まつもと物語 その7

小笠原一族

 

 松本も六月に入ると梅雨の時期となる。ただ、松本は他県に比べそれ程長雨は続かない。どちらかと言うと曇りの日が多く、時々雨が降るという感じだ。したがって、湿度もそれ程不快ではない。

しかし、その日は昨夜から小雨が降り続いており、安夫は博物館まで傘を差して歩いて来た。すると玄関ホールに傘やズボンの裾を払っている人影があった。

 

「あっ、先生、おはようございます。すみません、お待たせしました。先生もだいぶ、濡れましたか?」

「おはよう。いや、私も今着いたところだ。よく降るね。まあ梅雨だから仕方がないか」

ふたりは、早速、受付で福島学芸員を呼び出してもらうと、廊下の奥から男性が歩いてきた。

「おはようございます。先生、ごぶさたしております。雨の中、わざわざ来て頂き恐縮です。さあ、こちらへどうぞ」

 

少し、肥満気味の福島に案内され、研究室のひとつと思われる奥まった部屋に通された。

「先生、お元気でしたか。七、八年前の同窓会以来ですよね。先生から電話頂いて嬉しかったです」

「君も変わりないねえ、と言いたいところだが、前より少し太ったかね? あははっ。そうだ、紹介しよう。こちら、松本市役所にお勤めの田岡君だ。彼も私の教え子だよ。電話で話した件、実は彼からの依頼で、どちらかというと私は付き添いだ」

田岡は、名刺を差し出し、軽く会釈をした。

「田岡と申します。観光振興課という部署におります。今日は、松本城のことを色々教えて頂きたく伺いました。お忙しい処、申し訳ありませんが宜しくお願い致します」

「福島といいます。こちらこそ、よろしくお願いします。私たちの研究している事は、今後すべて市役所へもレポート提出していきます。これからも長いお付き合いになると思いますよ。さあ、どうぞお掛けください」

 

 その時、ドアが開き、女性職員がお盆にお茶を乗せて入ってきた。

軽く会釈をし、「どうぞ」と言ってテーブルに置いた。安夫は、なにげなくその女性の顔をみて、はっとした。左の頬に二つ並んだ小さなホクロに見覚えがある。

「妙子ちゃん?」

女性は少し、驚いたように田岡の顔をみた。しばらく黙っており、なぜ自分の名前を呼ばれたのか不思議そうにしていた。

福島が、その様子を見て、

「田岡さん、お知合いですか? 花岡さん、田岡さんを知っているの?」

それを聞いて女性は、

「えっ、田岡さん? ああ、安夫君! 随分変わったので、ごめんなさい気が付かなかった。お久しぶりです。」

相手の女性もやっと思い出したようだ。田岡も人違いではなかったとホッとし、改めて福島に説明した。

「はい、花岡さんとは小学校と中学の同級生です。偶然会ったので僕も驚きました。中学卒業以来です」

 彼女は小学生の頃、おかっぱ頭だったが、今は髪の毛も長く大人の女性になっている。しかし、あの頃の面影ははっきり残っている。安夫も中学までは坊主頭だったので、最初妙子も気が付かなかったのだろう。

中学の時はクラスが違ったが、同じ図書委員で話は時々交わしていた。

 

 田岡は、もう少し話をしたかったが、福島や清水先生もいる手前、軽く挨拶すると彼女も部屋を出て 行った。

彼女の後姿を見ながら、田岡安夫の頭の中には、あの頃の思い出がよみがえった。安夫が、小学校二年の時である。図工の時間に隣の生徒の顔をお互いに鉛筆で描くという授業だった。安夫の隣は妙子だった。 安夫は絵が得意であったが妙子の顔を丁寧に書きすぎて、完成せずに先生に提出した。自分でもすごく 上手に描けたと記憶している。その時、二人でお互いの顔を見つめあった時間が子供心にすごく嬉しかった。妙子は瞳がとても奇麗だったので特に目のあたりを丁寧に描いたことを覚えている。

 もうひとつの思い出は、学校帰り、どういう経緯(いきさつ)か覚えていないのだが、お城の回りをなぜか二人して 歩いた。ずいぶん歩いた後、「源池の井戸」の横で二人並んで座り、ポケットに入れてあったキャラメルをふたりで食べた記憶もある。今から考えると、あれは人生初デートだったのかもしれない。

 

 田岡が子供の頃の思い出に浸っていると、清水先生の声で我に返った。

「ところで福島君は今年、いくつになったかな」

「はい、今年で36歳です。卒業して20年近くなりますね」

「そうか、そんなになるのか。どうりで福島君も貫禄がつくわけだ。じゃあ、田岡君の12、3年くらい先輩ってことかな」

「失礼ですが、先生はおいくつになられました?」

「私かね。私も58だ。もうそろそろ、定年退職だ。私も引退したら、本格的に日本史の研究をしたいと思っているよ。今日は私も一緒に勉強させてもらうけどいいかな」

「とんでもない、先生に教えるなんて。でも先生が歴史好きなので私も嬉しいです。私も松本の歴史のことでお役に立てれば研究のやり甲斐があるというものです」

福島は、そう言いながら、用意していた資料を机の上に並べた。

「田岡さん、どんな話からすればいいでしょう? 松本城の歴史ですよね」

「すみません、私は生れも育ったのも松本なのですが、松本市役所職員として恥ずかしながら松本城やこの城下町がどうやって出来たのか、全く知識がありません。出来ましたら、まずお城が出来る前は誰がどの様に、この土地を治めていたのかを教えて頂きたいのですが。小笠原氏が元々統治していたということだけは本で読みました」

そう言うと、田岡もカバンから聞き取り用のノートを取り出した。

 

「わかりました。では、年代を追って話していきます。質問があれば、その都度おっしゃって下さい」

福島は田岡に対しなるべくわかりやすい様に話を始めた。

「田岡さん、長野県の県庁って、今は長野市ですよね。でもちょっと時代をさかのぼって奈良時代って、どこにあったと思いますか?」

奈良時代ですか。すみません。よくわからないですが、やはり今の長野市あたりですか?」

「残念ながら違います。実は、この松本にあったのです。田岡さん、学生の頃に歴史の時間で先生から「大宝律令」って習いませんでしたか?」

「はい、最初に中学で701年って習ったと記憶していますが、清水先生からも教えて頂いたと思います」

清水先生の方を見ると、黙ってニコニコしていたが、田岡は詳しい説明をする自信がなかった。それより、そんな古い時代から話が始まったので少し驚いた。

 

 福島はなおも話を続けた。

「当時、政治の中心は天皇、いわゆる朝廷が政権を握っており、その拠点は奈良の平城京でしたが、地方の政治も含め国をどうやって治めるか、それが課題でした。そこで制定されたのが「大宝律令」でこの律令制に基づいて地方の行政区分を律令国とか令制国といいました。その律令国のひとつが、「信濃国」と呼ばれた今の長野県です。そして、その律令国を中心となってまとめる人が「国司」で、国司がいる場所が「国府」です。だから今でいう県知事と県庁のようなものです。そうですよね、清水先生」

清水先生は、相変わらず頷くだけで黙って聞いていた。田岡はまるで学校の授業を聞いている様な思いがした。

 

「と、まあ奈良時代の説明はこれくらいにして、今言った国府が以前は上田にもあったようですが、その後、松本に国府を置き、それ以降、信濃国は松本を中心に行政が行われ続けたのです。それほど、この松本平は地理的にも政治的にも信濃において要の土地だったのです」

「やはり、昔から松本は政治の上でも重要な土地柄だったのですね。益々、松本の歴史に興味を惹かれます」

「その後の鎌倉時代では、源頼朝武家政権を確立させ、武士が政治を司る様になりましたが、足利尊氏が京都室町に幕府を遷(うつ)した頃から国司から「守護」に代わり、その場所も国府から「守護所」という言い方になりました。そして室町時代になると、その土地の有力武士の頭領が守護となり、のちの大名になってその国を支配する様になったのです」

 

「その間、呼び方は代わっても、松本がその先もずっと信濃国の県庁のような場所だったわけですか?」

「そうです。では、信濃国守護大名を代々司ったのは誰だったか。田岡さんご存じですか?」

「確か、小笠原氏ですよね」

「その通りです。初代当主小笠原長清も最初は鎌倉幕府に仕えていたのですが、室町幕府になってからは、七代目当主の小笠原貞宗(さだむね)という人が初めて信濃国の守護となり、松本の井川館(井川城)が守護所となりました。ここからその後の松本の歴史が始まったと言っていいでしょう」

井川城って南松本駅の北側にある所ですよね。本当に井川城というお城があったからその地名になったんですね。ところで、小笠原氏が守護となる前は、松本は誰が支配していたのですか?」

「その時代、朝廷の任命する官僚もいたのですが、地方の政治は、その土地の地侍や豪族と呼ばれる勢力を持った一族が個々に一定の土地を支配していました。松本平もいくつかの豪族が各々の土地を支配していたようです」

「わかりました。そうすると、信濃の国を最初に統制したのは、やはり小笠原氏ということですね」

「はい、そうです。信濃に土着して約百年間代々小笠原氏が井川城で守護を務めていましたが、十三代当主・小笠原清宗(きよむね)が家督を相続し守護となってからは、林城という山城を築城し、ここを本城として井川城から移ったのです。長禄(ちょうろく)三年、西暦で言うと1459年の事です。」

 

福島は黒っぽい表紙の「小笠原史資料」「東筑摩郡 誌」と書かれた本を傍らに置き説明を続けた。

林城っていうお城はどこにあるのですか?」

里山辺です。薄川の南側にある林という地名の場所です。ちょっとした山の中ですね」

「そうなんですか。でもなぜ、井川城から林城へ移ったのですか?」

「実は、長く続いた小笠原家にも内部分裂があって、本家である松本府中小笠原家から、鈴岡小笠原家と松尾小笠原家(飯田市)の二派が分かれ本家と対立していた時期が続いたのです。その鈴岡小笠原家が諏訪氏と組んで、府中松本を攻める様になり、林城へ移ったという訳です」

「同じ小笠原家同士で争いごとが起きたということですね。でも、なぜそんな不便な山の中に城を建てたのですか?」

「それまでの井川城は松本平のほぼ中央にあったのですが、ここは平地ですので、ひとたび攻撃されると防ぎようのない場所です。なので、薄川の中腹にある小高い山の中に防御力のある山城を築城し、攻撃に備えたのです。これが、林城跡地の見取り図です」

と言って、福島はテーブルの上に林城の図面を広げた。そこには細長い集落を挟んで北の大城(金華山城)と南の小城(福山城)の二つの山城があり、それぞれの尾根の上にたくさんの石垣や堀をつくった様子がわかった。

「そして、この林城を本城とし、井川城は支城(出城)としました。支城は他にも犬甘(いぬかい)城(城山)、桐原城山辺)、稲倉城(岡田)、平瀬城(島内)、清水城(島立)など林城を囲むようにたくさん造り、本拠地・林城の守りを固めました」

福島は別の地図を広げると、そこには、松本平の支城の位置を示す分布図が描かれており、確かに林城を囲んで十五箇所くらいの支城が記されていた。

「その後も長い年数、府中本家と鈴岡家は対立と和睦が繰り返されましたが、案の定、支城のひとつだった井川城が鈴岡家に攻められ陥落されました。その代わりとして、15代当主小笠原貞朝(さだとも)が家臣・島立右近貞永に命じて、新たな林城の支城として深志城を造りました。これが、後の松本城の元になる重要なお城です」

福島の小笠原家の話は中盤に差し掛かり、やっと松本城という言葉が話の中に出てきた。

「こんな状態が70年くらい続いたのですが、16代当主の小笠原長棟(ながむね)が、とうとう敵対していた鈴岡家と松尾家を内倒し、分裂していた小笠原氏は再び統一されました。

小笠原氏の前段の話は、ここまでとして少し休憩にしますか。いかがですか? だいたいご理解いただけましたか?」

 

といって福島はお茶を口に運んだ。すると、清水先生が椅子から立ち上がり少し背伸びしながら、

「いままでの話は、鎌倉時代から室町時代にかけての歴史だよね。すると、ここからは私の好きな戦国時代に突入していくという訳だね。いよいよ、武田信玄が現れて来そうですね」

「そうです。宜しければ、話の続きをしますが‥」

「お願いします。深志城って松本城が出来る前に建っていたお城なんですね」

と田岡も話を促すように姿勢を変えた。

「では、話を続けます。でも、まだ松本城が出来るのは、もっと先のことです。先ほど、分裂した小笠原氏が統一したと話しましたが、その頃、甲斐の守護大名武田信玄が徐々に信濃を侵攻してきたのです。最初は伊那へ出兵し、高遠城を陥落させると、佐久を攻め、続いて諏訪を手中に収めました。

 更に塩尻峠を越えようとした時に、17代当主小笠原長時(ながとき)がこれに対抗しました。長時は弓馬に優れた勇猛な武将だったのですが、軍略に長けた武田軍に寝込みを襲われ、激戦の末、小笠原軍は敗退しました。この時の戦いを「塩尻峠の戦い」と言われています。その後も武田勢の侵攻はそのまま続けられ、遂に松本への侵攻を始めました。とにかく、当時の武田信玄の軍勢は強く、誰も敵う者がいませんでした」

 

 更に福島はまるで自分が戦場を観て来たかの様に話を進めた。

武田晴信(信玄)は松本を攻略する上で、まずは村井に本拠地の城をたて、すぐさま、中山にあった林城の支城のひとつである埴原(はいばら)城を即日陥落させたのです。これをきっかけに、小笠原軍は武田の勢力に恐れをなして、寝返る者や逃亡する者が後を絶たず、林城は戦わずして自落しました。こうなると、どの支城もまともに戦う者がなく、武田勢としては簡単に松本を制圧出来たのでした」

「そんな最強の武田軍団に小笠原軍がとても勝てる相手ではなかったということですね」

「そうなんです。それで塩尻峠の戦いで敗れ本拠の林城を失った小笠原長時は三男の貞慶(さだよし)と共に、親戚だった北信濃の武将・村上義清を頼り敗走しました。これから、この二人の長い放浪の旅が始まります」

 

福島は、田岡が必死でノートにメモをとり、眉をひそめた様な顔をしているのを見て、

「ごめんなさい、少し話が早すぎて分かり辛いですか?」

「はい、ちょっと、色々な人物の名前がでてきて、頭が混乱しそうです。もう一度、整理してもらっていいですか?」

「そうですね。それでは、分かり易いように小笠原家の代々の当主を書き出してみましょうか」

福島は、部屋の壁にある黒板に上から順に名前を書きだした。さながら学校の授業そのものだった。田岡もノートの新しいページを開き、それを書き写した。

 

初代当主 小笠原長清(ながきよ)1180年 鎌倉幕府 源頼朝に従事する      

7代当主 小笠原貞宗(さだむね)1334年 初代信濃守護 井川城に守護所を置く  

13代当主 小笠原清宗(きよむね)1459年 井川城から林城へ居城を移し本城とする         

15代当主 小笠原貞朝(さだとも)1504年 島立右近貞永に命じ深志城を築城    

16代当主 小笠原長棟(ながむね)1534年 分裂していた小笠原家を統一する      

17代当主 小笠原長時(ながとき)1550年 武田軍に林城の戦いで敗北 北信濃へ逃走    

 

「福島さん、ありがとうございます。だいぶスッキリしました。小笠原家って初代長清から代々四百年も続いているんですね。もしかすると、江戸幕府の徳川家より長いんじゃないですか?」

「はい、この後の松本藩の第二代城主も小笠原家ですから、確かにそうかもしれませんね」

「すごいなあ。小笠原家って松本において重要な家柄なんですね」

「更に小笠原家は代々受け継いでいるものがあるんです。田岡さん、よく小笠原流って聞きますよね。『弓・馬・礼の三法』といって弓道馬術・礼法も小笠原流が起源なのです。馬を走らせながら矢を的に当てる流鏑馬(やぶさめ)ってご存じですか。これも小笠原流派のひとつです。そして小笠原流煎茶道というのもありますが、長時が放浪しているときも先祖伝来の三法を絶えさない様に苦労しながら各地で伝授したおかげで、小笠原流は現代にも息づいているんですよ」

「すると、小笠原一族の中でも、小笠原長時はとても偉大な人物のようですね」

「そうなんです。長時は、最も偉大で苦労した人物だと、私はそう思っています。長時は確かに武田信玄には敗れ、三男の貞慶(さだよし)を連れ三十年も放浪の旅を続けていましたが、武術や作法を身に付けていたので、将軍足利義輝上杉謙信織田信長など有力武将から指南役として重宝され、各大名からも客分として扱われた様です」

田岡も、小笠原長時を心酔するように福島の話を聞いていた。

      林城(本城)周りを支城で固める  深志城がのちの松本城

 

    歴代の小笠原家  第17代当主小笠原長時(1514年~1583年)