まつもと物語 その2

西堀界隈

 

 宮下は帰り支度をしながら、

「おい、田岡、疲れたから、軽く一杯やって帰らないか?」

「いいねえ。じゃあ、ちょっとだけ行こうか」

二人は、西堀の飲み屋街に向かった。行きつけの居酒屋に入ると時間が早いせいか、まだそれ程混んでいなかった。

ふたりが席に着くなり、宮下は、

「おばちゃん、ビールと焼き鳥二人前と枝豆をお願い。それと山賊焼きあったら頂戴よ」

奥から、「あいよ」といつものおばちゃんが愛想よく返事をした。

「お疲れ様!」

ふたり同時になみなみと注いだコップのビールを一気に飲み干した。

「ふうー、うまい! 勤労のあとのビールは格別だな。 今日も元気だ、お酒がうまい なんてね」

その頃タバコのコマーシャルで流行った「今日も元気だ。タバコがうまい」というフレーズを真似た。

宮下は満足そうに言うと、すぐビールをコップに注ぎ足した。田岡も喉の渇きを潤すと、

「しかし、あのゴミは本当にどうにかしないとなあ。街中の道路にも最近、ゴミの山が目立つ。明日、課長に言って、何か対策を考えないといけないよね」

田岡と宮下は松本市役所で地域環境に関わる業務を担当している。ふたりは普段からどうかして、きれいな街にしたいと思っていた。

 

その頃、一般家庭から出る生ごみは家の前に置いてある木製のゴミ箱に入れ、それを清掃職員が集めに来るという方法だが、それ以外に勝手に空き地に捨てていく輩(やから)があとを絶たなかった。道路では煙草の吸い殻や紙くずを平気で捨てるのが当たり前で、道路わきにもドブ川があり、川底にはヘドロのような灰色の土が沈殿していた。

 

 下水道工事もやっと着手し始めた時期ではあったが、街中の大量のごみ処理も松本市としては大きな 課題だった。ようやくゴミ処理施設を造るようになったのは、昭和三十九年完成の島内平瀬に清掃工場(現クリーンセンター)の焼却場と昭和四十五年、島内(現山田エコトピア)に埋立地の計画ができてからだが、まだ先のことである。

 

宮下は、店のおばちゃんが持ってきた旨そうなタレに少し焦げがある焼き鳥をかじりながら、

「田岡、そういえばお前、東京の大学出だってな。実は俺も大学に行きたかったんだが、うち貧乏でさ。そんな金なかったから諦めて、すぐ仕事に就いたんだ。だけどお前、よくそんな金あったな。学費はどうしたんだ? あっ、ごめん余計なこと聞いちゃったか?」 

「いや、別にいいよ。実は、爺ちゃんに全部、学費出してもらったんだ。うちの爺ちゃんが昔、米問屋やっていて、戦時中陸軍にもお米収めていたみたいなんだ。なんでも松本歩兵第五十連隊っていうのが今の信州大学の敷地にあったらしく、そこにも売ってたんだって」

「へえ、そうなんだ。じゃあ、そのお米で儲かってたんだね」

「それで、その時のうちの屋号が一に田と書いてボウタって言うんだけど、俺の子供のころ、近所の人から ボウタの息子かって、羨ましそうに言われてたっけなあ」

田岡は思い出したようにフフッと笑った。すると、宮下はからかい半分に、

「じゃあ、いいとこのお坊っちゃんってわけだ」

「あはは、そんな金持ちのボンボンじゃないよ。でもうちの爺ちゃん、戦争終わってからしばらくして病気で亡くなったんだが、生前はそれなりに羽振りを利かせてたみたいなんだ」

「いいなあ、俺のうちは昔、豊科に住んでいて、親父は農家から野菜仕入れて行商みたいなことしてたから、金もないし家もぼろかったな。今は引っ越して、少しは、まともになったけど」

終戦後は、どのうちも皆そうなんじゃない。うちだって、親父が戦死して、それからしばらくして爺ちゃんも病気で寝込んでいたし、一時はおふくろがひとりで苦労してたからなあ」

「おやっ、お前んとこ、今も親父さんいるんじゃないのか?」

「ああ、うちのおふくろ、しばらくして再婚したんだ。だから、俺の本当のオヤジじゃないんだ。弟がいるけど父親は違うんだ。弟とは十五歳も離れてる。でも俺に懐いてて可愛い奴だよ。まだ八歳で今年小学校三年になったばかりだ」

「へえ、小学三年か。ずいぶん年が離れているんだな。じゃあ、開智小か?」

「いや、田町小学校に通っている。俺は開智小学校だったけどね」

田町小学校とは、昭和三十七年に旧開智小学校と合併され、新校舎完成とともに新たな開智小学校となった。

田岡は、女鳥羽川沿いの開智町にあった旧開智小学校の卒業生である。

 

 この学校の起源は、歴代松本城最後の城主・戸田光則(みつひさ)が、戸田家の菩提寺・全久院を仮の小学校として再利用したことから、開智学校が「小学校教育発祥の地」となった。その後廃仏毀釈で廃寺になった跡地に、明治九年に創立した県下初の小学校である。。

八角形の太鼓楼と寺のようなアーチ屋根など文明開化を象徴する和洋折衷の不思議な建築で「擬洋風建築」と呼ばれ、この校舎は昭和三十六年に国の重要文化財に指定された。 その二年後、この貴重な建物を現開智小学校の北側に移築した。令和元年には学校建築としては初の国宝にも指定されており、松本城と共にとても重要な歴史博物館となっている。 

 

 そして、田岡は開智小、丸の内中を卒業すると、深志高校へと進学した。

その深志高校の前身は同じく旧開智学校敷地内に創設された『松本中学校』であり、明治十八年に松本城二の丸に新校舎を建て移転した初代校長小林有也(うなり)だ。更にその後、昭和十年に蟻ケ崎に移転し、二十三年に現在の松本深志高校という校名になった。現在、本校の管理普通教室棟と講堂は国の有形文化財として登録されている。

したがって、「丸の内」中学校も「深志」高校も、以前は二の丸(現在の松本城公園)にあった為その名前が由来している。

田岡にとって小・中・高とどれも松本城に所縁(ゆかり)があり、いずれも松本市の歴史深い学校の卒業生であった。

 田岡安夫は松本で生れ松本で育った。だから人一倍、地元松本が好きである。同級生の何人かは都会に 憧れ、都会に就職し松本を去った者がいるが、自分はずっと松本城がシンボルとなっているこの街で暮していくつもりである。

 

 田岡は、宮下のコップにビールを注ぎながら、

「ところで宮下、お前、実家は豊科って言ってたよな、どうして、松本市役所に入ったんだ? お前、中途採用だったよな」

「実は、俺、高卒で前は豊科町役場に勤めていたんだが、たまたま親戚の叔父さんが松本市役所で働いていて、松本に行きたいって言ったら引き抜いてくれたんだ。いきさつは色々あるが、まあ、コネってやつだよ。で、今こっちで知り合いの下宿借りて一人暮らしってわけだ」

「そうなんだ。でも、俺は宮下と一緒の職場でよかったと思ってる。何せ、周りが皆おじさんばかりだからな。若手は俺たちだけだから」

「ああ、でも、その分何かとコキ使われているけどな。ははっ」

田岡は、更にコップにビールを注ぎ足すと、空になったビール瓶をおばちゃんに向けて、追加を頼んだ。

「宮下、この前、課長が言ってたけれど、松本市はこれから商業都市としてどんどん大きくなるんだって。いま大手企業が増えてきているし、これからは人口もかなり増えていくらしいよ」

「だから、あんなでかい庁舎に建て替えたのかな。そのうち長野市より大きくなったりして…」

「う~ん、それはどうかな。去年の記録だと松本の人口は十四万に対し、長野市は三十万くらいだからな」

「だったら、俺の実家の豊科とか他の市町村を全部松本市と合併すれば、長野市に勝てるんじゃないか。そもそも、長野県って南北に長いだろ。長野県の中心の松本に県庁を持ってきた方が何かと便利じゃないのかなあ」

「なんか、松本市民って、勝手に長野市をライバル視しているって聞いたけど、宮下、お前もそうなのか?」

「だって、日本地図を見てみろよ。長野県は日本の真ん中だぜ。その長野県の真ん中は松本市だ。言ってみれば日本の中心は松本市だ。その中心地に県庁があったって不思議じゃあないだろう。田岡そう思わないか?」

宮下は、少しアルコールが回ってきた様で饒舌(じょうぜつ)になってきた。

ちなみに日本の中心点は定義によって異なり三十か所くらい候補があるらしいが、本州だけに限っていえば、中心点は松本市浅間温泉で下浅間の薬師堂敷地内に指標がある。

 

「ところで、田岡、昔は松本に県庁があったって知っているかい?」

「いや、知らない。それって本当なのか」

「本当さ、さすがの田岡大先生もご存じないとみえる。ははっ。実は明治の始め、長野県は二つに分かれていて、北信と中南信が別々の県だったんだ。それで、北信を長野県と呼び県庁は長野市で、中南信を筑摩県と言って県庁は松本だったんだよ。その後、合併してひとつの県にすることに決まったんだが、長野市松本市で県庁をどっちにするかって論争を始めたんだ。ところが二の丸にあった筑摩県の庁舎が運悪く火事にあって焼失しちゃったんだなあ。それで、結局県庁は長野市に決まったってわけさ」

「えっ、そうなの? 宮下、お前すごい物知りだな」

「そうだろ、俺の事少しは見直した? 実は柴田係長から聞いた受け売りなんだ。ははっ」

 

 実際、歴史をさかのぼってみると、松本は、昔から国の行政を担う重要な地域的位置にあった。廃藩置県が行われた明治の初めころ、それまで信濃国と呼ばれていた長野県は、北信と中南信でふたつの県が存在していた。

幕末には全国で藩が二百七十以上あったが、明治政府としては、新国家建設のためには藩が入り組んでおり治政が非効率であった為、明治四年の廃藩置県後、信濃国内の藩が統廃合により十四県になった。

 更にその後、飯山、須坂、上田など七県を統合した「旧長野県」と松本、高遠、飯田など六県を統合した「筑摩県」のふたつの県になった。そして、旧長野県の県庁を長野市に設け、筑摩県の県庁所在地を松本(松本城二の丸)に設置したという歴史がある。その後、長野県がひとつになったのは明治九年のことである。

 

 田岡は、残っていたビールを飲み干し、時計を見ると八時を過ぎていた。

「ああ、もう、こんな時間だ。明日も仕事だから、そろそろ帰るか」

「えっ、もう帰るのか。じゃあ俺もパチンコでもして帰るとするか」

店から出ると、辺りはすっかり暗くなっており、西堀にはあっちこっちに赤い提灯やネオンが付き、夜の飲み屋街と化していた。飲み屋街の奥の方は、ちょっと妖しい店が多く怖いお兄さんも多かったので田岡は足を踏み入れたことがなかった。何年か経った後、母から聞いた話だが、この辺にトルコ風呂(ソープ)をつくる計画が出た時には、PTAのおばちゃんたちが猛烈に反対し、無事計画を阻止したらしい。

因みに、この西堀界隈は江戸時代から遊郭があり、終戦後まで赤線と呼ばれる風俗もあったらしく、今もその名残りの建物が残っている。

                        旧開智学校校舎 重要文化財