教授からの手紙
三月に入ると、いくらか寒さは和らぎ、朝夕の自転車通勤も少し楽になった。安夫は職場で新しい観光客誘致の企画書をまとめ上げている最中だった。
「田岡さん、二番に外線です。福島さんと言う方です」
女子職員が声を掛けた。安夫が受話器をとると、
「もしもし、福島です。先ほど一ノ瀬教授からようやく手紙が届きました。よかったら、こちらに来られますか?」
「わかりました。後ほど伺います」
例の返事のことだとすぐわかり、田岡は急いで机の上の書類を片付け、博物館へ向かった。
建物の玄関に着くと、そのままいつもの研究室の部屋に足を運んだ。もう何度も通っているので、受付でも顔なじみとなっている。部屋のドアを開けると、丁度、福島と妙子が教授の手紙を読み終わったところだった。
「こんにちは、教授からの手紙って、例の返事ですよね。なにが書いてありました?」
「ええ、とっても興味深いことが書いてあるのよ。こちらに座って田岡さんも読んでみて」
妙子がすぐに手紙を渡してくれた。
「拝啓、先日は、ご多忙の中、松本城をご丁寧に御案内頂き、また詳細なご説明を賜り誠に有難うございました。今回の松本城につきましては、当日本城郭協会において非常に参考となりました事、重ねて感謝申し上げます。
さて、早速ですが、先般貴殿よりご依頼いただいた古文書の解析につきまして次の通りご報告致します。
まず、手紙自体は日付と紙質と墨の状態から江戸初期のものと断定致しました。また、この手紙に記されていた差出人の大久保藤十郎の筆跡を大学の研究部門に鑑定依頼をしましたところ、大久保藤十郎の手紙の現存が少なく僅かに残っている手紙の筆跡と比較した結果、花押を含めほぼ当人であると推定致しました。
また、宛先の石川玄蕃頭(石川康長)の息女と大久保藤十郎は婚姻しており、石川康長は藤十郎の義父となり姻戚関係ですので、手紙のやり取りがあった事は充分可能性があり、今回の手紙もその一部と考察されます。
次に、この手紙の内容についてですが、通常の文面とは異なり、文章が著しく不自然であり、意味不明な箇所が多くみられます。これは、手紙の内容が第三者に読み取り出来ない様にする、いわゆる密書のたぐいと推察されます。この時代、重要な通信を秘密裏に送る場合、敵方に知られないように文面を複雑にする隠し文といわれる手法は実際に用いられたようです。
しかし、具体的な隠し文が殆ど現存しておらず、同手紙を解読するための手法や互換表等は不明の為、本文解読はおよそ困難と思われます。
ただし、裏書きされた部分においては、大学所有の高解像装置を用い文字認識を行いましたところ、別紙の文章が読み取れました。つきましては、同文を添付させて頂きますので、ご参考に願います。 敬具」
一ノ瀬教授からの手紙はこの様な内容だった。そして、もう一通の追伸と書かれた手紙が皆の興味を引いた。
追伸
「ここからは、私個人的な見解を申し上げます。あくまでも仮説ですが、参考になればと思い書かせて頂きました。先日も藤十郎の父、大久保長安の話をさせて頂きましたが、この手紙の所々の文面や断片的な 文言から、軍資金としてその一部を嫡男の藤十郎を通し、松本藩主の石川康長に預けていた事が推測されます。また、歴史学者の多くが、松平忠輝の次期将軍を想定しその軍資金を貯蓄していたことはほぼ間違いないだろうと見解を示しています。実際、自宅の蔵や箱根の埋蔵場所から大金や金塊が見つかっており、その他複数の場所にも軍資金としての隠し金が存在する可能性は充分あると考えられます。
私は今回の手紙にはそれらに関連した重要な内容が書かれているものと推測致しました。何故なら、わざわざ隠し文の手法を使い、その手紙を大天守の小屋裏に隠すという行為もそう考えれば筋が通ります。仮にその預り金を康長がどこかに隠しているとすれば、城中ではなく別の場所に埋蔵されていることも考えられます。
その手掛かりが、手紙の裏書きです。かなり文字が薄く読み取るにも困難でしたが、次のような文面と思われます。福島さん始め地元の皆さんの方が松本の地理に詳しいかと思いますので、参考になれば幸いです」
この様に追記されており、その裏書きされていたという文面が次の通りだった。
『辰ニ林アリ林ニ水アリ ソノ釜狭ニ𣑊アリ 此レ越後様ノ預物ナリ』
妙子は古文書の裏書きとして、何かが書かれている事は知っていたが、結局読み取ることが出来なかった。しかし、この一ノ瀬教授の手紙を読んで何かが閃いた。同様に福島もそれに感づいた様子だった。だが田岡には当然何のことやら全くわからなかった。
「ねえ、福島さん、以前に石川康長の改易理由について、調べたことがあったでしょ。その中に、家臣のふたりが対立して争った際に、藩主である康長がその家中騒動を収めきれなかった事もその理由のひとつではないかって言ってましたよね」
「そうだね、確かふたりの主導権争いが原因という事だったね」
「それなんだけれど、争いの原因が単なる政権争いだけでなく、大久保長安との関係を断ち切るかどうかで対立したという資料を読んだことがあるの。ひょっとして、この手紙にそれも関係しているんじゃないかしら」
すると田岡が、福島に向かって、
「それって、どういう事ですか? 二人の家臣が対立したというのは初めて聞く話ですけど」
「そうですね。それでは田岡さんにも少しその話をしておきましょう」
二人の家臣
慶長15年(1610年)2月、二代目城主・石川康長の松本城はすでに完成しその雄大な姿で城下町を見下ろしていた。城下には次第に民家が増え善光寺街道沿いの旅籠も軒を並べる様になってきた。また、本丸には康長の住まいを兼ねた藩の正政庁となる本丸殿もすでに出来上がり、内堀を挟んで二の丸御殿の普請も完了していた。地方大名が築城した城でこれほど見事な御殿を兼ね備えた例は少ない。本丸御殿は建坪830坪、部屋数60、そして二の丸御殿も建坪600坪、部屋数50もある大屋敷だった。
その二の丸御殿の一室で、ふたりの武士が声をひそめて何やら話をしている。ひとりは、若手実力者の伴三左衛門、もうひとりは同輩の上野弥兵衛だった。
「伴殿、この様な身分不相応な城を建て、近頃幕府から睨まれておるという噂をご存じか?」
「うむ、実はわしもそれを心配しておるのだ。聞くところによれば、関ヶ原の戦以降、外様どころか譜代大名のお取り潰しも相次いで行なわれていると言うことだ。幕府は何かにつけ、粗探しをしては改易の種を探しているそうだ。わが藩も、先代の徳川家出奔の恨みをどこかで晴らそうと間者を忍ばせておるに違いない」
「まったく、殿には困ったものだ。駿府の大御所様より信濃を安堵されたことで油断されておるようだが、気掛かりでならぬ」
「それにしても、あの年寄りにもいい加減、隠居して欲しいものよ。そう思わぬか上野殿?」
「あの年寄りというのは、家老の渡辺金内殿の事か。うむ、確かにあのお方がいつまでも殿のそばにいると何かと殿に諫言できぬな。これからは、伴殿を中心にわれら若手が政権を担っていかねば石川家の安泰が危ういことになりそうだ。いっその事、渡辺殿に家老の座を退いてもらうよう迫ってみるか」
一方、松本藩筆頭家老・渡辺金内は、日頃の伴三左衛門の無遠慮で厚かましい態度に辟易していた。このふたりの主導権争いが徐々に加熱し始め、ついに御前会議で当主の康長が居るにも拘わらず家老の渡辺金内が激昂した。
「だまらっしゃい、若造のくせに殿に諫言するとは、百年早いわ! 余計な手立てをすれば却って幕府にあらぬ疑いを掛けられ、それこそわが藩のお家取り潰しを招くことになるのがわからぬか! このバカ者ども!」
と顔いっぱいに皺を寄せ、入れ歯を飛び出さんばかりに伴を叱りつけた。すると康長は、
「やめぬか、ジイ! ふたりともわが藩を思えばこその意見とわしはみるが、同じ藩内で争い事がいつまでも続くようであれば、その事で幕府から目をつけられる事にもなりかねん。二人とも自重せよ。よいか!」
しかし、この争いは、とうとう幕府の耳に入り「家中の揉め事を治められぬ当主は罷免に値する」と、改易の種にもなりかねなかった。そこで、幕府奉行を牛耳っていた大久保長安がこの事を穏便に収めるため乗り出した。長安の息子・大久保藤十郎は松本藩・石川康長の娘を正室としている。したがって親戚関係でもある。長安にしてみれば息子の義父の危機を救うのは当然であった。
そこで、長安は石川康長の後見人でもある宿老秋山治助を仲介として送り込み、伴三左衛門を中枢から駆逐することで無事騒動を終結させた。だが、伴三左衛門は納得せず、その後も金内に対し嫌悪を抱き続けた。時にはあわや刃傷沙汰になりかけた事もあった。
それから三年後の慶長18年(1613年)五月、石川康長の元に江戸から知らせが届いた。家臣が蒼ざめた顔で、
「殿、大変でございます。大久保長安どのが病で急死されたと知らせが参りました。それだけではございません。長安殿が亡くなられて、八王子の自宅を調べたところ、床下より大金が発見され、生前に金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたことが発覚したとの事でございます」
「なに、長安殿が亡くなられただと! しかも不正な金が出てきたということか?」
「はい、いかにも。いま、幕府内ではそのお裁きで相当、皆が混乱している様子。長安殿の嫡男・大久保藤十郎殿への厳しい取り調べも近々あろうかと思われます」
「すぐ、皆の者を広間に集めるのだ。家老の金内を呼べ、伴もじゃ。うむ、これは一大事だ。どうしたものか」
城中に居た家臣は、取る物も取り敢えず、すぐさま広間に向かった。
「皆の者、良く聞け、長安殿が先月、中風が原因でお亡くなりになった。その後、幕府役人のお屋敷改めがあり、蔵や床下から蓄財が大量に見つかったとの事じゃ。その為、婿の大久保藤十郎が詰問を受けているとの事。いずれ長安殿の所業が暴かれる事は間違いないだろう。そうなれば、七人の嫡子たちの切腹はもちろん、大久保家断絶となろう。それだけで治まればよいが、これを理由に親戚関係であるわが石川家も連座して改易になるやも知れぬ。いったいどうすればよいのじゃ。金内!なにか方策はないか?」
「はっ、そう言われましても、大久保殿の不正が発覚しまっては、いずれ当家に何らかの処罰が下されるのは逃れようがないと存じます」
痩身の老人となった家老渡辺金内も力なく返事をした。すかさず伴が口を開いた。
「殿、三年前、私が殿に諫言申したことをお忘れではございますまい。あの時、大久保殿から署名を求められ、それをお断り申せばこの様な心配をなさらずとも良かったのではござりませぬか。ましてや、あのような物を預からねば幕府からあらぬ疑いを掛けられることも無かった‥」
「伴、いまさら、その様な事をもうすな!」
「はっ、しかし」
「黙れと申しておる!確かに予が軽率であったかもしれぬ。しかし、それがなくとも、単に親戚という理由だけでどの道、幕府は改易を迫ってくるだろう。わしも覚悟を決めねばならぬか‥」
「殿、では、あの預物は如何致しましょうか?あれが幕府の目にとまれば、面倒なことになりませぬか?」
「伴、あとでわしの部屋に参れ。その時に指示いたす」
その夜、康長は伴に、くれぐれも内密に行動せよと指示を与えた。
その後、慶長18年(1613年)十月十九日、大久保長安と親戚関係にあった石川康長は幕府からの改易処分が下された。つまり康長が造った松本城及び松本領土のすべてを没収されたのだ。また、弟の康勝、康次も大久保長安と領地隠匿を謀った罪で改易された。康長は豊後佐伯(大分県)へ流罪に処せられた。
また、改易の理由は、八万石大名の分限を超えた城普請が原因とされた。つまり、一介の地方大名である松本藩石川康長が立派過ぎる天守と広域な城下町を造り上げたことが幕府の嫉(ねた)みを買ったのではないかという説もある。
福島が話終わると、裏書きされていたという文面に皆が目を寄せた。
『辰ニ林アリ林ニ水アリ ソノ釜狭ニ𣑊アリ 此レ越後様ノ預物ナリ』
「すると、やはりこの文面に隠されている場所が書かれていると考えていいのよね」
と妙子は眼を輝かせて言った。
「花岡さん、謎解きが得意でしょ。どう解かりそう?」
と福島が促した。
「林とか水って書いてあるから、どこか川が流れている山の中ってことじゃないかしら。でも山の中なら、森って書くはずよね。水も川じゃなくて池とか湖ってことも考えられるし。あっ、そうだ!きっとお堀の水の中のことよ。すると城のお堀のどこかしら。辰って龍のことでしょ。龍が付く地名とか伝説とか‥。やはり金塊とか重要なものを隠すくらいだから、そう簡単にわからない様にしているんでしょうね」
「いや、そうとも限らないよ。最後に越後様の預かり物って書いてあるけれど、越後様って多分松平忠輝の事だと思うよ。越後って新潟のことだけれど当時の忠輝の領地って確か越後だったはずだから。石川康長もいずれ家康が亡くなれば、その軍資金を忠輝に献上するつもりだったと考えると、それ程難しい場所ではないかもしれない。逆に解りにくければ折角の軍資金が永遠に見つからず無駄になってしまうからね」
すると、田岡が口を挟んだ。
「なるほど、やっぱり、忠輝って人の軍資金を預かっているってことですね。ところで、この木へんに在って漢字はなんて読むんですか?こんな漢字見たこと無いです」
「ちょっと待ってて、いま漢字辞典もってくるね」
妙子は、隣の部屋から分厚い辞書をもって戻ってきた。
「え~と、木へんに在‥ あっ、あった。これヤマブキって読むのね。ヤマブキって普通なら山に吹くって書くけど、山吹の木が目印ってことなのかなあ」
「花岡さん、ヤマブキって黄金のことだと思うよ。よく小判や黄金のことをヤマブキ色とか言わないか」
「さすが物知りの福島さん! と、いうことは、やっぱり、この釜狭という場所に小判か黄金が埋蔵されいるってこと? ねえ、なんだかワクワクしてこない?」
そう妙子が言うと、三人は次第に興奮してきた。すると、妙子が急に大きな声をだした。
「わかったわ! 辰って龍の事じゃなくて、きっと当時の時刻とか方角の事よ。たぶん辰の方角という意味じゃないかしら」
妙子の話を聞いて、すかさず福島は松本市の地図を机に広げた。
「松本城を起点として辰の方角、つまり方角十二支で言うと、辰は東南東だから‥」
と言って、松本城の上に定規をあて、鉛筆で延長線を引いた。その先を見ると皆、声をそろえる様に、
「林城!」と叫んだ。
「そうだ。辰の方角にあるのは林城跡だよ。だから辰二林アリなんだ! じゃあ、水は薄川ってことじゃないか?」
「でも、釜狭ってどこ? 薄川にそんな場所あったかしら」
皆は、急に黙り込んでしまった。
「まあ、別に慌てることはないから、じっくり考えよう。近いうちに皆で林城跡へ行ってみないか」
福島のその一言で、皆が納得した。