まつもと物語 その10

 戦国時代話

 

 松本も七月の半ばを過ぎると梅雨が終わり、盆地特有のうだるような暑さが続く。松本は比較的湿度は高くはないが、高原にでも行かない限り都会人が言うほどさわやか信州でもない。

 田岡の家も、夏の必需品といえば、扇風機、団扇、蚊取り線香、そして寝るときに絶対必要な蚊帳だ。多少の暑苦しさは夜になれば我慢できても、蚊に刺されることだけはは殊(こと)の外嫌いな安夫だった。健には子供部屋があったが、なぜか寝るときはふたり一緒だった。だから折角蚊帳の中で寝ていても、寝ぐせの悪い健は時々、足を蚊帳の外に飛び出すことが多い。そんな時に限って蚊が入り込み安夫を狙った。文句を言うのだが、寝相の悪さだけはどうにもならないらしい。

 

 健は夏になると、待ち遠しいことがあった。それは、お城の北側、消防署の隣の松本市民プールだ。泳ぐというか水遊びというか、とにかく健はもちろんの事、松本市民の夏の憩いの場所でもある。

 健が通う小学校は、その近くにある田町小学校である。四年後の昭和38年に旧開智小学校と合併して、新たな開智小学校が現在の場所に造られるので今はもう無い。新たな開智小学校は、木造が当たり前だった当時としては、初めての鉄筋コンクリート造りの近代的な校舎だった。現在の建物は平成10年に再建築され開智小学校の三代目である。因みに、田町小学校の跡地には、それまで丸の内にあった石川島芝浦タービンの附属病院を昭和43年に、そこに新築移転した。現在は、渚の奈良井川沿いへ再度新築移転したのだが、この「丸の内病院」も名前の通り、元々は松本城敷地に所縁(ゆかり)がある。

 

 清水先生は、その田町小学校から200mくらい北に進んだ沢村に自宅を構えていた。近所には「高橋家住宅」という三百年前の松本藩士武家屋敷があり、長野県でも最も古い時期の建物のひとつとして松本市重要文化財に指定されている。

 

 田岡がメモした先生の家の地図を見ながら、やっと探しあてた建物は、築40年ほどの和風平屋であった。大きめな庭石を積んだ塀の間にアジサイが群生しているが、暑さのせいか少し色褪せてきている。道路に面した白御影石の石段を数段上がると細目の縦格子戸の門がある。表札に「清水」と書かれていたので、ここで間違いなさそうだ。約束した10時より少し早いが玄関のベルを鳴らすと、五十代の奥様らしき婦人が迎えた。

「こんにちは。田岡と申します。清水先生とお会いする約束で、本日伺いました」

「いらっしゃい。主人から聞いております。どうぞお上がりください」

少し上品な感じの女性は、田岡の顔を見ると笑顔で案内してくれた。

 

 田岡は廊下を進み、書斎の入り口で「こんにちは、お邪魔します」と声をかけた。

「ああ、田岡君、待ってたよ。さあ、遠慮なく入ってくれ」

先生の書斎に入ると、壁には本棚が並び、大小の本がぎっしりと詰まっている。入りきらないのか棚の上にも天井に届くくらい積み重ねてある。背表紙を見ると、信長とか家康の文字がやたらと多く、いかにも戦国武将に関する本が多い。

本棚が重いせいか、畳が少し落ち込んでいるのがわかる。転倒防止のために本棚の下には折られた新聞紙が畳との間に差し込まれていた。

「古本屋で、時々買い集めていたら、いつの間にか本棚に入りきれない程増えてしまった」

と、頭を掻きながら言った。

「本当ですね。これだけ本があれば、先生いつか古本屋を始められますね。ははっ」

「休みといえば、殆どここで本ばかり読んでいるよ。君は武将の中で、誰が一番好きかね?」

「そうですね。僕は、真田幸村なんかが好きです。子供の頃、猿飛佐助とか霧隠才蔵がでてくる『真田十勇士』は何度も読みました。

「なるほど。『真田十勇士』は私も読んだが確かに面白いね。でも猿飛佐助や霧隠才蔵っていうのは、立川文庫が出版した物語に出てくる架空の人物なんだよ。ただ、三雲佐助賢春っていう人物が猿飛佐助のモデルになったという話もあるんだがね」

「へえ、そうなんですか。でも真田幸村は、かなり強くて家康を悩ませていたんですよね?」

と言いながら田岡は、猿飛佐助や霧隠才蔵が実在していたと思い込んでいたので、内心恥ずかしかった。

「そうだね。特に大阪の陣では、あわや家康の命を奪い取るところまでいき、相当手強い武将だったみたいだね。君も少しずつ戦国武将に興味持ってきたんじゃないかね?」

「実はそうなんです。僕も先日、図書館で伝記物の徳川家康の本を借りて今読んでいる最中です。まだ、信長と家康が武田勝頼を倒す長篠の戦いが終わった辺りまでですが、家康の人生って本当に波乱万丈ですよね。幼いころに人質になっていたんですね。その後も色々な武将から攻められたり、助けられたりして何度も戦をしてますよね。僕も少し前までは〈関ヶ原の戦い〉のイメージしかなかったのですが‥」

 

 先生は奥さんから運ばれた冷たい麦茶を一口飲むと、

「じゃあ、早速、石川数正の話をしてあげよう。君も徳川家康の本を読んだのであれば、今川義元の人質の時に石川数正が小姓として一緒に付いていった事は知っているね」

「はい。石川数正って人は、家康の幼い頃よりずっと有能な家臣として仕えていたんですよね」

「それなのに、秀吉に寝返った裏切り者という悪いイメージが付いているんだ。だが、なぜ寝返ったのかという本当の理由は今も謎とされている。今日は、そこのところから話をしようと思うがいいかい?」

「はい、お願いします」

すると先生はいきなり、背筋を正し、

「時は、群雄割拠の戦乱時代。信長に対し謀反を起こした明智光秀山崎の戦いで主君の仇を撃った秀吉。そして、尚もかつての上役であった柴田勝家を賤ケ岳の戦いで撃ち果たした。残るは最大の敵、家康との決戦を控えていた。豊臣方は十万、対して織田信雄徳川家康連合軍は三万。いよいよ最強の二大武将の戦い、小牧長久手の合戦が始まった‥ パン、パン!」

と膝を扇子で叩いた先生は、まるで昔の活弁士か講釈師の様な語り口調で話をし始めた。そう言えば、高校の歴史授業の時も清水先生はたまに戦国時代の話になると、熱く語るようになり、生徒たちが唖然としたことがあった。

「すまん、すまん。一度、講談師のまねをしてみたかったんだ。でも、小牧長久手の合戦の頃から話をしよう。これは、秀吉と織田信雄(のぶかつ)・家康連合軍との戦いなんだが‥」

と言って、今度は、じっくり話を始めた。それにしても、先生は昔とかわっていない‥と田岡は思った。

 

 

     小牧長久手の戦い

 

 天正十年(1582年)六月、織田信長明智光秀の謀反により本能寺で自刃した。長男の信忠も同時に妙覚寺で自刃した。それまで信長が天下を統制していたが、その後継者を誰にするかを決める為、清須城で信長家臣が集まり論争した。いわゆる「清須会議」である。これにより、羽柴秀吉が推した信長の嫡孫・三法師が継ぐことになった。しかし、それに反抗した三男の織田信孝を推していた柴田勝家は、賤ヶ岳の戦い前田利家の寝返りにより、秀吉に討ち取られ最後は切腹となった。

 残った次男信雄は、三法師の後見役として安土仮屋敷に入った。だが本来、家督を相続することを望んでいた信雄は、徐々に秀吉の傲慢なやり方に不満を持ち、秀吉が大阪城を勝手に築城したことをきっかけに、家康に助けを求めた。

この秀吉と信雄の関係の悪化は、敵対していた家康にとって、信長後継者の信雄の援軍という「大義名分」を抱え、秀吉との決戦となった。これが小牧長久手の戦いの始まりである。

 

 天正十二年(1584年)三月、家康はいち早く尾張小牧山城に陣を構えた。これに対し秀吉は犬山城に着陣し、しばらくはお互い相手の出方を伺う膠着状態が続いた。すると秀吉方の池田恒興森長可から、手薄になっている家康の本城の岡崎城を別動隊が奇襲し、家康を小牧城から誘き出すための「中入り」戦法を秀吉に提言した。この中入り戦法は、別動隊の動きが相手にばれると逆に兵力を減らすというリスクもあった。

 秀吉の許しを得て、別動隊は石川数正が守る岡崎城に向かったが、これに気付いた徳川軍が、密かに小牧城を抜け出し、この別動隊を左右後方から挟み打ちして撃退した(長久手の戦い)。これによって池田・森は討死に、総大将の羽柴秀次(後の豊臣第二代目関白)は徒歩で辛うじて逃げ帰るという失態を演じ、秀吉をひどく失望させた。

これを機に秀吉は兵を大阪に引き上げさせ、家康も岡崎城に戻った。

 

 その後も、秀吉と家康の小競り合いは続いたが、戦局が思わしくないと感じた秀吉は、合戦から半年以上経った11月、家康に気付かれぬように清須城で織田信雄と会い、和議を申し入れた。秀吉から言葉巧みに口説き落とされた信雄は家康に断りもなく和議を受け入れた。これを知った家康は憤慨したが、「大義名分」を失くした家康は戦いを終息せざる得なかった。しかし、元々この戦い、勝ってならず、負ければ身の破滅、つまり〈勝たず、負けぬ〉の戦いだったと家康は思っていた。

 

 戦いは、和議で終わった。だが、三河武士の戦意はそれで済まなかったのだ。

特に長久手の戦いでは中入り戦法の裏をかき、池田恒興森長可を打倒した榊原康政井伊直政は、勝利に酔い痴れている。確かにこの戦いは徳川軍の勝利だった。この勝ち戦に乗じて、強硬派である本多忠勝は楽田城にいる秀吉を討ち取るいい機会だと息巻いていた。しかし、これを強く制したのは石川数正だった。

 数正は尾張と接する西三河の旗頭を任じられていた。家康と秀吉の取次として双方に通じていただけに、大局的に情勢を判断することが出来た。局地的な勝利はあくまで一時の勝利に過ぎない。秀吉の背後には、秀吉に臣従した各地の大名が徐々に数を増している。例え家康が北条と手を組んだとしても数的には圧倒的に不利である。徳川を存続させるためにも、勢いだけで秀吉に立ち向かうことは、絶対に避けなければならない。しかし、このことを他の武将に説けば説くほど、数正に対する反感を買った。また、家康が数正の進言を受け入れた事により、数正に対し嫉妬する者も多かった。

 

「秀吉に我ら三河の力を見せつけるのは今をおいて他にはない。なぜ、お館様は動かないのだ。これも、きっと数正のせいだ。数正が、殿を気後れさせているに違いない。ひょっとして数正は秀吉と通じているのではないか」

などと根拠のない噂を吹聴し始めていた。しかし、家康もあくまで今は動く時ではないと判断し皆を強く抑えた。

 この時を境に、三河武士たちからの石川数正に対する風当たりは強くなってきた。

三河武士とは、真面目で忠義に厚く、辛抱強い。良く言えば質実剛健。しかし、その反面、頑固で意地っ張りであった。

 

 『小牧・長久手の戦い』 秀吉軍は中入り作戦の途中、長久手にて徳川軍に敗北