まつもと物語 その18

   少憩

 

 話がひと段落したところで、福島は飲み残しのお茶を飲み干すと、

「いかがですか。ここまでで何か質問ありますか?」

「ありがとうございます。すっかり聞き入ってしまいました。石川数正は結局、松本城が完成しないうちに亡くなってしまったのですね。あれほど城造りに熱が入っていたのに、さぞかし心残りだったのでしょうね。

 それにしても秀吉はなぜ明国まで領土にしたかったのでしょう。折角、天下統一を成し遂げて日本を戦のない安泰の国にしようと思えば出来たのに、また、国外で戦争を始めるなんて本当に秀吉ってどうかしてますよね」

「本当ですね。ただ、秀吉は、単に朝鮮や中国を野望や私利私欲のために侵略したわけではありません。秀吉は関白までの地位を築いたのですが、元々歴代の伝統や家督を継ぐ譜代大名ではなく、権力の正統性が殆どない人です。その中で部下を惹き付けるためには、恩賞を常に与えなければならず、それまでは戦で成果を上げた武将には金銀か領地を分け与えていたのですが、統治が終わると、それも少なくなり、新たな領地として海外に求めるしかならなかった事が理由のひとつだと言われています。秀吉は家康の様に、国内の産業を発展・育成する考えを重視していなかったのでしょうね」

「なるほど。そういう事だったんですか。やはり家康の考え方と違いますね」

 

「田岡さん、そろそろお昼ですね。話の続きは午後にしましょう。まだ、城も城下町も完成してませんからね」

「えっ、もうそんな時間ですか。では、近くの食堂でお昼いっしょにどうですか?」

椅子から立ちあがり部屋を出ようとすると、妙子がひょっこり顔を出した。

「皆さん、お昼出掛けますか? よかったら、私もご一緒して構わないかしら? わたし今日、お弁当持ってきてないの。ひとりで食べに行くのも嫌だから、皆さん話が終わるのを待っていたのです。ひょっとして、お邪魔?」

「私は全然構わないけど、田岡さんはどう?」

と福島が聞いてきた。

「勿論です。是非、一緒に行きましょう」

と自分でもびっくりする程、早口で即答した。

 

 建物の外へ出ると、目の前に松本城がその雄大な姿を澄み切った青空の中に立ち映えていた。田岡は改めて城に見惚れた。

「福島さん、先ほどの話を聞いて昔の人はよくあんな凄い城を造れたのだとつくづく感心します。だって、その時代はクレーンとかショベルカーやダンプも無く、全部手作業だったんですよね」

「そうですね。いくら人海戦術といっても、今と違って昔は本当に凄い技術力を持っていたんですね」

ふたりは、もう一度城を見ながら、大勢の人足たちが作業している風景を頭に思い描いた。

「ところで、何処にしようか。花岡さん、何か食べたいものある? 今日は福島さんに話を聞かせてもらったお礼に僕が皆さんにごちそうするよ」

「えっ、ほんと、嬉しい。そうねえ。わたしナポリタン食べたいな。あの喫茶店にあるんじゃない?」

妙子が指差したのは、以前清水先生と久しぶりに会って話をした店だった。

 

 店に入ると、結構客が多かったが、四人用のボックス席がひとつだけ空いていた。妙子の横に福島が座ると、田岡はカウンターに向かって「ナポリタン三つお願いします」と声をかけた。

安夫の正面には妙子が座った。田岡が妙子の髪の毛に目を向けると、それに気付いたのか

「どう、似合う? これヘップバーンカットっていうのよ。一週間前に美容室でセットしてもらったの」

と言いながら自分の短い髪の毛を撫でてみせた。すると、横で福島が、

「田岡さん、ちょっと驚いたでしょ。僕も事務所で初めて見た時は、突然長かった髪の毛を切ってきたので びっくりしましたよ。花岡さんにどうしたのって聞くと、何だか今流行っているらしいんだって」

「そうよ、田岡さん、オードリーヘップバーンって知っているでしょ? ローマの休日って映画知らない?」

「うん、ポスターは見た事はあるけど、映画はまだ見ていない。確か、縄手通りの中劇でやっていたよね。花岡さん、映画好きなの?意外だね」

「どうして?ひょっとして私が毎日、昔の所蔵品とにらめっこしているとでも思っているの?」

「だって、学芸員の資格とるため毎日かなり難しい勉強とか、しているんでしょう?」

「そうだけど、家に帰れば別よ。私の家に映画雑誌とかパンフレットとか沢山あるのよ。田岡さんは映画見ないの?」

「僕はもっぱら、時代劇や西部劇が多いかな。そうだ、福島さんも映画見るんですか?」

「私だって見るよ。ゴジラとか‥」

ふたりは同時に「えっ~」と声をあげた。福島はその驚く顔をみて、笑って答えた。

「実は、うちの息子が怪獣映画好きなんだ」

「えっ、福島さんって結婚されているんですか? しかもお子さんもいるんですね」

「なんだよ、ふたりして。私だって妻も子もいますよ。息子が二人で、上が小五で下が小三年だがね」

「そうなんですか。何だかお二人とも意外です。博物館にお勤めだから、なんとなく勤勉で固いイメージがあったのですが」

「全然、そんなことないですよ」と福島は笑って手を振った。

そこに、店員が「お待たせしました」と言ってナポリタンを運んできた。

妙子は、「美味しそう」とフォークを手に取り、皆も早速旨そうに頬張った。食後のコーヒーが出ると、

「田岡さん、今わたし例の古文書を調べているのだけれど、あの手紙の裏にも何か書いてあるのに気が付いたのよ。かなり薄い文字で中々読み取れないの。なんだか不思議と言うか謎めいた手紙みたいで、内容がさっぱりわからないわ。今は読めた文字だけを並べて前後の意味を推理しながら解読しているところよ。時間掛ってごめんなさいね」

 すると、福島はコーヒーカップを持ったまま、

「私が思うに、何か大事なことを石川康長に伝える貴重な手紙じゃないかな。僕も今抱えている仕事が落ち着いたら、今度こそじっくり解読しようと思っている。花岡さんも引き続き頼むよ」

「はい、わかりました。本当に何か謎解き問題みたい。私、絶対解読してみたいわ」

「すみません。あんな手紙を僕が持ち込んだばっかりに、おふたりにこんなお手数掛けるとは思いませんでした」

「いえいえ、こちらこそ、時間をお掛けして申し訳ないです。私も何かあの手紙から歴史的事実が分かれば、こんな嬉しいことはないです。では、そろそろ戻って話の続きをしましようか」

 

 安夫は会計を済まし店の外に出ると、

「田岡さん、ホントにお昼代いいんですか?」

「勿論です。僕が出来るのはこれくらいですから」

「ごちそう様でした。じゃあ、近いうちに美味しいお店にお連れしますね。今度は福島さんのおごりで‥」

「おい、おい、花岡さん勝手に決めないでくれ。まあ、いいけど ははっ。ところで花岡さん、この後もう少し田岡さんに松本城の話をするのだけれど、ひと通り話が終わったら、田岡さんを実際のお城の中に案内して説明をしてあげてくれないか?」

「はい、わかりました。田岡さん、私いつもお城で小・中学生や団体客を相手に説明しているのよ。じゃあ、話が終わったら声を掛けてください」

 笑顔でそう言うと、妙子は自分の研究室に戻って行った。

 

 

 石川玄蕃頭

 

 田岡と福島も部屋に戻ると、また机の上に資料を並べ話の続きを始めた。

「先ほどは、石川数正が亡くなったところまで話しましたが、息子の康長は、父・数正の遺体を京都に移し、そこで葬儀をしたようです。その後、父の代理として名護屋城に五百名の兵を率いて駐屯していました」

「そうすると、松本城の工事はどうなったのですか?」

「後に残った設計師の永井工匠が工事の指揮をとった思いますが、城主の数正が死んで、跡継ぎの康長まで遠征に行ったとなると、たぶん工事は捗らなかったのではないかと思います。

 そもそも、その頃の秀吉は松本城のことより、明や朝鮮への進出することしか頭になかったんだと思います。秀吉がここまでムキになって朝鮮出兵を決行したのは、一番信頼していた弟の秀長の病死と秀吉が高齢になって淀殿との間にやっと生まれた鶴松が、立て続けに病死した事で精神的にショックが大きく、秀吉を狂わせたのではないかとも言われています。

 その翌年の文禄2年(1593年)、秀吉の二番目の実子・秀頼が誕生すると、朝鮮国との戦いを一旦休戦します。しかし今度は母の大政所が他界し、そして、秀吉は姉の長男で養子にした二代目関白秀次を切腹させました」

「そうなんですか‥。なぜか天下を取ってから秀吉の周りに不幸が続きますね」

「康長は、その同年、正式に二代目松本城主を継承し、数正の遺領十万石の内、八万石を相続し、残りの一万五千石を次男・康勝に、五千石を三男・康次(半三郎)に相続させました。

 次男の康勝は朝鮮ソウルに行って短期間で帰還したという記録は残っていますが、休戦になった為、長男の康長は朝鮮に行かず名護屋城から藩主として松本に引き返し、数正の思いを引き継いで城造りを再開したのです」

「では、いよいよ松本城を本格的に造っていくわけですね」

「はい、康長は父の意志を引き継いで、天守は朝鮮と休戦中の文禄2年から文禄5年の三年間で完成したとされているのですが、実は、休戦翌年の文禄3年に松本城の築城中だった康長は弟の康勝と共に、秀吉から京都に新たな城造りを命じられているのです」

「えっ、松本城を造っている最中に秀吉は別の城造りをしろと言ってきたのですか?」

「そうなんです。その城というのは他の大名と分担制だったのですが、秀吉の隠居用に造られた京都の伏見城なのです。しかし、文禄五年(慶長元年)、完成した直後に〈慶長伏見地震〉という大地震が起こり、出来上がったばかりの伏見城はすべて破壊されて、結局別の場所に造り変える事になってしまったのです」

「またしても、地震ですか。本当に秀吉の周りは不運が続きますね」

「では、康長が松本に戻り、天守閣を造った話を始めます」

 

 文禄2年(1593年)八月、秀吉の朝鮮征伐が休戦となり、石川康長は松本に戻った。そして、亡き数正を弔う為、浄林寺を数正の菩提寺として整備し御霊社を創建した。この時には、すでに父数正の構想通り松本城下町は区画割り整備や本丸の新しい敷地も整地されている。

 堀は三重となっており、本丸には天守と本丸御殿、その周りを内堀、その南側に凹型の二の丸、その外側に全体を囲むように外堀、外堀を囲むように三の丸に八十八軒の侍屋敷を配置した。そして更にその周りを惣堀で囲み、南大手門に枡形と武田信玄に倣い半円型馬出し四ケ所を三の丸への出入り口とした。この三重の堀構えと三の丸までの城造りは数正が見てきた大阪城を明らかに意識して倣ったものである。

 

 康長は、いよいよ天守の築城に取掛ろうとしていた。間取りや構造図は数正と永井工匠信兵衛信房との間で念入りに作図されており、これに基づいて城普請(工事)が始まった。普請奉行は二代目松本藩主・石川康長である。まず地祭(地鎮祭)を山田清太夫により司り、天守の縄張は細萱河内、大工棟梁は山辺辻堂の木下長兵衛、そして主大工を松村次郎兵、鶴井六郎衛門が担った。

 

 この敷地はもともと湿地帯の軟弱地盤の為、基礎は建物の自重に耐え沈まない様に『筏(いかだ)地形』という松の丸太を横に並べ、束石を置きその上に16本の土台支持柱(栂・直径40㎝、長さ5m)を建てていく工法を取り入れた。石垣も同様、松の胴木と筏地形の上に石垣を積んだ。積み石は『野面積み』といって自然の石をあまり加工せず積み上げた石垣で隙間を埋める様に小石を挟み込んだ。また、石垣の背面は補強と排水を目的にした『割栗石』で裏込めしてある。

 この石垣は筑摩山地(松本盆地の東)から運び出した安山岩を用いた。こうして出来上がった天守台の上に約千トンの建物を載せる作業工程となるのだ。

 併せて、飲料水を確保するため、水脈まで掘り抜き井戸の確保もした。幸いに湧水が多く井戸は数か所に及んだ。

すでに建築木材は本丸敷地内に山積みされていた。そこの脇で石川康長は出来上がった天守台を前に図面を見ながら永井工匠に質問を投げかけていた。

「永井殿、この図面では外観は五重の屋根が掛かっているが、内部は六階となっておるのはなぜじゃ?」

「はい、これは五重六層と申しまして、三階の部分には窓がなく避難所としての隠れ部屋となっております。天井はやや低いですが、ここに大勢の兵士を控えさせ、いざという時にここから兵を一気に送り出します」

「なるほど、確かに隠れ部屋だな。では、その他の階ではどの様に使う目的で造られておるのだ?」

「はい、まず一階は倉庫として使います。食料はもちろん、刀・槍・弓・鉄砲などの武器や弾薬などを常時準備しておく場所となります。二階は縦格子窓を多く作ってあり、ここから弓や火縄銃を撃てるように備えております。三階は先ほど申した通り隠し階です。そして四階は、御所でございます。ここも万が一敵が攻めてきた時に石川玄蕃頭様に籠って頂く部屋でありますが、時には殿が寛ぐ場合も考慮し部屋には畳を敷き、小壁をおろし長押も造作してございます。建具はございませんが、簾を付ける様にしてありますがいかがでしょう? 次に五階ですが、ここは有事の際、ここを戦略・戦術など評議を行なう部屋として使用致します。そして最上階の六階ですが、ここは四方見晴らしがよく、敵方の動きが充分見渡せる望楼の場所でございます」

「六階は望楼と申したが、大阪城の様な外側に物見やぐらはなぜ造らんのか?」

「この松本の地は冬の厳しい寒さと降雪の寒冷地であり物見やぐらは、相応しくございません。外側に廻り縁を作ると雪が積もり、やがてそれが凍ると雨漏れの原因となり天守建物を早く劣化させる事となります。物見はあくまで城内部より願いとうございます」

「うむ、わかった。それにしてもこの様な高層の天守を建てて倒壊の恐れはないのか? 通し柱の長さが足りないのではないのか?」

「はい、先ほどご覧頂いたように天守台はかなり堅固にしてあります。そしてこれから建てる大天守の構造は簡単に申し上げると、二階建ての建物を三つ重ねた形となります。つまり最初に通し柱でつないだ二階建てを建て、その上に三階四階の建物をのせ、更にその上に五階六階をのせるとお考え下さい」

「うむ、理屈はわかったが困難な普請であることは違いない。くれぐれも事故など起こさぬよう留意して作業にあたってくれ」

「はっ、かしこまりました」

 

 天守はまずは大天守、次に乾小天守を建て、最後に二つの天守を渡櫓でつなげた連結式で造られた。連結式天守とは敵から攻められた事を想定し全方向に向け堅固な防備ができる迎撃形状である。

また、この天守群には合計115か所の『狭間(さま)』を作った。狭間とは弓矢鉄砲を撃つための小窓である。更に一階の腰板には『石落とし』というせり出した壁になっており、石垣を登って来る敵兵に向けて弓や 鉄砲それに投石・熱湯を浴びせる仕掛けも造った。このように松本城は戦を前提に迎撃と守備固めを徹底した城に造り上げたのだった。

 

 文禄4年(1595年)八月、松本城天守が順調に完成に近づいた頃、康長に大阪から驚くべき書状が届いた。秀吉の姉・ともの長男で秀吉の養子となって二代目関白を就任した豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ切腹をしたという一大事であった。しかも秀次の身内である妻、子五人、そして家臣、側室、侍女まで一族郎党の計三十九人が京都三条河原で処刑されたとの事であった。

 この狂気とも思える秀吉の仕打ちの裏には二人目の実子・秀頼の誕生により跡継ぎを考え、邪魔になった秀次を陥れ殺害したのではという噂が出回っているらしい。更に書状には、一旦休戦となった朝鮮出兵が再び行われる可能性が高いとも書かれていた。

 これを読んだ康長は、一抹の不安が過ぎった。なぜなら、再び秀吉から朝鮮出兵の命が下される恐れもあり、異常とも思われる秀吉の行動に反撥した大名が反旗を翻す可能性もある。また、高齢になった秀吉がいつ逝くかわからない。そうなればまた乱世に戻るやも知れない。そして、いずれどこかの国がこの松本を攻めてくることも危惧した。

 康長はこの松本城の完成を急がなければならないと考えた。今までの様に悠長に工事を進めることは許されないのだ。

 

 翌日、屋敷に家臣全員を集めた。

「大阪での一大事、すでに皆の耳にも入っていよう。太閤様はまた朝鮮を攻める事をお考えのようだ。もしまた戦が始まるようであれば、この松本城を一刻も早く完成し、あらゆる事態に備えねばならぬ。また、どの様な成り行きで乱世の事態に戻るやも知れぬ。いずれにしても、本日より松本城普請を急がせるよう皆に徹底してもらいたいのだ。よいか、もし歯向かうような者がおれば、厳しい処分を致せ。とにかく急ぐのじゃ」

家臣たちは、話が終わると急いで各持ち場へ向かった。

 

 数日後、康長はひとりの家臣を呼び止め、進捗状況を訊ねた。

「どうだ。工事は順調にすすんでおるか?」

「殿、実は太鼓門の石垣用の石材の運搬がなかなか捗らなく難儀しております。誠に申し訳ございません」

「なに、まだ、石材を運び込めておらぬのか?」

「はい、殿のご指図通り、岡田伊深より巨大な岩石を掘り出すところまでは済んでおりますが途中まで運びましたところ、あまりの重さで人足たちが不平を言い出し運搬が滞り困っております」

「馬鹿者め!そんな手ぬるい事でどうするのだ。よし、では、わしが直々に行って皆に運ばせるよう指示致そう」

 

 この松本城の工事には主に松本、安曇野の百姓を集め人足として働かせていた。ただでさえ、農繁期に追われている農夫にとってこの重労働は地獄に等しかった。特にこの長さ4m、重さ22トン以上ある 巨岩を岡田伊深の山中から運び出すために、邪魔になる民家や畑を取りつぶし何の補償もなく百姓たちを運搬作業に従事させていた。

 しかし、そんなことはお構いなしで康長は馬に乗りながら百姓たちに発破をかけていた。すると、ひとりの男が、

「こんな、でけえ石を運ばせて何の得があるんだ。俺たちは馬や牛じゃあるめえし、もう勘弁してくれよ、まったく!」

と愚痴をこぼした。これを聞いた康長は、

「おい、そこの者、松本城普請をなんだと思っておる。この松本の土地を守る大事な城造りに文句を言うとは何事だ!」

 すると、男は謝るどころか開き直って、

「大事な城造りとおっしゃいますが、わしら百姓には関係ねえことで。それより早く稲刈りを済ませねえといけねえでさあ」

 すると、康長の頬がぴくぴく動くのを覚えた。そして馬から降りスッと刀を抜くと、いきなりその男の首を横殴りに切り落とした。

同時に近くにいた男の顔に真っ赤な血しぶきがかかり、「ひええっ」と叫ぶと腰がくだけ尻もちをついた。

 康長は近くの家臣から槍を奪い取ると、その首を槍で高々と掲げ、

「作業を怠り不平を言う奴は、許さぬぞ。これ、この通りじゃ!」

と叫んだ。更に巨岩の上に乗り、大声で

「分かったら、者ども、さあ引け、やれ引け!」

と喝を入れた。

この事態に皆は怖れおののき、巨岩を引き続けるしかなかった。

 

 この出来事はすぐに村中に広がり、その後も横暴をやめない康長の命令に怖れをなした何人もの百姓が松本や安曇野を逃げる様に散っていった。

そして、二年後の慶長2年朝鮮出兵慶長の役)が再戦されたが、翌年の慶長3年8月18日、秀吉は新しく建て直した伏見城で、遂に61歳の生涯を閉じた。それと同時に家康の指示で朝鮮から兵を引き上げさせ、『文禄・慶長の役』と呼ばれる戦いは終結したのだった。

 

 福島の話は終わった。

「この巨岩にまつわる話は『玄番石伝説』といって太鼓門の横にその大きな石垣が築かれています。あとで実物を見てきて下さい。玄蕃というのは官職のひとつで長康が玄蕃頭だったので、その巨岩が長康の運ばせた玄蕃石と言われています」

「それにしても、数正の息子の長康は、そんなに恐ろしい人だったのですか。そんな人が松本城を造った城主だなんて、ちょっと複雑な気分です」

「まあ、今の話は城造りが過酷な作業だったことを誇張し伝説となったと思いますが、実際、康長は強引な施策や重税を課し、苦しんだ村人たちが他領に逃げ出したのは事実の様です。その数年後、三代目松本城主に小笠原秀政がなるのですが、秀政がその逃散した百姓を帰村させるため『百姓還住策』を出し、戻ってきた彼らに自由な土地に住ませ諸役も免除したそうです」

「そうなんですか‥。松本城代々の城主には色々な人がいるのですね」

「もうひとつ、付け加えると、実は松本城天守がいつ完成したか未だにはっきりしていないのです。歴史学者の中には、石川康長が改易され、次の城主・小笠原秀政が引き継いで完成もしくは改築したという説もあるのです。田岡さん、こう見えて我々も日々、昔の資料を漁って格闘しているんですよ。ははっ」

「ホントに、ご苦労様です。福島さん」

 

「では、そろそろ、実際に城の中に行き、花岡さんに案内してもらいましょうか。私が呼んできますから田岡さんは玄関で待っていてください」

「福島さん、ありがとうごいました。お話を伺って色々参考になりました。今後とも宜しくお願いします」

「お疲れさまでした。よかったら、いつでも寄ってください」

と笑顔で見送ってくれた。

 

     松本城太鼓門の石垣に用いられた伝説の「玄番石」