小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その35

 襲撃前夜三月二日、薩摩藩有村雄助の計らいで帰国のため留守であった三田薩摩藩邸を借り、そこで最終計画が練られた。そこには高橋、金子の他に関鉄之介、岡部三十郎、佐藤鉄三郎、稲田重蔵、薩摩藩の有村兄弟ら十九名が集まっていた。

首謀者の金子孫二郎が薩摩藩有村雄助に向かって、

「有村殿、これまで何かとかたじけない。薩摩藩の挙兵準備はいかがな状況でしょうか」

「ご安心くだされ、斉彬様のご意思に沿い、銃や大砲を整え兵の訓練も順調に行なっちょり申す」

「それは頼もしい限りです。私を含め水戸を脱藩した者は、井伊殿への不満が鬱屈しており皆、血気盛んでござる。井伊の悪政を倒し、幕政の改革を皆願っております」

「そいは、薩摩藩も同じでごあす」

金子は深くうなずくと、

「では、これより、襲撃計画の手はずを説明致す。日時はあす三月三日早朝。佐藤鉄三郎は彦根藩上屋敷前で待機しておれ。屋敷の門が開き井伊の行列が出たことを確認したら、関にいち早く知らせるのだ。

いいか、現場での総指揮は関鉄之介、お前に任せる」

皆、広げた地図をみながら黙ってうなずいた。彦根藩屋敷から江戸城桜田門までは僅か五百メートルである。

「襲撃場所はここ、桜田門の橋の前だ。まず、森五六郎、お前が先頭の者を斬る。警固の者たちが皆この騒ぎで先頭の方へ集まるだろう。そこで駕籠の横からピストルを撃つのだ。その役目、黒澤忠三郎、お前だ。このピストルの音を合図に全員で駕籠に目掛け井伊の首を狙うのだ。わかったか」

黒澤がゴクッと生唾を飲んだ。

「よいか、必ず井伊の首を取るのだぞ。その見届け役は岡部殿にお任せ申す」

金子は横に置いてあった木箱を前に出しふたを取った。中には三丁のピストルが入っていた。連発銃のコルトを水戸藩が複製したものだった。これを森、黒澤、関の三人にそれぞれ渡した。

「万が一、斬り込んだ者たちが仕損じた時は、関鉄之介、この銃とお主の刀で必ず本懐を果たすのだぞ」

 

 安政七年三月三日、この日は明け方から季節外れの大雪であった。大粒の牡丹雪である。辺りはたちまち真っ白な雪景色となった。午前八時、江戸城から登城を知らせる太鼓が鳴り響いた。これを合図に諸藩が行列を成して桜田門を潜っていく。既に沿道には、大勢の江戸町民らが登城していく大名を見物している。この町民相手に蕎麦屋の屋台もあやかっていた。水戸浪士たちもこの人込みに紛れ込んでいたのだった。

午前九時頃、尾張藩の行列が見物客の前を通った。 

 その同時刻、彦根藩上屋敷の門が開き直弼の行列は出発した。総勢六十名の従者であるが、警固はたった十数人だった。揃いの雨合羽を羽織り、大雪のため刀が濡れないように鞘に柄袋を被せてあった。従者たちはこの街中でまさか襲われるなど想定していなかったのである。

 実は、事前に井伊直弼の手元に襲撃計画の警告が書かれた密告書が届いており、側近が警固を増やす様注意を促していたのであるが、井伊はこれを軽視して、

「もし、それで死ぬような事があれば、それがわしの運命である」

と側近に告げ、敢えて何もせず捨て置いた。

 井伊直弼は、前日の和歌会の席で、次のような辞世の句を残している。

「咲きかけし 猛き心の 一房は 散りての後ぞ 世に匂いける」

これを現代文に訳すと、世の中のためを想った熱い思いは、自分が死んだ後に世の中に理解されるだろう。まるで、死期を予想した様な一首である。

 

 佐藤鉄三郎は行列の出発を確認すると、即座に関鉄之介の元に行き耳打ちをした。関が仲間に目配せしてこれを知らせると、各々が鞘袋を外し草鞋の紐を縛り直し襲撃に備えた。

彦根藩井伊の行列が関の目の前を通過した。すると先頭の従者に向かって、森五六郎が

「捧げまする。大老様に申し上げたい訴えがございます」

と言って跪き、上訴と書かれた封書を差し出した。勿論、偽りである。「何事だ、無礼者」と言いながら近寄ってきた従者を森は柄に手をかけ、鯉口を切ると同時に右手一本で真一文字に相手の腹を右に払った。すると「ぎゃあ」と従者は腹を押さえ倒れた。警固の者が数人慌てるように先頭に駆け寄ってきた。

 それを見た黒澤が見物人の前に出て、ふところからピストルを出すと駕籠に向かって狙いを定めた。「パーン」と辺りに響く音がした。それを合図に左右後の三方から一斉に浪士たちが斬り込んだ。

 警固の者が刀を抜こうとしたが、雪で被せた鞘袋の紐がなかなか解けない。仕方なく鞘のまま斬り込んでくる刀に応酬した。中には慌てて相手の刀の切っ先を素手で受け、そのまま指を切り落とされた者がいた。あたり一面真っ白だった雪が、たちまち赤い血で染まった。あちらこちらで、怒号と悲鳴が入り混じっている。槍持ちや傘持ちの奴さんはとっくに逃げ、残っているのは警固の十数人だけだった。大勢いた見物人の町人や商人も悲鳴をあげ、その場から散っていった。その場は騒然となった。

 スキを見て稲田重蔵が駕籠の左から斬り込んで、そのまま駕籠に体当たりし刀を一気に突き刺したが手ごたえがなかった。駕籠の中の井伊直弼はさっきのピストルの弾が右太ももを貫通し腰骨に命中していたのだ。井伊直弼は抜刀術に長けていたが、全身に激痛が走り、刀を抜くどころか立ち上がることも出来ないでいた。

 稲田の襲撃にすぐさま彦根藩選りすぐりの剣の達人供目付・河西忠左衛門が二刀流で応戦した。河西の降り下ろした刀が稲田の身体を引き裂いた。その加西の背中を今度は広岡子之次郎が切りつけた。ふたりの激しい攻め合いはしばらく続いた。駕籠の横で倒れていた稲田が最後の力を振り絞り立ち上がって、駕籠に向かって二度目の刀を突き刺した。今度は確かな手ごたえがあった。駕籠の中でうめき声が聞こえたが、稲田はそのまま崩れ絶命した。

 両者入り乱れての斬り合いの中、駕籠の護りが手薄になった。今度は薩摩藩有村雄助の弟、有村次左衛門が駕籠に向かって刀を突き刺した。これが井伊の致命傷となった。有村は駕籠から井伊の身体を引きずり出すと、首を狙って刀を大きく振り下ろした。あたりに大量の血が飛び散った。続けて二度、三度振り下ろすと井伊の首が胴体を離れてコロコロと雪の中に落ちた。

「討ち取った。討ち取ったあ」

 有村次左衛門が井伊の首を高々と持ち上げたのだ。有村の顔も身体も大量の返り血を浴びており、ゾっとするような形相だった。有村が井伊の首を掲げて持ち去ろうとしたところを、彦根藩の追っ手の一撃を頭に受けた。即死だった。この壮絶な戦いはわずか数分の出来事だった。

 

 この襲撃事件で彦根藩井伊直弼のほか護衛隊八名、そして水戸浪人は五名が命を落とした。その他の浪士は自害、自首、逃亡したが結局全員絶命した。また、これに拠って水戸藩が得るものは何もなかった。薩摩藩の三千人余りの挙兵計画も斉彬の弟、島津久光の命令で取りやめとなったのだ。 

 一方、彦根藩の中でも厳しい処罰が行なわれた。井伊直弼を死に至らせ警護に手落ちがあった事を理由に、軽傷を負ったものは切腹、無傷だったものは全員斬首となった。

 

 また、この大事件をアメリカに行った使節団が知ることになるのは、まだまだ先のことだった。

 桜田門外の変