まつもと物語 その6

 新組織

 

 翌日、田岡はいつもの自転車で新庁舎に向かった。通勤途中の松本城が今日も漆黒の姿で雄大にそびえ立っている。青空に浮かぶ白い雲、遠くにわずかに雪が残っているアルプス。爽やかな風が顔にあたって気持ちがいい。いかにも五月晴れの朝だった。庁舎に着き五階建てのビルを見上げると、なぜか顔がほころぶのが自分でもわかった。

 

 田岡は、新庁舎の三階にある環境課に席を置いていた。職場は広いフロアに部署ごとの間仕切りはなく廊下側に長いカウンターを設け、市民が事務所に入りすぐ受付出来るようなレイアウトとなっていた。以前の狭い旧庁舎ではありえない間取りである。

そして、新庁舎になって、何より嬉しいのは建物内にエレベーターがあることだ。初めて乗った時は、皆で「わおっ~」と言って歓声を上げた。松本地域でこのエレベーターがある建物は、信州大学に次いでこの松本市役所にしかなかった。

 しかし、引っ越し後の整理はまだ完全に終わっておらず、フロアの隅にはまだたくさんの書類が入った段ボール箱が積み重なっていた。職員達もまだ新しい庁舎に慣れきっていない様子である。

部長が朝礼で挨拶を始めた。内容は新庁舎完成に伴い、組織も大幅に変更するとの事だった。

 新しい組織表が皆に配られた。田岡は従来の環境政策課から観光振興課に異動となっていた。「詳しくは各課長から個別に話を聞くように」との事だ。以前から組織変更があることを皆承知していたが、自分がどこへ異動するのかは知らされていなかった。

 

 順番に会議室で個別に面談し始め、田岡の番がきた。

「失礼します」と部屋に入り、課長を前にして所定の椅子に座った。

「ああ、田岡君、引っ越しご苦労様でしたね。田岡君は今まで、市内の環境保全や美化推進を中心に行なってもらっていたが、今度の部署は新しく創設した部門だよ。観光振興課というところだ」

「はい。観光振興課といいますと、どの様な仕事内容でしょうか?」

「簡単に言うと、松本市をりっぱな観光都市として確立する仕事だ。松本は、松本城を始め、城下町として歴史と文化のある街だ。ここに大勢の観光客を誘致できる様に市内の環境を整え、松本の良さを他県に アピールして、もっと知名度をあげる街づくりをして欲しいのだ」

「市内の環境を整えるとは、具体的にどの様なことをしていくのでしょうか?」

「従来の市街の衛生・美化はもちろんのこと、街の景観を城下町にふさわしいデザインすることだ。例えば、公序良俗に反する店構えや貼り紙、構造物を完全に撤去し、駅や商店街にも松本城と城下町の雰囲気を強く醸(かも)し出し、訪れた観光客が「松本はとても素敵なところ、また是非来たい」と言ってもらえる様にすることだ。どうだ、イメージはわくかい?」

「はい、仕事の主旨は理解できました。ただ、やるべきことが多すぎそうで何から手をつけたら良いか迷います」

「新しく出来た部署だから、多少戸惑うのは無理もない。草間係長がこれからの直属上司となるから、彼の指示で今後仕事をするように。いいかい、頑張ってくれよ」

「はい、わかりました。私も松本市民として良い街にしたいと思います」

田岡は席を立とうとしたが、思い出したように、

「あっ、課長。 先日、前の庁舎で報告しました古文書の件ですが‥」

「そうだった。ただ、庁舎内にそのような古文書を直接取り扱う部署がないからなあ。しかし、大事な歴史資料かもしれないから、田岡君すまないが、それを博物館に持っていき事情を話し鑑定してもらってくれないか」

その博物館の前身は旧開智学校内にあったが、何度か移転を繰り返し昭和27年、松本城二の丸にあった松本中学講堂の跡地に、新たに松本市立博物館として開館した二階建て木造建物である。

 田岡にとっては、十年前に通った丸の内中学があった場所だった。今、思うと臨時校舎とはいえ松本中学だった建物をそのまま利用し老朽化が進んだ粗末な校舎だったという印象しか残っていない。

 その後、昭和43年に建替え「日本民族資料館」の名称併記で開館し、更に令和五年大手町に新築移転となった。

翌日、田岡は仕事の合い間をみて博物館へ行った。ところが、入り口に「改装中につき閉館」と書かれた 看板が置かれていた。近くにいたヘルメットを被った作業員に聞いたところ、内装工事をしているとの事で、 あと二、三日かかるとの事だった。

受付に預ける事も出来たが、田岡は、担当者に直接会って渡し、少しでもその内容を教えてもらいたかったので、日を改めることにした。結局、また茶封筒を自分のカバンに戻したのだった。

 

     図書館

 

 次の日曜日、田岡は家で昼食を摂(と)るとすぐ松本図書館へ向かった。

現在、城の北側に地方裁判所松本支部があるが、平成三年に現在の開智小学校北に移転される以前は、この敷地に武徳殿(武道活動していた武徳会の道場)の建物を利用した図書館があった。 

 

 田岡はその図書館で松本城に関する書籍を探した。ぎっしりと並んでいる書棚の中から「松本郷土史」を取り出し、近くのテーブルに座った。本を開くと細かい文字で松本の歴史に関する文章が詰まっていた。1500年代の小笠原氏に関する内容が事細かく書かれているが、解りづらい文章ばかりで読解に苦労し頭を抱えた。

 安夫がふっと頭を上げた時、斜向かいに座ってやはり黙々と本を読んでいるひとりの中年男性に目が留まった。見覚えのある風貌だ。「ひょっとして?」と思いつつ安夫は身体をずらし、そっと顔を覗き込んだ。

「あの~、すみません、清水先生ですか?」

「えっ!」と顔をあげると、訝しげに田岡の顔を見た。

「僕、田岡です。田岡安夫です。深志高校の清水先生ですよね。以前、先生のクラスでお世話になりました」

そこまで言うと、やっと思い出したように

「ああ、田岡君か、すまない、あの頃とすっかり変わっていて気が付かなかった。すっかり社会人になったなあ。卒業したのは、五、六年前だったかな」

「はい、28年度卒業です。どうも、ご無沙汰しております」

「そうだ、確か東京の大学に進学したんだったな。今、どうしているんだ?」

「卒業して去年地元松本に戻って、いま松本市役所に勤めています」

「そうか、市役所職員になったのか。よかったなあ」

その時、近くに座っていた学生らしき男が、大きく咳払いをして黒縁のメガネの奥でこっちを睨んでいた。

「田岡君、時間があれば、近くの店でコーヒーでも飲まないか? 私もそろそろ図書館を出ようと思って いたところだが」

「はい、是非お供します。私もちょっと相談ごとがありますので‥」

清水先生は、高校の国語と歴史を担任していたが、特に日本史に詳しく授業中では冗談やダジャレを 言い、よく生徒たちを笑わせていた。比較的厳格な教師が多い中、親しみがあって面倒見がよく少し剽軽なところもあり、生徒たちからは好かれていた。

 

 ふたりは、松本城を迂回して大名町通りにでると、道路右の小さな喫茶店に入った。ドアベルが鳴る扉を開け、奥の席に座った。最近改装したらしく小洒落た感じの店である。炒(い)りたての珈琲豆の香りが店内を漂っていた。夜はお酒を出すのかカウンターの後ろには色とりどりの洋酒が並んでいる。

清水先生はコーヒーを注文すると、

「さっき、来るときに見たんだが、新しい市役所は大きくて立派だなあ。上土の庁舎と比べると雲泥の差だ」

「はい、最近引っ越しが終わって、やっと落ち着いたところです」

「田岡君、市役所では、どんな仕事をしているのかね?」

「まだ、部署が変わったばかりですが、今はこの街を松本城中心とした魅力ある観光都市にするため、街中の環境を整える仕事です。とは言っても、まだ始めたばかりで具体的な仕事はこれからですけど。ところで、清水先生は、今も高校で国語と歴史の学科を担任されていらっしゃるのですか?」

「そうだよ。私個人的には日本史が好きで、日本史の面白さをもっと生徒に色々教えてあげたいのだが、最近は大学受験のための勉強って感じがする。どういう問題が試験に出そうだとか、ここの箇所は押さえておけとか、そんなことばかりだ。まあ、進学校と言われているから仕方ないけどな。あっ、教師がこんな愚痴言ってる様じゃダメか。あははっ」

田岡は、改めて先生に向き直ると、

「先生、それで、お願いしたいことがあるのですが、宜しいでしょうか」

「なんだね、お願いって」

「先ほど、松本を観光都市にする仕事と言いましたが、実は僕自身、松本城をいつ、誰が、どの様に造ったのか、そしてこの城下町もどんな経過で出来上がったのか全く知らないのです。さっきも、図書館で調べようとしたのですが、本が難しすぎて中々理解出来ませんでした。それで、宜しければ先生にどうやって松本の歴史を勉強したら良いのか教えていただきたいのです」

「そうか、松本城の歴史か‥ったということぐらいは知っているが、それ以上の事は残念ながら私もわからないんだ」

先生は、しばらく考えて、

「私も、少し勉強してみるよ。そうだ、私の教え子に松本市の郷土を研究している福島君という学芸員がいる。彼から色々聞いてみるのもいいかもしれないな。なんだか私も興味がわいてきた。どうだ、今度私と一緒に彼を訪ねてみようじゃないか。確か、今も松本私立博物館で研究しているはずだよ」

「博物館でしたら、僕も先日行きました。その日はたまたま、改修工事で中に入れませんでしたが、もうすぐ工事は終わるはずです。是非、先生と同行させてください」

「そうか、じゃあ私から博物館に電話して福島君に会える日程を相談してみるよ。決まったら、君にも連絡することにしよう。連絡先は市役所でいいのかな?」

「はい、僕は今、観光振興課というところにいます。これ僕の名刺です。ここに電話して頂いても宜しいで しょうか?」

「ああ、わかった」

 

店を出ると、

「今日は、ありがとうございました。先生、お住まいはどちらでしたか?」

「沢村だよ。機会があったら遊びおいでよ。よかったら、信長や家康の戦国時代の話をしてあげるよ」

「はい、ありがとうございます。では、失礼します」

田岡は、松本の歴史を調べる事に行き詰っていたが、偶然にも清水先生に相談できて嬉しかった。

 

 それから、二週間が経ったが先生からの電話はなかった。きっと高校の教師として忙しいのだろうと半ば諦めていた頃、

「田岡さん、三番に外線です。清水さんという男性の方です」

と女性職員が声をかけた。

田岡は「あっ、来た」と心の中で叫び、すぐさま受話器をとった。

「もしもし、田岡です」

「もしもし、清水です。連絡遅くなってすまなかったね。学芸員の福島君がしばらく出張に行ってた様で中々約束を取り付けできなかったんだ。それに、私も学校の行事が少し忙しくてね」

「いいえ、先生、お忙しいところ大変お手数をおかけしまして、申し訳ございませんでした」

「それでね、来週の土曜日だったら、先方も都合がいいらしいんだ。田岡君の予定はどうかね?」

「はい、土曜日でしたら、僕も大丈夫です。博物館に直接行けばいいですか?」

「では、十時に待ち合わせしよう。いいかね」

「はい、宜しくお願いします」

 

 田岡は、以前から上司へ観光誘致の仕事の一環として、松本城や城下町の歴史について研修させて欲しいと願い出ていたので、今回の博物館学芸員から説明を受けてくる事を報告した。また、保管していた松本城から出てきた古文書を提出する事も伝えた。

 

         松本市内地図 松本城の東側 松本市役所

                  松本城

                 松本市役所