まつもと物語 その21

   大久保長安

 

 長安の父・大蔵信安は祖父の代より継承された猿楽師(狂言師)であり、その次男として天文十四年、甲斐国で生まれた。信安は猿楽師として武田信玄のお抱えであり、息子の長安は信玄の家臣となり武田領の黒川金山などの鉱山開発に従事していた。

 その後、信長・家康連合軍の侵攻(甲州征伐)により武田家が滅亡すると、長安は鉱脈発掘に長けた山師の才能を認められ家康の家臣として仕えるようになった。更に長安大久保忠世の長男・大久保忠隣の 与力に任じられ、姓を大久保に改めた。そして、甲斐の内政再建を任された長安釜無川笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘に尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建した。この実績を家康から認められ関東の検地にも貢献し土地台帳の作成もした。

更に家康直轄領の事務を一切取り仕切る関東代官頭に登り詰めた。そして天正19年(1591年)に家康から武蔵国八王子八千石の所領を与えられたのだった。

 

 それから七年後の慶長3年(1598年)8月18日、伏見城で秀吉が死去した。

秀吉より「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受け頭角を現してきた家康に対し、幼い頃より秀吉から可愛がられ豊臣家を託された石田三成にとって、それは苦々しい思いだった。

 慶長五年六月、家康は豊臣政権に対し反逆を企てたとして上杉景勝を討つ為、会津征伐として大阪を 発った。その留守を狙い石田三成が決起し、毛利輝元大阪城に呼び寄せ西軍の総大将にした。その後三成は家康の家臣鳥居元忠が在城する伏見城を攻撃し、これを契機に慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いが始まった。

 しかし、この戦いは小早川秀秋の寝返りにより大谷吉継へ攻撃したことを機にわずか半日で徳川軍の勝利となった。この戦の勝因は家康が事前に小早川秀秋毛利輝元と密約を交わしていたと言われている。その証拠に毛利軍は家康の背後に陣を構えていたにも拘らず、様子見をしていただけで西軍不利と見極めると、戦いに加わることなく早々に陣を引き払い自分の領土安芸国(広島)へ帰ってしまった。

 一方、家康から上田の真田昌幸を平定せよと命を受けた徳川秀次の軍勢は、狡猾な真田の反撃に手を焼き、結局上田城を落とすことは出来なかった。この時、石川康長も秀次に従い上田城の攻略に参戦したが結果を残すことが出来なかった。しかし、石川康長は家康の会津征伐に従い、更にこの関ヶ原の戦いでも東軍に付いたことで、所領を安堵(領地を認められること)することが出来たのだった。

 

 そして、この関ヶ原の戦いで、徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役(しちょうやく)を務めたのが大久保長安だった。輜重役とは戦いにおいて必要な食料・被服・武器・弾薬を調達し輸送を担う役目のことである。戦いが終わると、豊臣家の支配下にあった佐渡金山や兵庫の生野銀山が徳川直轄になり、島根の石見(いわみ)銀山も含め全国の 金銀鉱山のすべてを長安が開発する事となった。

 この長安による金銀の産出量は莫大な量でありその後の江戸幕府に豊かな財源確保が出来た。特に銀の産出量はこの時代において世界の3~4割を占め、国内の貨幣の流通量を増やすだけでなく、海外との 貿易輸入において、生糸、砂糖、漢方薬高麗人参や武器等の支払に充てた。その為、この鉱脈は幕府直轄としその管理も厳重なもとに置かれた。

 慶長八年、家康が天皇から将軍に任じられると、長安も家康の六男・松平忠輝御附家老となり年寄(老中)になった。更に関東における交通網の整備など一切を任されることにもなった。この頃、長安の所領は八王子9万石に加え、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されたと言われている。こうして、奉行職を兼務した長安の権勢は強大なものになったのである。

 また、長安の長男・大久保藤十郎石川康長の娘と結婚させるなど、自分の息子七人を次々と有力大名の娘と婚姻させ、家康の六男・松平忠輝伊達政宗の長女・五郎姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝や伊達政宗とも親密な関係を築いた。長安は権力を更に肥大化させ、その権勢と諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。

 

 一ノ瀬教授は、ここまで長安の説明をすると、一息ついた。

「どうだね、ここまでの大久保長安の昇進や功績はすごいだろう?」

「はい、家康の家臣団で戦に強かった武将の話はよく聞きますが、大久保長安の事は初めて知りました。このような官僚も重要な役割を果たしていたんですね」

佐渡金山とか石見銀山というのは君も聞いたことがあると思うが、その長安が開発した鉱山なんだ。その他にも日本橋を起点とした東海道中山道などの交通網の整備も行なっていて、一里とか一町、一間(六尺)という間尺や一里塚なども長安がつくり上げた単位なんだよ」

「では、大久保長安って偉大な人物だったんですか?」

「ところが、そうではないんだ。あまりにも急激に大出世し大金を自由に出来るようになると、人間が堕落し邪な考えを持つようになるとよく言われるが、長安も正にそういう道を歩むようになってしまったのだよ」

教授の話は更に続いた。

 

 好調に思われた長安だったが晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、各種代官職を次々と罷免されるようになってしまった。その理由として採掘量の低減だけでなく、長安の日頃の振る舞いに家康は眉をひそめるようになったのだ。それは金山奉行などをしていた経緯から派手 好きであり、無類の女好きで側女を80人も抱え豪遊をしたり、政事において口を挟むようになったと家臣からの噂を耳にしたからだった。

 しかし、慶長17年に栄耀栄華の暮らしを続けてきた長安が中風を患い、その後わずか一年で死去したのだった。享年69歳である。

 この長安の死後、大変な不祥事が発覚したのだ。生前に鉱山経営で不正蓄財をしていたとの疑いが生じたのだった。

その住居である八王子の屋敷改めの際に、何と蔵から黄金七十万両とおびただしい量の銀銭が出てきた。他にも村正の名刀だけで百振りもあり、外国から入ってきた珍しい品の数々、家康でさえも手に入れる ことが出来ないものばかりであった。更に長安の居室の床下からひとつの石櫃が発見され、その中から三通の驚くべき文書が出たのだ。

 

 その一通が「家康の死後、松平忠輝を将軍にし、長安が関白になる」という計画書だった。次の一通は その計画に参加する者の連判状である。そして残る一通は「佐渡をはじめ、全国の金山から掘り出された黄金の半分をこの計画の為の資金とするため、埋蔵した」という秘密文書と絵図だった。

 これを知った家康は驚愕し烈火のごとく怒り、長安の遺体を棺から引きずり出させ、駿府安倍川河原で磔に処し財産すべてを没収し遺児七人全員を切腹させ、遂に大久保家は断絶した。中でも長男・大久保藤十郎への詰問は厳しかったが「若輩ゆえ調査には応じられぬ」と最後まで拒否し続けたという。

 また、長安を庇護していた大久保忠隣は即刻改易され、居城だった小田原城を取り壊された。また姻戚関係にあった石川康長、老中青山成重、常陸国藩主・堀利重、安房国藩主・里見忠義ら多くの大名も連座で改易処分を受けている。

なお、三通の文書は現在その行方がわからず、恐らく後の徳川幕府により秘密裏に焼き捨てられたと思われる。

 しかし、その後幕府が編纂した『慶長年録』に依ると、この長安の文書の存在自体は明らかであり、絵図に記された埋蔵場所とされた箱根仙石原から約2㎏の金塊と黄金の刀を幕府が探し出している。その他にも伊豆金鉱山周辺(縄地村)や越後、信濃の地にも埋蔵されたとあるが、これは未だ発見されていない。

 

 教授の話が終わると、福島が質問を加えた。

「先生、その連判状には誰の名前が書いてあったのですか?」

「それが、資料が乏しくて実際、誰の名前が書かれていたのか分かっていないんだよ。しかし、歴史家の考察としては大久保長安が家康の六男・松平忠輝に忠義を示すものとして各大名に署名を集めたものと考えられている。おそらく石川康長も長安に言いくるめられ、その署名をしたひとりと思われるが、その黒幕が伊達政宗ではないかと考えられているんだ。

 当初、家康は伊達家と徳川家が姻戚関係になればお互い対立しなくなると考え、自分の息子の忠輝と伊達政宗の娘・五郎姫を結婚させ、更に忠輝の教育を政宗に任じたのだが、どうやらこれが裏目に出たらしい。伊達政宗は次の将軍を忠輝に担ぎあげ、自分の思い通りに洗脳していき、いずれ自分が将軍の座を奪おうと虎視眈々と天下を狙っていたと考えられている。その準備として、大久保長安から裏金を渡し忠輝に忠義を示すという名目で各大名に連判状に署名させたらしい。そしてその軍資金として長安は隠し金を蓄えていた、というのが我々歴史学者の仮説なんだよ」

「まるで、どこかの政治家が裏献金を配っているようですね」

「ははっ、そうかもしれないね。いつの時代も同じような輩が多いからね。そして、家康の方では大坂の陣で豊臣家を完全に滅亡させると、残りの生涯で唯一伊達政宗だけが油断できない武将として憂慮していたんだね。つまり三男・秀忠を二代目将軍とし後継者にしたんだが、その座を伊達政宗の後ろ盾で六男・忠輝に奪われることを心配していたんだ。

 しかし家康は死去する前に、二人の仲を引き離すため忠輝を永久対面禁止とし、政宗に秀忠の後見人を命じ徳川幕府安泰を成したという事なんだ。結局、弟松平忠輝は家康の死後、兄である二代目将軍徳川秀忠から改易を命じられ諏訪の配流屋敷で余生を過ごし、死去したのは九十二歳だったらしいですよ」

「なるほど、よくわかりました。先生、お話を聞かせて頂きありがとうございました」

「いや、いや、なんだか、大久保藤十郎の話をするつもりだったが、家康と伊達政宗・忠輝の対立の話になってしまったね」

「いえ、面白い歴史の話を聞けて良かったです。ところで先生、この後の予定はどうされますか?」

田岡が訊ねると、一ノ瀬教授は時計を見ながら、

「ああ、もうこんな時間かね。そろそろ帰り支度をしようかな」

「えっ、先生。もうお帰りですか? もう一泊されてはいかがですか。宜しければ明日は市内を案内致しますが‥」

「ありがとう。しかし、東京へ戻ってやらなければならない仕事もあるから、これで失礼するよ」

「そうですか。では駅まで車でお送りいたします」

田岡が教授を駅までタクシーで送ると、忙しそうな素振りをしてそのまま東京へと帰って行った。

           大久保長安が開発した佐渡金山