まつもと物語 その8

  天正壬午の乱

 

「では、これから、松本を制した武田信玄についてお話させて頂きます。

武田信玄が、松本を侵攻したのには、理由があります。もちろん領土を拡大したいという野望も持っていたでしょうが、ひとつは、海に面する土地、いわゆる重要な塩を確保する為と貿易をする港が欲しかったのです。つまり、目的は港を持つ越後を自領にする為で、松本はあくまでその中間点だったのです。

 

 もうひとつの理由として、この時代領土を広げるには移動手段となる街道の確保が重要となります。その点、松本は重要な街道の交差地なのです。例えば、関東・甲府・松本を結ぶ甲州街道、京都・岐阜・松本を結ぶ中山道糸魚川・松本を結ぶ千国(ちくに)街道、高山・松本を結ぶ野麦街道、長野・松本を結ぶ善光寺街道など、ほとんどの街道の起点となっています。これら街道を抑える為にも、松本はどうしても手中に入れたかった土地だったのです」

田岡は、福島の差し出した旧街道の地図を見ると、

「あっ、本当だ。確かに松本はすべての街道の起点となっていますね。ここを信玄が狙うのは当然ですね」

「そういうことです。信玄は信濃の中南信での戦いを制すると、すぐさま松本で築城にとりかかります。 

 それまで小笠原氏の本拠地だった林城は焼き払い、それに代わり絶好の場所として深志城に目をつけました。なぜなら、松本は先ほど言いました各街道のちょうど起点地であり、また、次の目標である北信濃を侵攻する拠点としても深志城は便宜が良かったからです。そしてその後、深志城を本拠地とした武田氏の統治は32年間続きました」

「えっ、武田信玄って松本に32年間も統治していたんですか? なんだか意外です」

「でも、その武田信玄のおかげで松本城松本市の基盤が造られたといってもいいんですよ。

 

 信玄はもともと湿地帯だった深志城の周りに内堀・外堀や土塁の他にも武田流築城術の馬出(うまだし)をつくり防御力の強い城づくりをしました。これが、後の松本城を造る原型となります。幸いにも女鳥羽川と薄川が流れ込み、それがお堀づくりに役立っていました。中でも女鳥羽川は北から流れてきた川が清水あたりから縄手通り沿いにほぼ直角に曲がり西へ流れていますが、このL字になっている女鳥羽川がお堀の役割をしていて、好都合だったのです。この女鳥羽川を西に直角に流れを変えたのは武田信玄が行なったという説もありますが、これは、あまり根拠が乏しく真偽のほどは疑わしいです。

 また、この地は扇状地のため湧水が多く、貴重な飲料水を確保することが容易でした。そしてお城のまわりには武家のほかに商人や町人の住む街をつくり、それが、後の松本城下町のベースとなります。各街道の物流が盛んで遠方の商人が売りに来た様々な品を街中の店がまとめて買い取り、それを地元の人に売って商売する。こういった流れで松本は商業都市としても発展していったのです。ですから、松本城と城下町、そして商業都市は、武田家が最初につくったといっても良いと思います」

「そうすると、小笠原長時を追放してから、信玄はずっと、松本を本拠点にしていたのですか?」

「いいえ、松本を支配下にしていましたが、そこに信玄が長く居た訳ではありません。先ほど言いました通り、目的は越後ですので、その後は北信濃長尾景虎いわゆる上杉謙信と『川中島の戦い』を30年近く繰り返しました。ですから、信玄自身不在でしたが、松本は甲斐と越後を結ぶ大事な中間的拠点として、30年以上かけて武田家が小都市に造り上げたということです」

 

 福島が説明していると、清水先生が身を乗り出して、

「話の腰を折ってすまないが、私にもちょっと武田信玄の話をさせてもらってもいいかな?」

「先生どうぞ、是非、補足をお願いします」

「ありがとう。じゃあ早速だが話をさせてもらうよ。

 その武田信玄は松本を制圧した後、次は小笠原長時が逃げ込んだ北信濃村上義清を攻めたんだよ。村上義清は北信濃ではとても強い戦国武将で、五年ほど前に一度戦っているんだが、その時は武田軍が敗北している。信玄にとっては連勝を重ねてきた信濃攻略で初めて敗れた相手だったから、雪辱を晴らす気持ちで村上軍を攻めたと思うよ。結局武田軍に追い詰められ、村上義清は親戚でもある越後の長尾家に逃げ、救援を願ったことから始まったのが、有名な『川中島の戦い』だ。だから、この戦いで上杉謙信としては、信濃の村上氏に頼まれたから信玄を迎え討つという〈大義名分〉のもとに、武田信玄と戦ったというわけだよ」

いかにも歴史教師らしく清水先生の話に、ふたりとも頷いて聞いていた。

「先生、村上義清までご存じとはさすがです。ちなみに、この村上義清正室は小笠原長棟の娘(長時の妹)で、村上家と小笠原家は親戚なんです。だから、信玄に追われた小笠原長時父子は、最初、村上義清を頼ったと言われています」

 

 福島は更に話を進めた。

「この川中島武田信玄上杉謙信と戦っている間、松本は、武田の属国となっていた木曽谷の領主・木曾義昌が、信玄に代わって統治していたのです。

しかし、その後、信玄が病死し、息子の武田勝頼が織田・徳川連合軍に『長篠の戦い』で敗れ、武田家が滅びると木曾氏は信長に仕えるようになり、松本、安曇を治める様になりました。しかし『本能寺の変』が勃発すると、木曾義昌も信長という大きな後ろ盾を失い無力となり、ついに信濃国は誰も統制する者がいなくなる空白状態になってしまいました」

 

 すかさず、清水先生は咳払いをして、お得意の戦乱時代の話を始めた。

「いま話にでた武田氏滅亡、本能寺の変など、これら一連の出来事はすべて天正十年の一年間に起きた戦なんだ。これを『天正壬午(てんしょうじんご)の乱』というんだが、信濃国と旧武田領の土地をめぐり北から上杉、南から徳川、東から北条、西から木曾義昌が攻め、これに真田昌幸が加わった。まさに信濃・甲斐の奪い合いが続いた国盗り合戦の年でもあったんだね。

 

 この天正10年はまず、『天目山(てんもくさん)の戦い』といわれる信長が甲斐武田一族を攻め滅ぼした戦いが3月、秀吉が毛利軍と和解した『備中高松城の戦い(水攻め)』が4月、明智光秀が謀反を起こし信長を自刃させる『本能寺の変』が6月、続いて秀吉が謀反の光秀を討ち果たす『山崎の戦い』が同6月、家康と北条氏が甲斐の若神子で領土争いのため対立する『若御子(わかみこ)対陣』が7月にあった。それから豊臣政権の発端となる『清須会議』もこの年だったね」

「さすが、清水先生! まるで歴史の教師ですね」

「おい、おい、まるで…じゃなく、現役の歴史教師だよ ははっ」

そこで、今度は田岡が質問した。

「ひとつお聞きしたいのですが、先ほど『天正壬午の乱』で信濃と甲斐を奪い合いしたという事でしたが、結局その結果、信濃はどうなったのですか?」

 これには、福島が答えた。

「そうでしたね。結論から先に言いますと、家康の領土になりました。信濃国は何人もの武将が狙っていて、最終的に家康と北条氏政の争いとなったのですが、羽柴秀吉や信長の次男・織田信雄(のぶかつ)から和睦の勧告があり、信雄の仲介で講和が結ばれ、甲斐・信濃は家康に、上野国(群馬)は北条の領土とし、以後お互い干渉しない事と決まったのです。ただ唯一、逆らったのは上田の真田昌幸で、真田は上杉と組んで家康に対抗したのです」

清水先生が、それに続き、

「しかし、この天正十年から二年後の『小牧・長久手の戦い』や四年後の『九州征伐』など秀吉の天下取りの戦いがひと通り終結すると、結局、信濃国も秀吉配下になるんだがね」

田岡は、福島と清水先生の説明を聞き、大きく頷いた。

 

 

     小笠原氏復帰

 

 福島の話は、更に続いた。

「でも、松本の地が豊臣支配下になるのは、もう少し先です。では、その間、松本は誰が治めることになったか田岡さん、わかりますか?」

「え~と、よくわかりませんが、やはり、小笠原氏ですか? でも三十二年前、確か小笠原長時は三男の貞慶(さだよし)とふたりで、長い放浪の旅にでたという事でしたので、松本に小笠原氏はいなかったはずですが‥」

と、田岡は書きとったノートをめくりながら答えた。

「はい、そうですね。実は、信長が本能寺で自刃したことを知った松本の地侍たちが集まって、一気に自立に向け動き出したのです。つまり、自分たちの国主を誰にするか選ぶため相談を始めたのです。

 武田家が滅び、今の木曾義昌では松本城主に適任ではない、越後の上杉の配下になるか、三河岡崎の家康に属するかという様々な意見が出たのですが結局選んだのは、元来、松本の城主は小笠原氏であり、小笠原氏なら誰も文句はないという結論になったのです」

 

 ここから、話は佳境に入り小笠原氏の復活となるので、福島はお茶を一口含むと、一気に話を進めた。

「そして、長時と一緒に越後に逃れた弟の小笠原洞雪斎(どうせつさい)(小笠原貞種)が上杉景勝(謙信の養子)のもとに居る事がわかると、早速、洞雪斎を松本に呼び戻しました。そこで、洞雪斎は景勝の支援により家臣の梶田・八代の両将と二百騎の兵に守られ、府中松本に入ると、地侍と共に深志城にいる木曾義昌を攻め落とし、木曾谷へ追放しました。

ようやく、深志城に小笠原氏が入ることになったのですが、この洞雪斎という人は上杉家臣の梶田・八代の言いなりでしたので、旧小笠原家臣たちは、次第に洞雪斎に不信感を抱き始めました」

 

 田岡と清水先生は黙って話の続きを聞いていた。

「その頃、放浪の旅に出ていた小笠原長時会津蘆名(あしな)氏へ招かれ、息子の貞慶(さだよし)は小笠原家の家督を継ぎ、徳川の家臣となっていました。

この貞慶を旧家臣たちは探し当て、洞雪斎に知られないように使者を送り松本に招致しました。小笠原貞慶自身、前々から信濃に戻りたいと願っていたので、これを即承諾し家康の許しを得ると、途中数百人の兵士を抱え深志城の叔父・洞雪斎を攻めました。

 

 実は、この戦いは、洞雪斎を支援する上杉と貞慶を援護する徳川との代理戦争でもあったわけです。そして、このたった一日の戦いで敵味方、少なくとも数百人の犠牲者が出た様です。しかし、城に籠っていた洞雪斎は貞慶が同じ小笠原氏の一族あり遺恨もないため和解に応じ、その結果、洞雪斎は退き貞慶を正式に深志城の城主として迎えることとなりました。

 洞雪斎に代わって深志城に入った貞慶は、思えば武田軍に父長時と城を追われてから、実に33年ぶりの深志城奪還でした。貞慶の元にはぞくぞくと旧家臣が集まり、城の名前も深志城から『松本城』に改めたのです」

 

 話が終わると田岡は思わず声をあげた。

「貞慶にとって、積年の思いを晴らすような気持ちだったのでしょうね。よく33年間も耐えましたよね。貞慶や旧家臣たちは、この日をどれだけ待ち侘びていたかと思うと、私も少し感動しました。ところで、小笠原貞慶信濃に戻った後は、やはり家康の配下になったのですか?」

「そうです。もともと、放浪中も三河(静岡)に住んでおり、家康の家臣となっていたので当然ですね。でもその家臣の証として、息子の貞秀を家康に人質として差しだしたのです。その貞秀(後の松本藩主・秀政)は家康の家臣・石川数正に預けられました」

 

            松本を中心とした街道図

 

          武田家滅亡後の信濃・甲斐への国盗り合戦