まつもと物語 その26 最終回

   博物館

 

  松本市は長い年月をかけて、商業都市及び観光都市として目覚ましく発展した。特に松本市が構想していた松本城を中心とした観光都市計画は順調にその成果を出していき、県外だけでなく多くの外国人が観光客として、この松本に訪れるようになった。また、平成に入り四賀村安曇村波田町など次々と合併し、人口も二十四万人を超えた。現在、松本市では、松本城世界遺産登録を目指す取り組みが進められている。いずれにしても松本城は市民にとって何よりも大切なシンボルとなった。

 旧松本市立博物館は、二の丸に移転してから七十年近く市民から親しまれてきたが、老朽化による解体撤去と松本城周辺の復元のために移転が決定し、令和三年四月に休館となった。

 そして、令和五年十月七日、松本市立博物館が大手町に移転し新築オープンした。三階建で正面は全面ガラス張りの近代的デザインである。一階のエントランスは広い吹き抜けで、来場者を圧倒させた。

 天井からは、松本の郷土玩具の手毬がカラフルな色彩で吊るされている。三階の常設展示室には、江戸時代の松本城下町が見事なジオラマで再現されており、その前で学芸員が来場者ひとりひとりに丁寧に 説明していた。

 二階には、図書コーナーがある。その隅の椅子にふたりの老夫婦が寄り添うように座り、行き交う人をながめていた。

「今日は、初日だけあって、人が多いね。人混みを見てるだけでなんか疲れちゃうな。だけど、前の博物館と 比べるとずいぶんおしゃれな建物になったね。妙子はどっちの方がいい?」

「そうね、ここも新しくて素敵だけれど、落ち着いて仕事するなら、やっぱり慣れた前の建物かな」

「そうなんだ。でもこの博物館も考えてみると、何度も引っ越ししたり建替えたりしているよね。妙子は 旧博物館が建て替える前の時から勤めてたよね」

「そうね、学芸員にも成(な)れて長く仕事が出来てよかったわ。あなたと一緒になって、しばらく休職していたけれど、下の子が大きくなってまた勤め始めたから…」

「そうだったな。退職してから、もうずいぶん経つよね。三人目の孫も生まれて私らも年をとるはずだな」

「仕事やめてから二十年くらいじゃない? でも、こうしてふたりとも元気でいられるのは有り難いことよね」

「そう言えば、あの林城の井戸ってどうなったかな。たしか七~八年前、教育委員会で発掘調査したって聞いたけど」

「そうね、私もネットでみたけど、井戸の事は何も書いてなかったわ。そうそう、言い忘れてたけど、私、あの後、林地域の古い地図を探したの。そうしたらね、江戸時代の地図にあの井戸のあたりの地名が 釜挟(かまはざま)って書いてあったのを見つけたのよ。だから、間違いないって確信したわ」

「えっ、そうなんだ。じゃあ、やっぱりあれは、あのままかもしれないね」

「うん、それでいいんじゃない。埋まっているかもしれないって考えるだけで、ロマンよ。 うふふっ」

 

 平成三十年三月、松本教育委員会林城跡(小城)の発掘調査報告書が提出された。

平成二十八年十月から約一カ月半、現地調査が実施された。そこには、林城跡を中心に広範囲で発掘調査が行なわれた事が記載されていた。そして、多くの城郭の縄張り図作成や石積みの石材鑑定などが行なわれたとあった。   

 しかし、井戸に関する調査は実施されておらず、発掘調査報告書には何も書かれていなかった。おそらく、あれも永遠に埋もれてたままになるのだろうか‥。

                                  完                                                                             

図書情報室

          新松本博物館   2階図書コーナー

まつもと物語 その25

   林城探索

 

 この林城は、信濃守護・小笠原氏の居城であったが、武田信玄に攻められ小笠原長時が逃げ去った山城である。その後、信玄はこの城を破却し深志城を本拠とした。したがって、長時が去った後は殆ど使われず 廃城となったまま四百年が過ぎた場所でもある。

 林城は、ふたつの山城から出来ている。北峰に大城、南峰に小城、その間の大嵩崎という谷部に小笠原氏の居館を置いていた。また、大城の東側に橋倉という名の谷部があり、ここに兵を住まわせていたらしい。

福島は、まずは、大嵩崎と橋倉に挟まれた大城へ登ることにした。

 登り口からは、いきなり急な上り坂である。しかも人がやっとひとり通れる道が九十九折りになっている。どこが道なのか分りにくく、うっかりすると道からはずれ迷子になりそうである。福島の案内がなければとても行き着ける大城ではない。

 尾根伝いに登っていくと、いくつも曲輪を重ね、要所要所に堀切が設けてあった。曲輪とは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画したもので、尾根を伝ってくる敵から背後を守るためのものである。また、堀切とは地面を掘った水路のことで、この曲輪と堀切が段々畑のように大城まで続いている。所々に石垣が残っているが、いずれも自然石を積み上げたもので、いつ崩れてもおかしくない状態であった。

 

 やっと、最上部の大城に着いた。太い木が何本も建ち並んでいるが、明らかに人の手による広い平地となっていた。

少し肥満気味の福島が、荒くなった息を整えながら言った。

「やっと、大城の主郭部に着きました。ご覧の様に、城と言っても今は何もない山の中という感じですね。いくつも石垣が残っていましたが、石の階段は、当時のものでなく、後から造ったものです」

「昔の人が、狭い山の尾根伝いに、これだけの石垣や堀を造ったりしたのは、さぞ大変だったんでしょうね」

と田岡がまわりを見渡しながら言うと、妙子が、

「でも、これだけのものを造ったのに、武田軍が迫ってきたら、恐れて戦わずして逃げてしまうなんて、ちょっと情けないというか、勿体ないと言うか、苦労が水のアワって感じがするわ」

「それだけ武田軍が強すぎて、小笠原軍から見ると、脅威だったってことですよね」

「おっ、田岡君もだんだん、歴史がわかってきたようだね」

「もう、先生、からかわないでくださいよ」

「でも、いまのところ、埋蔵場所の手掛かりになりそうなものは、何もなさそうね」

「では、このまま道を真っすぐ行くと橋倉谷に通じてますので、とりあえず、橋倉の住民に何か聞いてみましょう」

 

 橋倉谷までの道は、一気に下り道となっていたが、やはりひとりがやっと通れる道幅だった。

山の麓まで降りると、民家が立ち並ぶ村に出た。福島は早速、畑作業をしている白髪のおじさんに話しかけた。

「すみません。博物館の者ですが、この辺に釜挟という場所をご存じないでしょうか?」

「なに、カマハザマ?そんな場所は聞いたことねえな。俺にゃわからん。わりいが他所で聞いてくれや」

他にも三~四人の人に尋ねたが皆同じ答えだった。福島はあきらめて、麓伝いにまた、元の金華橋の登り口に戻った。

「では、次に小城の方に行きましょうか」

と福島は言うと、今度は右手に見える南峰の小城を登る事にした。

「では、大城と小城の間にある、大嵩崎という村から、小城を目指しますが、また先ほどと同じように急な上り坂がありますので、気を付けて歩いて下さい」

 皆は、早速、登り口から山の中へ入り込んだ。先ほどの大城は峰伝いに行くルートだったが、この小城へ 行く道は更にわかりづらかった。まして、最高所には、主郭と副郭に分かれている。大城と同じように曲輪と堀切が無数にあった。もし、福島が先導しなければ完全に迷う場所である。それでも、なんとか主郭に着いたが、これと言って何ら目印になりそうな物は何もなかった。

「やっぱり、ここも手掛かりがなさそうね」

妙子は、ちょっとがっかりした様な顔を見せた。

「ねえ、あの手紙の裏書き、もう一度文面を見てみましょう。場所は、この林城に間違いなさそうだけれど、水って何を指しているのかしら。薄川の水以外に何か水に関連した場所がきっとあるはずよ。いったい何かしら」

 

 皆は、もう一度、田岡が写し取ったノートの文面をのぞいた。

『辰ニ林アリ林ニ水アリ ソノ釜狭ニ𣑊アリ 此レ越後様ノ預物ナリ』

「う~ん、わからないなあ。仕方がないから、一旦戻りましょう。大嵩崎は小笠原氏の居館があった場所だから、きっとこの近くに手掛かりがある様な気がする。ついでに大嵩崎の住民にも何か聞いてみましょう」

元の小城登り口まで戻ると、福島たちは谷部の奥まった場所へ向かい歩き出した。

「すみません。博物館の者ですが、この辺に釜挟という場所をご存じないでしょうか?」

数人の住民に聞き歩いたが、誰もが首を振った。

 

「もう、そろそろ戻りませんか。地図で見てもそんな地名は見つかりませんよ。また、出直しませんか?」

福島が諦めて帰ろうとしていた時、彼らの目の前で老婆の手をひいて自宅に入ろうとした女性がいた。

「あのう、すみませんが、この辺に釜挟という場所をご存じありませんか?」

その声に気が付き、ふたりは振り向いた。

「えっ、カマハザマですか?私は聞いたことがないわねえ。おばあちゃん、カマハザマって知ってる?」

祖母と散歩から帰ってきたらしく、嫁と思われる女性が聞いた。

「えっ、なんか言ったか?」

どうも耳が遠いらしい。女性はもう一度大きな声で、

「この人たちが、カマハザマって言う場所を知らないかだって!」

「ええっ、カマハザマかい? 知らねえな。かんばさまなら知っとるがなあ」

「おばあちゃん! かんばさまじゃなくて、カマハザマだって!」

女性が、済まなさそうな顔をして、

「ごめんなさい、おばあちゃんも知らなさそうです」

と、軽く頭を下げて、家に入ろうとした。

 

 すると、福島は慌てて聞き直した。

「す、すみません。かんばさまって何ですか?」

「おばあちゃん! かんばさまって何のことかって聞いてるよ」

女性は、疲れて座りたがっている老婆の様子をみて、玄関前のベンチに腰掛けさせた。

「ああ、わりいね。ちょいっと疲れたわ。なに、かんばさまの事かい? かんばさまっていうのは、あの山のちょっと入った所にある井戸のことずらよ。あそこは、危ねえからあんまし近寄っちゃあなんねえぞ」

それを聞いた妙子は、

「ねえ、福島さん。そう言えば小城の登り口を過ぎたあたりに、竹の蓋で覆いかぶさった井戸らしいものあったわよね。その事じゃない? そうよ、きっと水って井戸のことじゃないかしら」

少し興奮気味の妙子はそう言うと、老婆に向かって、

「ねえ、おばあちゃん! その井戸って、どうしてかんばさまって言うの? 昔からある井戸なの?」

「なんで、かんばさまって言うかは知らんなあ。だが、子供んころからかんばさまって呼んでただ。おらの爺様から聞いたが、昔、土引きしてた馬が引きずり込まれたって話だ。だから地獄の釜ってゆうて、ここらの衆はだれも近寄らないんだ。あんたらも行かん方がええぞ」

「地獄の釜って‥ なんか怖そうな名前だわね。おばあちゃん、お話を聞かせてくれてありがとう」

 

 皆は、ふたりに軽く頭を下げ、もう一度、小城の登り口から井戸のある場所へ向かった。 

その井戸は、しばらく歩くとすぐ見つかった。しかし、うっかりすると見逃してしまう程の大きさで、林の中の陽の当たらない場所にひっそりと落ち葉に埋もれていた。落下防止の為か竹で組んだ蓋でしっかり塞いであった。

 

「こんなところに井戸を掘って地下水が出たのですか?」田岡が福島に聞くと、

「いや、この井戸は溜め井戸といって、近くの沢から水を引いて溜めていた場所だから、そんなに深くないと思う。ちょっと、中を覗いてみますね」

「大丈夫か? さっきのお婆さんが危ないから近づくなって言ってたよな」

清水先生が心配そうに言った。

「はい、気をつけます」と返事をして、そっとふたを横にずらした。

井戸の中は暗くてよく見えなかったが、2mほど下に木材や大きな石が投げ込まれた様子であった。

「たぶん、人が落ちると危険だから、村の人が埋めようとしたんでしょうね」

「でも、水というのが井戸のことだとすると、ここが埋蔵した場所と考えてもいいんじゃないかしら。きっとカマハザマがなまって『かんばさま』って言うようになったのよ。それが、この井戸を指しているとすれば全てが一致するでしょ。福島さん、どう私の推理?」

「うん、多分ここの場所かもしれないね。しかし、この林城跡は重要な歴史遺産だから、簡単に重機で掘ったりすることは出来ない。余程、確かな根拠がなければ、掘削許可は下りないと思うよ」

「ええ~、残念。でもこの場所を見つけ出しただけでも成果はあったわよね。この下に黄金が埋蔵されているかもって想像しただけでもワクワクするわ。いずれ、松本市としても発掘調査をするでしょうね。その時が楽しみだわ」

 

「そうかもしれないね。だけど、この事は、絶対に僕ら四人だけの秘密にして下さい。もし、この噂が広がって色々な人がここを掘り返すことにでもなったら、大事な歴史遺産が荒らされる事にもなりますから。くれぐれも人に話さないと約束して下さい」

福島の真剣な顔に、おもわず田岡は、

「当然です。そんなことになったら大変なことになりますよね。大事な松本市の史跡ですから、絶対むだに口外しないと約束します」

妙子と清水先生も、当然なことと約束した。

       松本市 林城 信濃国守護小笠原氏城跡 (国の史跡)

上條館長の山城案内 林小城 | 旧山辺学校校舎

               林城 地獄の釜

まつもと物語 その24

   黒門復元

 

 その一カ月後は、松本市において大事なイベントが予定されていた。

昭和35年4月23日の土曜日、松本城の黒門の復元工事が文化財保護委員会の申請許可となり市川清作氏設計監修の元にようやく完成し、松本市民や来賓を招き完成披露式である「松本城黒門落成記念お城まつり」が行なわれる日だった。

松本城管理事務所と松本市役所・博物館が主催となって、式典の準備は行なわれた。もちろん田岡も準備委員として多忙の日々が続いた。

式典の次第、招待客のリスト、完成披露式のポスター配布、式場の飾りつけなど手落ちのない様、やるべき作業が沢山あった。

当日になると、幸いにも晴天に恵まれ、松本城はいつもながら華麗な姿でそびえ立っていた。朝早く会場に着いた田岡は、準備とチェックに追われていた。他の職員と紅白幕の取り付け作業を行なっていると、学芸員の福島がスーツ姿でやってきた。黒門の説明が彼の役割だった。

「おはよう、田岡さん、何か手伝う事ありそうですか?」

「あっ、福島さん、おはようございます。とりあえず主な作業は終わったので、特にないと思います。あとは、最終チェックだけです。福島さん、今日は案内役ご苦労様です。大勢の人が来ると思いますから大変ですよね」

「うん、忙しくなりそうだから、花岡さんにも手伝ってもらうつもりです。もう、そろそろ来る頃なんだけど」

すると、後ろの方から。「おはようございます」とウワサの妙子が小走りでやってきた。

「やあ、おはよう。あれ、花岡さん、今日の格好は決まっているね」

福島は、少しひやかすように言った。妙子もスーツ姿だが、首に巻いたスカーフがとてもおしゃれだった。

田岡も「ホント、す、素敵だね」と、以前はとても口に出来なかった言葉を、今日は口ごもりながらも何とか言えた。

 

 そろそろ、式典の時間が迫ってきた。司会は草間係長だった。草間はこういったイベントの司会は得意であったから、余裕の笑顔でマイクの前に立っていた。会場には、降旗市長や教育長・博物館館長のほかに市議会議員や民間の多額寄付者を担当係が案内し集まってきたので、田岡は、所定のパイプ椅子に案内した。

二の丸の広場には、すでに大勢の市民や観光客が集まっていた。腕に腕章をつけた新聞記者も何人かカメラを構えて待機している。近くの空でパン、パンと祝砲の花火が鳴った。

 

 いよいよ、式典の開始時間だ。司会の草間係長が、第一声をあげた。

「皆さま、大変お待たせ致しました。只今より松本市・市政五十周年記念事業と致しまして、松本城黒門復元工事の完成披露式典を開催致します。私、本日の司会進行を務めさせて頂きます松本市役所観光振興課の草間と申します。どうぞよろしく申し上げます。まず式典開催に先立ちまして、最初に松本城黒門等復元協賛会・会長でもあります降旗徳弥松本市長より皆様にご挨拶をさせて頂きます」

 降旗市長の挨拶から始まり、式典は次第に沿って順調に進行していった。松本城保存会の会長、松本市教育委員会会長、松本博物館館長など、揃って胸にバラのリボンを付け、お祝いの挨拶が続いた。

 次にテープカット、記念撮影が終わると、いよいよ説明役の福島の出番だ。事前に田岡が用意していたマイクを福島は手に取り、大勢の見学者を前に福島の声が明瞭な説明を響かせていた。妙子も多くの見学者に対し個別に質問の受け答えをしていた。

田岡が大勢の市民の列を誘導していると、後ろから聞き覚えのある声が掛かり振り向いた。

「あっ、清水先生、おはようございます」

「たくさんの人が来ているね。とても盛況そうでよかった」

「はい、ありがとうございます。先生も見学されますか?」

「いや、私は今度でいいよ。図書館へ行くついでに、ちょっと様子を見に来ただけだから。別の日にゆっくり見させてもらうよ」

「先生、例の手紙のことですが、面白いことがわかりました。帰りにまた博物館へ寄ってください。お昼ごろお待ちしています」

「本当かい? じゃあ、後でまた寄るから聞かせてくれ。じゃあ、がんばって」

 

 昼近くになってもお城祭りの催し物が続き、人出が減ることはなった。田岡は、別の職員に案内係を代わってもらい博物館へ戻ろうとすると、ちょうど清水先生もやってきた。

「先生、ちょっと中で話をしましょう。あの手紙、すごく興味深いですよ」

と言って、ロビーの隅にある長いすに案内した。

「先生、先日お会いした時もお話しましたが、例の古文書を東京の歴史学者の教授へ渡し調べてもらったのですが、どうやら、大久保長安の長男で大久保藤十郎という人から松本城主だった石川康長宛の手紙だったのです」

「やはり、そうだったか。それって、本物だったのかい?」

「はい、東京で筆跡鑑定してもらった結果、どうやら本物のようです。ですが、手紙の中身は隠し文といって密書のような物らしくて、結局内容はわからなかったみたいです。なにか暗号のようなもので、わざと第三者が見ても解読できない様にしたものらしいです」

「そうなのか、道理で読めなかったはずだな」

「ところが、その手紙に裏書きされた文章が機械で読み取ることができて、その文面を教授が手紙に書いて送って下さったんです。いまそれを福島さんが預かっているのですが‥。 先生、ちょっと待っていてください。僕も自分のノートに写してあるので、よかったら見てください」

と言って、自分のノートをカバンから取り出し、先生に広げて見せた。

『辰ニ林アリ林ニ水アリ ソノ釜狭ニ𣑊アリ 此レ越後様ノ預物ナリ』

「確かに、謎かけみたいな文面だね」

「それで、今、福島さんや花岡さんと、この謎の文面を解読中なんですが、どうやら、大久保長安から預けられた小判か黄金を康長がどこかに埋蔵したんじゃないかって、今度その場所と思われる林城跡にみんなで行ってみようという事になったんです。ね、先生、面白そうでしょ?」

「あはは、まるで宝探しだね。本当だったらすごいけど、そんな物が発見されたら、みんな腰を抜かすんじゃないか?」

清水先生は、にわかにその話を信じることができず、半ば夢物語のように聞いていた。

「うん、夢があっていいねえ。見つかったら私も是非その黄金を拝みたいものだ。ははっ」

そう言いながら、もう一度、ノートに書かれた文面をみた。

「しかし、これが本当にその古文書に裏書きされていたとすれば、何を意味するものか興味があるね。お宝はともかく、解読してみたいものだ。私もその解読チームの一員にしてもらえるかな。なんか少年探偵団 みたいだな。いや、私だけ老年探偵団か、あははっ」

「はい、是非お願いします。福島さんにも後で話しておきます」

 

 

     薄川沿い

 

 それから、一週間後の日曜の朝、皆は松本駅前に集合した。田岡、福島、妙子そして清水先生も同行することとなった。目指すは林城跡である。先導は学芸員として何度も行ったことのある福島だ。福島は車の免許を持っていたが、日曜日で半分私的な部分もあり職場の車を借りることはさすがに気が引けた。歴史的根拠があればよいが、今回だけはあくまで個人的な調査とし皆も同意した。清水先生は、「お宝探しのハイキング」と称していたが、実は初めていく林城跡の見学が目的である。

 四人は、駅から市電に乗り、あがたの地にある旧松本高等学校前で降り、ここから林城跡までは歩いていく事にした。

 

 大正八年に設立した、この旧制松本高等学校は、大きなヒマラヤ杉に囲まれたこの校舎は木造洋風建築物であるが、大正時代のロマンを感じさせる建物である。一時信大の文理学部として継承されたが、旭町に信大が移転されると、昭和二十五年に廃校となった。その後校舎は重要文化財となり現存している。

 

 薄川にでると、川沿いは桜の並木がほぼ満開であった。しばらく歩くと、南に千鹿頭山(ちかとうやま)が見える。この頂上には千鹿頭神社というお宮があり、七年に一度御柱祭が行なわれる。有名な諏訪の御柱祭は坂落としで知られているが、ここの千鹿頭では頂上のお宮を目指し、西の神田と東の林地区の両方から二本ずつの御柱を大勢の人々が急な坂道を太い綱で引き上げる。そしてお宮の周りに四本の御柱を建てる祭事だ。 以前は里引きの途中、道路脇にテーブルが置かれ振る舞い酒を誰でも自由に飲めた。

 

 皆は薄川の上流に向かって桜の下を歩くと実に気持ちが良かった。皆、背負いのカバンに水筒とおにぎりを入れ、ハイキングというより遠足のようであった。

「ねえ、田岡さん、なにか小学校の遠足を思い出さない? たしか、あそこの千鹿頭山へも行ったよね」

妙子は、突然、思い出したように田岡に話しかけた。

「うん、行ったね。ずいぶん田んぼの横のじゃり道を歩いた記憶がある。急な山道を歩いて登ると展望台があって見晴らしがよかった事を覚えているよ。そこでみんなとおにぎり食べたよね。なんか懐かしいな」

 田岡も小学校の頃の思い出がよみがえってきた。

「あのさ、二年生のころ、ふたりでお城のまわりを歩いて源池の井戸へ行ったことって覚えてる?」

妙子は、ちょっと首をかしげて考え込んだが、ふっと笑顔をみせて、

「ええ、覚えてるわ。でも源池の井戸じゃなくて、北門大井戸だったよ」

「ええ~。源池の井戸じゃなかったかな。そこで、僕がポケットからキャラメル出して二人で食べたんだよ」

「違うったら、北門大井戸で、オレンジの丸いガムを食べたんだよ。私の記憶の方が絶対、確かなんだから!」

「そうだっけ? ずっと源池の井戸でキャラメル食べったって思っていた」

「もう~、安夫ちゃんたらあ。しっかりして!」

 少し前を福島と歩いていた清水先生が、振り返って、

「なんか、おふたりさん、楽しそうだね。二人とも小学校の同級生って言ってたよね。なんかいいね。いやあ結構、結構!」

と、少し羨ましそうに、ふたりをひやかした。

 

 薄川の周辺は建物が疎らな一面の田園である。しばらく歩くと、こんもりと木が生い茂っている小高い山のふもとに着いた。

「あの橋が金華橋ですね。やっと林城の登り口まで来ました。桜が奇麗だからちょっと休憩しませんか?」

「そうだな、少し喉も乾いたから、この辺で休もう」

清水先生がそう言うと、桜の並木が見える薄川の土手に皆は腰を下ろした。福島も一息つくと、 

「ここの桜も毎年きれいに見えますよ。先生、実は僕の実家はこの近くなんです。山辺中のあたりなんですが、子供の頃、この辺でもよく遊んでました」

「そうかね。じゃあ、この辺は自分の庭みたいなもんじゃないか」

「先生、戦時中アメリカ軍の爆撃機B29が飛んできて、この辺に爆弾が落ちたって知ってます?」

「ああ、落ちたのは知っていたが、この辺りだったんだね。じゃあ、こんな実家の近くに落ちてびっくりしただろう?」

「そうなんです。逃げると言っても防空壕もないし、家族みんなで居間の隅で布団被って震えてました。凄い地響きだったのを覚えています。とにかく怖かったんですが、誰も怪我人がでなくて良かったです」

 

 昭和二十年三月二日、アメリカ軍の爆撃機松本市にも飛来した。金華橋を中心に薄川の下流500mの所に三発、北に一発の爆弾が投下された。幸い死傷者は出なかったが、山辺小学校の窓ガラス約五百枚が爆風で割れ、爆弾の破片で近くの墓石がえぐられた。戦争末期、空襲を逃れて軍需工場が次々と松本に疎開してきた為、それを狙った爆撃だった。この林地区の地下にも軍需工場がつくられたが、結局完成することはなかった。

 また、この里山辺地下工場をはじめ、長野県には多くの強制労働者が朝鮮・中国から連れてこられたという。特に中国人は捕虜として扱われ、地下トンネルを造るため過酷な労働を強いられたようだ。

 

「話によると、この林城の周りの集落にも地下工場が張り巡らされていたようです。まったく、松本にこんな黒歴史があるなんて情けないですよ。戦争なんて二度と起こして欲しくない」

「福島さんは、兵隊の赤紙っていうのは来なかったんですか?」と田岡が尋ねた。

「僕はその頃、信大の学生だったから。でも戦争末期は学徒出陣といって、学生も対象になったんだ。もう少し、戦争が長引けば僕にも召集令状が来たと思う」

「それにしても、もうちょっと爆弾がずれていたら、大事な林城跡が壊されていたかもしれないね」

「そうなんですよ。ホント危なかったです。ところで先生、話は変わりますが、この近くに昔、徳川家康の先祖が放浪の旅をしていて、藤助という人が助けたって伝説があるのは、ご存じですか?」

「いや、知らないねえ。初めて聞く話だ」

「僕も郷土を調べていて、初めて知ったのですが、家康の先祖で松平有親父子が諸国放浪の旅をしていて、この林城を造った小笠原清宗の次男・林藤助を頼りこの地に来たそうです。その日は雪の降りしきる寒い日で寒さと飢えで絶望的だった親子が、やっと藤助の家にたどり着いたのですが、藤助は何ももてなす物がなかったそうです。そこで雪の中、藤助はようやく一羽の野兎をとらえ、それを馳走したところ父子は甚く感動したということです。

その後、家康が幕府を開くにあたり、『我が家運が開けたのは、かの兎のお陰』と毎年正月に兎のお吸い物を頂く吉例となったそうです。その名残りでこの先に小笠原氏の菩提寺・広沢寺という寺があるんですが、その南に兎田という史跡があるのです」

「へえ、こんな場所にも、徳川家康にまつわる伝説が残っているんだね」

「そうなんです。松本の郷土歴史を色々調べていると、時々こういった逸話に出会うので結構面白いです」

 田岡も福島の話を聞いて合点がいった様子をみせた。

「そう言えば、徳川家康の小説の中にも何度か兎の話が出てきたのを覚えてますが、そういった経緯があったのですね」

「じゃあ、そろそろ、城跡を見に行こうじゃないか。福島君、先導よろしく!」

「わかりました。ちょっと上り坂が急で、道幅も狭いので気を付けて歩いて下さい」

 

               松本市 薄川沿いの桜並木

まつもと物語 その23

   教授からの手紙

 

 三月に入ると、いくらか寒さは和らぎ、朝夕の自転車通勤も少し楽になった。安夫は職場で新しい観光客誘致の企画書をまとめ上げている最中だった。

「田岡さん、二番に外線です。福島さんと言う方です」

女子職員が声を掛けた。安夫が受話器をとると、

「もしもし、福島です。先ほど一ノ瀬教授からようやく手紙が届きました。よかったら、こちらに来られますか?」

「わかりました。後ほど伺います」

例の返事のことだとすぐわかり、田岡は急いで机の上の書類を片付け、博物館へ向かった。

建物の玄関に着くと、そのままいつもの研究室の部屋に足を運んだ。もう何度も通っているので、受付でも顔なじみとなっている。部屋のドアを開けると、丁度、福島と妙子が教授の手紙を読み終わったところだった。

「こんにちは、教授からの手紙って、例の返事ですよね。なにが書いてありました?」

「ええ、とっても興味深いことが書いてあるのよ。こちらに座って田岡さんも読んでみて」

妙子がすぐに手紙を渡してくれた。

 

「拝啓、先日は、ご多忙の中、松本城をご丁寧に御案内頂き、また詳細なご説明を賜り誠に有難うございました。今回の松本城につきましては、当日本城郭協会において非常に参考となりました事、重ねて感謝申し上げます。

さて、早速ですが、先般貴殿よりご依頼いただいた古文書の解析につきまして次の通りご報告致します。

 まず、手紙自体は日付と紙質と墨の状態から江戸初期のものと断定致しました。また、この手紙に記されていた差出人の大久保藤十郎の筆跡を大学の研究部門に鑑定依頼をしましたところ、大久保藤十郎の手紙の現存が少なく僅かに残っている手紙の筆跡と比較した結果、花押を含めほぼ当人であると推定致しました。

 また、宛先の石川玄蕃頭(石川康長)の息女と大久保藤十郎は婚姻しており、石川康長は藤十郎の義父となり姻戚関係ですので、手紙のやり取りがあった事は充分可能性があり、今回の手紙もその一部と考察されます。

次に、この手紙の内容についてですが、通常の文面とは異なり、文章が著しく不自然であり、意味不明な箇所が多くみられます。これは、手紙の内容が第三者に読み取り出来ない様にする、いわゆる密書のたぐいと推察されます。この時代、重要な通信を秘密裏に送る場合、敵方に知られないように文面を複雑にする隠し文といわれる手法は実際に用いられたようです。

 しかし、具体的な隠し文が殆ど現存しておらず、同手紙を解読するための手法や互換表等は不明の為、本文解読はおよそ困難と思われます。

ただし、裏書きされた部分においては、大学所有の高解像装置を用い文字認識を行いましたところ、別紙の文章が読み取れました。つきましては、同文を添付させて頂きますので、ご参考に願います。  敬具」

 

 一ノ瀬教授からの手紙はこの様な内容だった。そして、もう一通の追伸と書かれた手紙が皆の興味を引いた。

 

 追伸

「ここからは、私個人的な見解を申し上げます。あくまでも仮説ですが、参考になればと思い書かせて頂きました。先日も藤十郎の父、大久保長安の話をさせて頂きましたが、この手紙の所々の文面や断片的な 文言から、軍資金としてその一部を嫡男の藤十郎を通し、松本藩主の石川康長に預けていた事が推測されます。また、歴史学者の多くが、松平忠輝の次期将軍を想定しその軍資金を貯蓄していたことはほぼ間違いないだろうと見解を示しています。実際、自宅の蔵や箱根の埋蔵場所から大金や金塊が見つかっており、その他複数の場所にも軍資金としての隠し金が存在する可能性は充分あると考えられます。

 私は今回の手紙にはそれらに関連した重要な内容が書かれているものと推測致しました。何故なら、わざわざ隠し文の手法を使い、その手紙を大天守の小屋裏に隠すという行為もそう考えれば筋が通ります。仮にその預り金を康長がどこかに隠しているとすれば、城中ではなく別の場所に埋蔵されていることも考えられます。

 その手掛かりが、手紙の裏書きです。かなり文字が薄く読み取るにも困難でしたが、次のような文面と思われます。福島さん始め地元の皆さんの方が松本の地理に詳しいかと思いますので、参考になれば幸いです」

この様に追記されており、その裏書きされていたという文面が次の通りだった。

 

 『辰ニ林アリ林ニ水アリ ソノ釜狭ニ𣑊アリ 此レ越後様ノ預物ナリ』

 妙子は古文書の裏書きとして、何かが書かれている事は知っていたが、結局読み取ることが出来なかった。しかし、この一ノ瀬教授の手紙を読んで何かが閃いた。同様に福島もそれに感づいた様子だった。だが田岡には当然何のことやら全くわからなかった。

「ねえ、福島さん、以前に石川康長の改易理由について、調べたことがあったでしょ。その中に、家臣のふたりが対立して争った際に、藩主である康長がその家中騒動を収めきれなかった事もその理由のひとつではないかって言ってましたよね」

「そうだね、確かふたりの主導権争いが原因という事だったね」

「それなんだけれど、争いの原因が単なる政権争いだけでなく、大久保長安との関係を断ち切るかどうかで対立したという資料を読んだことがあるの。ひょっとして、この手紙にそれも関係しているんじゃないかしら」

すると田岡が、福島に向かって、

「それって、どういう事ですか? 二人の家臣が対立したというのは初めて聞く話ですけど」

「そうですね。それでは田岡さんにも少しその話をしておきましょう」

 

 

     二人の家臣

 

 慶長15年(1610年)2月、二代目城主・石川康長の松本城はすでに完成しその雄大な姿で城下町を見下ろしていた。城下には次第に民家が増え善光寺街道沿いの旅籠も軒を並べる様になってきた。また、本丸には康長の住まいを兼ねた藩の正政庁となる本丸殿もすでに出来上がり、内堀を挟んで二の丸御殿の普請も完了していた。地方大名が築城した城でこれほど見事な御殿を兼ね備えた例は少ない。本丸御殿は建坪830坪、部屋数60、そして二の丸御殿も建坪600坪、部屋数50もある大屋敷だった。

その二の丸御殿の一室で、ふたりの武士が声をひそめて何やら話をしている。ひとりは、若手実力者の伴三左衛門、もうひとりは同輩の上野弥兵衛だった。

「伴殿、この様な身分不相応な城を建て、近頃幕府から睨まれておるという噂をご存じか?」

「うむ、実はわしもそれを心配しておるのだ。聞くところによれば、関ヶ原の戦以降、外様どころか譜代大名のお取り潰しも相次いで行なわれていると言うことだ。幕府は何かにつけ、粗探しをしては改易の種を探しているそうだ。わが藩も、先代の徳川家出奔の恨みをどこかで晴らそうと間者を忍ばせておるに違いない」

「まったく、殿には困ったものだ。駿府の大御所様より信濃を安堵されたことで油断されておるようだが、気掛かりでならぬ」

「それにしても、あの年寄りにもいい加減、隠居して欲しいものよ。そう思わぬか上野殿?」

「あの年寄りというのは、家老の渡辺金内殿の事か。うむ、確かにあのお方がいつまでも殿のそばにいると何かと殿に諫言できぬな。これからは、伴殿を中心にわれら若手が政権を担っていかねば石川家の安泰が危ういことになりそうだ。いっその事、渡辺殿に家老の座を退いてもらうよう迫ってみるか」

 一方、松本藩筆頭家老・渡辺金内は、日頃の伴三左衛門の無遠慮で厚かましい態度に辟易していた。このふたりの主導権争いが徐々に加熱し始め、ついに御前会議で当主の康長が居るにも拘わらず家老の渡辺金内が激昂した。

「だまらっしゃい、若造のくせに殿に諫言するとは、百年早いわ! 余計な手立てをすれば却って幕府にあらぬ疑いを掛けられ、それこそわが藩のお家取り潰しを招くことになるのがわからぬか! このバカ者ども!」

と顔いっぱいに皺を寄せ、入れ歯を飛び出さんばかりに伴を叱りつけた。すると康長は、

「やめぬか、ジイ! ふたりともわが藩を思えばこその意見とわしはみるが、同じ藩内で争い事がいつまでも続くようであれば、その事で幕府から目をつけられる事にもなりかねん。二人とも自重せよ。よいか!」

 

 しかし、この争いは、とうとう幕府の耳に入り「家中の揉め事を治められぬ当主は罷免に値する」と、改易の種にもなりかねなかった。そこで、幕府奉行を牛耳っていた大久保長安がこの事を穏便に収めるため乗り出した。長安の息子・大久保藤十郎は松本藩・石川康長の娘を正室としている。したがって親戚関係でもある。長安にしてみれば息子の義父の危機を救うのは当然であった。

 そこで、長安石川康長の後見人でもある宿老秋山治助を仲介として送り込み、伴三左衛門を中枢から駆逐することで無事騒動を終結させた。だが、伴三左衛門は納得せず、その後も金内に対し嫌悪を抱き続けた。時にはあわや刃傷沙汰になりかけた事もあった。

 

 それから三年後の慶長18年(1613年)五月、石川康長の元に江戸から知らせが届いた。家臣が蒼ざめた顔で、

「殿、大変でございます。大久保長安どのが病で急死されたと知らせが参りました。それだけではございません。長安殿が亡くなられて、八王子の自宅を調べたところ、床下より大金が発見され、生前に金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたことが発覚したとの事でございます」

「なに、長安殿が亡くなられただと! しかも不正な金が出てきたということか?」

「はい、いかにも。いま、幕府内ではそのお裁きで相当、皆が混乱している様子。長安殿の嫡男・大久保藤十郎殿への厳しい取り調べも近々あろうかと思われます」

「すぐ、皆の者を広間に集めるのだ。家老の金内を呼べ、伴もじゃ。うむ、これは一大事だ。どうしたものか」

城中に居た家臣は、取る物も取り敢えず、すぐさま広間に向かった。

「皆の者、良く聞け、長安殿が先月、中風が原因でお亡くなりになった。その後、幕府役人のお屋敷改めがあり、蔵や床下から蓄財が大量に見つかったとの事じゃ。その為、婿の大久保藤十郎が詰問を受けているとの事。いずれ長安殿の所業が暴かれる事は間違いないだろう。そうなれば、七人の嫡子たちの切腹はもちろん、大久保家断絶となろう。それだけで治まればよいが、これを理由に親戚関係であるわが石川家も連座して改易になるやも知れぬ。いったいどうすればよいのじゃ。金内!なにか方策はないか?」

「はっ、そう言われましても、大久保殿の不正が発覚しまっては、いずれ当家に何らかの処罰が下されるのは逃れようがないと存じます」

 痩身の老人となった家老渡辺金内も力なく返事をした。すかさず伴が口を開いた。

「殿、三年前、私が殿に諫言申したことをお忘れではございますまい。あの時、大久保殿から署名を求められ、それをお断り申せばこの様な心配をなさらずとも良かったのではござりませぬか。ましてや、あのような物を預からねば幕府からあらぬ疑いを掛けられることも無かった‥」

「伴、いまさら、その様な事をもうすな!」

「はっ、しかし」

「黙れと申しておる!確かに予が軽率であったかもしれぬ。しかし、それがなくとも、単に親戚という理由だけでどの道、幕府は改易を迫ってくるだろう。わしも覚悟を決めねばならぬか‥」

「殿、では、あの預物は如何致しましょうか?あれが幕府の目にとまれば、面倒なことになりませぬか?」

「伴、あとでわしの部屋に参れ。その時に指示いたす」

その夜、康長は伴に、くれぐれも内密に行動せよと指示を与えた。

 その後、慶長18年(1613年)十月十九日、大久保長安と親戚関係にあった石川康長は幕府からの改易処分が下された。つまり康長が造った松本城及び松本領土のすべてを没収されたのだ。また、弟の康勝、康次も大久保長安と領地隠匿を謀った罪で改易された。康長は豊後佐伯(大分県)へ流罪に処せられた。

 また、改易の理由は、八万石大名の分限を超えた城普請が原因とされた。つまり、一介の地方大名である松本藩石川康長が立派過ぎる天守と広域な城下町を造り上げたことが幕府の嫉(ねた)みを買ったのではないかという説もある。

 

福島が話終わると、裏書きされていたという文面に皆が目を寄せた。

『辰ニ林アリ林ニ水アリ ソノ釜狭ニ𣑊アリ 此レ越後様ノ預物ナリ』

「すると、やはりこの文面に隠されている場所が書かれていると考えていいのよね」

と妙子は眼を輝かせて言った。

「花岡さん、謎解きが得意でしょ。どう解かりそう?」

と福島が促した。

「林とか水って書いてあるから、どこか川が流れている山の中ってことじゃないかしら。でも山の中なら、森って書くはずよね。水も川じゃなくて池とか湖ってことも考えられるし。あっ、そうだ!きっとお堀の水の中のことよ。すると城のお堀のどこかしら。辰って龍のことでしょ。龍が付く地名とか伝説とか‥。やはり金塊とか重要なものを隠すくらいだから、そう簡単にわからない様にしているんでしょうね」

「いや、そうとも限らないよ。最後に越後様の預かり物って書いてあるけれど、越後様って多分松平忠輝の事だと思うよ。越後って新潟のことだけれど当時の忠輝の領地って確か越後だったはずだから。石川康長もいずれ家康が亡くなれば、その軍資金を忠輝に献上するつもりだったと考えると、それ程難しい場所ではないかもしれない。逆に解りにくければ折角の軍資金が永遠に見つからず無駄になってしまうからね」

すると、田岡が口を挟んだ。

「なるほど、やっぱり、忠輝って人の軍資金を預かっているってことですね。ところで、この木へんに在って漢字はなんて読むんですか?こんな漢字見たこと無いです」

「ちょっと待ってて、いま漢字辞典もってくるね」

 

妙子は、隣の部屋から分厚い辞書をもって戻ってきた。

「え~と、木へんに在‥ あっ、あった。これヤマブキって読むのね。ヤマブキって普通なら山に吹くって書くけど、山吹の木が目印ってことなのかなあ」

「花岡さん、ヤマブキって黄金のことだと思うよ。よく小判や黄金のことをヤマブキ色とか言わないか」

「さすが物知りの福島さん! と、いうことは、やっぱり、この釜狭という場所に小判か黄金が埋蔵されいるってこと? ねえ、なんだかワクワクしてこない?」

そう妙子が言うと、三人は次第に興奮してきた。すると、妙子が急に大きな声をだした。

「わかったわ! 辰って龍の事じゃなくて、きっと当時の時刻とか方角の事よ。たぶん辰の方角という意味じゃないかしら」

妙子の話を聞いて、すかさず福島は松本市の地図を机に広げた。

松本城を起点として辰の方角、つまり方角十二支で言うと、辰は東南東だから‥」

と言って、松本城の上に定規をあて、鉛筆で延長線を引いた。その先を見ると皆、声をそろえる様に、

林城!」と叫んだ。

「そうだ。辰の方角にあるのは林城跡だよ。だから辰二林アリなんだ! じゃあ、水は薄川ってことじゃないか?」

「でも、釜狭ってどこ? 薄川にそんな場所あったかしら」

皆は、急に黙り込んでしまった。

「まあ、別に慌てることはないから、じっくり考えよう。近いうちに皆で林城跡へ行ってみないか」

福島のその一言で、皆が納得した。

    松本城天守と本丸御殿、二の丸御殿、古山寺御殿 復元イラスト

まつもと物語 その22

   師走

 

 それから、ひと月が過ぎ十二月に入った。師走と言うだけあって庁舎の中も皆なぜか忙しく動き回っている様に見えた。

田岡も、観光推進の資料作りや松本城の案内板と駅構内に貼る宣伝ポスター作製にも手をとられていた。そこに同僚の宮下が声をかけてきた。宮下は、地域環境課から上下水道計画課へ異動していた。

「おい、田岡、頑張ってるかい。忙しそうだね」

「おう、宮下じゃないか、久しぶり。どうしたんだい?」

「ちょっと総務課に用があって来たんだが、その帰りさ。実は、同期の連中が集まって忘年会でもやらないかって話になってお前も誘おうと思って寄ったんだ。二十日ごろを予定しているんだが、お前も出れるかい?」

「いいね。なんとか都合付けるよ。場所とか時間決まったらまた連絡してくれる?」

「わかった。じゃあ、田岡も出席するってことで決まりだな。ところで、今も総務課の由美子に声を掛けて きたんだが、あとひとり女子が足りなくてさ。実は五対五の男女で計画したいんだ。忘年会は口実で男女合同の飲み会をしたいだけさ。お前だれか心当たりないか?」

「急に言われてもなあ。同期で女子って言っても、そんなに居ないんじゃないの?」

「いや、別に同期じゃなくてもいいよ。どこの部署でもいいから誰か探しておいて。頼んだよ、じゃあな」

それだけ言うと後姿を見せ、そそくさと帰って行った。

「おい、そんなの押し付けられても困るよ。まったくもう」

とは言ったが、田岡の頭の中にはひとりの女性を思い浮かべていた。

 

 妙子とは、一週間前に初めて二人で食事をした。一応お城の説明をしてもらったお礼として田岡から誘ったのだが、しっかりデート気分で楽しかった。しかし、少し緊張していたせいだろうか料理の味は殆ど覚えていない。嬉しかったのは、いつだったか誕生日の話をした事を妙子は覚えていて、少し早かったがプレゼントとして白と緑のストライプ柄の毛糸マフラーをもらったことだ。その日以来、毎日それを首に 巻き通勤しているが、極めて心地よく最高に暖かかった。

 十二月二十四日、クリスマスイブにあわせ、予約しておいた洒落た店に男女十人が集まった。宮下が企画した飲み会である。田岡は当然、妙子を誘い隣同士の席についた。同世代の男女なので気楽に楽しむことが出来て話も盛り上がった。プレゼント交換した時は皆が全員クラッカーを鳴らしたりし、はしゃぎまくった。うるさ過ぎて途中、店員から注意されたほどだった。

 

 年の瀬も迫った二十九日、家族で縄手通りの歳末市に出掛けた。軒を連ねて屋台が並び、お正月の縁起物、松飾り、達磨などが店先に置かれていた。どの店主も大きく元気な声で客寄せしていた。義父は玄関に飾る注連飾(しめかざ)りや達磨を買い、母は伝統工芸品の「御神酒の口」の手ごろな大きさの物を一対(二本)買った。御神酒の口とは、松本地方で古くから伝わる神棚に供えるお神酒のトックリの口に飾るもので、ひとつの竹を細かく縦に裂き水引のような形にした神様を迎える縁起ものである。

弟の健は、自分の勉強机に飾りたいと言って20㎝ほどの門松を安夫に買ってもらい満足している。

 田岡家でも家族全員での大掃除を終え翌日、大晦日となった。沢山のお皿に盛られた刺身やお寿司、茶碗蒸しなどが並ぶ夕食を前にした。義父が「今年一年、なにかと災害や大きな台風が続いたが家族全員無事で過ごすことが出来、何よりだった。皆、ご苦労様でした。来年も良い年を迎えられよう願い乾杯しよう。かんぱ~い!」と声をかけると、皆もそれに倣った。

 そして、テレビでは恒例のNHK紅白歌合戦が始まった。昭和三十四年は第十回目となり、司会は紅組・中村メイコ、白組・高橋圭三だった。母が年越しソバを用意すると皆で美味しそうに啜った。健はさすがに起きていることが辛そうで安夫が部屋に連れて行った。紅白は全部で五十組の歌手が競い、トリを飾るのは歌姫・美空ひばりだった。そして十五分前になると、各局共同で「ゆく年くる年」を放送し、除夜の鐘を聞くというのが定番となった。

 

 

     新年の大雪

 

 昭和35年元旦、晴天のなか新年を迎えた。前日、わずかに雪が降ったらしく、薄っすらと家の周りが白くなっている。

安夫の住んでいる城西町に東西まっすぐ延びた道路があり、住宅に挟まれたその正面には、雪で化粧した常念岳が見事な程くっきりと見えた。後に誰が付けたか、この道を「常念通り」と言う。

 

 田岡家は毎年元旦に蟻ケ崎の塩釜神社で初詣をしている。城西町に移転後はこの神社が田岡家の氏神様である。建物自体決して大きくはなく、どちらかと言うと目立たない存在である。総本社は宮城県塩釜市にある。宮城県には塩釜神社が多数あり、祭神は塩土老翁神といって海や塩の神様らしく伊達政宗も何度か寄進したらしい。しかし、なぜその塩釜神社の分社がこの松本にあるかはわからない。

この神社では、初詣をする信者に長寿飴を頂ける。健も毎年これを楽しみにしている。欲張って三個貰おうとした健を母が叱った。

安夫も神殿に向かい拝礼をして振り向くと、そこに清水先生がやってきた。先生が田岡に気が付くと

「明けましておめでとうございます」とお互い深く頭を下げ挨拶した。

「先生もこの神社で初詣ですか。うちの家族は毎年ここで初詣しているんです」

「田岡君もか、うちもそうだよ」と笑顔でかえした。田岡はとなりの和服を着た婦人に対し、

「あっ、奥様。去年の夏ころ、先生のお宅にお邪魔した田岡です。その節はお昼も頂きありがとうございました」

「はい、覚えていますよ。よかったらまた遊びにいらっしゃい。ご迷惑でなければ主人の戦国話に付き合ってくださいな」

「はい、その時は喜んで伺いますので、宜しくお願いします」

すると、母が近寄ってきて、

「清水先生、息子の安夫がお世話になっております。私も一度だけ、高校の卒業式の時お会いしたと思います」

「そうですか。高校の時は田岡君も実に勉強熱心な生徒さんでした。昨年、偶然に会ってからも何度か親しくさせて頂いてます」

軽く会釈して帰ろうとしたが、安夫は思い出したように先生を引きとめ、

「先生、例の古文書のことですが、実は去年の11月ごろ、東京から偉い歴史学者の教授が松本城を見学しに来られたのです。その時に、手紙の内容の鑑定をお願いしたところ快く引き受けて頂ける事となり、いま持ち帰って調べて頂いてる最中だと思います。何だか隠し文といって謎の密書みたいですよ」

「それは本当かい。内容がわかったら、是非私にも連絡してくれないか」

「もちろんです。その時はすぐ連絡しますので、楽しみに待っていて下さい」

家に帰ると、健は母からお年玉をもらった。小袋を開けると中から岩倉具視五百円札が出てきた。「やった!」と言って両手を挙げ喜んだ。いつもは三百円くらいだったが健にとって今年は景気が良い。事前に安夫が母に渡しておいたからだ。

 

 正月七日になると、田岡家は恒例の七草粥が朝食に出される。家族でフウフウしながら熱い粥を食べるのが楽しみであった。すると健が、学校で教わったのか、

「僕、七草を全部言えるんだよ。みんな聞いてて、じゃあ言うよ。 セリ、ナズナ、ゴボウ、ハコベラホトケノザスズナスズシロ、これぞ七草! どうすごいでしょ?」

それを聞いて皆は吹き出して笑った。義父が、

「おい、健、ゴボウじゃなくてゴギョウだろ。ゴボウは草じゃなくて野菜じゃないか。あははっ」

みんなが笑う中、健ひとりだけムスッとした顔で皆をにらんだ。

 

「そうだ、今度の日曜日、深志の天神様へお参りに行こう。健の頭が良くなり成績が伸びますようにってね」

「その日ってあめ市もやっているよね。健、お兄ちゃんが飴買ってあげるから一緒に行こうね」

と、いじけている健を母と安夫がご機嫌をとった。

 この「あめ市」の由来は、川中島の戦いで知られる甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が争っていた時代、駿河今川氏真が武田の支配地に塩の供給を止める戦略をとった。甲斐の領民を困らせるこのやり方に義憤を持った上杉謙信が越後から信濃経由で武田領へ塩を送った。このルートが千国街道の「塩の道」である。この時に、塩が松本に着いた日が一月十一日であった。

 

この日を記念して「塩市」が始まったと伝えられている。江戸時代になると松本の最大行事となり、城下で塩や飴を売ったり、華やかな行列で祭りを祝った。そんな中で宮村天神(現在の深志神社)の神主が塩を売るようになり、それが現代になり「塩市」が「あめ市」とも呼ばれるようになった。今ではこの日に、武田軍と上杉軍に分かれ綱引き大会も行なわれている。

 

 一月十五日は、小正月といって新年の祝いの締めくくりの日で、豊作や家内安全を祈願する行事でもある。そして成人の日でもあった。この日は戦後の一九四八年から法律で定まり祝日と決まった。元来、この十五日に公家や武家で男性の成人式「元服の儀」が行われた事に由来するが、時代の変化と共に現在は第二月曜となった。

 

 松本では、この小正月に「三九郎」を行なう。どんど焼きともいうが、木で組んだやぐらにワラを巻き松飾りやダルマを焚き上げる行事である。女鳥羽川や薄川など町内ごとに行なうが、健の町内は大門沢近くの広い田んぼを借りそこで行なう。健が楽しみにしているのは、柳の枝の先にまゆ玉という緑や黄色のカラフルな団子を付け、三九郎の残り火でそれを焼きながら食べる事である。「三九郎」とは、凶作、重税、疫病の三つの苦労(三苦労)を払う為など諸説ある。

 

 それから、数日後の夜中から降り続いた雪が、翌朝になると20㎝以上積もっていた。この年も何度か雪が降ったが、これ程の大雪は久しぶりだった。安夫は義父と一緒に家の周りの雪かきを始めたが、雪はなかなか止みそうもなく、一度雪かきをした場所も降り続ける雪ですぐに元通りの真っ白な状態になった。

 安夫は、仕方なく庁舎まで歩いていく事にした。近くに停めてあった車がすっぽり雪で覆われている。道路ではタイヤにチェーンを巻いた車も深い雪でスリップしていたが、とうとう動けずに立ち往生となった。数人が後押ししてやっと道路わきに寄せた。運転手はもう諦め車から出ると、降りしきる雪の中で茫然としていた。

 道路わきの歩道をゴム長靴でなんとか城の近くまで歩いてきたが、石垣も雪で覆われ堀の中も氷が張っていたのか、その上に積もった雪で辺り一面が真っ白の中、天守の黒い板塀だけが目立った。

ようやく庁舎に着いたときは、定時を過ぎていたが、数人の職員が玄関前と駐車場を必死で雪かきを続けていた。その両脇にはすでに積み上げられた雪で大きな山が出来ていた。

安夫も一旦は席に着いたが、すぐさま雪かきを手伝った。その日は、殆ど仕事らしい仕事は出来なかった。

翌朝になってやっと雪が止んだが、結局、降り続いた雪が42㎝と記録された。安夫はその日も歩いて 庁舎に向かったが、所々の踏み固められた雪が凍っていて何度も転びそうになった。

 この大雪で、市内だけでも相当被害がでた。農業用のビニールハウスやガレージなど降雪の重みで潰れてしまった箇所は数知れず、道路での交通障害やスリップ事故も多発し、怪我人も市内だけで数十人出たと報告があった。

松本市役所としてもこの大雪被害に対し対応策で追われ、警察署、消防署、自衛隊とも連携して市内の除雪作業を進めた。

 

 その日、家に戻ると、玄関先には積もった雪の山をくり抜いてかまくらが作ってあった。健の仕業なのは見てすぐわかった。

「ただいま」と玄関にはいると、長靴や濡れたジャンパー、カッパなどが所狭しと掛けてあった。義父も濡れた服をストーブの前で乾かしていた。いま、雪かきを終えて家に入ったところだと言う。

「まったく、この大雪には困ったものだ。毎日、雪かきが続き身体中があっちこっち痛い。手にも豆が出来てしまったよ」

と言って体中を擦っていた。安夫も同じく疲れ切った表情でその場に座り込んだ。

すると、母がでてきて、「二人とも銭湯にでも行ってくれば」と促したので、健も誘って三人でいつもの 銭湯に行った。

 

 皆は銭湯の大きな湯船に身体を沈めると、生き返った心地がした。

「やっぱり、銭湯はいいよなあ。疲れが抜けていくような気がする」

あまりの気持ちよさで少し長湯をしたので、湯冷めをしないように厚着をして三人は銭湯から出た。雪がまだあたりに山積みになっている中、三人は煙のような息を吐きながら歩いた。健が持っていた手拭いをパンパンと音をだして広げてみせた。

「見て、見て、手拭いが板になっちゃった。面白い!」

濡れた手拭いが瞬時に凍るほど、外は冷え切っていた。皆の髪の毛もまだ少し濡れていたので、前髪やもみあげの部分が凍って白髪の様になっていた。本当に昭和の松本の冬は寒かった‥。

 


           松本市 縄手 歳の市

まつもと物語 その21

   大久保長安

 

 長安の父・大蔵信安は祖父の代より継承された猿楽師(狂言師)であり、その次男として天文十四年、甲斐国で生まれた。信安は猿楽師として武田信玄のお抱えであり、息子の長安は信玄の家臣となり武田領の黒川金山などの鉱山開発に従事していた。

 その後、信長・家康連合軍の侵攻(甲州征伐)により武田家が滅亡すると、長安は鉱脈発掘に長けた山師の才能を認められ家康の家臣として仕えるようになった。更に長安大久保忠世の長男・大久保忠隣の 与力に任じられ、姓を大久保に改めた。そして、甲斐の内政再建を任された長安釜無川笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘に尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建した。この実績を家康から認められ関東の検地にも貢献し土地台帳の作成もした。

更に家康直轄領の事務を一切取り仕切る関東代官頭に登り詰めた。そして天正19年(1591年)に家康から武蔵国八王子八千石の所領を与えられたのだった。

 

 それから七年後の慶長3年(1598年)8月18日、伏見城で秀吉が死去した。

秀吉より「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受け頭角を現してきた家康に対し、幼い頃より秀吉から可愛がられ豊臣家を託された石田三成にとって、それは苦々しい思いだった。

 慶長五年六月、家康は豊臣政権に対し反逆を企てたとして上杉景勝を討つ為、会津征伐として大阪を 発った。その留守を狙い石田三成が決起し、毛利輝元大阪城に呼び寄せ西軍の総大将にした。その後三成は家康の家臣鳥居元忠が在城する伏見城を攻撃し、これを契機に慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いが始まった。

 しかし、この戦いは小早川秀秋の寝返りにより大谷吉継へ攻撃したことを機にわずか半日で徳川軍の勝利となった。この戦の勝因は家康が事前に小早川秀秋毛利輝元と密約を交わしていたと言われている。その証拠に毛利軍は家康の背後に陣を構えていたにも拘らず、様子見をしていただけで西軍不利と見極めると、戦いに加わることなく早々に陣を引き払い自分の領土安芸国(広島)へ帰ってしまった。

 一方、家康から上田の真田昌幸を平定せよと命を受けた徳川秀次の軍勢は、狡猾な真田の反撃に手を焼き、結局上田城を落とすことは出来なかった。この時、石川康長も秀次に従い上田城の攻略に参戦したが結果を残すことが出来なかった。しかし、石川康長は家康の会津征伐に従い、更にこの関ヶ原の戦いでも東軍に付いたことで、所領を安堵(領地を認められること)することが出来たのだった。

 

 そして、この関ヶ原の戦いで、徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役(しちょうやく)を務めたのが大久保長安だった。輜重役とは戦いにおいて必要な食料・被服・武器・弾薬を調達し輸送を担う役目のことである。戦いが終わると、豊臣家の支配下にあった佐渡金山や兵庫の生野銀山が徳川直轄になり、島根の石見(いわみ)銀山も含め全国の 金銀鉱山のすべてを長安が開発する事となった。

 この長安による金銀の産出量は莫大な量でありその後の江戸幕府に豊かな財源確保が出来た。特に銀の産出量はこの時代において世界の3~4割を占め、国内の貨幣の流通量を増やすだけでなく、海外との 貿易輸入において、生糸、砂糖、漢方薬高麗人参や武器等の支払に充てた。その為、この鉱脈は幕府直轄としその管理も厳重なもとに置かれた。

 慶長八年、家康が天皇から将軍に任じられると、長安も家康の六男・松平忠輝御附家老となり年寄(老中)になった。更に関東における交通網の整備など一切を任されることにもなった。この頃、長安の所領は八王子9万石に加え、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されたと言われている。こうして、奉行職を兼務した長安の権勢は強大なものになったのである。

 また、長安の長男・大久保藤十郎石川康長の娘と結婚させるなど、自分の息子七人を次々と有力大名の娘と婚姻させ、家康の六男・松平忠輝伊達政宗の長女・五郎姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝や伊達政宗とも親密な関係を築いた。長安は権力を更に肥大化させ、その権勢と諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。

 

 一ノ瀬教授は、ここまで長安の説明をすると、一息ついた。

「どうだね、ここまでの大久保長安の昇進や功績はすごいだろう?」

「はい、家康の家臣団で戦に強かった武将の話はよく聞きますが、大久保長安の事は初めて知りました。このような官僚も重要な役割を果たしていたんですね」

佐渡金山とか石見銀山というのは君も聞いたことがあると思うが、その長安が開発した鉱山なんだ。その他にも日本橋を起点とした東海道中山道などの交通網の整備も行なっていて、一里とか一町、一間(六尺)という間尺や一里塚なども長安がつくり上げた単位なんだよ」

「では、大久保長安って偉大な人物だったんですか?」

「ところが、そうではないんだ。あまりにも急激に大出世し大金を自由に出来るようになると、人間が堕落し邪な考えを持つようになるとよく言われるが、長安も正にそういう道を歩むようになってしまったのだよ」

教授の話は更に続いた。

 

 好調に思われた長安だったが晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、各種代官職を次々と罷免されるようになってしまった。その理由として採掘量の低減だけでなく、長安の日頃の振る舞いに家康は眉をひそめるようになったのだ。それは金山奉行などをしていた経緯から派手 好きであり、無類の女好きで側女を80人も抱え豪遊をしたり、政事において口を挟むようになったと家臣からの噂を耳にしたからだった。

 しかし、慶長17年に栄耀栄華の暮らしを続けてきた長安が中風を患い、その後わずか一年で死去したのだった。享年69歳である。

 この長安の死後、大変な不祥事が発覚したのだ。生前に鉱山経営で不正蓄財をしていたとの疑いが生じたのだった。

その住居である八王子の屋敷改めの際に、何と蔵から黄金七十万両とおびただしい量の銀銭が出てきた。他にも村正の名刀だけで百振りもあり、外国から入ってきた珍しい品の数々、家康でさえも手に入れる ことが出来ないものばかりであった。更に長安の居室の床下からひとつの石櫃が発見され、その中から三通の驚くべき文書が出たのだ。

 

 その一通が「家康の死後、松平忠輝を将軍にし、長安が関白になる」という計画書だった。次の一通は その計画に参加する者の連判状である。そして残る一通は「佐渡をはじめ、全国の金山から掘り出された黄金の半分をこの計画の為の資金とするため、埋蔵した」という秘密文書と絵図だった。

 これを知った家康は驚愕し烈火のごとく怒り、長安の遺体を棺から引きずり出させ、駿府安倍川河原で磔に処し財産すべてを没収し遺児七人全員を切腹させ、遂に大久保家は断絶した。中でも長男・大久保藤十郎への詰問は厳しかったが「若輩ゆえ調査には応じられぬ」と最後まで拒否し続けたという。

 また、長安を庇護していた大久保忠隣は即刻改易され、居城だった小田原城を取り壊された。また姻戚関係にあった石川康長、老中青山成重、常陸国藩主・堀利重、安房国藩主・里見忠義ら多くの大名も連座で改易処分を受けている。

なお、三通の文書は現在その行方がわからず、恐らく後の徳川幕府により秘密裏に焼き捨てられたと思われる。

 しかし、その後幕府が編纂した『慶長年録』に依ると、この長安の文書の存在自体は明らかであり、絵図に記された埋蔵場所とされた箱根仙石原から約2㎏の金塊と黄金の刀を幕府が探し出している。その他にも伊豆金鉱山周辺(縄地村)や越後、信濃の地にも埋蔵されたとあるが、これは未だ発見されていない。

 

 教授の話が終わると、福島が質問を加えた。

「先生、その連判状には誰の名前が書いてあったのですか?」

「それが、資料が乏しくて実際、誰の名前が書かれていたのか分かっていないんだよ。しかし、歴史家の考察としては大久保長安が家康の六男・松平忠輝に忠義を示すものとして各大名に署名を集めたものと考えられている。おそらく石川康長も長安に言いくるめられ、その署名をしたひとりと思われるが、その黒幕が伊達政宗ではないかと考えられているんだ。

 当初、家康は伊達家と徳川家が姻戚関係になればお互い対立しなくなると考え、自分の息子の忠輝と伊達政宗の娘・五郎姫を結婚させ、更に忠輝の教育を政宗に任じたのだが、どうやらこれが裏目に出たらしい。伊達政宗は次の将軍を忠輝に担ぎあげ、自分の思い通りに洗脳していき、いずれ自分が将軍の座を奪おうと虎視眈々と天下を狙っていたと考えられている。その準備として、大久保長安から裏金を渡し忠輝に忠義を示すという名目で各大名に連判状に署名させたらしい。そしてその軍資金として長安は隠し金を蓄えていた、というのが我々歴史学者の仮説なんだよ」

「まるで、どこかの政治家が裏献金を配っているようですね」

「ははっ、そうかもしれないね。いつの時代も同じような輩が多いからね。そして、家康の方では大坂の陣で豊臣家を完全に滅亡させると、残りの生涯で唯一伊達政宗だけが油断できない武将として憂慮していたんだね。つまり三男・秀忠を二代目将軍とし後継者にしたんだが、その座を伊達政宗の後ろ盾で六男・忠輝に奪われることを心配していたんだ。

 しかし家康は死去する前に、二人の仲を引き離すため忠輝を永久対面禁止とし、政宗に秀忠の後見人を命じ徳川幕府安泰を成したという事なんだ。結局、弟松平忠輝は家康の死後、兄である二代目将軍徳川秀忠から改易を命じられ諏訪の配流屋敷で余生を過ごし、死去したのは九十二歳だったらしいですよ」

「なるほど、よくわかりました。先生、お話を聞かせて頂きありがとうございました」

「いや、いや、なんだか、大久保藤十郎の話をするつもりだったが、家康と伊達政宗・忠輝の対立の話になってしまったね」

「いえ、面白い歴史の話を聞けて良かったです。ところで先生、この後の予定はどうされますか?」

田岡が訊ねると、一ノ瀬教授は時計を見ながら、

「ああ、もうこんな時間かね。そろそろ帰り支度をしようかな」

「えっ、先生。もうお帰りですか? もう一泊されてはいかがですか。宜しければ明日は市内を案内致しますが‥」

「ありがとう。しかし、東京へ戻ってやらなければならない仕事もあるから、これで失礼するよ」

「そうですか。では駅まで車でお送りいたします」

田岡が教授を駅までタクシーで送ると、忙しそうな素振りをしてそのまま東京へと帰って行った。

           大久保長安が開発した佐渡金山