まつもと物語 その22

   師走

 

 それから、ひと月が過ぎ十二月に入った。師走と言うだけあって庁舎の中も皆なぜか忙しく動き回っている様に見えた。

田岡も、観光推進の資料作りや松本城の案内板と駅構内に貼る宣伝ポスター作製にも手をとられていた。そこに同僚の宮下が声をかけてきた。宮下は、地域環境課から上下水道計画課へ異動していた。

「おい、田岡、頑張ってるかい。忙しそうだね」

「おう、宮下じゃないか、久しぶり。どうしたんだい?」

「ちょっと総務課に用があって来たんだが、その帰りさ。実は、同期の連中が集まって忘年会でもやらないかって話になってお前も誘おうと思って寄ったんだ。二十日ごろを予定しているんだが、お前も出れるかい?」

「いいね。なんとか都合付けるよ。場所とか時間決まったらまた連絡してくれる?」

「わかった。じゃあ、田岡も出席するってことで決まりだな。ところで、今も総務課の由美子に声を掛けて きたんだが、あとひとり女子が足りなくてさ。実は五対五の男女で計画したいんだ。忘年会は口実で男女合同の飲み会をしたいだけさ。お前だれか心当たりないか?」

「急に言われてもなあ。同期で女子って言っても、そんなに居ないんじゃないの?」

「いや、別に同期じゃなくてもいいよ。どこの部署でもいいから誰か探しておいて。頼んだよ、じゃあな」

それだけ言うと後姿を見せ、そそくさと帰って行った。

「おい、そんなの押し付けられても困るよ。まったくもう」

とは言ったが、田岡の頭の中にはひとりの女性を思い浮かべていた。

 

 妙子とは、一週間前に初めて二人で食事をした。一応お城の説明をしてもらったお礼として田岡から誘ったのだが、しっかりデート気分で楽しかった。しかし、少し緊張していたせいだろうか料理の味は殆ど覚えていない。嬉しかったのは、いつだったか誕生日の話をした事を妙子は覚えていて、少し早かったがプレゼントとして白と緑のストライプ柄の毛糸マフラーをもらったことだ。その日以来、毎日それを首に 巻き通勤しているが、極めて心地よく最高に暖かかった。

 十二月二十四日、クリスマスイブにあわせ、予約しておいた洒落た店に男女十人が集まった。宮下が企画した飲み会である。田岡は当然、妙子を誘い隣同士の席についた。同世代の男女なので気楽に楽しむことが出来て話も盛り上がった。プレゼント交換した時は皆が全員クラッカーを鳴らしたりし、はしゃぎまくった。うるさ過ぎて途中、店員から注意されたほどだった。

 

 年の瀬も迫った二十九日、家族で縄手通りの歳末市に出掛けた。軒を連ねて屋台が並び、お正月の縁起物、松飾り、達磨などが店先に置かれていた。どの店主も大きく元気な声で客寄せしていた。義父は玄関に飾る注連飾(しめかざ)りや達磨を買い、母は伝統工芸品の「御神酒の口」の手ごろな大きさの物を一対(二本)買った。御神酒の口とは、松本地方で古くから伝わる神棚に供えるお神酒のトックリの口に飾るもので、ひとつの竹を細かく縦に裂き水引のような形にした神様を迎える縁起ものである。

弟の健は、自分の勉強机に飾りたいと言って20㎝ほどの門松を安夫に買ってもらい満足している。

 田岡家でも家族全員での大掃除を終え翌日、大晦日となった。沢山のお皿に盛られた刺身やお寿司、茶碗蒸しなどが並ぶ夕食を前にした。義父が「今年一年、なにかと災害や大きな台風が続いたが家族全員無事で過ごすことが出来、何よりだった。皆、ご苦労様でした。来年も良い年を迎えられよう願い乾杯しよう。かんぱ~い!」と声をかけると、皆もそれに倣った。

 そして、テレビでは恒例のNHK紅白歌合戦が始まった。昭和三十四年は第十回目となり、司会は紅組・中村メイコ、白組・高橋圭三だった。母が年越しソバを用意すると皆で美味しそうに啜った。健はさすがに起きていることが辛そうで安夫が部屋に連れて行った。紅白は全部で五十組の歌手が競い、トリを飾るのは歌姫・美空ひばりだった。そして十五分前になると、各局共同で「ゆく年くる年」を放送し、除夜の鐘を聞くというのが定番となった。

 

 

     新年の大雪

 

 昭和35年元旦、晴天のなか新年を迎えた。前日、わずかに雪が降ったらしく、薄っすらと家の周りが白くなっている。

安夫の住んでいる城西町に東西まっすぐ延びた道路があり、住宅に挟まれたその正面には、雪で化粧した常念岳が見事な程くっきりと見えた。後に誰が付けたか、この道を「常念通り」と言う。

 

 田岡家は毎年元旦に蟻ケ崎の塩釜神社で初詣をしている。城西町に移転後はこの神社が田岡家の氏神様である。建物自体決して大きくはなく、どちらかと言うと目立たない存在である。総本社は宮城県塩釜市にある。宮城県には塩釜神社が多数あり、祭神は塩土老翁神といって海や塩の神様らしく伊達政宗も何度か寄進したらしい。しかし、なぜその塩釜神社の分社がこの松本にあるかはわからない。

この神社では、初詣をする信者に長寿飴を頂ける。健も毎年これを楽しみにしている。欲張って三個貰おうとした健を母が叱った。

安夫も神殿に向かい拝礼をして振り向くと、そこに清水先生がやってきた。先生が田岡に気が付くと

「明けましておめでとうございます」とお互い深く頭を下げ挨拶した。

「先生もこの神社で初詣ですか。うちの家族は毎年ここで初詣しているんです」

「田岡君もか、うちもそうだよ」と笑顔でかえした。田岡はとなりの和服を着た婦人に対し、

「あっ、奥様。去年の夏ころ、先生のお宅にお邪魔した田岡です。その節はお昼も頂きありがとうございました」

「はい、覚えていますよ。よかったらまた遊びにいらっしゃい。ご迷惑でなければ主人の戦国話に付き合ってくださいな」

「はい、その時は喜んで伺いますので、宜しくお願いします」

すると、母が近寄ってきて、

「清水先生、息子の安夫がお世話になっております。私も一度だけ、高校の卒業式の時お会いしたと思います」

「そうですか。高校の時は田岡君も実に勉強熱心な生徒さんでした。昨年、偶然に会ってからも何度か親しくさせて頂いてます」

軽く会釈して帰ろうとしたが、安夫は思い出したように先生を引きとめ、

「先生、例の古文書のことですが、実は去年の11月ごろ、東京から偉い歴史学者の教授が松本城を見学しに来られたのです。その時に、手紙の内容の鑑定をお願いしたところ快く引き受けて頂ける事となり、いま持ち帰って調べて頂いてる最中だと思います。何だか隠し文といって謎の密書みたいですよ」

「それは本当かい。内容がわかったら、是非私にも連絡してくれないか」

「もちろんです。その時はすぐ連絡しますので、楽しみに待っていて下さい」

家に帰ると、健は母からお年玉をもらった。小袋を開けると中から岩倉具視五百円札が出てきた。「やった!」と言って両手を挙げ喜んだ。いつもは三百円くらいだったが健にとって今年は景気が良い。事前に安夫が母に渡しておいたからだ。

 

 正月七日になると、田岡家は恒例の七草粥が朝食に出される。家族でフウフウしながら熱い粥を食べるのが楽しみであった。すると健が、学校で教わったのか、

「僕、七草を全部言えるんだよ。みんな聞いてて、じゃあ言うよ。 セリ、ナズナ、ゴボウ、ハコベラホトケノザスズナスズシロ、これぞ七草! どうすごいでしょ?」

それを聞いて皆は吹き出して笑った。義父が、

「おい、健、ゴボウじゃなくてゴギョウだろ。ゴボウは草じゃなくて野菜じゃないか。あははっ」

みんなが笑う中、健ひとりだけムスッとした顔で皆をにらんだ。

 

「そうだ、今度の日曜日、深志の天神様へお参りに行こう。健の頭が良くなり成績が伸びますようにってね」

「その日ってあめ市もやっているよね。健、お兄ちゃんが飴買ってあげるから一緒に行こうね」

と、いじけている健を母と安夫がご機嫌をとった。

 この「あめ市」の由来は、川中島の戦いで知られる甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が争っていた時代、駿河今川氏真が武田の支配地に塩の供給を止める戦略をとった。甲斐の領民を困らせるこのやり方に義憤を持った上杉謙信が越後から信濃経由で武田領へ塩を送った。このルートが千国街道の「塩の道」である。この時に、塩が松本に着いた日が一月十一日であった。

 

この日を記念して「塩市」が始まったと伝えられている。江戸時代になると松本の最大行事となり、城下で塩や飴を売ったり、華やかな行列で祭りを祝った。そんな中で宮村天神(現在の深志神社)の神主が塩を売るようになり、それが現代になり「塩市」が「あめ市」とも呼ばれるようになった。今ではこの日に、武田軍と上杉軍に分かれ綱引き大会も行なわれている。

 

 一月十五日は、小正月といって新年の祝いの締めくくりの日で、豊作や家内安全を祈願する行事でもある。そして成人の日でもあった。この日は戦後の一九四八年から法律で定まり祝日と決まった。元来、この十五日に公家や武家で男性の成人式「元服の儀」が行われた事に由来するが、時代の変化と共に現在は第二月曜となった。

 

 松本では、この小正月に「三九郎」を行なう。どんど焼きともいうが、木で組んだやぐらにワラを巻き松飾りやダルマを焚き上げる行事である。女鳥羽川や薄川など町内ごとに行なうが、健の町内は大門沢近くの広い田んぼを借りそこで行なう。健が楽しみにしているのは、柳の枝の先にまゆ玉という緑や黄色のカラフルな団子を付け、三九郎の残り火でそれを焼きながら食べる事である。「三九郎」とは、凶作、重税、疫病の三つの苦労(三苦労)を払う為など諸説ある。

 

 それから、数日後の夜中から降り続いた雪が、翌朝になると20㎝以上積もっていた。この年も何度か雪が降ったが、これ程の大雪は久しぶりだった。安夫は義父と一緒に家の周りの雪かきを始めたが、雪はなかなか止みそうもなく、一度雪かきをした場所も降り続ける雪ですぐに元通りの真っ白な状態になった。

 安夫は、仕方なく庁舎まで歩いていく事にした。近くに停めてあった車がすっぽり雪で覆われている。道路ではタイヤにチェーンを巻いた車も深い雪でスリップしていたが、とうとう動けずに立ち往生となった。数人が後押ししてやっと道路わきに寄せた。運転手はもう諦め車から出ると、降りしきる雪の中で茫然としていた。

 道路わきの歩道をゴム長靴でなんとか城の近くまで歩いてきたが、石垣も雪で覆われ堀の中も氷が張っていたのか、その上に積もった雪で辺り一面が真っ白の中、天守の黒い板塀だけが目立った。

ようやく庁舎に着いたときは、定時を過ぎていたが、数人の職員が玄関前と駐車場を必死で雪かきを続けていた。その両脇にはすでに積み上げられた雪で大きな山が出来ていた。

安夫も一旦は席に着いたが、すぐさま雪かきを手伝った。その日は、殆ど仕事らしい仕事は出来なかった。

翌朝になってやっと雪が止んだが、結局、降り続いた雪が42㎝と記録された。安夫はその日も歩いて 庁舎に向かったが、所々の踏み固められた雪が凍っていて何度も転びそうになった。

 この大雪で、市内だけでも相当被害がでた。農業用のビニールハウスやガレージなど降雪の重みで潰れてしまった箇所は数知れず、道路での交通障害やスリップ事故も多発し、怪我人も市内だけで数十人出たと報告があった。

松本市役所としてもこの大雪被害に対し対応策で追われ、警察署、消防署、自衛隊とも連携して市内の除雪作業を進めた。

 

 その日、家に戻ると、玄関先には積もった雪の山をくり抜いてかまくらが作ってあった。健の仕業なのは見てすぐわかった。

「ただいま」と玄関にはいると、長靴や濡れたジャンパー、カッパなどが所狭しと掛けてあった。義父も濡れた服をストーブの前で乾かしていた。いま、雪かきを終えて家に入ったところだと言う。

「まったく、この大雪には困ったものだ。毎日、雪かきが続き身体中があっちこっち痛い。手にも豆が出来てしまったよ」

と言って体中を擦っていた。安夫も同じく疲れ切った表情でその場に座り込んだ。

すると、母がでてきて、「二人とも銭湯にでも行ってくれば」と促したので、健も誘って三人でいつもの 銭湯に行った。

 

 皆は銭湯の大きな湯船に身体を沈めると、生き返った心地がした。

「やっぱり、銭湯はいいよなあ。疲れが抜けていくような気がする」

あまりの気持ちよさで少し長湯をしたので、湯冷めをしないように厚着をして三人は銭湯から出た。雪がまだあたりに山積みになっている中、三人は煙のような息を吐きながら歩いた。健が持っていた手拭いをパンパンと音をだして広げてみせた。

「見て、見て、手拭いが板になっちゃった。面白い!」

濡れた手拭いが瞬時に凍るほど、外は冷え切っていた。皆の髪の毛もまだ少し濡れていたので、前髪やもみあげの部分が凍って白髪の様になっていた。本当に昭和の松本の冬は寒かった‥。

 


           松本市 縄手 歳の市