小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その23

 安政の大獄

 六月二十七日、朝廷で評議が開かれていた。日米修好条約の調印の報告を聞き孝明天皇が怒りを露にしていた。

「朕は誠に遺憾である。あれ程、異国を我が神国に入れてはならぬと申しつけたはずだが、朕の意向に背き開国をするとは残念でならぬ。朕の代より斯様な儀に相成り、後々まで恥である。先代の御方々に対し不孝この上ない。然る上は、譲位(天皇を退く事)の覚悟もある」

一同は驚愕した。孝明天皇の失意と落胆の思いが皆に伝わった。左大臣近衛忠熙が即座に

「なりませぬ。安易に譲位などと軽々しく口にしてはなりませぬ。直ちに江戸より大老井伊直弼と御三家を上京させ、事態の顛末を説明する段取りをつけます故しばしお待ち願いとう存じます」

と言って諌止した。その数日後、大老親藩の上京を求めた勅書が江戸についた。しかし井伊直弼はそれには応じなかった。堀田正睦に蟄居を命じた為、それに代わる老中首座の間部詮勝とその補佐小浜藩酒井忠義を呼びつけ、

「間部殿、朝廷より条約の調印の説明に上洛せよとの勅書が届いておる。わしの代わりにそちが酒井と共に出向いてくれぬか。そして、わしは多忙で行けぬ、御三家はご法度に背き処罰を与えてあるので、いずれも出向くわけには参らぬ。そう、朝廷には伝えてくれればよい」

と指示した。間部はその旨回答を持って上京した。しかし、朝廷からは厳しくあくまで井伊に上洛させよとの返事が返ってきた。それでも井伊は従わず、それどころか、アメリカに続き、蘭・露・英とも交易条約を結び、ますます朝廷を怒らせてしまったのだ。

 そこで、孝明天皇は、近衛忠煕らに天皇自筆の「御趣意書」を関東に送る様命じた。この「御趣意書」の上洛指示に対し何度も無視する井伊の幕府宛ではなく、攘夷派の水戸藩に直接送った事が後に大問題となるのであった。(戊午(ぼご)の密勅)

 

 折しも七月末の京都は祇園祭でどこも人通りが多かった。山町鉾町と呼ばれる京都の町衆たちが山鉾(やまぼこ)を曳いている。見上げるほど高い豪華な長刀鉾や函谷(かんこ)鉾の周りを大勢の見物客が囲んでいた。

 そんな街中での賑いを余所に京都御所では、水戸藩老中安島帯刀は近衛忠熙から言いつかった重大な任務に動揺していた。安島帯刀は、二年前水戸藩の御側用人となり斉昭らの幕政を補佐していた。先日、急死したため未遂に終ったが島津斉彬に挙兵させ、井伊直弼を暗殺計画したのもこの安島だった。

 やがて、安島に呼び出されたひとりの男が物音を立てずにすっと現れた。

水戸藩士の京都留守居役鵜飼吉左衛門である。実はこの男、京都工作員でもある。先祖は甲賀忍者で幼少より武芸に秀でており、斉昭に仕え、実子の鵜飼幸吉と共に父子で情報活動をしていた。

「安島様、ただいま参上仕りました」

「鵜飼か、待っておったぞ。早速だが、江戸の水戸屋敷の慶篤様にこの密書を届けて欲しいのだ。重要な勅書故、くれぐれも抜かるではないぞ。だが、そちは近頃病を患っているそうだのう。お主では心許ない。代わりにそちの子、幸吉を使いに出すのが良かろう。直ちに出立いたせ」

 即座に、鵜飼吉左衛門は祭の人混みを烏丸から五条通りを抜け、水戸藩管轄である飛脚の元締め「大黒屋」に急いで向かった。

 大黒屋で待っていた幸吉は、その密書を受け取ると父に代わって江戸に向かった。幸吉は蔵屋敷の古瀬伝右衛門という小役人に成りすまし、夜半東海道を走り続け、漸く箱根まで辿り着いた。しかし、この箱根関所前まで来ると幸吉は嫌な予感がした。役人がいつもより増して厳しく取り締まりをしているのが気になったのだ。

井伊直弼幕臣である長野守膳の配下が、京都御所内で水戸藩への勅書の動きをいち早く察知し、それを長野に伝えた。長野は、すぐさま小田原藩に箱根関所で江戸に向かう水戸藩に関わる武士・商人等を足止めする様指示してあったのだ。更には「大黒屋」も長野守膳の手に完全に抱き込まれていたのだ。幸吉は一旦駿府静岡市)まで戻ると、工作員仲間に会い対策を練った。

 

翌日、幸吉は駕籠かきの人足に変装していた。関所に入ると一応検閲はあったものの、すんなり通り抜けることができた。勿論、幸吉の懐には大切な密書を隠してあった。行李から着物を取り出し着替えると、仲間を残し、再び幸吉は水戸藩邸に向かった。

屋敷に着いたのは、四日目の早朝で、まだ辺りが薄暗く靄が漂っていた。水戸藩徳川慶篤は、天皇からの勅書を手に取り緊張した面持ちで封を開いた。一通り目にすると、すぐさま藩邸広間に全員を呼び集めた。

父斉昭は既に蟄居の身であったが、この事についてはすぐに彼の耳にも届いた。

勅書の内容は次の通りだった。

  • 勅許なく日米修好通商条約に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求
  • 御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよ
  • 右記二つの内容を水戸藩から諸藩に廻達せよ(左大臣近衛忠煕が副書として添付)

 

 しかし、この三つ目の近衛忠煕が勝手に副書として添付した文面が大問題となり、悲惨な安政の大獄を招いた原因となったのである。なぜなら、徳川将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接渡され、幕府を差し置いて水戸藩から全国諸藩へ勅書の写しを回送する指示が出たということである。完全に幕府を蔑ろにし、威信を失墜させられた事になり、幕府が黙ってこれを許すはずがないのだ。

 京都  祇園祭