まつもと物語 その15

             葉守りの神

 

 話が終わると、清水先生は目の前の麦茶を一気に飲み干し、ふっと息をついた。

「どうだい、石川数正は自ら裏切り者となって、家康と秀吉という偉大なふたりの仲を取り持ったというわけだ。凄い人物だとは思わないかい?」

「はい、石川数正という人物は単なる裏切り者ではないということが、先生の話でよくわかりました」

 田岡も長い時間、先生の話を夢中で聞いていたので、話が終わると身体を少しほぐしながら答えた。

「田岡君、だが、この石川数正が秀吉の元へ出奔した理由は、今も歴史家たちの間では謎とされていて本当のところは分からないんだ。数正の私利私欲で裏切ったと言うのは無さそうだけれどね。

 いくつか説があるのだが、代表的なのは三つくらいかな。ひとつは、秀吉の巧妙な口説きにより心変わりをさせた説。実際、他の大名の家臣を巧みに口説き寝返りさせた例はいくつもある様だ。二つ目は、秀吉の巨大化した勢力から徳川家を守るため、数正が家康に危機感を煽(あお)って出奔したという説。そして、三つめが、内密に家康が数正に大阪の情勢を探るため懐へ飛び込ませたというスパイ説。

 こうやって色々推理するのも面白いよね。他にも朝日姫がどういう背景で家康へ嫁いだかという謎もあるんだ」

「先生、そう言えば、テレビドラマ劇の中で家康と政略結婚させるために、秀吉は、すでに結婚している妹を夫と無理やり離婚させて、その夫が自殺したので朝日姫が悲しんでいる場面を見たことがあります」

「確かに、ドラマや小説には、朝日姫は夫の佐治日向守と離婚させられるストーリーになっているけれど、どうもそれは江戸時代中期の創られた物語らしいよ。本当は、秀吉の家臣で副田吉成という人が前夫なんだが、家康と結婚する時は、信長を守れなかった責任を取らされ、すでに離婚していたらしい。歴史というのは、事実とは異なり後世の人が書いた物語が大衆の人に読まれ広まっていくうちに、いつのまにか史実 のようになっていく事が多いんだ。どれが創作でどれが真実か探っていくのも歴史の面白さなんだよ」

「へえ、そうなんですね。だから、清水先生は歴史がお好きなんですね。僕もさっきまでは、猿飛佐助が実在の忍者だと思っていました」

「そうだね。娯楽としては、その方が面白くて一般大衆にも受けるから本も売れるしね。ははっ」

「そうかもしれませんね」

「そもそも、戦いに勝った方の書物にはその経緯を正当化させたり、武将たちも英雄として描かれるのだが、負けた方の書物は焼かれたり、建築物も殆ど破壊され、なるべく後世に残さない様にしている。特に徳川幕府になってから、そういった傾向が強くなっていたようだね。だから真実を探求する歴史家たちは苦労しているらしいよ。博物館の福島君も学芸員として苦労しながら研究しているんじゃないかなあ」

「そう言えば、福島さんにこの前お渡しした古文書はどうなったのでしょうね」

「そうだな、福島君はあれを見てかなり興味深そうだったからな。そろそろ、どうなったか聞いてみよう。田岡君、時間があったら、また訪ねてみたらどうかね」

「はい、そうしてみます」

 すると、奥さんが部屋の前で声をかけた。

「あなた、そうめんを用意しましたから、田岡さんにも召し上がる様におっしゃって下さい」

「ああ、そうだな。田岡君も食べていきなよ。そうだ、機会があったら大久保長安の話をまた今度しよう」

「はい。ありがとうございます。じゃあご馳走になります」

 

 昼に近づくと、益々気温が上がってきたが、庭には柏の木があり、その大きな葉が、いい具合に日陰をつくっており暑い日差しを防いでいた。よくみると、いくつかの葉の裏には蝉の抜け殻が付いていた。

 柏というのは家族の繁栄を象徴する木、あるいは「葉守りの神」が宿る縁起の良い木として、庭木として植えている家が多かった。

 

 

     台風災害  

 

 それから何日か過ぎ、八月に入ると更に暑い日が続いた。田岡は新しい市役所での仕事もだいぶ慣れてきた。何より嬉しいのは、この新庁舎が冷暖房の空調設備を備えていることである。この時代、都市部のビル建設ラッシュに伴い空調設備の技術が高まり、松本市役所も例外ではなかった。しかし、一歩外に出ると田岡は夏の熱気に当てられ、毎日ワイシャツの下は汗まみれだった。

 

 それにくらべ弟の健は夏休みをしっかり楽しんでいる。夕方になると、額に水玉模様の手拭いを鉢巻きにして青い法被を着る。そして提灯のろうそくに灯をともし、近所の公民館に集合する。夏の風物詩でもあり松本の行事である「青山様」だ。杉の葉を乗せた神輿を担ぐのだが、主に五年生と六年生が担ぎ手となるので、三年生の健はなかなか担がせてはくれない。だからいつも不満顔だった。

「青山様だい わっしょいこらしょ 青山様だい わっしょいこらしょ 塩まいておくれ」

と子供たちは、声をそろえて歌を唄いながら町内を練り歩き、各家庭からお賽銭を頂く。

 

 この男の子が行なう青山様に対し、女の子は「ぼんぼん」である。紙で作った大きな花を頭に飾り、可愛い浴衣を着て赤い帯をたすき掛けする。手には、ほおずき提灯を棒の先にぶら下げ、ぽっくり下駄を履き、列をつくって町内を練り歩く。

 

  ぼんぼんとても きょう明日ばかり

  あさってはお嫁の しおれ草

  しおれた草を やぐらにのせて

  下からお見れば ボタンの花

  ボタンの花は 散っても咲くが

  なさけのお花は いまばかり

  情けのお花  ホイホイ

 

 哀愁のこもった唄をやさしい声で歌うのが、とても情緒のある風景であった。

この青山さまとぼんぼんは、江戸時代末期から明治時代にかけて、松本・城下町の親町三町である本町・中町・東町を中心に始まったといわれる貴重な行事であり、平成四年に松本市重要無形民俗文化財に指定されている。

 

 そして、お盆休みの8月14日、朝方である。ラジオやテレビで台風が接近しているという警戒警報が流されていた。

安夫は外の雨風が相当強かったが、いつも位の台風が来たかという程度しか思っていなかった。ところが、時間が経つに連れ、雨風は増々狂ったように強くなり徐々に不安を感じる様になった。念のため家の周囲で風に飛ばされそうな物はすべて物置にしまい、雨戸も締めてあった。その雨戸が強風で物凄い音で揺れ、まるで地震の様でもあった。   横殴りの雨はシャワーの様に道路を叩いている。八時を過ぎた頃であろうか、家のそばで吃驚する様な地響きが鳴った。何か大きな建物が倒れた様だった。そっと窓から覗くと、隣の 古い家屋の土壁が崩れ落ちていた。家の者が大声で何か叫んでいる。

家族全員で、二階に非難していたが、その声を聞いた安夫は、

「お義父さん、助けに行った方が良くないですか?」

「いや、今外に出るのはかえって危険だ。へたに動くと却って大怪我をするかもしれない。もう少し、風が弱まるまで待とう」

安夫はヤキモキしながら、窓から隣を見た。隣の家族も危険を感じたのか家の中に引き籠っている様子だった。

 

 安夫の家は比較的まだ新しいが、あっちこっちでギシギシと軋むような音が鳴り響いていた。安夫と義父は時々外を確認しては不安な表情を見せている。健は母の背中にしっかり抱きついて動かない。

それでも、一時間ぐらい経っただろうか。少し風が弱くなってきた。もう一度道路を見ると、もうそこは道路ではなくなっていた。濁流に木片とかバケツとか色々なものが流れており、完全に河川状態だった。

「ちょっと、一階へ降りて様子を見てくる。皆はここに居なさい」

と義父が階段を降りかけた。すると大きな声で、

「たいへんだ! 家の中まで水が流れてきている。安夫、ちょっと手伝ってくれ!」

 玄関は式台まで完全に浸水しており、もう少しで玄関框から水が溢れ床上まで届きそうな状態だった。

「安夫、タオルか手拭いをありったけ持ってきてくれ。母さん! ちょっと降りてきて手伝ってくれ。健は降りてきてはいけない。そこに居なさい」

「お義父さん、手拭いとタオルを持ってきた。それからバケツも持ってきたよ」

「よし、じゃあ、そのバケツで玄関の水を汲みだして風呂場にでも流してくれ。俺は、玄関戸の下にこれを詰め込み水の侵入を抑えるから。あっ、母さんもっとタオルとバケツあったら持ってきてくれ!」

 皆、必死で床の上に水が上がってこない様に水を掻きだした。玄関戸の隙間をしっかり塞いだせいか、水の侵入も弱くなった。

昼過ぎになると台風は過ぎ去ったらしく、雨も止んだが、ネズミ色の雲の流れが異常に早かった。

しかし、外の水はなかなか引けなかった。安夫は、窓を開け大きな声で隣家の老夫婦に声を掛けた。

「大丈夫ですか! ケガはないですか!」

すると、隣の家に住んでいるお爺さんが情けない顔を出した。

「ああ、何とか大丈夫だ、ありがとう。だが、家の中まで水浸しで困っとる。まあ、水が引けるまで待つしかないか」

 

 確かに道路の水は、今の状態ではどうにもならなかった。

安夫の家の近くに大門沢川という河川が流れている。市内北部の岡田地籍を源に三か所から集まり開智で合流し城西を経由して奈良井川に流れ込む川である。普段は川幅が3ⅿくらいで子供が水遊び出来るおとなしい浅瀬の川である。その川が氾濫したのである。

 

 数日後、道路の水は何とか引けたが、残った泥の山が皆を悩ませた。とりあえず、スコップで道路の端に寄せるしかなかった。どこから流れて来たかわからないが、住宅の木材、トタン板、樹木の根や枝などもあふれており、どこから手を付けたらよいやら完全にお手上げ状態である。悪臭も酷かった。市内の下水工事が始まったばかりで、まだ殆どの家が汲み取り式便所だったため、糞尿も泥水に混ざっていた。

 その日は土曜日で、翌日にかけて、町内の人たちは皆協力し合い道路の泥と瓦礫(がれき)類を片づけた。幸いにも水道の水は問題がなく、蛇口にホースをつなぎ家の周りの泥を洗い流すことが出来た。その二日間で、とりあえず道路は人が歩ける状態にはなった。しかし、道路脇にはまだ泥と瓦礫が山となって残っていた。

 安夫も泥だらけになった自転車を水で洗い流し明日からの通勤に備えた。

 

 月曜日になると、安夫は家を早めに出て、市役所に向かった。途中の道はどこも泥と瓦礫が散乱しており、改めて今回の台風の凄さに驚き、街全体は災害のあとの傷ましい傷跡を残していた。

 この台風七号は、14日の朝6時半頃、静岡県駿河湾に上陸し、甲府市松本市長野市を通過し、時速60㎞の猛スピードで10時過ぎに日本海へ抜けた。この台風の被害は、死者・行方不明234名、負傷者1528名、住家全半壊約1万4千棟、床上下浸水約15万棟と日本における台風の歴史上、記録的な被害となった。

 松本盆地は、山に囲まれているせいか例年台風の直撃は殆どなく、今回の様に中部地方を横断し松本を直(じか)に通過するのは極めて稀なケースだった。

 だがしかし、この昭和34年の台風被害はこれで終わらなかった。むしろ前哨戦とでもいうべきか、この後、更に大きな台風が襲ってきたのである。

 9月26日、台風15号いわゆる「伊勢湾台風」である。

まだ、前回の台風被害が癒えていない上に更なる超大型台風が日本を襲った。今度の犠牲者は死者5千人、負傷者3万人以上、家屋全半壊約15万棟、床上下浸水約16万棟と、明治以降の日本における台風災害史上最悪の大惨事となった。

 最大被災地は愛知県と三重県で、二県合わせて4千6百人の死者を出している。

伊勢湾台風は26日の18時に和歌山県潮岬に上陸し、紀伊半島を縦断し岐阜、富山から一旦は 日本海へ抜け、カーブするように27日に秋田、青森へ再上陸した。長野県はルートから少し逸れていたが、暴風雨の影響は、前回の台風七号と同様、松本市にも大きな被害を及ぼした。特に女鳥羽川が前回以上に決壊が激しく、中町通りも完全に泥水の河川化となった。床上浸水も多く水の深さは大人の膝上まで達していた。

 

 この、二度にわたる大型台風の被災地を救済してくれたのは、松本駐屯地の陸上自衛隊の活躍だった。負傷者の救助、食料運搬、道路の泥と瓦礫の片づけなど、多くの市民を助けてくれたのだった。また、この大きな被害を教訓に防災意識が高まり、各地で川の改修工事が行われた。女鳥羽川も今回の氾濫で土手が大きく崩れたため、その改修工事として、川幅を拡幅し強度のある間知ブロックを積み重ね、高さも確保した。また、川沿いにあった旧開智小学校も、この年に移転する事を決定したのである。

 

 田岡が市役所に着いた時には、窓口に大勢の松本市民が押し寄せていた。もちろん、台風後の相談や苦情を持ち込んだ人ばかりであった。その多くは道路の泥や瓦礫の山を早く片付けて欲しいといった内容が殆どである。市役所としては自衛隊だけに後片付けを任せるつもりはない。重機や大型ダンプを所有する建築会社や清掃業者の協力を仰ぎ、各役所の職員も手伝い泥やゴミの撤去作業を行なった。田岡もその日から連日作業を手伝った。松本市民総出の作業が続いたのは言うまでもない。

 また、糞尿の混ざる汚水や残暑の高温による細菌やカビの繁殖に対し消毒作業も欠かせなかった。特に食中毒や感染症の恐れもあり、衛生面での気配りは最も重要であった。市としては、二次災害を何としてでも抑えたかったのだ。

 こうして、皆の必死の努力により、10月の中旬には、一般道路の人や車の通行に支障はなくなった。

川の水位も下がり、以前の穏やかな流れを取り戻した。何度か降った雨で道路の汚れもきれいに洗い流された。

 

 松本市としては、今回の糞尿被害を教訓に、市内の下水道計画をより早期に行き渡らせる様、市民に訴えた。すでに8月には汚水処理場として、宮淵浄化センターの供用開始し、それまでの汲み取り式から水洗化を拡大することが出来つつあった。

 もう一つの教訓は河川改修工事である。松本市内を流れる女鳥羽川、薄川、田川、大門沢川など氾濫対策として、川幅の拡幅、堤の高さ確保、橋の強化工事などの予算を大幅に取り入れた。こうして、昭和34年の災害の年をさかいに松本市は、日に日に住みやすい街づくりを具現化していった。

 

 市役所での田岡の本来の仕事は、松本城を中心とした観光都市にする事である。その為にも田岡自身、松本城や城下町の歴史をよく理解し、観光地として市内の環境を整え県内外にアピールすることである。

しかし、思わぬ二度にわたる台風被害による市内の被災地復興作業に田岡も手をとられ、観光振興課の仕事が後回しになった。

 

           伊勢湾台風後の 商店街の様子