まつもと物語 その17

   城下町

 

 数正達は、ひと通り下見が済むと一旦大阪に戻り、城造りの計画と準備に取り掛かった。この城は、徳川に対する包囲網のひとつであるが、秀吉の大阪城に倣って権威と実戦に備えた雄大な築城計画を進めた。

 そして、秀吉の許しを得ると建築資金の援助を受け、秀吉のお墨付きで城郭・神社仏閣を専門とする  堂宮大工を奈良や京都、堺から松本に派遣される事が決まり、石工、瓦師、土木工なども各地から集め 多くの職人を確保することが出来た。また、城郭の細工用金物、三州瓦の調達や運搬の協力も得ることが出来た。加えて、地元の大工、人足、資材確保の準備も万全でなくてはならない。これについては長男の康長を中心に家老らが事前に地元の職人に協力を命じた。

 肝心の城および城下町の設計は、これまで安土城大阪城聚楽第など数多くの城を見てきた数正を中心に行なわれ、城郭の設計師永井工匠と共に構想も固まってきた。

 

 大阪を離れる前日、数正は重臣たちを屋敷に呼び寄せた。

「皆の者、いよいよ明日は信濃松本へ向かう日となった。新しい土地に行くにあたり、その方らの気持ちも様々であろう。松本に着けば、すぐにでも新しい城造りと城下町の整備に取掛らねばならぬ。当面は休らう日もないと心得よ。しかしこれから行く松本は実に素晴らしい土地である。なぜなら、地相が理に適っているからである。又左衛門、お主は四神相応を存じておるか?」

「はっ、確か中国・唐の時代より伝わる四神で平安京平城京が四神相応に守られた都と聞いております」

「うむ、その通りじゃ。実は我々が向かう松本も京と同じ四神相応の土地である事がわかった」

 数正はそう言うと、家臣の前に松本の絵図を広げてみせた。

四神とは、東の青龍・西の白虎・南の朱雀・北の玄武を指し、奈良の明日香村から出土したキトラ古墳の壁画で知られている。四神相応とは、この四方の神々に相応した最も貴い地相を示したものであり、東に 流水のあるのを青龍、西に大道のあるのを白虎、正面の南には窪地のあるのを朱雀、後方の北には丘陵を置いてそれを玄武としている。

「よいか、これが城の位置だ。皆の者この絵図をよく見るがよい。まず、

東の流水を示す青龍としては、近くに女鳥羽川、遠くは薄川の流れがある。

西の大道を示す白虎は、千国街道や野麦街道があり、奈良井川梓川の舟運にも当てはまる。

南の朱雀の窪地には、薄川と田川の合流点から西に広がる低湿地帯がある。

北の丘陵の玄武には、放光寺山・芥子坊主山から伊深山に連なる山々がある。

 

「どうじゃ、松本のこの地は北に高く、南に低く、南北に長く、東・南・西に流水がある所で、紛れもなく四神相応で守られている。これで安心して城造りが出来るというものじゃ」

すると、天野又左衛門が誇らしげに言った。

「その四神の中央に竜を加えたものが「五神」というそうじゃ。さしずめ、中央の竜は殿のことですな」

「とおっしゃると、竜にタヌキを見張るようにと、猿が命じたというわけですね」

「ばか者、たわけた事を言うものではない!」

又左衛門は周りを気にしながら、伴三左衛門を叱った。

 

 天正18年(1590年)八月、石川家の者はこぞって新天地の信濃国松本にやってきた。数正の妻と長男・康長はもちろん、かつて於義丸(結城秀康)に随行した次男の勝千代(康勝)や秀吉に馬廻衆として仕えていた三男・半三郎(康次)も秀吉の許しを得て一緒だった。

 

 数正が松本城主として最初に行なった事は、領地経営の見直しである。戦国時代、領主となった大名は自国の防衛と徴兵、租税の徴収、そして領国の拡大が主な仕事だった。しかし、数正は秀吉から筑摩郡と安曇郡を領地として与えられると、築城の前にまず、領民からの信頼と支持を集める事を考えた。

 農民や地侍の信頼を得ることも大事だが、最も重要な存在である神社寺院の支持をなくして安定した治政を出来る領主はあり得なかった。秀吉の刀狩令により寺社の武器勢力は無くなったが、領民の心を大きく動かす影響力は絶大であり、その神社寺院の協力により数正は領民の人心を掌握しようとした。その他に新田開発、治水、殖産興業、治安維持にも取り組みに力を入れた。

 

 一方、領民や寺院の僧侶たちは、領主が変わりそれまでの土地の所有権や年貢高(石高)の上限が、一切白紙になる事を恐れた。これに対し数正は寺院の境内に寺を安堵(安全の保障)するための禁令を書いた制札(立札)を掲げた。禁令とは寺の中で殺生・乱暴・強奪を禁止するお布令(ふれい)の事で、この制札を与えることで寺院の権利が守られた。以前の領主だった武田信玄小笠原貞慶もこの制札を各寺に掲げ、人心を得ている。

 数正も着任早々、積極的に各地寺院や農地の検分や寺社への寄進や安堵を行ない正麟寺(蟻ケ崎)や長興寺(塩尻洗馬)、大澤寺(大町)にも禁令の制札を掲げた。

 

 そんな折、松本に赴任して一カ月もたたない八月末頃、数正の仮屋敷をひとりの僧侶が数人の伴を従い訪ねてきた。門前で家臣が用件を伺うと、

「拙僧は真言宗を宗派とする兎川寺(とせんじ)の住職でございます。御所様へ是非とも願いたき事あり、どうかお目通り願いませぬか?」

と面会を申し出た。僧侶たちが客間に通されると、やがて数正が入り上座に座った。

「そちが兎川寺の住職か。貴院は小笠原家の菩提寺と聞いておるがそれは真でござるか?」

「いかにも、その通りでございます。当寺は聖徳太子様が飛鳥寺を建立した時代に創建されたと先代住職から聞いております。宗派は真言宗智山派でございます。小笠原家に於きましては代々菩提寺として毎年法要を執り行なって参りました」

「うむ、なかなか由緒ある寺院と見受けられる。して、わしに願いとはどの様な事じゃ?」

「はい、実は当寺には永年僧侶たちが修行する屋敷を数多く所有しており、小笠原様からも安堵(保障)されておりました。しかし真言宗善通寺派の西明院が昔から当寺を自分たちのものだと言いがかりをつけてきたのでございます。先般、残念ながら小笠原貞慶公が改易されたことをきっかけに再び西明院が訴えてきたのです。どうか御所様のお力をお借りして以前同様、この兎川寺に制札を掲げ、安堵願いたく参りました」

と、話終わると僧侶たちは一斉に深く頭を下げた。

「うむ、話の内容はよくわかった。当方でもよく吟味しその方らの望みが叶うよう取り計うとしよう」

「はい、何卒、宜しくお願い申し上げます」

 

 この数カ月後、数正は経緯を調べ兎川寺に修行の屋敷十一房と石高を保障し「安堵状」を発布した。

この安堵状は現在も里山辺の兎川寺に所蔵されており、境内には石川数正公夫婦の供養塔も建てられている。

 

 十一月に入り、数正と家老・天野又左衛門は馬で領地の検分をひと通り済ませた。

「殿、そろそろ、日が落ちる頃合いですな。少し、先を急ぎましょう。それにしても兎川寺も制札を掲げるだけで、僧侶たちは安心した様子でしたな。所領の年貢高もほぼ定まって参りましたし明日からは、いよいよ築城の準備に取掛りましょうぞ」

「うむ、そうじゃのう。だが、わしはもう一軒行きたいところがある。島立の正行寺という寺じゃ」

「正行寺とはどのような寺でございましょうか?」

「宗派は浄土真宗と聞いた。そちも存じておろうが、わが石川家は元々浄土真宗一向宗)だ。三河一向一揆の際、父・康正は一向宗側となったが、わしは家康公に付き宗派も浄土宗としてきた。だが、わしは本来の浄土真宗の寺をわが石川家の菩提寺にしたいのだ。正行寺こそわしが探していた寺であり、その寺を城下町に移したいと考えている」

「なるほど、それはご尤もです。その寺普請も計画に取り込みましょう」

 

 その後、数正は島内南栗にあった正行寺を松本城下の女鳥羽川沿いに移した。そしてその正行寺を石川家の菩提寺とした。この寺は現在下横田町にあり、住職が石川数正公の法要を今も毎年続けている。

 数正は、松本城の築城を手掛ける前に、近世風の街づくりを重要視した。それは城が出来ても、そこに住む領民が安心して住み続け、豊かで賑わう城下町が出来なければ、やがて城も寂びれてしまうと考えたからだ。

 そこで数正が考えた城下町の構想は、現状、無差別に建てられた粗末な建物を一旦更地にし、町通りを京都の様に碁盤の目の様にすることだった。城の周りに武士を住ませ、南と東側にはなるべく多くの町人が住めるように道路に接する間口を狭くして細長い短冊型の区画割りにした。

 具体的には女鳥羽川を境に以北(大名町、柳町、田町)に城を囲むように侍屋敷を建て、川の南(本町、伊勢町、中町、東町)には町人の住居とした。

 

 次に道路づくりである。この松本は街道が交差する要の土地である。善光寺街道千国街道、野麦街道、甲州街道中山道の集結点であり、人の動き、物流、情報伝達など道路整備は重要であった。中でも城の 真南に薄川から女鳥羽川まで一直線に大通りを造った。これが現在も名を残す善光寺街道である。

 そして女鳥羽川の手前を右に折れた道が中町通り、更に城の東側を迂回する様に北へ続いている。この善光寺街道の両側を町人地とし、さまざまな相手と商いをしたり、旅人の旅籠をつくり商業地として豊かな街づくりを目指したのであった。同様に野麦街道から城下町の西の入り口であった伊勢町通りの両側も町人地とし、職人や商人の住居とした。

 更に東側にはいくつもの神社・寺院を築造した。武士にとって治政や戦の勝利を祈願する拝殿は必須で あり、またその土地に暮らす人々の心の拠り所とする重要な建物である。

 因みに、歴代松本藩主もたくさんの寺院を城下に造営している。町の四方の出入り口には、守り神として閻魔が指揮する十王堂(地蔵堂)を置いている。城の守護神として鬼門(東北)に宮村神社、裏鬼門(南西)には浄林寺を配し、小笠原氏は城の南に鎮守・産土(うぶすな)神(かみ)として深志神社(宮村神社)を崇拝した。現代も天神様と呼ばれ松本市民に親しまれている。

 

 そもそも、城とは敵対する者どうしが戦うことを前提にして造るものであるが、数正はいかに大阪の様な賑やかで豊かな城下町にするかを考えていた。多くの街道が交わるこの地は物流の利便性から交易が盛んとなり、自然と人が集まるようになる。人口が増えれば商工業が発展し、経済活動が活発となる。

 つまり、大阪の様に商人に自由に商いをさせ、租税から財源を増やす事が、結果的に豊かで強い国造りに繋がると思ったからだ。これがその後の松本を信州一の商都として発展させる礎となった。

 

 この様に数正は築城の前に、領民の心の拠り所となる神社寺院を安堵させるとともに領地農民の税負担の不均衡を是正し、町人には商いを活発にさせる。これにより数正は徐々に念願だった民からの心服を得ることが出来てきたのだった。

 

 天正19年(1591年)三月、いよいよ城造りである。

 大阪から伴なった家臣や職人たちは、優に数百人を超え、更に事前に手配しておいた地元の職人や人足たちも集められた。それらを縄張(設計)、普請(土工)、作事(木造建築)の三部門に分け作業に当たらせた。完成までの工期は約三年を見込んだ。その為、まずは家臣や職人たちの仮屋敷と転居させた町人の仮小屋を造ることから始めた。住居がなければ最低限の生活が出来ないからだ。

 

 構造物を造る最初の作業は縄張りである。縄張りとは、設計図に伴ない建設地に縄と杭で住居地、道路、城の配置を決めることである。作業は順調に滑り出したかと思われた。

 しかし、設計師の永井工匠が測量を兼ね城の周囲をひと通り見て回ると、普請図を見ながら渋い表情で数正に言った。

「殿、残念ながらこの本丸に計画図通りの天守と本丸御殿を建てるには難がございます。以前、二木氏より頂いた普請図の面積と現状ではかなり相違がございます。このままでは、殿の描く建物は入りきれませぬ」

「なに、では実際の面積は普請図より狭いという事か?」

「正確なところは、再度、測量しなければなりませんが南北凡そ十間(約20m)は足りないと思われます。おそらく、造成の途中で何らかの理由により普請図より小さくなったのではと考えます」

「・・・」

「更に、この場所は女鳥羽川と薄川の複合扇状地と申しまして、一見平らの様に見えますが、城の北側より南と西に傾斜しており、堀の水を一定の高さに保つためには何らかの方法で水位を調整する必要がございます。もうひとつの懸念は地盤の強度に不安があり、重量のある天守を建てるには、その重さに耐えるだけの天守台(基礎・土台)を造ることが必要となります」

「うむ、なかなか難題が多そうだな。して、どうすればよいのかお主の考えはどうなのだ」

「はい、既存の建物をすべて壊し、堀を埋め、一旦更地にしてから新たに造り直すことが必要かと存じます」

「元々、建物は解体更地にするつもりでいたが、堀まで作り直さねばならぬのか?」

「そうしなければ、殿がお考えになった城と城下町は出来かねます。いっその事、城の北側の湿地帯にすべて埋め土をして、城と堀の位置を北側に広く造ることが最善策と思われます」

 数正はやむを得ず、この永井工匠の意見を取り入れ、深志城のあった位置より北側に広げ、当初の計画より大規模な造成工事から始める事となった。高低差は実測すると城の北と南では四間(約7m)もあり全体的に平らにするには大量の埋め土が必要となった。

 そして堀の水位を一定にするため、各所に水門を設け水位を調整する方法をとった。幸いにもこの城の敷地は扇状地の先端部分であり、その地下に流れる伏水流(地下水)の湧水により堀の水を絶やすことがなく、飲料用の井戸水も充分確保が出来た。

 また、三重の堀の一番外側になる総堀の水も湧水で満たし、溢れた水を女鳥羽川へ放流するため連結した。この総堀には四ケ所の馬出と南の大手門は枡形にした。この馬出とは武田軍の堀の出入口を真似た もので敵が侵入した際、三方より弓や鉄砲で攻撃できる場所でもある。

新たに造成したことで、以前の堀より深くし掘り起こした土で土塁を3mの高さに築き上げた。堀の幅も広くし特に内堀の幅は60mを目安とした。なぜなら、その当時の鉄砲の射程距離はそれが限度で、敵の攻撃から守る効果があったからだ。

 もうひとつ、総堀の中に敵を食い止める工夫を施した。それは、堀の中に先端を鋭く尖らせた杭を仕込み堀の中を渡って来る敵兵を防ぐ仕掛けもしたのだ。その数は全部で十万本という途轍もない本数に及んだ。

 新しい城は従来の深志城から北側を広く整地することから始めたので、数正はそれまで本丸があった場所に家族の住居として屋敷を造った。間取りは三十部屋に加え中央に中庭をつくり、秀吉に倣って数寄屋風の茶室もつくった。後にこの屋敷を『古山地御殿』と呼ばれ、現在旧博物館の敷地にその跡が見られる。

 

 こうして、新たな城下町づくりを進め約一年が経過し、いよいよ天守の築城に取掛る段階となった。ところがである、日本国内の統一を成し遂げた秀吉が、次なる野望を打ち出してきたのである。

 それは大陸の明国までも自分の支配下に置き、東アジアのすべてを我が物にしようとする滑稽かつ大胆で空想的野望であった。その足掛かりとして、まずは朝鮮を味方につけ手引きさせようとする魂胆である。

 この狂った野望を秀吉は家臣を集め皆に言い放ったのだが、これを諫める者は誰もいなかったのだ。当然、心の内は誰しもが反対であるが、それを口にすることすら出来なかった。完全に独裁政権である。唯一それを諫言できる人物の家康は、決定した日からだいぶ後になって知らされ、侵攻反対を主張したものの、その時にはもう家康ですら止めることは出来なかったのである。

 

 天正19年七月、松本で城造りの途中であった石川数正も秀吉に呼ばれ大阪に赴いた。この頃、秀吉は朝鮮出兵の基地として肥前国佐賀県)に名護屋城を築城中であり完成までの間、数正を秀吉の「お伽衆」のひとりとして京都に滞在させていた。お伽衆とは読み書きの出来ない秀吉に対し、家庭教師のように書物の講釈や自己の経験談など話相手になる者たちの事である。

 そして、同年八月頃、名護屋城が完成すると数正も肥前へ向かったのである。また、息子の長康や康勝も工事を残し名護屋城へ向かった。数正は肥前に居ても松本城の事が気がかりとなり、家臣の普請見回り役・松林右橘に常に状況を報告させていた。

 

天正20年(文禄元年)の四月、遂に朝鮮出兵文禄の役)が始まった。総大将は唯一この戦いに賛成した宇喜多秀家が務め、一番隊を小西行長、二番隊を加藤清正、三番隊を黒田長政など、続々と朝鮮に送り込んだのであった。

 数正は、十五番衆の命を受けたが、年の瀬になって長年の心労が祟ったのか体調を崩し、念願だった松本城を目にすることなく、遠い地で生涯を閉じたのであった。享年六十歳。遺体は京都七条河原に運ばれ、そこで葬儀が行なわれた。墓石は愛知県岡崎の本宗寺にあるが、菩提寺は松本下横田町の正行寺にあり、里山辺の兎川寺にも数正夫婦供養塔がある。

      松本市兎川寺(とせんじ)境内にある石川数正夫婦供養塔