まつもと物語 その11

     和議の礼

 

 家康は、講和後の秀吉の真意を探るためにも、〈和議の礼〉を家康の懐刀といわれた石川数正に託した。数正は武将として頼れている存在だけでなく、かつて「桶狭間の戦い」の後、今川から離反した家康が、信長と対等同盟(清須同盟)となる交渉を行なったり、今川氏真と人質交換の交渉では瀬名(築山殿)と長男・信康を無事救助するなど、こういった外交的手腕を買われてのことだ。また、数正は以前、秀吉が「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を討ち坂本城に凱旋した際に、先勝祝いの品として名高い茶入れ「初花」を届けており、その時から秀吉に気に入られている事も家康は承知していた。

 しかし、今回数正は敢えて、何も持たず秀吉に会い家康の口上を伝えるとした。むろん狙いは、家康としては秀吉との厚誼を従来通り維持すること。つまり、和議は受け入れるが家康が秀吉に臣従するものではないと、しっかり釘を刺すことである。

 天正12年11月、数正にとって一年ぶりの大阪である。大阪城の外堀はまだ普請中であったが、その広大な規模は信長の安土城とは比較にならないほどである。出来上がったばかりの大阪城天守の大広間に案内された。井草の匂いがまだ新しい畳が敷かれ、襖には虎の眼がこちらを睨んでいる。何といってもその広さと豪華さに数正は度肝を抜かれた。訪れる者を、まずここに招き入れ、萎縮させようという秀吉の意図がある。

 しばらく、緊張した空間の中でひとりぽつねんと待たされた数正の前に、ふたりの小姓を伴い秀吉が入ってきた。

「これは、これは、数正殿、お待たせして申し訳なかった。遠路お越しいただき大義でござった」

と、高座に腰を据えると、座敷の中央で畏まっている数正に向かい親しげに声を掛けた。

「数正殿、そこでは遠くて話もできぬ。もそっと、近くにお寄りくだされ。さあ、もそっと」

「ご無礼つかまつります」

と、指し示すあたりまで座を進めると、秀吉の饒舌は止まらなかった。

「徳川殿は、有能な武将をたくさん抱えておって、ほんに羨ましゅうてたまらんわ。亡き信長公もこう申していたぞ『徳川殿に過ぎたるものがひとつある。石川数正じゃ』 とな。わしも石川殿がそばにおってくれたら、どんなに心強いかのう。どうじゃ。石川殿、わしのもとで働かんか‥  ははっ、冗談じゃ、冗談!こんな事を家康殿に聞かれたら、わしはどえりゃあ叱られてしまうがや」

 数正は、秀吉の話術に嵌るまいと、必死で矛先をかわした。

「しからば、我が殿の口上を申し上げます。まずもって、羽柴・織田ご両家の間に和議がなりましたことを謹んでお慶び申し上げます。また、その余慶を蒙り、わが徳川家とご両家との絆が、従前どおり厚誼のうちに保たれること事と相成りましたことに感謝申し上げる次第です」

まず、秀吉への臣従を誓うためではないことを示唆した。

「そして、どうしても、お伝えしたき儀のひとつは、こたびの戦をわが殿・家康は、当初より〈勝たず、負けぬ戦〉とせねばならぬと申しておりました」

「ほう、徳川殿がのう。実はわしも同じことを考えておったぞ。なるほど、〈勝たず、負けぬ〉と決めた同士が戦っても決着が着こうはずも無いわけじゃな。あはっはっ」

秀吉は呵々(かか)と笑い飛ばした。

「ついでに白状しておくが、〈勝たず、負けぬ〉であれば、最後は和議で終わらせるしかないと思うてたわ。徳川殿は信雄に担がされて、仕方なく戦をさせられたのじゃからのう。もともと、わしと家康殿は亡き信長公のもとで共に天下泰平を望み、働いた仲だったではないか。羽柴家と徳川家との和議も当然のことじゃ」

 秀吉の猿芝居もここまでいくと、実に滑稽であったが、あえて数正も「御意でござる」と答えた。

そして、数正は懐から一通の書面を取り出した。

「羽柴殿、これは我が殿より預かりし手紙でござる。これには、殿の本意を書き記してございます。要約して申し上げるならば、今後、徳川としては、羽柴殿に対し決して刃を向けることは致さぬので、羽柴殿も徳川に攻め入ることの無きようにとの事。あくまで共に戦の無い太平の世を望んでおられる由にございます。これこそが、お互いの理に適うものと信じております」

 秀吉は手紙を受け取ると、とっくりと読み終えた。

「家康殿の言われること、誠にもっともである。わしも同感であると、そう家康殿に伝えてくれるかのう。ところで、どうじゃ、明日はわしがこの大阪城を案内しよう。よかったら、堺もお連れ致そうぞ」

「身に余るお心づかいを賜り、痛み入ります。なれど、それがし、今日中に京へ行き用事を一件済ませ、明後日には岡崎に戻り殿に報告致したいと存じます」

「さようか、仕方あるまい。ならば、茶事だけとしようかのう」

「恐れ入ります」  

数正は拍子抜けするほど、秀吉が終始、数正の訪問を嬉しいものとして捉えているように見えた。

 しかし、このことが、数正を苦しめるひとつの要因となってしまった。なぜなら、秀吉に渡したこの手紙が、いつのまにか、「数正は家康の内情を密告した。秀吉に内通しているのではないか」などと噂となってしまったのだ。これは、秀吉が間者を使って噂を拡散させ、数正を家康から引き離し、徳川の内部分裂を図ったことではなかろうか。

 

 その日数正は、大阪城を後にし、二条室町の茶屋清延(きよのぶ)邸に着いた。

この茶屋清延は徳川家とは深い結びつきがある。元々は、信濃小笠原長時の家臣であった中島明延が戦で負傷し、それを機に武士をやめ名を茶屋清延と変え京都に移って茶葉や呉服商を始めた。そして、家康の家臣になった小笠原貞慶に引き合せてもらい家康とも懇意となった。

 茶屋清延は本能寺の変の際は、堺に滞在していた徳川家康一行に早馬で一報し、「伊賀越え」と言われる明智勢からの脱出の支援をした。言わば、家康にとって命の恩人でもある。それにより、徳川家康の御用商人として取り立てられた。屋号を茶屋四郎次郎という。清延も元はといえば三河武士でもある。

 茶屋清延は単なる公儀呉服師だけでなく、京の情勢に詳しく堺衆など町衆との繋がりも強かった。

「石川様、大阪城で秀吉に会い、さぞ、お疲れのことでしょう。あちらの部屋で一席ご用意致しましたので、お寛ぎください」

清延は、ねぎらいの言葉をかけると、自ら奥座敷に案内した。部屋には京料理に酒が添えてあった。

腰を落ち着けると数正は、酒を口にしながら、

「清延どの、いつもながら、かたじけない。今日は堺衆について色々とお主に訊ねたいことがあるのだが‥」

「なるほど、石川様は秀吉と堺衆との関係が気になるとおっしゃるわけですね。わかりました」

と言うと、清延は、数正に酒を注ぎ足し、自分も手にした酒を一気に飲み干すと、語り始めた。

「町衆というのは、単なる商人ではなく、どの武将に近づけば得をするかを嗅ぎ分ける才に秀でている者が少なくありません。特に堺衆は、明や朝鮮・琉球との交易で財をなし、その財力で信長様へ協力し、鉄砲・弾薬だけでなく兵糧や装具等を供給し、その代わりに多額の商権の利を得ていました。その信長様がお亡くなりになった今、今度は秀吉が代わって堺衆と茶道を通じて交わりを強くしようとしています。ところが、その堺衆の中には秀吉を良く思わぬ者がおります。それは信長様の頃から重用された茶道の今井宗久や津田宗及・千宗易千利休)らです。ご存じの通り、茶湯は政の場として秀吉も利用しているのですが、侘び寂びの今井宗久と金の茶器、金の屏風と派手好きな秀吉とは相性がよい訳がありません。もし、徳川殿が隙をつくとすれば、そのあたりでしょうか」

「うむ、家康殿はあまり茶道を好んではおらぬが、天下を牛耳るには、堺衆との繋がりが必須というわけだな」

 

 

     二人の使者

 

 数正が、京で秀吉の近況を茶屋四郎次郎清延から探り岡崎に戻ると、自分より先に返礼の手紙が届けられていた。秀吉の機敏な行動に驚かされたが、その内容には、こたびの答礼として当方から使者を近々に浜松に差し向けたいと書かれていた。数正は、また自分より先に使者が家康に会うことを危惧し、岡崎で二、三日疲れを癒すつもりだったが、急ぎ家康がいる浜松に向かった。

 

 浜松城で数正は家康と二人だけで大阪城での経緯(いきさつ)を報告していると、案の定、秀吉の使者が早々に到着したと知らせが入った。

広間にて数正のほか、本多重次、酒井忠次本多正信らを従えて、家康は使者と対面した。

使者は二人、滝川雄利(かつとし)、富田知信(かずのぶ)と名乗った。

「こたび、信雄・秀吉の講和を祝する使者を差し向けて頂き、誠に感謝致しまする。早速ですが、わが殿羽柴秀吉より、徳川様に懇願すべき儀を授かり参りましてござりまする。徳川・羽柴ご両家の親睦が深まりましたるうえは、更に盟友としての絆を深めん為、徳川様の若君お一人を是非とも羽柴家のご養子に迎えたき由に‥」

「ちょっと待ってくれ、滝川殿。いきなり養子などと、ちと性急すぎるのではないか」

 本多重次が慌てて、使者の口上を制した。

「はっ、仰せ、ごもっともでございます。よって、この場で応諾を得ようというのではござりませぬ。ただ、めでたき話ゆえ、内諾だけでも得て参れとのご下命でござれば、われら両名、徳川様の意の決するまで、ご当地に留まる覚悟でござりまする」

「ふむ。されば、とくと思案すると致そう。まずは今宵だけでも、この城に留まり、旅の疲れを癒されるがよかろう」

 戸惑を隠し切れない家康だったが、あえて、冷静さを保ちながら言った。すると、滝川雄利が返答した。

「はっ、有難き仰せ痛み入ります。誠勝手ながら、今一つお願いの儀がございます。わが殿秀吉より、そこに御座す石川伯耆守(ほうきのかみ)殿のご高名は数多く伺っております。我らも石川殿の様な聡明な家臣になる様、よく見習えと再三言われております。就きましては、伯耆守殿に肖(あやか)りたく、我らに陣羽織か旗を譲って頂くわけには参りませぬか」

 家康をはじめ周りにいた家臣は唖然とした。特に数正は驚きのあまり、

「な、なにをおっしゃる! 秀吉殿が何を申されたか知らぬが、その様な過大な賛美は無用でござる。お断り申す」

 これを聞いた他の家臣たちは、「なんだこれは?」「数正は秀吉に随分気に入られているではないか」「数正は寝返っているのではないか?」と益々疑心暗鬼で数正を見るようになってしまった。

 

 使者両名が退席したあと、最初に口を開いたのは、酒井忠次だった。

「願ってもない話ではござらぬか、殿。羽柴秀吉に実子はなく、いずれ跡継ぎは養子より選ばれましょう。徳川様の若君、於義丸さま、あるいは長松(秀忠)さまのいずれかが羽柴の後継者となられた暁(あかつき)には、一滴の血も流さずに、羽柴家は殿の手中に収まりましょう」

すかさず、本多重次が、反対の意を唱えた。

「とんでもござらん。養子というのは建前で、実際は殿の若君を人質にとるという肚ではござりませぬか。おおかた、殿の若君を囮(おとり)にして、いずれ殿を大阪城に呼び寄せ、秀吉の配下にでもするつもりでしょう。断じて、この件はお断りするのが至極当然でござろう。そうであろう数正」

 重次は、数正に同意を求めた。

「先ほど、酒井殿が言われた跡継ぎとしての養子は承服致しかねる。すでに秀吉の養子には甥・秀次があり、更に秀吉の正室ねね殿の甥も近々養子に迎えると聞き及んでおります。いずれにしても後継は羽柴家の血縁の者より選ばれましょう。ただ、この養子縁組が整えば、両家の盟友は深くなることは確か。ここは、じっくり考慮すべきかと存じます」

「うむ、数正の言う通りじゃ。ここは一晩でも二晩でも時間をかけて考えてみよう」

と言い残し、退座した家康だったが、翌日、早々に家臣と共にふたりの使者を広間に呼び出した。

 

「お使者に伝える。わが子・於義丸を羽柴家の養子として遣わすと致そう。日取り等々については追って知らせる」

いきなり、家康は言い放った。

於義丸とは、築山殿の侍女で後に家康の側室となったお万の子である。しかし、お万が妊娠した時は正室の築山殿が側室と認めなかった為、長い間、家康の子と認知されておらず、父子の対面すらなかった。そもそも、どの側室と子供を作るかを決める権限は正妻であり、正妻が認めた相手との子供だけが正式な一族の一員となる。しかし、お万もその子の於義丸も正妻である築山殿の認めるものではなかったのだ。

 

 武田と内通しているとの猜疑により築山殿が殺害されてから徳川家に入ったのは六歳の時であった。それから五年後、今度は養子という名目のもとで秀吉に人質に出される事となったのだった。

秀吉の使者たちは、意外にも早い内諾を家康からもらうと、喜び勇んで、大阪へと戻って行った。

 

 しかし、本丸の重臣だまりに集まった連中は、この養子縁組を喜ぶ者など誰もいなかった。

「きっと、あの使者たちと石川数正は事前に岡崎で打ち合わせし、何としてでも殿の若君を養子と偽り、人質にとろうと画策したに違いない」

「我らは、はっきりと反対しようぞ」

と、秀吉の人質要求を批難するより、石川数正への疑念を益々強いものにしていった。

そんなことを数正は薄々感じ取っていたが、翌日、家康へ提言した。

「殿、於義丸どのが、無事、秀吉の元で養子として扱われるか心配でござろう。この数正が於義丸どのに随伴し、養子として確信を得るまで、後見役として大阪に留まる覚悟でおりますが、ご承諾頂けますでしょうか。また、昨夜本多重次とも相談しましたが、小姓として数正次男・勝千代と、重次の嫡男・仙千代を伴わせて頂きたく存じます」

「おお、数正、行ってくれるか。かたじけなく思うぞ」

家康にとって、この数正の提案はおおいに願うところであった。自分もかつて今川に人質として出された。その時の寂しく辛い思いは誰よりもわかっている。ましてや子煩悩の家康が、我が子を喜んで人質になど出すものか。家康は、まさしく身を切られるような思いで於義丸を養子に出すのだった。

      徳川家康の懐刀と言われた武将 「石川数正