。何かすごくない?」

「そうだね、時代を感じるよね」と柱に手を触れ軽くさすった。

「今は柱しかないけど、ここの中央部は以前、間仕切り壁で四つの部屋があり、すべて倉庫として使われていたそうよ」

「ああ、それ福島さんから聞いたことがある。食料品や武器とか弾薬を置いてあったんだよね」

「その通りです。じゃあ二階へ行きましょう」

「この階段って本当に急だよね。上るの一苦労だよ。昔の人って背が低かったって聞いたことがあるけど、大変だったろうね」

 

 二階に立つと、北を除く三方に『竪格子窓』とよばれる武者窓がズラッと並んでいた。そのせいか、一階よりかなり明るい感じがした。

「この格子の間からも鉄砲で敵兵を狙うことが出来そうだね。あっ、お堀がきれいに見える。いい眺めだね。でも、こんな窓ばかりで大丈夫かな。敵に狙われやすいし、雨や雪が入ってきそうだよ」

「大丈夫。ちょっと窓から外の上の方を見て。雨よけの突き上げ戸がついているのよ。これを下げれば、外からの攻撃や雨を防げる仕掛けになっているよ」

「なるほど、うまく出来ているんだね」

「この二階は、『武者営所』とか『武者溜』といって戦の時に武士たちが控えている場所よ。窓が多いから弓や鉄砲で攻撃できるし外の様子をここから監視していたのね」

 

 次に三階に上った。隠し階と呼ばれるだけに窓が全くないが、破風になっている所から少し明かりが入り、外の様子を覗うことができる。また、一部の天井に四階が見える吹き抜けとなっているせいか意外と明るかったし、低い天井の圧迫感もなかった。戦時は倉庫や避難所として使われたと福島さんから聞いていた場所だった。

 四階に上ると、今までとは少し雰囲気が変わった。なぜなら、ここが有事の際『御座所』と呼ばれる城主が居座る場所だからである。いままで見てきたどの階も柱の表面はうろこの様な模様がある。これは当時の大工が手斧でコツコツと削った跡だからである。しかし、この階だけはヒノキ材を使い表面を鉋できれいに仕上げてある。更に天井が高く「下がり壁」と「長押」を廻し「鴨居」の上には小壁もあり、仕切りは簾で囲み、しっかり部屋として出来上がっている。今は板敷きだが、当時はここに畳を敷き詰めてあったという 説明をしてくれた。

 

 四階から五階へ行く階段は特に急な傾斜となっていて、少し息を切らしながらやっと五階にのぼった。

「この階段は最も傾斜があって61度ですって。急な階段ほど敵が入ってきたとき上から攻撃しやすいそうよ。でも、ここまで敵がくるとすれば、もうおしまいよね。それで、この五階は重臣たちが作戦会議室として使った部屋ですね」

 五階には南北に唐破風があり、その破風からも外の全方向が見られるようになっている。きっと戦の時はここで戦況を確認しながら重臣たちが評議を行う事を想定して造られたんだと思った。

 更に五階から六階に上る階段も急な傾斜だが、ここには途中に踊り場が設けてあったので助かった。 

 

 そしてようやく最上階の六階にたどり着いた。この最上階には天井板が張っていないので、大きな梁がむき出しに見える。中央の小屋裏には以前、塩尻の叔父が話をしていた太い桔木(はねぎ)が何本も集まっており、この桔木というのがテコの原理で重い屋根を支えていると説明を聞いた覚えがある。

「花岡さん、あの桔木が集まっているところに何か祀ってあるけど、あれは何?」

「えっ、桔木なんて言葉どこで覚えたの?福島さんがそんな構造材のことまで説明したの?」

「ううん、そうじゃないけど、前に話した例の手紙って、塩尻の大工のおじさんが明治の大修理の時に、あの桔木の所で見つけたって言っていたんだ」

「えっ、そうなの。あんな所、普段誰も手が届かないし余程の事がないと覗いたりしない場所よね。なぜあんな所に手紙を隠したのかしら。益々あの古文書が気になるわ。早く解読しないといけないわよね。あっ、そうそう、あの祀ってある祠は『二十六夜神』っていって伝説があるのよ」

「ええっ、また伝説なの? 松本城って本当に伝説が多いよね」

「うん、それだけ長い歴史があるってことじゃないかしら」

 

 元和4年(1618年)、小笠原氏を継ぎ三代目城主となった戸田康長が初めて松本城に入った年である。正月二十六日の夜、本丸御殿の警備を行なっていた川井八郎三郎清良という武士がいた。ちょうど東に月が出たころ、自分の名前を呼ぶ声がして後ろを振り向くと、そこには白衣に緋(赤)色の袴をつけた女神が立っていた。その神々しい姿を見て思わず八郎三郎はその場にひれ伏した。

すると、その女神は八郎三郎に錦の袋を与え、

「我は二十六夜神である。これから後、我を天守に祀り、毎月この日に三石三斗三升三合三勺の米を炊いて祝えばお城は栄えていくであろう。ただし、この袋の口を決して開いてはならぬ」

と言うと、いつの間にかその姿は消えてしまった。翌朝、八郎三郎はこのことをすぐ城主戸田康長に報告すると康長は、

「それは、月の神様のお告げに相違ない。即刻その通り行なえ」と指示した。

 その後、康長は、天守六階の梁の上に二十六夜神様を祀り、言われた通り翌月より毎月二十六日に米を炊きお餅を供え祀ったとの言い伝えである。享保12年、本丸御殿が火事に会った時、天守が焼けなかったのは二十六夜神様のお陰だと今も語り伝えられている。

 

 妙子の話が終わると、思わず田岡はその祠に向かい軽く手を合わせた。すると、妙子も「早くあの古文書を解読できますように」と真似して手を合わせた。

 

 天守の最上階から外を覗くと、松本平を一望することが出来る。西に傾き始めた太陽がまぶしかったが、常念岳の上には、青空に幻想的に描かれたうろこ雲が一面に広がっていた。

「花岡さん、この松本城って、こんなに戦いに備えて堅固のお城に造ったけれど、結局一度も戦はなかったんだよね」

「うん、そうね。だから、今もこんな立派なお城を見ることが出来て本当に良かったと思う。長い歴史の中で松本城が出来てから一度も大きな戦争に巻き込まれなかったものね。私、松本に生まれて良かった」

「うん、僕も松本に生れてホントによかった。妙子ちゃんとも出会えたし‥」

「えっ!」妙子は一瞬驚いた顔をし、うつむいた。

「あっ、ゴメン変な言い方しちゃった。今日は花岡さんに色々案内してもらって良かったって意味だよ。ははっ」

慌てて田岡はその場の空気を取りつくろった。そして無意識に口にした自分の言葉に自分自身驚いた。

「う、うん。そうだよね。田岡さん急にそんな事言うんだもん、びっくりしちゃった。じゃあ、ひと通りお城も案内したし、そろそろ戻りましょうか」

「そうだね。今日はありがと。近いうちにお礼するね」

「じゃあ、今度、なにか美味しいものごちそうしてね」

「うん、喜んで!」 

 

ふたりは、お城をでると博物館の玄関まで戻った。

「花岡さん、ホントに今日はありがとう。福島さんにもお礼言っておいてね。じゃあ」

田岡は手を軽く振って庁舎に戻ろうとした。

「あの~、田岡さん」

「なに?」

「わたしも安夫くんにまた会えてよかった‥」

「えっ」

「じゃあね」と妙子は少し笑みを残し館内に逃げるように入っていった。

 

               松本城 5層6階

               1階 武者走り

               6階 最上階

まつもと物語 その18

   少憩

 

 話がひと段落したところで、福島は飲み残しのお茶を飲み干すと、

「いかがですか。ここまでで何か質問ありますか?」

「ありがとうございます。すっかり聞き入ってしまいました。石川数正は結局、松本城が完成しないうちに亡くなってしまったのですね。あれほど城造りに熱が入っていたのに、さぞかし心残りだったのでしょうね。

 それにしても秀吉はなぜ明国まで領土にしたかったのでしょう。折角、天下統一を成し遂げて日本を戦のない安泰の国にしようと思えば出来たのに、また、国外で戦争を始めるなんて本当に秀吉ってどうかしてますよね」

「本当ですね。ただ、秀吉は、単に朝鮮や中国を野望や私利私欲のために侵略したわけではありません。秀吉は関白までの地位を築いたのですが、元々歴代の伝統や家督を継ぐ譜代大名ではなく、権力の正統性が殆どない人です。その中で部下を惹き付けるためには、恩賞を常に与えなければならず、それまでは戦で成果を上げた武将には金銀か領地を分け与えていたのですが、統治が終わると、それも少なくなり、新たな領地として海外に求めるしかならなかった事が理由のひとつだと言われています。秀吉は家康の様に、国内の産業を発展・育成する考えを重視していなかったのでしょうね」

「なるほど。そういう事だったんですか。やはり家康の考え方と違いますね」

 

「田岡さん、そろそろお昼ですね。話の続きは午後にしましょう。まだ、城も城下町も完成してませんからね」

「えっ、もうそんな時間ですか。では、近くの食堂でお昼いっしょにどうですか?」

椅子から立ちあがり部屋を出ようとすると、妙子がひょっこり顔を出した。

「皆さん、お昼出掛けますか? よかったら、私もご一緒して構わないかしら? わたし今日、お弁当持ってきてないの。ひとりで食べに行くのも嫌だから、皆さん話が終わるのを待っていたのです。ひょっとして、お邪魔?」

「私は全然構わないけど、田岡さんはどう?」

と福島が聞いてきた。

「勿論です。是非、一緒に行きましょう」

と自分でもびっくりする程、早口で即答した。

 

 建物の外へ出ると、目の前に松本城がその雄大な姿を澄み切った青空の中に立ち映えていた。田岡は改めて城に見惚れた。

「福島さん、先ほどの話を聞いて昔の人はよくあんな凄い城を造れたのだとつくづく感心します。だって、その時代はクレーンとかショベルカーやダンプも無く、全部手作業だったんですよね」

「そうですね。いくら人海戦術といっても、今と違って昔は本当に凄い技術力を持っていたんですね」

ふたりは、もう一度城を見ながら、大勢の人足たちが作業している風景を頭に思い描いた。

「ところで、何処にしようか。花岡さん、何か食べたいものある? 今日は福島さんに話を聞かせてもらったお礼に僕が皆さんにごちそうするよ」

「えっ、ほんと、嬉しい。そうねえ。わたしナポリタン食べたいな。あの喫茶店にあるんじゃない?」

妙子が指差したのは、以前清水先生と久しぶりに会って話をした店だった。

 

 店に入ると、結構客が多かったが、四人用のボックス席がひとつだけ空いていた。妙子の横に福島が座ると、田岡はカウンターに向かって「ナポリタン三つお願いします」と声をかけた。

安夫の正面には妙子が座った。田岡が妙子の髪の毛に目を向けると、それに気付いたのか

「どう、似合う? これヘップバーンカットっていうのよ。一週間前に美容室でセットしてもらったの」

と言いながら自分の短い髪の毛を撫でてみせた。すると、横で福島が、

「田岡さん、ちょっと驚いたでしょ。僕も事務所で初めて見た時は、突然長かった髪の毛を切ってきたので びっくりしましたよ。花岡さんにどうしたのって聞くと、何だか今流行っているらしいんだって」

「そうよ、田岡さん、オードリーヘップバーンって知っているでしょ? ローマの休日って映画知らない?」

「うん、ポスターは見た事はあるけど、映画はまだ見ていない。確か、縄手通りの中劇でやっていたよね。花岡さん、映画好きなの?意外だね」

「どうして?ひょっとして私が毎日、昔の所蔵品とにらめっこしているとでも思っているの?」

「だって、学芸員の資格とるため毎日かなり難しい勉強とか、しているんでしょう?」

「そうだけど、家に帰れば別よ。私の家に映画雑誌とかパンフレットとか沢山あるのよ。田岡さんは映画見ないの?」

「僕はもっぱら、時代劇や西部劇が多いかな。そうだ、福島さんも映画見るんですか?」

「私だって見るよ。ゴジラとか‥」

ふたりは同時に「えっ~」と声をあげた。福島はその驚く顔をみて、笑って答えた。

「実は、うちの息子が怪獣映画好きなんだ」

「えっ、福島さんって結婚されているんですか? しかもお子さんもいるんですね」

「なんだよ、ふたりして。私だって妻も子もいますよ。息子が二人で、上が小五で下が小三年だがね」

「そうなんですか。何だかお二人とも意外です。博物館にお勤めだから、なんとなく勤勉で固いイメージがあったのですが」

「全然、そんなことないですよ」と福島は笑って手を振った。

そこに、店員が「お待たせしました」と言ってナポリタンを運んできた。

妙子は、「美味しそう」とフォークを手に取り、皆も早速旨そうに頬張った。食後のコーヒーが出ると、

「田岡さん、今わたし例の古文書を調べているのだけれど、あの手紙の裏にも何か書いてあるのに気が付いたのよ。かなり薄い文字で中々読み取れないの。なんだか不思議と言うか謎めいた手紙みたいで、内容がさっぱりわからないわ。今は読めた文字だけを並べて前後の意味を推理しながら解読しているところよ。時間掛ってごめんなさいね」

 すると、福島はコーヒーカップを持ったまま、

「私が思うに、何か大事なことを石川康長に伝える貴重な手紙じゃないかな。僕も今抱えている仕事が落ち着いたら、今度こそじっくり解読しようと思っている。花岡さんも引き続き頼むよ」

「はい、わかりました。本当に何か謎解き問題みたい。私、絶対解読してみたいわ」

「すみません。あんな手紙を僕が持ち込んだばっかりに、おふたりにこんなお手数掛けるとは思いませんでした」

「いえいえ、こちらこそ、時間をお掛けして申し訳ないです。私も何かあの手紙から歴史的事実が分かれば、こんな嬉しいことはないです。では、そろそろ戻って話の続きをしましようか」

 

 安夫は会計を済まし店の外に出ると、

「田岡さん、ホントにお昼代いいんですか?」

「勿論です。僕が出来るのはこれくらいですから」

「ごちそう様でした。じゃあ、近いうちに美味しいお店にお連れしますね。今度は福島さんのおごりで‥」

「おい、おい、花岡さん勝手に決めないでくれ。まあ、いいけど ははっ。ところで花岡さん、この後もう少し田岡さんに松本城の話をするのだけれど、ひと通り話が終わったら、田岡さんを実際のお城の中に案内して説明をしてあげてくれないか?」

「はい、わかりました。田岡さん、私いつもお城で小・中学生や団体客を相手に説明しているのよ。じゃあ、話が終わったら声を掛けてください」

 笑顔でそう言うと、妙子は自分の研究室に戻って行った。

 

 

 石川玄蕃頭

 

 田岡と福島も部屋に戻ると、また机の上に資料を並べ話の続きを始めた。

「先ほどは、石川数正が亡くなったところまで話しましたが、息子の康長は、父・数正の遺体を京都に移し、そこで葬儀をしたようです。その後、父の代理として名護屋城に五百名の兵を率いて駐屯していました」

「そうすると、松本城の工事はどうなったのですか?」

「後に残った設計師の永井工匠が工事の指揮をとった思いますが、城主の数正が死んで、跡継ぎの康長まで遠征に行ったとなると、たぶん工事は捗らなかったのではないかと思います。

 そもそも、その頃の秀吉は松本城のことより、明や朝鮮への進出することしか頭になかったんだと思います。秀吉がここまでムキになって朝鮮出兵を決行したのは、一番信頼していた弟の秀長の病死と秀吉が高齢になって淀殿との間にやっと生まれた鶴松が、立て続けに病死した事で精神的にショックが大きく、秀吉を狂わせたのではないかとも言われています。

 その翌年の文禄2年(1593年)、秀吉の二番目の実子・秀頼が誕生すると、朝鮮国との戦いを一旦休戦します。しかし今度は母の大政所が他界し、そして、秀吉は姉の長男で養子にした二代目関白秀次を切腹させました」

「そうなんですか‥。なぜか天下を取ってから秀吉の周りに不幸が続きますね」

「康長は、その同年、正式に二代目松本城主を継承し、数正の遺領十万石の内、八万石を相続し、残りの一万五千石を次男・康勝に、五千石を三男・康次(半三郎)に相続させました。

 次男の康勝は朝鮮ソウルに行って短期間で帰還したという記録は残っていますが、休戦になった為、長男の康長は朝鮮に行かず名護屋城から藩主として松本に引き返し、数正の思いを引き継いで城造りを再開したのです」

「では、いよいよ松本城を本格的に造っていくわけですね」

「はい、康長は父の意志を引き継いで、天守は朝鮮と休戦中の文禄2年から文禄5年の三年間で完成したとされているのですが、実は、休戦翌年の文禄3年に松本城の築城中だった康長は弟の康勝と共に、秀吉から京都に新たな城造りを命じられているのです」

「えっ、松本城を造っている最中に秀吉は別の城造りをしろと言ってきたのですか?」

「そうなんです。その城というのは他の大名と分担制だったのですが、秀吉の隠居用に造られた京都の伏見城なのです。しかし、文禄五年(慶長元年)、完成した直後に〈慶長伏見地震〉という大地震が起こり、出来上がったばかりの伏見城はすべて破壊されて、結局別の場所に造り変える事になってしまったのです」

「またしても、地震ですか。本当に秀吉の周りは不運が続きますね」

「では、康長が松本に戻り、天守閣を造った話を始めます」

 

 文禄2年(1593年)八月、秀吉の朝鮮征伐が休戦となり、石川康長は松本に戻った。そして、亡き数正を弔う為、浄林寺を数正の菩提寺として整備し御霊社を創建した。この時には、すでに父数正の構想通り松本城下町は区画割り整備や本丸の新しい敷地も整地されている。

 堀は三重となっており、本丸には天守と本丸御殿、その周りを内堀、その南側に凹型の二の丸、その外側に全体を囲むように外堀、外堀を囲むように三の丸に八十八軒の侍屋敷を配置した。そして更にその周りを惣堀で囲み、南大手門に枡形と武田信玄に倣い半円型馬出し四ケ所を三の丸への出入り口とした。この三重の堀構えと三の丸までの城造りは数正が見てきた大阪城を明らかに意識して倣ったものである。

 

 康長は、いよいよ天守の築城に取掛ろうとしていた。間取りや構造図は数正と永井工匠信兵衛信房との間で念入りに作図されており、これに基づいて城普請(工事)が始まった。普請奉行は二代目松本藩主・石川康長である。まず地祭(地鎮祭)を山田清太夫により司り、天守の縄張は細萱河内、大工棟梁は山辺辻堂の木下長兵衛、そして主大工を松村次郎兵、鶴井六郎衛門が担った。

 

 この敷地はもともと湿地帯の軟弱地盤の為、基礎は建物の自重に耐え沈まない様に『筏(いかだ)地形』という松の丸太を横に並べ、束石を置きその上に16本の土台支持柱(栂・直径40㎝、長さ5m)を建てていく工法を取り入れた。石垣も同様、松の胴木と筏地形の上に石垣を積んだ。積み石は『野面積み』といって自然の石をあまり加工せず積み上げた石垣で隙間を埋める様に小石を挟み込んだ。また、石垣の背面は補強と排水を目的にした『割栗石』で裏込めしてある。

 この石垣は筑摩山地(松本盆地の東)から運び出した安山岩を用いた。こうして出来上がった天守台の上に約千トンの建物を載せる作業工程となるのだ。

 併せて、飲料水を確保するため、水脈まで掘り抜き井戸の確保もした。幸いに湧水が多く井戸は数か所に及んだ。

すでに建築木材は本丸敷地内に山積みされていた。そこの脇で石川康長は出来上がった天守台を前に図面を見ながら永井工匠に質問を投げかけていた。

「永井殿、この図面では外観は五重の屋根が掛かっているが、内部は六階となっておるのはなぜじゃ?」

「はい、これは五重六層と申しまして、三階の部分には窓がなく避難所としての隠れ部屋となっております。天井はやや低いですが、ここに大勢の兵士を控えさせ、いざという時にここから兵を一気に送り出します」

「なるほど、確かに隠れ部屋だな。では、その他の階ではどの様に使う目的で造られておるのだ?」

「はい、まず一階は倉庫として使います。食料はもちろん、刀・槍・弓・鉄砲などの武器や弾薬などを常時準備しておく場所となります。二階は縦格子窓を多く作ってあり、ここから弓や火縄銃を撃てるように備えております。三階は先ほど申した通り隠し階です。そして四階は、御所でございます。ここも万が一敵が攻めてきた時に石川玄蕃頭様に籠って頂く部屋でありますが、時には殿が寛ぐ場合も考慮し部屋には畳を敷き、小壁をおろし長押も造作してございます。建具はございませんが、簾を付ける様にしてありますがいかがでしょう? 次に五階ですが、ここは有事の際、ここを戦略・戦術など評議を行なう部屋として使用致します。そして最上階の六階ですが、ここは四方見晴らしがよく、敵方の動きが充分見渡せる望楼の場所でございます」

「六階は望楼と申したが、大阪城の様な外側に物見やぐらはなぜ造らんのか?」

「この松本の地は冬の厳しい寒さと降雪の寒冷地であり物見やぐらは、相応しくございません。外側に廻り縁を作ると雪が積もり、やがてそれが凍ると雨漏れの原因となり天守建物を早く劣化させる事となります。物見はあくまで城内部より願いとうございます」

「うむ、わかった。それにしてもこの様な高層の天守を建てて倒壊の恐れはないのか? 通し柱の長さが足りないのではないのか?」

「はい、先ほどご覧頂いたように天守台はかなり堅固にしてあります。そしてこれから建てる大天守の構造は簡単に申し上げると、二階建ての建物を三つ重ねた形となります。つまり最初に通し柱でつないだ二階建てを建て、その上に三階四階の建物をのせ、更にその上に五階六階をのせるとお考え下さい」

「うむ、理屈はわかったが困難な普請であることは違いない。くれぐれも事故など起こさぬよう留意して作業にあたってくれ」

「はっ、かしこまりました」

 

 天守はまずは大天守、次に乾小天守を建て、最後に二つの天守を渡櫓でつなげた連結式で造られた。連結式天守とは敵から攻められた事を想定し全方向に向け堅固な防備ができる迎撃形状である。

また、この天守群には合計115か所の『狭間(さま)』を作った。狭間とは弓矢鉄砲を撃つための小窓である。更に一階の腰板には『石落とし』というせり出した壁になっており、石垣を登って来る敵兵に向けて弓や 鉄砲それに投石・熱湯を浴びせる仕掛けも造った。このように松本城は戦を前提に迎撃と守備固めを徹底した城に造り上げたのだった。

 

 文禄4年(1595年)八月、松本城天守が順調に完成に近づいた頃、康長に大阪から驚くべき書状が届いた。秀吉の姉・ともの長男で秀吉の養子となって二代目関白を就任した豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ切腹をしたという一大事であった。しかも秀次の身内である妻、子五人、そして家臣、側室、侍女まで一族郎党の計三十九人が京都三条河原で処刑されたとの事であった。

 この狂気とも思える秀吉の仕打ちの裏には二人目の実子・秀頼の誕生により跡継ぎを考え、邪魔になった秀次を陥れ殺害したのではという噂が出回っているらしい。更に書状には、一旦休戦となった朝鮮出兵が再び行われる可能性が高いとも書かれていた。

 これを読んだ康長は、一抹の不安が過ぎった。なぜなら、再び秀吉から朝鮮出兵の命が下される恐れもあり、異常とも思われる秀吉の行動に反撥した大名が反旗を翻す可能性もある。また、高齢になった秀吉がいつ逝くかわからない。そうなればまた乱世に戻るやも知れない。そして、いずれどこかの国がこの松本を攻めてくることも危惧した。

 康長はこの松本城の完成を急がなければならないと考えた。今までの様に悠長に工事を進めることは許されないのだ。

 

 翌日、屋敷に家臣全員を集めた。

「大阪での一大事、すでに皆の耳にも入っていよう。太閤様はまた朝鮮を攻める事をお考えのようだ。もしまた戦が始まるようであれば、この松本城を一刻も早く完成し、あらゆる事態に備えねばならぬ。また、どの様な成り行きで乱世の事態に戻るやも知れぬ。いずれにしても、本日より松本城普請を急がせるよう皆に徹底してもらいたいのだ。よいか、もし歯向かうような者がおれば、厳しい処分を致せ。とにかく急ぐのじゃ」

家臣たちは、話が終わると急いで各持ち場へ向かった。

 

 数日後、康長はひとりの家臣を呼び止め、進捗状況を訊ねた。

「どうだ。工事は順調にすすんでおるか?」

「殿、実は太鼓門の石垣用の石材の運搬がなかなか捗らなく難儀しております。誠に申し訳ございません」

「なに、まだ、石材を運び込めておらぬのか?」

「はい、殿のご指図通り、岡田伊深より巨大な岩石を掘り出すところまでは済んでおりますが途中まで運びましたところ、あまりの重さで人足たちが不平を言い出し運搬が滞り困っております」

「馬鹿者め!そんな手ぬるい事でどうするのだ。よし、では、わしが直々に行って皆に運ばせるよう指示致そう」

 

 この松本城の工事には主に松本、安曇野の百姓を集め人足として働かせていた。ただでさえ、農繁期に追われている農夫にとってこの重労働は地獄に等しかった。特にこの長さ4m、重さ22トン以上ある 巨岩を岡田伊深の山中から運び出すために、邪魔になる民家や畑を取りつぶし何の補償もなく百姓たちを運搬作業に従事させていた。

 しかし、そんなことはお構いなしで康長は馬に乗りながら百姓たちに発破をかけていた。すると、ひとりの男が、

「こんな、でけえ石を運ばせて何の得があるんだ。俺たちは馬や牛じゃあるめえし、もう勘弁してくれよ、まったく!」

と愚痴をこぼした。これを聞いた康長は、

「おい、そこの者、松本城普請をなんだと思っておる。この松本の土地を守る大事な城造りに文句を言うとは何事だ!」

 すると、男は謝るどころか開き直って、

「大事な城造りとおっしゃいますが、わしら百姓には関係ねえことで。それより早く稲刈りを済ませねえといけねえでさあ」

 すると、康長の頬がぴくぴく動くのを覚えた。そして馬から降りスッと刀を抜くと、いきなりその男の首を横殴りに切り落とした。

同時に近くにいた男の顔に真っ赤な血しぶきがかかり、「ひええっ」と叫ぶと腰がくだけ尻もちをついた。

 康長は近くの家臣から槍を奪い取ると、その首を槍で高々と掲げ、

「作業を怠り不平を言う奴は、許さぬぞ。これ、この通りじゃ!」

と叫んだ。更に巨岩の上に乗り、大声で

「分かったら、者ども、さあ引け、やれ引け!」

と喝を入れた。

この事態に皆は怖れおののき、巨岩を引き続けるしかなかった。

 

 この出来事はすぐに村中に広がり、その後も横暴をやめない康長の命令に怖れをなした何人もの百姓が松本や安曇野を逃げる様に散っていった。

そして、二年後の慶長2年朝鮮出兵慶長の役)が再戦されたが、翌年の慶長3年8月18日、秀吉は新しく建て直した伏見城で、遂に61歳の生涯を閉じた。それと同時に家康の指示で朝鮮から兵を引き上げさせ、『文禄・慶長の役』と呼ばれる戦いは終結したのだった。

 

 福島の話は終わった。

「この巨岩にまつわる話は『玄番石伝説』といって太鼓門の横にその大きな石垣が築かれています。あとで実物を見てきて下さい。玄蕃というのは官職のひとつで長康が玄蕃頭だったので、その巨岩が長康の運ばせた玄蕃石と言われています」

「それにしても、数正の息子の長康は、そんなに恐ろしい人だったのですか。そんな人が松本城を造った城主だなんて、ちょっと複雑な気分です」

「まあ、今の話は城造りが過酷な作業だったことを誇張し伝説となったと思いますが、実際、康長は強引な施策や重税を課し、苦しんだ村人たちが他領に逃げ出したのは事実の様です。その数年後、三代目松本城主に小笠原秀政がなるのですが、秀政がその逃散した百姓を帰村させるため『百姓還住策』を出し、戻ってきた彼らに自由な土地に住ませ諸役も免除したそうです」

「そうなんですか‥。松本城代々の城主には色々な人がいるのですね」

「もうひとつ、付け加えると、実は松本城天守がいつ完成したか未だにはっきりしていないのです。歴史学者の中には、石川康長が改易され、次の城主・小笠原秀政が引き継いで完成もしくは改築したという説もあるのです。田岡さん、こう見えて我々も日々、昔の資料を漁って格闘しているんですよ。ははっ」

「ホントに、ご苦労様です。福島さん」

 

「では、そろそろ、実際に城の中に行き、花岡さんに案内してもらいましょうか。私が呼んできますから田岡さんは玄関で待っていてください」

「福島さん、ありがとうごいました。お話を伺って色々参考になりました。今後とも宜しくお願いします」

「お疲れさまでした。よかったら、いつでも寄ってください」

と笑顔で見送ってくれた。

 

     松本城太鼓門の石垣に用いられた伝説の「玄番石」