まつもと物語 その14

 関白秀吉

 

 大阪城の屋根が晩秋の薄日に照らされ黄金色に輝いていた。入り組んだ城内を数正は複数の兵士に囲まれながら五重の天守へ導かれた。天守外壁は白の漆喰、腰板は黒い漆が塗られている。しかし、真っ先に目を奪われるのは、何といっても金色の装飾を設えた大きな破風である。他にも軒丸瓦や軒平瓦など、いたるところに金箔が施されていた。五階には外から囲む回廊が威圧的に下々を見下ろしている。絢爛豪華ではあるが、それは秀吉の「卑しい出」を徹底的に覆い隠すような金色でもあった。

 

 数正は大広間に通された。初めて目にしたわけではないが、今日の数正はことさら威圧感を感じた。両脇には羽柴秀長を始め、浅野長政片桐且元石田三成など大勢の重臣たちが整然と居並んでいる。正面の高座に秀吉が脇息にもたれ数正の顔をじろっと見た。以前に会った時に比べ、関白太政大臣という官職に就いた秀吉は、威厳に満ちた豪華すぎる衣装を身に纏い、更なる抑圧が前面に出ていた。

「石川殿、よくぞ参られた。いつかわしの元に呼びつけるつもりだったが、自ら出奔してくるとはわしも意外じゃわい」

「恐れ入ります。彦根城から護衛の方々に守られ、無事、大阪に入らせて頂き、誠にかたじけなく感謝申し上げます」

「いやいや、大義であったのう。奥方や康長殿も無事で何よりじゃ。しばらくは身体を休めるがよい。これからは石川殿もわしの元でおおいに働いてもらわにゃならんでのう」

 砕けた口調の秀吉に対し、数正は少し遜りすぎる姿勢でいたが、きりっと背筋を正すと、

「恐れながら、拙者は羽柴家の家臣にして頂きたく参ったのではなく、あくまで徳川家臣として、於義丸様、いや秀康様の世話役として参りました。関白様をお支え出来るよう秀康様を立派に育てあげる所存でございます」

「なに! まあよい。しかし、しばらくはわしの傍におれ。三河のことをたっぷりと聞かせてもらいたいからのう」

「はい、この度は手土産と致しまして、関白様のお望みのものをお持ち致しました」

「なに、わしの望んでいるものと申したか?」

「徳川家の軍法を書き記したものでございます」

「うむ、そのようなものをわしに見せるとは、石川殿は徳川の裏切り者にでもなったわけか?」

「はい、確かに裏切り者と言われて当然でございます。しかし、これは徳川家の滅亡を防ぐものと思い、持参いたしました」

「それはどういう意味じゃ?」

「これが、大阪方にわたれば、当然、家康殿は容易に攻める事も守る事も困難となりましょう。要するに関白様に抗う事を諦め、臣従することが徳川家の存続を維持することだと気づいて欲しいのです。私の望みは、徳川家の滅亡を防ぐことです。しかし、これは、関白様のお決めになる事。関白様の今の勢力をもってすれば、徳川家を破滅させることは容易いことであり、生かすも殺すも関白様のお心ひとつでござりましょう」

「なるほど、石川殿、敢えて聞くのじゃが、これは家康殿の指図で出奔して来たのではないだろうな?」

「関白様がそう思われるのでしたら、私を今すぐ追放するか、磔なり死罪をお申し付けください」

「わははっ、お主の心意気はわかった。では、わしもわしの本音を話してつかわそう。わしは徳川家を滅ぼそうなどと思ってはおらぬ。むしろ逆じゃ。わしはこれから、九州征伐にいくつもりじゃ。薩摩の島津をわしに従わせんといかんでなあ。その為にも家康殿には上洛してもらい、わしに代わって伊達や北条など関東・東北の睨みをきかせて欲しいのじゃ。

しかし、家康殿はなかなか大阪に来てくれんで困っとる。石川殿、なんとかいい知恵はないかのう」

「はっ、ならば、家康殿を安心させる手立てが必要かと‥」

「なに、わしの方から誰か人質を出せとでも申すのか? バカな、その様な事をわしがすると思うか。うむ、だがそれも一案だな、考えてみようかの」

 数正は、秀吉が本気で徳川家を滅ぼすつもりはなさそうだと聞かされ、少し安堵した。

「ただ、今一度、家康殿に大阪に上洛するよう督促してみては如何でしょう。拙者が関白様のもとに出奔したと知れば、当然軍法書が渡ったと考えるでしょう。さすれば、今、徳川軍は戦意喪失しているはず。この機会をもって再びご下命あれば、必ず大阪に足を運ばざる得ないと存じます」

 すると、数正に向かっての返事よりも、石田三成を呼び寄せすぐさま家康に手紙を届ける様に指示した。

「はっ、かしこまりました。すぐ、手配致しまする」

「しかし、それでも家康殿が来ない時は、わしも腹を決めぬといかんかも知れぬのう。そうであろう石川殿」

数正は、何も言わず頭を下げた。ただ、家康が上洛してくれることを願うしかなかった。

 居並ぶ重臣たちは黙って二人のやり取りを聞いていたが、石田三成だけは、数正に対し疑いの目で見続けていた。

数正もまた、三成の視線を感じ取っていたが、自分の出奔が家康の命令と匂わせるのも、秀吉の二の足を踏む効果的演出かもしれない。自分を信じるも、疑うも、数正にとってはどちらでもよいことであった。

 

 その日から、五日が過ぎた。しかし、相変わらず家康からは上洛する様子は全く見られなかった。

また、その間、信濃で上田攻めに加わっていた小笠原貞慶は、人質に出していた我が子・幸松丸も数正と共に秀吉の元へ行ったことを聞き、徳川支配下を離反し秀吉側へ寝返った。

とうとう、しびれを切らした秀吉は、

「家康め、わしからの手紙を無視しておる。何も返事を寄こさぬという事は、関白のわしの命令に従えぬということらしい。三成、九州へ行く前に三河を攻める。皆にそう伝えよ」

天正13年11月19日、秀吉は、家康成敗を発令した。このことは、すぐに家康の耳にも入った。また、上田の真田昌幸にも秀吉から通達はあったが、家康はすでに全軍を上田から引き上げさせており、岡崎で臨戦態勢を整えていた。いよいよ秀吉と家康の戦いが再び行われようとしていた。

 

 ところが、思いもよらぬ事態が発生したのである。

同年11月29日深夜、美濃・尾張・伊勢を震源マグニチュード8の巨大地震が発生したのである。実は、その二日前も越中・飛騨を震源とするマグニチュード7の地震があり、この連日の大地震中部地方がほぼ壊滅的な大災害に襲われたのであった。その後も余震はひと月あまり続いた。(天正の大地震

 この地震で、美濃大垣城が全壊、清須城が半壊、織田信雄の居る長島城も倒壊した。また、伊勢湾では大津波が発生し各地で地盤沈下も起き、琵琶湖の北部・長浜の集落も完全に水没してしまった。京都では三十三間堂の仏像が六百体も倒れ、全国で死者は無数出たのであった。 

そのため、秀吉が家康討伐のために準備していた兵糧倉が倒壊し、焼失したため、討伐どころではなくなり中止せざる得なかったのだった。

 

 三河の状態はというと、岡崎城も大きな被害を被っていた。酒井忠次に命じ改築を始めていた岡崎城も、まだ乾ききらない白壁はすべて剥げ落ち、積んだばかりの石垣は無残に崩れ落ちた。そして、北条父子との和睦も延期せざる得なかった。しかし、この地震により、秀吉からの攻撃は免れ幸運にも家康と三河の危機は過ぎ去り、最悪の事態は回避できたのだった。

 

 

    家康謁見

 

 年が明け、天正14年(1586年)一月も半ばを過ぎた頃、秀吉は次の行動をあれこれと思案していた。目的は、何としてでも家康を大阪に呼び出し臣下の礼をさせたかった事であり、その方策を考えていたのだった。

「石川殿、やはり家康は来ないではないか。昨年の地震さえなければ力づくでも押さえ込めたのだが、どうしたものかのう。石川殿、いったい家康はどうすれば、わしの臣下になってくれるのだ?」

「はっ、やはり家康殿が安心して大阪に来れる環境を作り出すほか無いと存じます」

「すると、やはり、こちらから人質を用意せねばならぬのか。しかし、わしには子供がおらん。養子ならばおるが、それでは動かんだろう。すると身内では弟の秀長か妹の朝日か、妻の寧々殿⁉ いかん、いかん、寧々は大事なわしの妻、そして秀長も出せん。わしが一番頼りにしている奴じゃ。すると、朝日か‥。じゃが朝日は前の夫・副田吉成をわしが本能寺で信長公を守れなかった責任として離縁させたから、わしを恨んでおる。その朝日に三河に人質に行けと言っても行くはずはないだろう。わしの言うことなど全く聞く耳を持たんでのう」

「関白様、家康殿は以前築山殿を亡くされて以来、今も正室を持たないでおります。ですから、朝日様を家康殿の正室として嫁ぐ様にお話なされたらいかがでしょう」

「なに、朝日を家康殿の正室にだと。しかし、朝日は今年で四十四だぞ。充分年増ではないか。その様な者を家康殿が迎えるであろうか」

「家康殿も今年で、確か四十五。年は釣り合っております。家康殿も関白様が大事な妹君を輿入れされると申し出れば、無碍にお断りなさらないはず。何卒、ご思慮なされてはいかがかと存じます」

「なるほど、家康へ朝日が嫁ぐことになれば、家康とわしは義兄弟となるわけだ。これは妙案かもしれぬなあ」

 

 その後、数正の献策を取り入れた秀吉は、何度も朝日への説得を試みた。当然、最初は受け入れなかった朝日も秀吉の粘り強い口説きで、とうとう説き伏せる事ができた。しかし、朝日の心中いかなものか推し測るに忍びなかった。

 朝日に同意を得ると秀吉は、同年2月22日、織田信雄の家臣・滝川雄利を使者として三河吉田に派遣し、酒井忠次を介して、家康を懐柔するための縁組を持ちかけた。戸惑った家康だったが、これを了承し大阪には榊原康政が代理として上洛して結納を交わすこととなった。

こうして、5月14日、朝日は家康に輿入れしたのだった。しかし、その後も家臣の激しい諫言もあって、それでも大阪に来ない家康に対し、秀吉は実の母親・大政所を朝日に会わせるという口実で一旦、三河に預けることにした。徳川方はこれを確かな人質と解釈し、そこまでする秀吉の実直さに心を動かされた家康は、ようやく重い腰をあげた。

 

 その頃、関白となった秀吉に正親町(おおぎまち)天皇から〈氏〉として「豊臣」を下賜された。その頃の〈氏〉は源・平・藤原・橘の四つしかなく、「豊臣」というのは天皇から特別に賜った異例の氏である。これを境に、羽柴秀吉を改め豊臣秀吉となったのである。

 

 朝日が家康に嫁いでから実に半年後の10月27日、家康は大阪城で秀吉に謁見することとなった。

実は、家康が登城するその前日、大和(奈良)の秀長の別邸で宿泊していた時のことである。

突然、秀吉が家康のもとに現れた。あまりの唐突な行動に小姓たちは吃驚し慌てたが、秀吉は人払いをすると、

「家康殿、よう参られた。ようやく大阪に足を運ぶことを決意頂き、誠にかたじけない。お主とは兄弟同士になったとはのう、いやはや、ついこの間までは考えられなかった。時の流れとは面白いものじゃ。家康殿、実は今日わしは胸襟を開いて話に参ったのじゃ。わしは関白・太政大臣の位を得たが、お主も知っての通り、下賤の生れが禍しわしをいまだに侮っている輩も少なくない。いままで、何人もの大名が上洛して、わしへの臣下を誓ってくれたのだが、果たして心から本当にわしに従っている者は幾人いるかわからない。

 わしが望んでおるこの国を統一して戦の無い泰平の世をつくれるかどうかは、すべて家康殿にかかっておる。そこで、折り入って家康殿に頼みたき事がある。明後日、大阪城に登城した際に、どうか皆の前で恭順の姿勢をとって欲しいのじゃ。他の者ならいざ知らず家康殿がわしにちょこっと頭を下げてくれるだけでいい。そうすれば、それを見た他の大名が、家康殿が臣従するなら、自分も従おうと思うはずじゃ。だから、頼む。演技でもよいのじゃ」

 

 家康も天下泰平の世をつくりたいという志は同じである。ならば、今はこの秀吉に任せ、いずれ自分がそれを引き継げばよいと、この時そう思うようになった。

「太閤殿下、承知致しました。関白太政大臣として、この国をみごと泰平の世になさるのなら、わしも喜んで臣下となりましょう」

「そ、そうか引き受けてくれるか。いやあ、有難い。これでわしもやっと安心できるわい」

「その代わり、大阪での正式対面で謁見する際、私に太閤殿下の陣羽織を下さりませんか?」

「なに、わしの陣羽織を‥ わかった。では、その時に家康殿に譲ることにしよう」

 

 家康は、三千人の兵を京に待機させ大阪城に入城した。伴は二人の小姓と四人の重臣そして数十人の家臣だけだった。取り巻く大阪方は皆、関白秀吉と義兄弟となった家康を丁重に迎えた。

 大広間に案内されると、そこには秀吉の家臣、豊臣秀長石田三成黒田長政らと共にこれから九州征伐に加わる大名が整然と並んでいた。その数ざっと百人を越えていた。

 正面高座には、金色を基調に赤や黄色の色彩豊かな菊を誂えた豪華な衣装に身を包んだ秀吉が満足そうな笑みを浮かべていた。先日の態度とは違い、大袈裟に威厳を前面に出していた。

「徳川殿、よくぞ参られた。遠方より足をお運び大義でござった。わしも徳川殿が来られる日を、首を長ごうしてお待ち致しておったぞ」

「はっ、本日は太閤殿下のご尊顔を拝し誠に恐悦至極に存じます。殿下への拝謁が遅くなりました事、深くお詫び申し上げます」

「よい、よい、徳川殿にも色々と事情がござろう。わしの妹・朝日が家康殿に輿入れさせて頂き不束な奴じゃが、どうか大事にしてやってもらいたいでのう。今後とも近しい親戚として豊臣家と徳川家の両家が強い絆で繋がって参ろうぞ」

「はい、それがしも全く同感でござりまする。今後とも末永くご厚誼を賜れば幸いと存じます」

それを聞いた秀吉は大きく頷いた。

「つきましては、太閤殿下、あなた様の後ろに飾ってある陣羽織を所望致したく、何卒それがしに譲って頂きとうございます」

「なに、陣羽織を欲しいと申すのか。いや、いかん。いくら家康殿でもそれは無理じゃ。これはわしの大切な戦場での目印じゃでのう」

「太閤殿下には、その陣羽織、もうご不要かと存じます。我々が殿下に代わり、どこへでも出陣致す覚悟。殿下にはもう身の危うい戦場など行って頂きたくございません」

すると、秀吉はすっと立ち上がり、そこに列座している家臣たちに向かい、

「皆の者、今の徳川殿のお言葉、聞いたであろう。徳川殿は、わしに二度と陣羽織を着せぬと申した。これからの戦はわしを煩わせるまでも無いとな。秀吉はよい妹婿を持ったぞ。それを聞いては譲らぬわけには参るまい。さあ、この陣羽織、喜んで、おことに進上致そうではないか」

 こうして、秀吉と家康は前もって打ち合わせをした通り、見事な演技を家臣の前で披露したのであった。

それを見ていた家臣たちは、一同に感嘆の呻き声をあげた。

秀吉は、小姓に陣羽織を渡すよう指示すると、自ら高座を下り、片膝で家康の元に寄ると家康の手をとり両手でしっかりと握った。この時、秀吉の眼には真の涙が零れ落ちた。

まさしく、豊臣家・徳川家の両家を盟友として結びつけたのは、他ならぬ数正の功であったことは間違いないのである。

       現在の大阪城(三代目) 豊臣時代→徳川時代→昭和