まつもと物語 その16

   松本城

 

 松本市は十月に入ると、残暑どころか朝晩は急に寒さを感じる様になり、衣服も少し厚手のものが欲しくなる。近くの公園には白やピンクのコスモスが一面に咲き乱れていた。田岡は福島学芸員から松本城の歴史を学ぶため、再び博物館を訪ねた。

「福島さん、お忙しい処、また時間をとって頂きありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ田岡さんになかなか連絡せず、すみません。この前は話の途中で切り上げてしまい、申し訳ありませんでした。さあ、どうぞ」

と言われ、以前と同じ研究室の部屋に通された。

「田岡さん、話の続きの前に先日お預かりしました例の古文書ですが、実は解読に手間が掛かっています。所々の漢字や言葉は読むことが出来たのですが、文章が全く繋がらないのです。どうも通常の手紙と異なり独特の言い回しと言うか、謎かけみたいな複雑な文章なのです。ただ、手紙自体は江戸時代初期のものに違いないと思うのですが、肝心な中身がなかなか読み取ることができません。すみませんが、もう少しお時間頂いてもいいですか?」

「そうなんですか? 何か謎めいた手紙の様ですね。私の方は全然構いません。逆にお手数をお掛けして申し訳ありません」

すると、ドアをノックする音がした。

「こんにちは、田岡さん」と田岡の幼馴染の妙子がお茶を運んできた。

「あっ、こんにちは、お邪魔してます」

 妙子を見ると、以前と様子が変わっていた。髪の毛を短くし、横髪を後ろに流し毛先も少しパーマでカールさせていた。

田岡は、〈とても似合っている。可愛いよ〉と言いたかったが、それは口に出せなかった。それに、前に会ったときは、「安夫君」と言っていたのに、田岡さんと呼ばれただけで、何か大人になった女性を感じさせられた。

 すると、福島が、

「そうそう、田岡さん、うちの花岡さんとは同級生だったね。実は、この古文書の解読を花岡さんにも手伝ってもらっているんだよ。彼女、謎解きが得意だから‥。ははっ」

「福島さん、私、別に謎解きが得意なわけではありません。ただ、興味があって手伝っているだけです」

「でも、助かっているよ。引き続き頼むよ。僕も本当はこの古文書にもっと集中したいのだが、色々と仕事が重なってしまって、なかなか時間がとれないんだ。田岡さん、実は花岡さんって、すごく優秀なんですよ」

「もう、福島さんたら、からかわないで下さい。もう手伝うのやめますよ」

「ごめん、ごめん。そんなこと言わずお願いします」

妙子は、照れくさそうに軽く会釈をすると部屋を出ていった。彼女がドアを閉め終わるのを見ると、

「いやあ、本当に彼女は熱心に古文書を調べてくれて助かっていますよ。学芸員の資格の勉強もしているのにね」

 田岡も以前、妙子が学芸員を目指していることは聞いていたが、今考えてみると、確かに中学の時の彼女の成績はかなり良かったらしい。

「ところで田岡さん、今日は前回の続きの話でいいですか? たしか、小笠原貞慶松本城主になった後、家康の支配下となり、息子の秀政を石川数正のもとへ人質に預けたというところまで話をしましたよね」

「はい、お願いします。実は、あの後、清水先生のご自宅に伺って、石川数正の話をたっぷり聞かせてもらいました。数正が家康から秀吉のもとへ出奔して、家康が秀吉の臣下になるところまでです。出奔の際、数正が人質の小笠原秀政も一緒に連れて行ったという話でした」

「そうでしたか。歴史好きの、あの先生の事だから得意げに話をされたのでしょうね」

「はい、まるで講談師の様でした」

「あははっ。まるで目に浮かぶようです。僕は先生の様な話し方は出来ませんが、知っている限りの歴史について順を追って話していきますね。また、途中わからないところがあったら、遠慮なく訊いて下さい」

「お願いします」安夫は、カバンからノートを取り出し、メモの用意をした。

 

「では、まず小笠原貞慶のその後の話ですが、天下統一を目指す秀吉が家康を臣従させた後、天正15年に九州平定で島津義久を臣下にさせると、続いて関東を領土としていた北条氏政・氏直父子を降伏させるため、今度は小田原征伐に向かいます。

小笠原貞慶は、この小田原城攻めにおいて前田利家軍に従って軍功を挙げ、天正18年にこの功によって秀吉から讃岐半国を与えられたのです。

そこまでは良かったのですが、九州平定の際に不祥事を起こし秀吉に追放された尾藤知宣という武将を貞慶が客将として匿った事が露見し、それを知った秀吉の怒りにふれ、貞慶はすべての領地を没収されたのです。この事がきっかけで改易、つまり松本城主を剥奪されたということです」

「えっ、貞慶って三十三年間も放浪して、やっと松本城を取り戻して城主になった人ですよね。それが尾藤っていう人を匿っただけで秀吉の機嫌を損ねて城主を剥奪されたなんて、何か可哀想ですね」

「確かに貞慶は悔しかったと思います。その後、家康の家臣になったのだけれど、結局松本に戻ることなく息子の秀政と共に古河(茨木県)に移り、五十歳で生涯を閉じたという事です」

「それで、その後、松本城は誰が城主になったのですか?」

「誰だと思いますか? 田岡さんが清水先生から詳しく話してもらった人物です」

「ああ、石川数正ですか」

「そうです。石川数正は秀吉のもとに行ってから、先ほどの小田原攻めで同じく功績が認められ、河内国内で八万石を与えられていたのですが、小笠原貞慶が改易されたことを機会に数正は松本の領土を与えられたのです。そして、貞慶に代わり松本城主になったという訳です」

「なるほど。では、いよいよ石川数正松本城を造っていくわけですね。ここは、是非詳しく説明願います」

 

「わかりました。では、ここから城づくりの話を始めます。石川数正が秀吉の命(めい)で信濃・松本十万石に移封となったのは、天正19年(1591年)のことでした。この時、数正は58歳でした。そして、松本へは息子の康長や家老の天野又左衛門、渡辺金内らも一緒でした。

 実は、この時秀吉からは関東に移封となった家康を監視するようにと命じられたようです。松本は以前も説明した通り、各街道の要となる土地でもあったからです。でも、数正にしてみれば、もともと君主だった家康を監視するって複雑な心境だったと思います」

「数正に家康を監視しろと秀吉が命じるという事は、まだ秀吉の心の中にいつか家康が天下を奪い取るのではと疑っていたのですか?」

「そうかも知れませんね。良く後世の人が家康のことを「タヌキ親父」って言うのは、表面には決して出さないが心の中では、いつか自分が天下をとるぞと狙っていたからでしょうね」

 

 福島は手にしていたお茶を一口含むと、

「そこで、秀吉が数正に命じた松本城というのは、以前小笠原貞慶が取り戻した深志城と呼ばれた平城を改築するのではなく、守りに強い城郭を新たに築城せよということでした。

そして、数正は、この松本平にそびえ立つ堅固にして雄大な城を描くことになったのです。この時、石川数正という人物は城造りに相当熱を入れ込み、本気で取り組んだようですよ」

「何か、凄い意気込みですね」

「そうですね。では、城造りを始める背景から話をしましょうか」

そういうと、福島は日本地図と松本市の地図を広げながら話を始めた。

 

 

     信濃移封

 

 天正17年(1589年)秀吉は全国に許可なく大名の私闘を禁じる法令「惣無事令」を発布した。これに対し北条氏政・氏真父子は、これを無視し真田領地の名胡桃城(群馬県)に軍勢を入れた。

 これを契機に秀吉は北条氏の本拠となる小田原城を攻めた。一夜の内に城を築いたかに見せ、北条氏を畏怖させた、いわゆる一夜城で知られる「小田原征伐」である。

この戦いには、北条と同盟を組んでいた徳川軍を敢えて当たらせた。加えて織田信雄上杉景勝毛利輝元前田利家など全国の大名が周囲から攻め圧倒的な軍勢で北条氏を降伏させた。これには石川数正も武者奉行として千五百人の兵を率いて参戦している。

 また、秀吉は陸奥国伊達政宗へも出陣命令を出していたが、北条と同盟関係にあった伊達は戦が終わった頃を見計らい、やっと小田原に到着した。作為的に遅参した伊達政宗は白装束で秀吉の前で詫びた。この政宗のパフォーマンスに秀吉は苦笑し許された。そして伊達政宗も遂に配下となった。これにより、島津、北条、伊達をすべて臣下とさせ、秀吉は名実ともに天下統一を成し遂げたのである。

 

 その後、秀吉は小田原征伐が終わると、それまでの北条の領土となっていた関東に家康を移封させた。秀吉の考えは強力なライバル家康を大阪や京より遠ざけ、関東から東北方面を家康に守って欲しいという理由であった。

 この領地替えに対し、当然三河武士は猛反発したが、家康はかつての領土である三河遠江駿河、甲斐、信濃を去り、新たに関八州を与えられた。家康の心中は図り知れないが、ここで秀吉に抗うより広大な関東平野に大阪に負けない程の東の都をつくることを選んだのだ。また、石川数正が人質として預かっていた小笠原秀政(後の松本城主)も下総三万石を家康から与えられ古河城(茨木県)に移った。

 

 そして、翌年天正18年(1590年)その小笠原貞慶が改易されたことを機会に、石川数正河内国から信濃国松本へ移封を命じられたのである。領国は筑摩・安曇の二郡であり知行高は十万石であった。

その目的は戦略上、徳川軍が京・大阪へ踏み込むことを封じ、家康の動きを監視するための包囲網をつくった。それは関東を囲むように上田城小諸城松本城、諏訪高島城を信濃国に設け、更に沼田城甲府城岐阜城駿河城の計十ヶ所を設け、その拠点のひとつとして松本に城をつくる事を数正に命じたのである。

 因みに、秀吉はこれらの城の屋根瓦の一部に金箔瓦を使用する事を命じている。これは、他の大名に豊臣の威信を示すものであり、以後秀吉の許可なくして金箔を使用する事を禁じたのである。徳川幕府の時代になって、これを尽く破壊したのであるが、松本城からもこの金箔瓦の一部が出土している。

 

 秀吉から移封を命じられた数正は、松本の地形とそこにある松本城(深志城)を調べるため、長男・康長や家臣たちを伴い下見に向かった。大阪を発つと、京都、彦根、岐阜を過ぎ、多治見、恵那、飯田、塩尻東山道を七日間かけてようやく松本平に至った。

 数正達にとって、信濃松本に足を踏み入れたのは、この時が初めてであった。周りは高い山ばかりだ。西側に大天井岳常念岳乗鞍岳が連なり、南は鉢伏山塩尻峠、東には武石峰、茶臼山などに囲まれ、北方だけが大町にいたる細い平野部である。そして、西には奈良井川梓川と合流し北に向かって流れていた。この地は日本列島南北の分岐点であり、塩尻峠(塩嶺峠)や善千鳥峠には太平洋側に流れる雨水と日本海側に流れる雨水の分水嶺がある。

 

「ううむ、確かに松本は開けた盆地ではあるが、回りは山また山に囲まれておりますなあ」

と家老の渡辺金内が言った。

「まるで、山に囲まれた広大な要塞のようじゃな。二十年前までは、信玄公がここを信濃の拠点にしていたそうじゃ。あそこに見える深志の城もその時に造ったと聞いておる」

 数正は、松本城に目を向け指差した。城と言っても、三重の堀に囲まれた本丸には丸太で造った見張り用の櫓(やぐら)が西南の角に一棟造られており、あとは二階建てが一棟と平屋の建物がいくつか軒を並べているだけで天守閣というものは無かった。

 城の南側には南北に長い大通りがあるが、その脇には粗末な民家が並び建っていた。今まで大阪や京都の賑やかな街並みを見てきた数正にとって、この松本はとても城下町とは言えない、なんとも侘しい簡素な村に見えた。

城下を流れる川は主に二つ、女鳥羽川と薄川である。特に城造りで重要なのが女鳥羽川だ。

数正も直ぐにこの川に関心をよせた。信玄がこの川の水を利用して天守の回りに二重三重の堀を造ることは当然である。なぜなら、この城は周りに何もない平城である。山城と違って守りに強い要塞にするためには、深い堀と高い塀が不可欠であった。この松本平は見晴らしがよく敵の動きが良く見える代わりに、ひとたび攻められると守りにくいのが欠点である。これを補うためにも堀と塀は更に作り直さなければならない。そして、その城の周りに広い城下町をつくり武士を住まわせることも防御力を高める最善策と数正は考えたのだった。

 

「しかし、こんな所で徳川を監視せよとは、太閤殿下もよほど家康公が怖いとみえますな」

「うむ、それだけ、関白様は日本全国の隅々まで目を光らせておるという事だろう。折角、信長公も出来なかった天下泰平の世になろうとしているのだから、我々は殿下の言いつけを守るまでだ」

「しかし、殿はこの松本をどの様に変えるおつもりですか? わしには何から手をつけてよいか皆目、見当がつきませんぞ」

「それは、これからじっくり考えていく事だ。だが、松本の様子はだいぶ分かってきた。又左衛門、よいか、わしはこの本丸に立派で堅固な五重の天守閣を建て、賑やかな城下町を造ってみせるぞ。楽しみにしておれ、あははっ」

 自慢の髭をピンとさせ、数正の眼にはすでに、この松本にそびえ立つ雄大な城郭が拡がっていた。

家老・天野又左衛門、筆頭家老渡辺金内、伴三左衛門など家臣にとって、屈託のない数正の笑顔を見るのは何年振りであろうか。岡崎からの出奔以来五年という月日が流れたが、久しぶりに心が和む一刻だった。

 

 その日は城下の旅籠に泊まった。翌朝、この旅籠に豪族のひとり、二木何某という者が数正を訪ねてきた。家臣がこの男の素性を聞くと、小笠原家とは古くから誼があり、大阪から数正一行が松本に来たことを知り挨拶に来たという事であった。

 

「二木殿と申されたが、わしにどの様な用件で参られたのじゃ?」

数正が訊ねると、男は顔を上げた。歳は四十代半ば過ぎ、やや頬がこけた精悍な顔つきをした武士であった。

「はっ、それがしは、小笠原家家臣・二木重吉と申す者です。長年、長時様と貞慶様に仕えておりました。しかし、誠に無念ながら、主君貞慶様が改易となられ拙者もお供致すつもりでしたが、殿は、拙者にこの松本城を守れと申され、今までそれに従い留守居役を務めて参りました。しかし、ご覧の通り今は空城で君主もおらず荒れる一方でございます。尽きましては、幸松丸様を大阪にお連れした石川伯耆守様が、もしや貞慶様か幸松丸様の居所をご存じあらば是非とも伺いとうございます」

「それを知って、貴殿はどうなさるつもりじゃ?」

「拙者も、改めて小笠原家にお仕えしたいと存じます」

「うむ、そうであったか。なかなか殊勝な心がけじゃ。幸松丸殿は太閤殿下より偏諱を賜り、今は小笠原秀政と申される。すでに家督も相続し小笠原家の当主になられておる。しかも太閤殿下の仲介で家康殿の孫娘登久姫を娶られた。ところが、貞慶殿の改易に伴って、今は家康殿の臣下となっておる。わしが知るところでは、下総国古河に三万石を与えられたと聞く。父上の貞慶殿も隠居され、そこにおられるのではないかのう」

「そうでございましたか。そこまでお教え頂き誠にかたじけない。では、拙者も下総へ訪ねてみることにしたいと存じます」

「うむ、そうなさるがよい。そちの様な家臣を持って、秀政殿も喜ばれることじゃろう。ところで二木殿、わしからも訊ねたい事があるのだが、聞いてはくれまいか?」

「はっ、それがしに分かる事ならば何なりとお申し付けください」

「実は、わしは太閤殿下の命により河内国からこの地に国替えとなったのだ。つまり、この松本城を新たに立て直し、城下町を更に拡張し豊臣家の重要な拠点にせよと言い付かって参ったのじゃ。そこで、長年この土地に住み小笠原家の家臣であったというお主に訊ねたいのだが、この筑摩や安曇のことを詳しく教えて欲しいのだ」

「なるほど、そういう事でございましたか。承知致しました。拙者は、この先下総へ参る身でございます。石川様が今後、この松本を栄えた城下町になさるのでしたら、喜んでお力添え致します」

「そうか、それは有難い。では、早速だが、この筑摩・安曇の詳細がわかる絵図が欲しいのじゃ。併せてこの城の普請図も見たいのだが用意出来そうかの?」

「はい、城の普請図面や土地の絵図は城中の書物部屋にございます。しばらく、こちらでお待ち頂ければ 城に戻り絵図を取り揃えて参ります」

「いやあ、実に助かりますなあ。これで我々が測量する手間が省け、詳細な地形がわかるという事だ」

と渡辺金内は嬉しそうに言った。

 

暫くすると、手に持ち切れないほどの書類を運んできた。そこにはこの城を建築する際の普請図(設計図面)や城下町の形成が一目でわかる絵図があった。これは武田信玄が基礎となる城下町を造った町割りを更に小笠原貞慶が拡張し細分化したものであった。また、この地の川や山の位置を絵図にした 図面も何枚か揃っていた。

「うむ、これだけの絵図があれば、城や街づくりの目論見も出来るというものだ。有難い。二木殿、厚く礼を申すぞ」

 

          武田氏時代の深志城(のちの松本城)の想像図