まつもと物語 その12

     秀吉の勢い

 

 大阪までの随行は、数正の家臣20騎に加え、警護役の井伊直政の30騎のみである。

こうして、於義丸が浜松城を発ったのは、使者滝川雄利が戻ってわずか20日後の12月12日であった。

 

 一行が大阪城に着き、大広間に通されると、秀吉をはじめ、秀吉の弟・羽柴秀長など多くの武将が整然と並んでいた。

秀吉が於義丸を見つけると、

「おう、於義丸じゃな。もそっと近くへ」と親しげに手招きした。

徳川家康が次男、於義丸でござりまする。羽柴筑前守秀吉さまのご尊顔を拝し‥」

と12歳の於義丸は口ごもりってしまった。

「緊張するのも無理なかろう。しかし、今日からは秀吉の子。強く逞しくならぬといかんぞ。そうだ、今日から名を於義丸から羽柴三河守秀康と名を改めるがよい。秀吉の「秀」と家康の「康」じゃ。どうだ良い名であろう。」

「はい‥」

「うむ、実はこの羽柴秀康の名は年明けに元服式で披露するつもりだったが、つい口がすべってしもうた。家康殿にも喜んでもらえると思うが、いかがかな数正殿」

「はっ、申し分なき御名を頂き、また、早々に元服をお考えとは、恐悦至極でございます」

「さようか、家康殿には気忙しい思いをさせたと思うが、年を越せば何かと忙しゅうなるので、慶事は年内に済ませ、新年を迎えようと思うてな」

その後も、秀吉は於義丸(秀康)と仙千代を相手に、軽口など言って笑いあっていた。

 

 ほどなく、年は暮れ、天正13年(1585年)の正月を迎えた。数正は秀吉に拝賀に赴いた。

秀吉の上機嫌は年を越しても変わらず、秀康の為に新たな屋敷の築造を進めていた。

また、本丸広間で元服式が行われ、秀長によって大勢の武将の前で「養子・羽柴秀康」が披露された。

 次第に数正は、秀吉の秀康に対する接し方は少なくとも秀康を人質扱いしていないことが察せられた。

正月も終わりかけた1月20日頃、秀吉は、数正を呼び出した。

「おお石川殿、大阪の暮らしはどうじゃ。なんか困ったことがあったら、何でもわしに言ってくれや。それはそうと、近頃だいぶ寒くていかんわ、どうじゃ、わしと一緒に有馬温泉に行かんか。あそこの湯はあったまるでのう。おみゃあさん、最近、腰が痛くて困っとると聞いたぞ。有馬の湯は腰痛にも、えりゃあ効くらしいからのう」

 数正は秀吉に言われるがまま、有馬温泉に行くと、そこでも数正の為に茶人の天王寺屋宗及を伴い茶会を催してくれた。その後も数正へのもてなしは怪しいほど続いた。

 しかし、秀吉の頭の中は、常に各国の大名を自分の配下にする為の策略を廻らせていた。既に、中国地方の毛利輝元も越後の上杉景勝も人質を送り、秀吉の配下となっている。また、家康が手を焼いている真田昌幸も上杉に臣従している。

 秀吉の天下統一において、残すは九州の島津義久、関東の北条氏政、東北の伊達政宗であったが、彼らを屈服させるのは容易ではない。その前段として、いかに徳川を自分に屈させるかが最大の課題である。その為にも家康の懐刀である数正をなんとか自分に取り込むことを考えていたのである。

 

 3月21日、秀吉は家康と講和した為、背後を気にすることなく、十万の兵力で再び出陣した。相手は、小牧・長久手の戦いの際、徳川軍に味方した紀州(和歌山)根来・雑賀衆である。彼らは秀吉が小牧で家康と対峙していた頃、留守だった大阪城・堺・岸和田を攻撃し、秀吉の背後を脅かしていた。

 雑賀衆とは、新型鉄砲を大量に装備し強力な軍事力を持っていた自治集団である。また、雑賀と隣接する根来衆も同様に鉄砲を大量に所持し強い軍事力を持った根来寺の僧兵集団である。その軍事力で雑賀・根来衆は共に徳川軍傭兵となって秀吉を攻めていたのだった。彼らは信長の時代から秀吉に反抗していた集団でもある。

 しかし、家康と講和すると、秀吉の矛先は彼ら雑賀・根来衆に向けられた。まず、羽柴秀長・秀次が率いる先方隊は、たった二日間で岸和田を攻め千石堀城など五か所の砦をすべて陥落させた。これを聞いた本隊秀吉軍は翌日、根来衆の拠点である根来寺を焼き討ちした。 

 残るは、紀の川近くの太田城である。ここには、逃げ落ちた根来・雑賀の残党五千が籠城していた。攻める羽柴軍に対し、雑賀・根来衆は鉄砲や弓で激しい迎撃をした。堀を深くした太田城は予想外に堅固な城の為、秀吉は紀の川を堰き止め、備中・高松城と同様、得意の水攻めにすることにした。城の周りに全長7㎞、高さ5ⅿほどの堤防を造り、その中に紀の川の水を一気に注ぎ込んだ。すると城の回りは完全に水没し城は浮島のようになった。それからしばらくして城主の太田左近は自害し、太田城は落城した。

 

 この後、太田村の百姓は助命し農具を返還する代わりに武器となる刀・槍・弓をすべて持つことを禁止した。これをきっかけに、武士以外の僧侶や農民に武器所有を禁止する「刀狩」を全国に布告した。

羽柴軍は4月26日、僅か一カ月余りで、この「紀州征伐」を終え、大阪城に凱旋した。

 数正は、陣中見舞いを装い、秀吉の脇で戦況を眺めていたが、羽柴軍の圧倒的な強さをまざまざと見せつけられた。かつて、徳川軍の味方であった雑賀・根来衆は無残にも壊滅してしまった。

 

 数正は、この巨大化している秀吉の勢力をいち早く家康に伝えなければならないと思った。なぜなら、家康は上杉に臣従し徳川から離反した真田昌幸に業を煮やし、大久保忠世鳥居元忠ら七千余勢を上田城に向け派していたのだ。

 真田と戦うことは、その後援の上杉と戦うことでもあり、上杉と戦うということは、ひいては秀吉と再び争うことになりかねない。何としてでも家康に思い留まらせねばならぬ。その為にも、一刻も早く浜松城に戻ることにした。

 

 この頃には、すでに秀康の新しい屋敷は完成を終えていた。また、近々秀康に河内国一万石を与えると秀吉は言っている。秀康に対する養子としての扱いを確信した数正は、秀吉に三河に戻ることを申し出た。すると、秀吉は別れを惜しむような姿勢で、手土産として何某かの金子(きんす)を無理やり懐に押し込み、

「家康殿にも是非、大阪城に足を運んで欲しいだがや。わしは首を長うして待っとると伝えてくれんかのう」

 と笑顔を見せた。しかし数正は秀吉の眼の奥から得体の知れぬ眼光で身を射すくめられた。さも、これは秀吉の厳命と言わんばかりに。

 

     黒い噂

 

 大阪を出て、十日後の夕刻、数正は長男・康長を伴い浜松に着いた。登城は翌朝とし、その夜は本多重次の屋敷に寄った。屋敷には城から戻ったばかりの重次がひとり夕餉をとっていたが、数正が着いたとの知らせを聞いてすぐ客間に通した。

「数正殿、お役目ご苦労でござった。して、若君のご様子はいかがか? お仙は無事お仕えしているのか?」

 本多重次は、於義丸(秀康)と大阪に随伴し、数正ともそこで別れた以来だった。

「ああ、秀吉は予想以上に、秀康殿を養子として大事に扱ってくださっている。人質などと心配しないでもよさそうだ。仙千代やわしの勝千代もりっぱに秀康殿にお仕えしておる。ご安心召され」

「そうか、それを聞いて安心した。ところで、大阪の情勢はどうであった?」

「滞在が長引いたおかげで、色々と秀吉の事が耳に入り、その事で明日、殿にはどうしても諫言せねばならぬことがある。お主にも事前に話をしておこう。その前に聞きたいが、上田城はどうなった?」

「それが、上田城の守りが予想外に固いのだ。わが軍に加え旧武田軍にも攻めさせたのだが、まったく城は落ちそうもない。それどころか、相手は千人程の軍勢に対し、わが軍は七千。数的には圧倒的に有利のはずなのだが、攻めれば攻めるほど犠牲者が多く出たとの話だ」

「真田の昌幸という男は、余程、戦術に優れた武将のようだな」

「おい、数正、相手の武将を誉めてどうする」

「それで、撤兵をしたのか?」

「いや、撤兵どころか、井伊直政が援軍を引き連れて、三日前に上田に向かったところだ」

「ばかな、真田の後ろには上杉が待ち構えておる。ますます、わが軍の犠牲者が増えることになるぞ。まったく殿は何を考えておる。重次、鬼作左と言われたお前がなぜ止めなかった?」

「わしが、殿の決断を覆すことなど出来なかろう。それに酒井忠次や他の連中は、何が何でも真田をぶっ潰してやると息巻いておる。わしひとりが、反対した所でどうにもならんわい」

 

 翌朝、登城した数正と重次のふたりは家康と対面した。まずは、養子として秀康の扱いと屋敷新築の話をして家康を和ませた。しかし、その後、家康の方から、

「数正、わざわざ腰の痛みをこらえて於義丸(秀康)の話だけをしに来たのではなかろう。お主が聞きたいのは上田城の事ではないのか?」

「はっ、恐れ入ります。では、申し上げますが、殿、速やかに上田城より撤兵を進言すべく、馳せ参じました」

「やはり、数正の言いたい事はそこだったか。しかし、それはならぬ。お主が危惧しているのは、真田と戦えば後援の上杉と戦うことになり、さらには秀吉と戦うことになりはしないかという事であろう」

「殿、そこまで承知の上でこの戦いをお続けなさるつもりですか」

「むろん、承知の上じゃ。上杉の威勢を恐れて、目先の真田昌幸の裏切りを見過ごせば、わが徳川の面目は丸つぶれぞ」

「世間の体面など気にする殿ではござりまするまい。そもそも、此度の一件は、上杉景勝真田昌幸を焚きつけて起こしたこと。よって、上杉方の裏をかき、さっさと兵を退いてしまうことが上杉から徳川攻めの口実を避ける妙案と存じます」

「待て、それでは、上杉との戦いを回避するため、真田の裏切りを認めることになるではないか。さすがの 数正も心身とも疲れ切っておるとみえる」

 そこで、重次が口を挟んだ。

「このところ、数正殿は秀吉との誼を深める為、奔走しており疲労困憊しておりますが、数正の申しておることは、秀吉と戦わぬためなら、たとえ真田を寝返らせた上杉であろうと相手にせぬ方が得策と言っているのでしょう」

「つまり、わしと秀吉を戦わせる上杉の謀略だと言うのであろう。まさしく謀略に違いない。しかし、それに気づいていながら、援軍を送り込み、この際一気に上杉も打ち破ることが出来よう」

「まさか、上杉を打ち破った後、また秀吉との一戦を覚悟されているおつもりですか」

「秀吉が上杉に味方するというなら、戦うしかあるまい」

「殿は今の秀吉と戦って、負けぬとお思いか。秀吉と戦えば、せっかく養子となられた秀康様の御身が危うくなる事をよもやお忘れになったわけではござるまい」

「わかっておる。秀康ばかりか、そなたたちの子、勝千代や仙千代までも人質にされよう。しかし、秀吉と ここまで築いた誼を切り崩さんとする上杉の謀略が許せんのじゃ。秀吉との合戦まで憂慮するとは、考えすぎじゃ。疲れが度を越しているゆえであろう。どうじゃ、数正、岡崎に戻りしばらく静養してみては」

「岡崎で静養? そろそろ隠居せよと仰せですか?」

「いや、数正にはまだ隠居は許せぬわ。岡崎城主として腰を落ち着かせ、秀吉の動きにのみ目を光らせてくれればよい。真田や上杉のことは井伊直政らに任せればよいであろう。心配致すな」

 すると、本多重次が家康の顔を覗くように言った。

「という事は、数正殿にまつわる黒い噂を、しばらく岡崎城に封じ込めておこうと‥」

「待て、重次。黒い噂とは何だ。聞捨てならぬぞ」

「いやいや、ついつい、言いそびれておったのじゃ。実はのう数正」

重次は、ひょいと首をすくめてから、観念したように言った。

「お主の、大阪城よりの帰還が遅すぎた。そのせいで〈石川数正は秀吉と通じてしまったんではないか〉という噂がまことしやかに独り歩きしだしてしまったのじゃ」

「なんということぞ。まさか殿は、そんな馬鹿げた噂を信じて、この数正を岡崎城に幽閉しようとお考えではありますまいな」

「当たり前じゃ。されど、噂の足は早いでのう。上田城攻めが片付けば、根も葉もない噂だったと知れ渡ろう。しばしの我慢じゃ、承知してくれ」

 数正は虚しかった。ほかの家臣が何を言おうと我慢できるのだが、長年家臣として仕えた家康も噂を半信半疑の態度であったことが、何ともやる瀬なかった。

 

 その日、屋敷に帰った数正は、鬱々たる心の中をどうすることも出来なかった。思えば、家康が今川家に人質になった時から追随し、五十数年間、徳川家存続の為、数々の武将と戦い、あるいは交渉を続けてきた。そんな自分を家康は噂に惑わされている。そして、あくまでも秀吉には屈しない考えを変えようとしない。更に秀吉からは、何としてでも家康に上洛させろと迫って来る。このふたつの巨大な岩石の中に挟まれた自分に何の力もないことを思い知らされた。今、ひとり部屋に籠った数正を言い知れぬ孤独感が襲った。また、苦悩の一夜は数正に眠る事さえ許さなかった。

 

 秀吉の領土拡大は休むことを知らない。四月に紀伊の雑賀・根来衆を倒したばかりであったが、五月四日、今度は四国統一していた長曾我部元親を攻めた。羽柴軍十万に対し、長曾我部は四万の兵力。秀吉は軍師である黒田官兵衛に先鋒を命じ、総大将を羽柴秀長、副将を秀次とした。長曾我部と手を組んでいた毛利は既に秀吉に臣従しており、その毛利軍も攻撃に加わった。その絶対的有利の勢力で長曾我部元親を土佐に追い込み、長曾我部は秀吉に人質を出すことにより、土佐の一国を安堵され許された。

こうして秀吉の四国制圧は容易に終わった。

 

 秀吉はこの四国討伐の最中、朝廷内で二分し紛糾していた関白職を巡る争いに、絶妙なタイミングで介入し、近衛前久の猶子(養子)になると、7月11日には自身が関白職に就くという異例の昇進を果たした。関白とは天皇の代理として政治の実権を握る地位であり、実質上の公家の最高職である。つまり、信長も果たせなかった天下人となったわけである。

 関白になった秀吉は各地の大名を大阪城に呼び寄せ臣下を誓わせた。既に越後の佐々成政も加賀の前田利家に撃退され、先頃、臣従したばかりであった。これにより、秀吉は徳川と結束していた雑賀・根来衆、長曾我部元親、佐々成正を次々と破り、家康と同盟関係にあるのは小田原の北条氏政・氏直父子のみとなった。秀吉は家康に対しても再三登城するように通達したが、真田討伐に託け、登城を引き伸ばししていた。この戦に対し秀吉は仲介を試みるも、徳川軍は尚も一歩も引き下がらなかった。

 

 そんな中、10月14日付けで織田信雄からも家康宛に手紙を送られてきた。内容は「関白様より四国・九州と日本中を平定するまですべての大名は大阪表へ人質を差し出す事とご下命あり。ついては、改めて石川伯耆守数正ほか数名を秀吉の元へ参上させ、今後のことを相談するが宜しいかと。関白様も家康殿の境地を理解しておるので慎重に事を運ぶだろう」と。

 信雄は、秀吉と和睦した後は、織田と羽柴の関係は主従逆転し、関白秀吉となった今は完全に秀吉の手先となっていた。何度か信雄から家康宛に手紙はきていたが、すべて秀吉の差し金である。内容の殆どは、家康に早く上洛せよという事である。今まで無視し続けていた家康も今回は簡単に無碍には出来ないでいた。家康の気持ちも揺らいできたのは間違いなさそうだ。

 

 十月も終わろうとしている早朝、浜名湖のほとりは湖沼霧があたり一面漂っている。浜名湖の東には 野面積み石垣の浜松城がそびえ立っている。以前は曳馬城と呼び今川義元が君臨していたが、桶狭間の戦いで信長に倒され今川家は滅び、元亀元年(1570年)に家康が入城している。家康は武田信玄を牽制するため本拠地を岡崎城からこの浜松に移し、その際に名前も浜松城とした。しかし、その三年後の元亀三年、三方ヶ原の戦いで信玄から大敗を喫し家康にとって惨めな思いを残した城でもあった。

 

 その浜松城で、家康と重臣たちは皆、険しい顔つきで評議をしていた。

「秀吉め、わしが中々返事を返さないものだから、だいぶ苛々しておるようじゃのう。今度は信雄を使って手紙を寄こし、力量のある家臣たち2、3人を人質として出せと言ってきおった」

「今や各大名は我も我もと人質を出してきたと聞いておる。殿、秀吉の魂胆は見え透いておりますぞ。何が何でも殿も秀吉の前で頭を下げさせ、徳川家も他の大名と同じ様に自分の配下にするつもりに違いない。殿、決してあの人たらしの口車に乗ってはなりませぬぞ。秀吉め、あの弁舌だけは抜きん出とるわ。なにせ、あの信長公でさえ秀吉に言い包められたこともあったでな」

 

 酒井忠次は家康をたしなめる様に言い放った。それを受け本多信正も、

「秀吉はもう、自分が天下をとった気になっておる。徳川は絶対に屈せぬと、改めてわからせる必要がございますな」

「やはり、小牧の戦いの折に、討ち倒しておればよかった。それにしてもあの時、信雄が和解などしなければ、今頃、殿が天下をとっていたものを。ううっ、思い出しても腹が立つ」

 家康を始め家臣が皆、秀吉に反抗的であった。おそらく、上田攻めに行っている本多忠勝井伊直政、小諸で戦っている大久保忠世など、ほぼ全員が同じ意見であろう。

 

 しかし、ただ一人、異議を申し立てる者がいた。石川数正である。

「各々方、それは徳川家の行く末を本当に考えて申している事でござるか。秀吉の勢力はもはや誰の手でも止める事は困難でござろう。今年に入ってからも、紀伊・四国・越中はすでに秀吉の配下となっておる。軍事力も今の秀吉は最盛期の信長公よりも力を持っている。強力な鉄砲や大筒部隊を配下に持っており兵力の差は歴然としておりましょう。

そんな中、我らがどんなに秀吉に抗っても勝てる戦ではもうござらん」

すると、酒井忠次が顔を真っ赤にして、

「数正、うぬは、何度も秀吉の元へ行き、徳川を早く臣従させろと命令されているのであろう。貴様が秀吉と通じているのは、もう明らか。誰もが知っていることだ」

「な、何を言うか。わしは秀吉の部下など断じてござらん。わしもれっきとした三河武士だ。根も葉もない噂を流しておるのは、酒井殿、お主ではござらんのか!」

「なに~!」

数正も顔色を変え激高し、互いにつかみ掛る寸前だった。そこで家康は、

「二人とも、よさんか! 忠次、めったな事を口にするな。数正、わしはお前を信じておる。お主は常にわしの傍で徳川家の将来を考えておること、わしが一番わかっておる。確かに秀吉の兵力が多くなっていることは、わしも承知だ。だが、わしはどうしても秀吉に屈するわけには参らぬ。わしが望む天下泰平と秀吉が望む天下統一とは、大きなズレがあるからだ。わしはあくまでも秀吉と対抗していくつもりだ」

 家康と他の重臣たちは、すでに秀吉と戦うことを前提に話を進めていた。完全に数正のみが孤立していた。

「殿‥。なぜわかって頂けないのだ。わしは、徳川家が滅亡するのを黙ってみている訳には参らんのじゃ」

数正の眼に無念の涙が溢れ、これほど骨にしみる孤独を味わったことが無かった。

 

 評議が終わり、皆が席を立つと、数正は、部屋に戻ろうとする家康のそばへ寄った。

「殿、わしはこれで失礼し岡崎に戻ります」

「おお、数正、大義であった。忠次の申したことはあまり気にするでない。帰ったら岡崎の守り一層固くしておいてくれ」

「はっ、わしは暫く浜松に来ることはないと存じ、一言だけ殿に申し上げたきことがござる」

「何じゃ、あらたまって」

「わしは、どんな事がござろうと最後まで徳川家の家臣であること、何卒お忘れなき様願いとうございます」

「その様な事はわかっておる。わしもお前を最後まで信じておるから安心いたせ」

数正は、次の言葉を詰まらせ、家康の眼をじっと見据えた。そして、何も言わず頭を軽く下げると踵をかえした。

          家康の居城だった浜松城 (野面積み石垣)