まつもと物語 その13

   数正出奔

 

 石川数正は、岡崎に戻ると、二、三日自分の部屋に閉じ籠った。その間、数正は机の上に硯を置き、ひたすら徳川の軍法を書き綴っていた。軍法とは、徳川の戦における戦略・戦術など兵法や陣法のことであり、重臣しか知らない最高機密である。

 徳川から出奔し、これを秀吉に渡そうとしている自分は、明らかな裏切り者であることはわかっていた。敢えて、裏切り者になる事により、強硬派が犇めく三河の戦闘意欲を封じ込めるのが、最善の策と数正は心に決めたからである。数正の目的は圧倒的な秀吉勢力による徳川家滅亡を防ぐことであり、いつか家康が天下統一する日を待ち望むことでもあった。

 しかし、この裏切り行為は、裏目に出ることも承知だ。なぜなら、秀吉が徳川の軍法を手にすれば、それを踏まえて一気に徳川を潰す好機を与えることにもなる。要は秀吉の考えひとつでこの軍法が徳川家の吉にも凶にもなってしまうのだ。

 

 数正の出奔計画は、限られた家臣以外は、外部はもちろんの事、妻や子供たちにも今日まで明かさなかった。

 いよいよ、明日、11月13日を決行日とし、部屋に妻と長男・康長、三男・半三郎(康次)を呼んだ。そして、父・康正の代より石川家に仕えている家老・天野又左衛門、そして重臣の渡辺金内、本多七兵衛の三人も加え、数正の考えを話始めた。

「わしは、家康殿にほとほと愛想が尽きた。わしはこれより徳川家の裏切り者となり出奔いたす」

と言って、皆の顔を順番に眺めた。

 

 最初に口を開いたのは、家老の天野だった。

「殿、まさか先代・康正公と同じ道を選ばれる覚悟ではござりますまいな」

同じ道とは、これより20年前の三河一向一揆の際、三河門徒総代であった数正の父・石川康正は、家康に改宗を迫られたが容易に応じきれず、自害し果てた。石川家にとって悔恨の因縁である。つまり、家康を諫めるに割腹をもってする「諌死」することだった。

「父・康正は自裁の道を選んだが、わしは己の身を自ら虚しくする気などない。家康殿と秀吉とが再び争う事にならぬよう火種を踏み消すことがわしの務めと思うておる。そして、わし自身何をなすべきか、考えに考えた挙句、行きついた先の結論を皆に申す」

「‥」

「それは、家康公を諫めるため岡崎を退き、秀吉に随身しようと腹を決めた」

「と申されるは、殿、主君を裏切る謀反(むほん)に等しい行為ではござりませぬか」

「そうだ。わしは徳川の裏切り者になる。わしが三河に居るのも今日限りだ。明晩、大阪の秀吉のもとへ逐電(ちくでん)致す」

「‥」

「わしに付いて行動を共にするもよし、この三河に残るのもよし、決めるのはお前たちの考え次第である」

すると長男・康長が食いつくように問いただした。

「父上、その様なことをして、もし徳川家臣に捕まれば、良くて牢獄、最悪は磔となりましょう。更に石川家一族・親戚や家臣も同罪、三河に居残る者はすべて悲惨な末路になるではありませんか」

「確かにその通りかもしれぬ。捕まれば切腹は免れまい。ただ、それはわしひとりに罰せられることで、関わりないそなた達は軽い罪で赦免されるだろう。家康公はそういうお方なのだ」

「父上、なぜそこまでして秀吉方に行かれるのですか?」

「康長、まだそちは腑に落ちぬという顔をしておるな。ならば、わしの本意を申そう。いま、各国の大名は次々と秀吉の臣下となっている。その勢力は以前の数倍大きくなっているのは、そちも知っておろう。この秀吉と真っ向から対抗しようとしているのが今の三河だ。家康殿もそれを知りながら、意地と勢いだけで勝てるだろうと錯覚している三河武士に翻弄されている。このままでは徳川家は必ず滅亡する。殿の目を覚まさせるには、わしが秀吉のもとに走り、とても勝ち目がないと諫めることしかないと思う。 わしは、わしのやり方で徳川家を守ると決めたのだ」

「父上が、そこまでお考えになったとは‥。わかりました。私は父上とは長く同行させて頂き、大阪の秀吉公にも目通り致しており、父上の考えも理解いたしました。これからも、私は父上と同じ道を歩む覚悟です。どうか私も連れて行って下さい」

「そうか、康長。お前も同意してくれるか」

すると、奥方も目を潤ませて、

「わたくしも、付いて参ります。あなた様とは三十年連れ添って参りました。これからもどうぞお傍に置いて下さいませ。そして、この半三郎も連れて行って下さいますか。 半三郎、よいか?」

「はい、私も連れて行ってください」とまだ幼さを残した丸い顔で母に倣(なら)った。

三人の家老・重臣たちも、当然とばかりに同意した。

 

 亥の刻(夜十時)、岡崎城は門番以外、家臣は既に帰宅しており人気が少なかった。数正らは寒さに備え厚着をし、手早く旅支度を終え事前に用意しておいた馬にまたがると一行は城を離れた。伴にする家臣は十数名。その殆どが、長年数正に仕えた石川家一族郎党ばかりである。そこに加えて小笠原貞慶の長男・幸松丸(小笠原秀政)もいる。幸松丸は天正壬午の乱の後、信濃が家康の配下になった折り、貞慶が家康に家臣の証として人質に差し出し、それを石川家が預かっていたのであった。数正はまだ幼い幸松丸をひとり城に残すわけにもいかず、一緒に連れ出したのである。

 

 余談であるが、この時の石川数正石川康長、小笠原秀政の三人が後(のち)の松本城主として代々引き継いで行くことになろうとは、誰も予想出来ない希有な運命である。

 

 数正としては、大人数の出奔ではそれを見た者は必ず不審に思い騒ぎ立てるので、なるべく目立たない気配りが必須だった。

一行は岡崎から名古屋城近くの米野城までの八里(約30㎞)を一気に駆け抜けた。幸いにも月明かりが提灯を無用としてくれた。ここまで皆、休むことなく無口を保った。

 米野城主・中川宗兵衛は、織田信雄重臣であり、数正の妻の遠戚にあたる。以前、小牧長久手の戦いが終わり、秀吉と織田信雄との和睦後、数正が大阪に祝賀に行く際、何かと面倒をみてくれたのが宗兵衛であった。

 

 数正は城に着くと皆に声を掛けた。

「ここで、しばらく休息をとるが、追手が来るかもしれぬ。皆、気を緩めるでないぞ」

すると、城の大手門に中川宗兵衛が直々に出迎え、

「石川殿、ご無事で何よりじゃ。今、温かいものを用意してござる。ささ、皆も中に入って身体を休めるがよかろう」

宗兵衛には、事前に手紙で知らせておいたので、数正は、

「中川様、誠にかたじけない。だが、ゆっくりも出来ぬ。少し馬を休ませたら、すぐに大阪に向かう故、いつか改めてお礼をさせて頂きとうございます」

「いや、石川殿、しばらくお待ちくだされ。石川殿が出奔される事をわしは既に清須城の織田信雄様へ伝えてある。そして、信雄様は太閤殿下へ護衛の者を依頼されているはずじゃ。その護衛の者たちと清須城で落ち合う手筈も整えてある。清須までここから一里もない。この後、皆を連れ急いで清須に向かうが宜しい」

「中川様、何もかも我らを救う段取りまで整えて下さるとは、この数正重ねて礼を申す」

と、数正は目に涙を浮かべ感謝を伝えた。

「なんの礼には及ばぬ。太閤様にお会い出来たら、くれぐれも臣下を誓うが宜しいぞ」

 

 この宗兵衛の手助けは、数正の脱出計画に不可欠なことであった。

一行は、用意された湯漬けを腹にかけ込み一息つくと、すぐさま、庄内川をわたり清須城に向かった。ここには事前に指示を受けた秀吉の家臣・富田知信と津田隼人が迎えに来ていた。富田知信は以前浜松城で家康に於義丸を養子として出すように願い出た滝川雄利と共に来た使者だった。

「これは、富田殿ではござらぬか。わざわざ此度、我々の護衛をしていただけるとの事、誠にかたじけない。太閤様のご慈悲を賜り、貴殿にもお手数をお掛け致します。何卒宜しくお願い申し上げまする」

「石川伯耆守様、お待ちしておりました。あの節は石川殿のお口添えがあればこそ家康殿が於義丸様を養子に出されたのだと感謝しております。今でも太閤様は於義丸様を実の子同様に大切にされておりますぞ」

 

 ここまで来れば追手の心配はない。翌朝、琵琶湖沿いを数正達は護衛に付き添われ、ほっと息をつくと数正の心にゆるみが出来たその時、不覚にも涙が零れ落ちた。永い年月を君主家康の為に生きてきたが、今自分がしている裏切り行為は、果たして本当に徳川の為に行なってよい事だったのか。今更ながら後悔の念に苛まれる自分がいた。「いや、これで良かったのだ。これがわしにできる最善の策であったのだ」と数正は自分に言い聞かせた。不安と疲労を抱えた一行はその二日後、大きな障害もなく大阪に無事到着することが出来たのだった。

 

 一方、岡崎城では、夜中に城を出発した集団を不審に思った門番が、城に当直していた家臣のひとりに報告したことから、数正の出奔が発覚した。驚いた家臣は、すぐさま早馬で浜松の酒井忠次と本多重次に急を知らせた。

そして、本多正信が忠次から知らせを受け、浜松城の家康にこれを告げたのは寅の刻(午前四時)だった。

「殿、一大事でござる。ご就寝のところご無礼と存じますが、何卒、お目覚め願いとうございます」

「何事じゃ。まだ、夜明け前ではないか」

と、家康は不機嫌そうな顔で床から起き上がった。

「申し上げます。只今、岡崎城より早馬で使いが参りました。石川殿が夜中に出奔された様子とのこと!」

「なに、数正が出奔しただと!それは誠か?うむ、数正め、とうとう行きおったか‥」

本田正信は、手にした書状を家康に渡すと、手燭を家康の手元に置いた。

「殿、岡崎の石川殿の部屋にこの置手紙があったとの事です」

家康は、すぐそれを受け取り、急いで読み取った。そこには、前置きの文言の後に、「大阪の於義丸の元へ参る」と記されていた。それは、決して秀吉の元に下るのではないという数正の最後の意地であったのか。

「殿、すぐにでも追手をさしむけましょうか?」

「それには、及ばぬ。すでに琵琶湖当たりを走っている頃だろう。今更、追っても無駄であろう」

 正信は、意外と落ち着いている家康の様子を見て、

「お館様、石川殿の出奔をさして驚きなされませぬな。恐れながら、石川殿は殿の秘命を受けて‥」

「うかつなことを口にするな正信! わしがそのような小策を弄(ろう)すると思うか。夜が明け次第、皆の者を大広間に集めよ!」

「はっ、心得ました」

正信が去っていくのを見届けると、家康はまた部屋にひとり閉じ籠った。

「数正め、そんな手立てしか思い付かなかったのか‥」

と小さく呟いた。

 

 翌朝、大広間には怒りと緊張の色をかくせない重臣たちが集まった。家康が高座に座ると、すぐさま酒井忠次が声をあげた。

「やはりわしが言った通り、数正は秀吉に通じておったことが、これではっきりしましたな。殿、どうされるおつもりですか」

「忠次、そう熱り立つな。数正が秀吉に下ったのは明白じゃ。皆の者よく聞け、これからわしが申す事を一刻も早く行なうのじゃ。数正は徳川の政治も軍事も知り尽くしたおる。その軍法を秀吉に渡ることは 皆が承知せねばならぬ。軍法の機密を持っていかれたからには即刻陣立てを変える必要がある。ついては、本田正信、お前は、甲州におる鳥居元忠にすぐ城に参るよう伝えよ。よいか、軍勢を引き連れてこいと言っているのではないぞ。鳥居には信玄公の国法、軍旅(軍隊)の備え立ち、武器武略を詳細に調べておくように命じてある。それを至急持参せよという意味じゃ。

 次に、酒井忠次岡崎城の改築をすぐに進めよ。必要あらば堀を新たに増やし、兵の配置換えも行なうのじゃ。それから、西尾城から海の備えを盤石にせよ。不足の物があれば、すぐに申し出よ。よいか、すぐ出立いたせ。

 本多重次、お主には大事な交渉を申しつける。北条父子との和睦じゃ。先方と連絡をとり和睦の段取りをすすめよ。交渉はわし自ら北条へ出向くとしよう。よいか皆の者、数正に対する愚痴や不満を言うのは、これを済ませた後じゃ。すぐに取掛れ!」

 

 重臣たちは一斉に「ははっ」と返事をすると、すぐさま、大広間を後にした。

この時、家康の心の内は、急場しのぎの軍法の変更が無力であることを充分承知していたのだ。なぜなら、新しい軍法を徳川内部に定着させるのは半年や一年では無理であったからである。

    富田知信(富田一白)秀吉の外交使節として活躍。後に茶道の茶人となる