小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その50 最終話

使節団帰国 五月十三日、いよいよ、ナイヤガラ号に乗船しニューヨーク港を出帆した。帰国ルートは大西洋からアフリカ喜望峰を廻り香港経由で日本に向かう事とした。 五月二十八日、セントビンセント島(ベネズエラの北)に寄り薪や水を補給した。しかし、現…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その49

四月二十七日、一行はフィラデルフィアを出発し、船と列車を乗り継ぎニューヨークに着いた。 マンハッタン島の南端の波止場バッテリーパークからブロードウェイを馬車でパレードすることになった。その圧倒的な歓迎市民の数はこれまで各地で慣れてきたはずの…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その48

四月二十四日、一行は造幣局を訪れた。小栗は造幣局長のスノーデンと挨拶を交わすと、小栗は上目遣いで局長の顔をみて、早速、話を切り出した。 「ワシントンから既に連絡が入っていると思いますが、こちらでドル貨幣と日本の一分銀貨の分析実験を行なって欲…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その47

四月八日、デュポン大佐が帰国のことを相談に来た。 「新見さん、先日あなた方が希望されていたポーハタン号に乗って、もと来たように太平洋を渡って帰りたいと仰っていましたが、実はその船がかなり修理しなければならなくなりました。それを待っていると一…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その46

当時のアメリカには大きな悩みがあった。それは人種差別問題だ。南部地方の市民は黒人を非人間扱いし、自分たちの自由な下僕とする奴隷制度を正当化しようとしていたが、北部側の市民はそれに対し強く非難し、将にアメリカは南北で分裂しようとしていた。特…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その45

三月二十七日、この日は群集を避け密かに出掛けた。通訳の名村五八郎は常に新見と村垣の後に付いていた。彼らが乗った馬車はアメリカ国務長官ルイス・カス邸に着いた。新見たち一行はカス長官に面会すると早速、咸臨丸の修理をして頂いた事に対し謝意を述べ…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その44

三月二十五日、一行がチェサピーク湾入口の軍港ノーフォークに着くと、責任者のデュポン海軍大佐、世話役ポーターなど四人の案内役である軍人が挨拶にきた。その中にはペリー艦隊でオランダ語通訳を担ったポートマンの姿もあった。そこから川蒸気に乗り換え…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その43

ワシントン 三月十七日、新見率いる使節団一行を乗せたポーハタン号は意気揚々、サンフランシスコを出港し太平洋を南下して、パナマに向かった。翌十八日、この日、日本では元号が安政から万延となったが、その二週間程前に起きた桜田門の襲撃事件などを彼ら…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その42

四月四日、咸臨丸は何事もなくホノルルに着いた。アメリカ人の手を借りるまでもなく、運用方の浜口と測量方の小野が中心となって、帰路は殆ど日本人の力だけで進むことが出来た。ハワイで燃料や水・食料を補充した後もしばらく穏やかな航海は続いた。四月二…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その41

三月十八日、いよいよ、アメリカの地を離れる日が明日に迫った。新見率いる使節団一行は昨日すでに出港したばかりである。木村は昨日、それを見送ったが、実は自分も使節団のひとりとしてワシントン行きを切望していたのであった。父喜彦に家宝の品々を売り…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その40

咸臨丸の修理は完全に終わった。最後の点検が済むと木村と勝はもう一度カニンガムの邸宅を訪れ、感謝の意を伝え、別れの挨拶をした。他の乗組員たちも長らく世話になった宿舎を念入りに掃除して、荷物もすべて咸臨丸に積み込んだ。 そして、サンフランシスコ…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その39

咸臨丸帰国 三月十五日、新見率いる使節団が改めてメア島に訪れ、木村総督に今後の話をしにやってきた。木村は造船所の傍らにある事務室に一行を案内すると、おもむろに新見は話を始めた。 「木村殿、船の修理はあと、どの位かかりそうですかな」 「かなり、…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その38

三月十日、使節団一行は、メア島から蒸気船アクティヴ号に乗り換え、サンフランシスコ市街へ行き、インターナショナル・ホテルに泊まった。彼らにとっても初めてのアメリカ人の歓迎と料理には驚きの連続だった。 副使の村垣範正がホテルの四階から街の景色を…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その37

三月八日、この修理の最中に幕府の正使を乗せた米軍艦ポーハタン号が十二日遅れで、やっとサンフランシスコに着いたのだった。航海ルートを南太平洋としていたが、途中暴風雨に遭い二月十四日から約一週間、ハワイ(当時はサンドイッチ諸島と呼んでいた)に…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その36

メア・アイランド サンフランシスコに渡った咸臨丸は航海中、何日も続いた暴風雨で船体は相当傷みが酷かった。そのことを心配したブルック大尉は、勝麟太郎に親切な提案を持ちかけた。 「勝さん、今更ですが、よくこの船で荒波の太平洋を渡ってきたと驚きで…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その35

襲撃前夜三月二日、薩摩藩士有村雄助の計らいで帰国のため留守であった三田薩摩藩邸を借り、そこで最終計画が練られた。そこには高橋、金子の他に関鉄之介、岡部三十郎、佐藤鉄三郎、稲田重蔵、薩摩藩の有村兄弟ら十九名が集まっていた。 首謀者の金子孫二郎…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その34

翌日も木村は歓迎攻めにあった。というよりも珍客を一度でも見て話題にしようと押し掛ける見物人ではないかと思った。外出について最初は自由としたが木村は異国で何か間違いが起きてはと、心配して決め事を徹底させた。そして甲板に乗組員を全員集めると、…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その33

サンフランシスコ 咸臨丸はサンフランシスコ湾の南にあるアルカトラズ島の近くに来ると「錨を下せ」という勝の凛とした声と共に鼓手の斉藤留蔵の小太鼓が鳴り、ゆっくりと錨を下した。船の前帆柱には日の丸、中央帆柱の上には幕府旗印の中黒の吹き流し、後帆…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その32

咸臨丸は、その後も風波と闘いながら、北緯四十度線を東へ東へと進んだ。速度は一日に数十キロの日もあれば、二五十キロ以上進む日もあった。 ブルック大尉は困り果てた。自分に指揮権がなく、日本の士官が長崎で習った命令はすべてオランダ語だったので、指…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その31

福沢諭吉は後の慶應義塾の創立者である。天保五年(一八三四年)大阪の中津藩蔵屋敷で下級藩士の福沢百助の次男として生まれたが、二歳の時に死別。安政元年、長崎に蘭学修業後、緒方洪庵塾に入門。安政四年、藩命で築地鉄砲洲にある江戸中津藩屋敷に住み蘭…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その30

咸臨丸 一月十二日夜、木村は築地の軍艦操練所からボートで品川沖に停泊中の咸臨丸に乗り込んだ。最後まで見送ってくれたのは父の木村喜彦と姉の久邇(くに)だった。木村は三千両もの大金を協力してくれた父に改めて感謝し涙ぐんだ。その家族とは今朝、涙して…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その29

安政七年一月五日、出帆の日が近づいているというのに、勝は自宅で高熱をだして床に入っていた。年明け早々風邪をこじらせてしまったのだ。お民が部屋に入り「木村様が見舞いに来た」と伝えると、勝は死んだように寝ている。少し薄目をあけて、そうかいと言…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その28

十二月に入り、一緒に同船することとなったブルック大尉らが、品川沖で出帆を待つ観光丸を視察した。観光丸は十年前にオランダで建造された船だが、幕府が所有している蒸気船の中で最も古く、老朽化していた。ブルック大尉は、一目見るなり 「この船でアメリ…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その27

九月一日、改めて人選をした結果、正使に新見豊前守正興、副使に村垣淡路守範正となった。 ふたりとも、外国奉行と神奈川奉行の兼任を任命されたばかりの頃であった。加えて遣米使節目付(監察)として小栗豊後守忠順の三名が正式に決定した。 この三人はい…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その26

勝が江戸に帰り着いたのは一月十五日だった。 勝にとっても江戸帰国は伝習所開設以来だから、実に五年ぶりなのである。家族の顔も久しく見ていなかった。勝は品川に着くと、お世辞にも立派とは言えない赤坂田町の屋敷に帰った。屋敷といっても借家である。薄…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その25

遣米使節団 安政五年十月、長く続いた将軍継承問題も落ち着き、井伊直弼の支えもあり第十四代将軍には徳川慶福が就任し、名を家茂(いえもち)と改めた。 その年の十二月長崎海軍伝習所に新たな問題ができた。開設後、安政二年十二月頃は伝習生が百二十八名と…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その24

その後、朝廷の中で評議が行なわれ、幕府にも同じ勅諚(天皇の命令)を出すことが決まり、水戸藩より二日遅れて幕府に着いた。これを知った幕府は、水戸藩に諸藩への伝達を厳しく禁じ、この勅書を即返納するよう命じた。これに対し、水戸藩内でも意見が割れ…

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その23

安政の大獄 六月二十七日、朝廷で評議が開かれていた。日米修好条約の調印の報告を聞き孝明天皇が怒りを露にしていた。 「朕は誠に遺憾である。あれ程、異国を我が神国に入れてはならぬと申しつけたはずだが、朕の意向に背き開国をするとは残念でならぬ。朕…