まつもと物語 その1

城山公園

 

 昭和三十四年、「もはや戦後ではない」という言葉が流行して、多少貧しくとも日本は高度成長期の入り口に立ち、明るい兆しが見えて来た時代であった。信州の寒気厳しい冬も四月の半ばともなれば、日毎に暖かさを取り戻してきた。松本市の北に見える小高い丘「城山(じょうやま)」の桜の木はそろそろ満開のピークも過ぎ、若葉も目立つ様になってきた。 

 

「ああ、疲れた。田岡、少し休憩しよう」

 同僚の宮下が汚れた軍手の甲で額の僅かな汗を拭きながら呼びかけた。田岡安夫と宮下弘はまだ松本市役所に勤めて二年目の同期である。歳は同じだが田岡は新卒、宮下は他所(よそ)から転職してきた。二人が 周囲から集めた食べ散らかしの弁当箱やビール・ジュースの空き瓶、ビニールシート、新聞紙がやまのようになった。

「花見もいいが、こうゴミを散らかしたまま帰るって、いったい何を考えているんだ。日本人のモラルは、どうなっているんだ。まったく腹が立つ」

 宮下は、持っていた熊手を杖の様に持ち替え、渋い顔で愚痴を吐いた。 

「まったくだ。何とか花見客にゴミを持って帰ってもらう方法を考えないといけないよな」

と田岡も腰を伸ばしながら、ため息をついた。

「君たち、ご苦労様。いやあ、毎年この有様で困っていたよ。今日は君たちが手伝いに来てくれて本当に助かった。疲れただろう。これでも飲むか?」

 城山公園を管理している職員のおじさんが竹ほうきを抱えながら声をかけた。手渡したのは瓶に入った二種類のジュースだった。

「あっ、ファンタだ。これって旨いんだよな。おじさん、ありがとう。じゃあ俺、グレープをもらうよ」

 宮下は両手の軍手をはずし、瓶を受け取ると、勝手にオレンジのほうを田岡に渡した。去年発売されたばかりの「ファンタ」は炭酸の入った画期的な飲み物として大人気だった。

 

 松本市城山公園は、市内でも桜の木が多く、毎年大勢の市民が花見を楽しんでいる。花見場所には、たくさんの提灯と国旗が張り巡らされ、昨日の日曜日もたくさんの家族や会社の同僚、学生たちなど、多様なグループが桜の下でビニールシートを敷き、宴会を楽しんでいた。どこからか来るのか、おでん、トウモロコシ、いか焼きの屋台も何軒か出ていた。また、近所の酒屋も出張って日本酒やビールをリヤカーに乗せ売っていた。

 桜の木に取り付けたスピーカーから東京音頭が流れ、あっちこっちで花見客が歌ったり踊ったりしている。中には酔っ払い同士が口喧嘩をしている声もしていた。

 しかし、花見が終わると、ごみをそのまま置いていく人が殆どで、真面目に持って帰る人は稀(まれ)だった。 一応ゴミ箱は置いてあるが、とてもその中に入り切れる量ではない。この日、田岡と宮下は上司からの指示で、松本市役所の手伝いとしてゴミの後片付けをしていたのだ。

 田岡たちは城山公園の南にあるベンチに腰掛け一息ついた。目の前には松本平が一望できる。遠く正面には弘法山が見える。この頃、松本市内には高いビルなど殆どなく、市内中央にある松本城がひと際目立って見えた。松本城は遠目で見てもカッコいい。まさしく松本市のシンボルである。

 そのお城の近くに完成間近の消防署の四角細長い望楼(ぼうろう)がそびえ立っている。望楼とは火の見やぐらの役割をしており、ここから松本市内を殆ど監視できる建物となっていた。(平成四年、解体)

 そして、松本城のうしろには、その年の四月新築されたばかりで五階建て鉄筋コンクリートの建物が見える。ここが田岡たちの勤務する新しい松本市役所である。

「宮下、見てみろよ。ここから俺たちの松本市役所がお城の後ろに建っているのが見える。いよいよ新しい職場で仕事ができるんだ。楽しみだなあ」

「本当だ。あんな近くで毎日お城を見ながら仕事ができるなんて最高だよな」

 ふたりは、松本城とその周囲の広大に広がる松本平を眺め、そこから、しばらく目をそむけることができなかった。

 

 この「城山」は、古い歴史がある。南北朝時代後期(一三九〇年ころ)信濃国守護となった小笠原氏が、ここに犬甘(いぬかい)城という支城を治めていた。のちの江戸時代天保一四年(一八四三年)に松本城主・戸田光庸(みつつね)がその城跡地に桜の植栽を指示し、庶民の憩いの場所として開放した。その後、明治八年に松本で最初の公園となった場所でもある。

そのお陰で現在も松本市の桜スポットして市民が花見を楽しんでいる。

 

 眼下には丸の内中学校がある。田岡も丸の内中学校の卒業生だが、入学したのは城山ではなく校舎が松本城の二の丸に開校したばかりの昭和二十三年だった。したがって、田岡は入学第一期生である。丸の内という名前もその場所に因(ちな)んでいる。しかし、この校舎は開校してから、わずか四年後には今の宮淵「城山」に移転したのである。

 田岡は南に見える校舎の青い屋根を見ながら、ちょっとおどける様に宮下に言った。

「俺さ、何を隠そう丸の内中学校の入学第一期生なんだよ。別にかくしてないけど…」

すると、宮下も真似して、

「へえ、すごいな。 何がすごいかわからないけど…」

「はははっ」

ふたりが、ジュースを飲みながら話をしていると、管理人も近寄ってきて隣のベンチに座った。

「なんか、ふたり楽しそうだな。何の話をしてるんだい?」

「彼が丸の内中学校の入学第一期生だって、自慢しているんですよ」

「そこの丸の内中かい?」

「いや、その前の松本城の二の丸に校舎があった時の話です」

「へえ、それは、ほんとにすごいな。あの頃の中学校は少しの期間しかなかったはずだが」

「そうなんです。たった四年でこの城山に移転したんです」

 

 昭和二十二年、六三制の義務制中学校が発足され、翌年、新たに丸の内中学校が松本城二の丸(旧松本市博物館敷地)に創業された。

しかし、開校当時は、戦後間もない時期であり臨時校舎として、既存の粗末な校舎をそのまま使用することとした。しかもその場所とは、二の丸と現在の市役所と隣の日本銀行を建てる前の敷地にあったため、外堀を挟み、三つに分散された校舎は不便極まりなかった。校舎には生徒数がなんと千百名も擁していた。

 同二十五年、文部省が全国に十校の鉄筋コンクリートのモデルスクールして選定したのが、この丸の内中学校である。そして今の城山に校舎が完成すると、開校四年後には移転したという経過である。

 

 それを聞いて宮下は、飲みかけのジュース瓶を持ったまま、

「だから、この中学校は城山にあるのに、丸の内中学っていう名前なんだ。俺も前から不思議に思っていたよ」

すると、管理人のおじさんが、胸ポケットから取り出した煙草をくわえ、マッチで火をつけ、

「君たち、以前、この丸の内中学を建てるときに敷地内からいくつも人骨が発見されたって話を知ってるかい?」

「えっ、ほんとうですか?」と宮下は驚いたが、田岡は、

「ええ、僕はその話聞いたことがあります。ここで、加助って人たちが処刑されたんですよね」

「では、もう少し詳しく話してあげよう」

と言っておじさんは一服すると話を始めた。

 

 江戸時代初期の貞享(じょうきょう)三年(1686年)、信濃松本藩の第三代水野家藩主・水野忠直(ただなお)だった頃の話である。時の将軍は五代将軍徳川綱吉。水野忠直は参勤交代で江戸に居り松本城を留守にしていた。参勤交代とは、各国の大名が私財を増やし軍事力を持てない様にわざと多額の出費をさせることを目的にした徳川幕府の政略である。水野家は譜代大名のため多く藩士を抱え、唯でさえ財源が苦しかった上にこの参勤交代で多くの費用が重なった。そこで、松本藩はその財源となる税として年貢の米を他藩より多く徴収していた。藩士への給金もその米であるが、その米を食料としてだけでなく、それを売って金銭に換え、藩士も苦しい生活をしていたのだ。

 

 しかし、その様な米の増税は当然農民を苦しめる原因となった。当時、納め籾(もみ)は二斗五升が相場であったが、松本藩は三斗にしており、それを更に三斗五升に引き上げると藩命を出したのだった。更にのぎ踏磨き(穂の先にある針のような突起を取る作業)という手間の掛かる作業も厳命したのである。

 このような過酷の重税に加え、近年の不作が続き安曇野の農民は疲弊し苦しみと怒りはピークに達した。これを救おうとしたのが、中萱(なかがや)村の庄屋・多田加助である。加助は中萱にある熊野権現神社で同志と密議し、年貢減免の訴状を松本城下の郡奉行に提出した。これを知った何千もの百姓が加勢しようと蓑笠に身を固め鋤や鍬を手にし、城の周りに集結し百姓一揆の大騒動となった。その後も松本周辺の百姓が次々と集まり、その数は一万人を超えたという。

 

 狼狽した家老たちは、郡奉行の名で年貢は従来通り三斗とし、のぎ磨きも不要と覚書を認めると農民に告げ一時は混乱がおさまった。しかし、加助と数百人の農民は尚も残って、あくまでも二斗五升の要求を訴えた。そこで家老たちは騒動が長引くことと江戸表への直訴を恐れ、それを聞き届ける家老連判で覚書を出したので、加助らは満足して村へ引き返した。

 ところが、藩はその後、村々から先に渡した覚書を返上させ、首謀者である多田加助とその子弟を一斉に捕縛し上土通りの牢舎に投獄した。その数日後、城山の刑場で八人の磔(はりつけ)と二十人の獄門(打ち首)という獄刑を処せられた。処刑された者の中には加助の参謀格であった小穴善兵衛の娘で十六歳のしゅんも含まれていた。藩主水野忠直は江戸詰のため不在であったが、家臣の早馬でこの事態を把握しており、約束の反故(ほご)と捕縛・処刑の許可をしていたのだった。

 

 この城山の刑場は、あくまでも臨時につくられたものである。なぜなら、見せしめの為、大勢の領民から磔が見える場所として、この高台を選んだのである。

 そして、加助は磔にされながら、松本藩の不誠実なやり口に騙されて「きっと怨みを晴らしてみせる」といい、更に涙にむせぶ領民に向かい「今後年貢は五分摺二斗五升だ」と絶叫しつつ刑死したという。

 この時、加助が松本城天守閣を睨(にら)んだ瞬間に大きく傾いたという伝説がある。

更に付け加えると、数年後、処刑を命じた水野忠直の孫であり松本藩六代藩主・水野忠恒(ただつね)が、自分の婚儀報告のため八代将軍徳川吉宗に拝謁した帰り、突然、正気を失い江戸城の松の廊下にて、面識のない長府藩山口県)の藩主毛利師就(もろなり)をすれ違いざま斬り付けた。この刃傷事件により、水野忠恒は改易処分となり武士の身分を剥奪された。これも多田加助の祟りではと噂されたのだった。

 

 この加助らの勢高(せいたか)刑場跡が現在の丸の内中学の敷地付近であり、昭和二十五年、建築現場から18体の人骨が発掘され、調査の結果それが貞享騒動刑死者たちのものであることが確認された。

 墓は安曇野市の貞享義民社とよばれる小さな祠(ほこら)がある加助神社に祀ってある。またその後、平成四年には安曇野市大糸線中萱駅の近くに貞享義民記念館が建てられ、加助達義民の業績が記されている。

 

 管理人のおじさんは、話終わるとベンチから立ちあがりながら、

「加助の伝説も興味深いが、松本城に関わる話も色々あって面白いよ。図書館にでも行って探すといいさ。さて、片付けもひと段落したから、君たちはもう帰っていいよ。あとはわしひとりで充分だ。今日は本当に助かったよ。ご苦労様」

「そうですか。じゃあお言葉に甘えて我々はこれで失礼します。お疲れさまでした」

と清掃から解放された宮下が嬉しそうに答えた。田岡もつられて「お疲れ様でした」と挨拶し、一緒に 帰ることにした。  

                      松本市役所展望階より松本城を望む