まつもと物語 その5

  新庁舎

 

 翌日、田岡は旧市役所に向かった。旧というのは、この四月にお城の東に新しくできた市役所に移転することとなり、ここ数日、その引っ越し作業に追われていたのだ。

旧市役所は上土町の女鳥羽川沿いにあり、大正二年に木造二階建ての庁舎が完成してから46年間ほど使用されてきた。しかし、建物内は当初より狭苦しく不都合が多かったようだ。時代と共に行政内容が煩雑となり、職員の人数も増え市民への対応も不十分であることから、もっと広い建物に移転することとなった。    

 ちなみに、跡地は六階建て松本市営住宅上土団地として、旧市庁舎をモデルに大正ロマン風の建物が 現存している。敷地内には「松本市役所旧跡」と書かれた碑がある。

 

 庁舎に入ると、あちらこちらに段ボールや風呂敷が積み重ねてある。書類も散乱している。そんな中、上司も自分の机の前で書類を箱詰めしていたが、田岡が古文書のことを報告すると、   

「そうか、しかし、今はどこの部署も引っ越し作業でかなり忙しいだろう。そんな中でその古文書がどこかに紛れて、間違って捨てられでもしたら大変なことになる。申し訳ないが田岡君、新しい市役所に引っ越しが終わって落ち着くまで、君の家で大切に保管しておいてくれないだろうか?」

「はい、わかりました。私が責任もって管理致します」

田岡は、古文書の入った封筒をカバンに戻すと、自分も引っ越し作業に取掛った。

 

 結局、古文書をしばらくは、自宅の自分の部屋で保管することにした。しかし、自宅に帰った田岡はその手紙の内容が気になり、もう一度そっとその手紙を開いてみた。改めて見ても、くねくねとした毛筆で書かれた文字はかなりのくずし字であり多分書いた人のクセもあるだろう、所々読めそうな漢字があるが文章的に繋がらない。ただ「大久保」「石川」の漢字ははっきりと読めた。つまり、昔の大久保という人が石川という人宛に書いた手紙らしい。だが、肝心の手紙の内容が全く分からなかったので、田岡は諦めて手紙を元通り封筒にしまった。

 

 翌日以降も、田岡たちは皆、連日、大量の書類や什器を新庁舎に移した。大型のトラックで書類の入った段ボール箱を何度も運搬したり、不要になった大量の書類を建物裏の焼却炉に放り込んだりして、誰もが汗だくで作業を続けた。その甲斐あって、ようやく四月の末には引っ越しが完了した。

 

 そして、五月一日、松本市役所新庁舎が完成し業務が開始された。初日は新庁舎のお披露目とあって、大勢の松本市民が見物を兼ねて訪れた。特に物珍しかったエレベーターの前には長蛇の列が並んでいた。降旗市長(全日本花いっぱい連盟会長兼務)が市民の前で挨拶していた。安夫も訪れた市民の対応に奔走して目が回るほどの忙しさだった。だが、新しい庁舎で働けるのが嬉しくて堪(たま)らなかった。

 

 新庁舎は鉄筋五階建で、屋上六階には展望室まである。この展望室から見下ろす松本城とアルプスの景観が、ほんとうに素晴らしかった。松本市民には、一度は訪れて欲しい絶景の場所である。建物は全体が縦窓で統一され、デザイン的にも斬新で、以前の上土にあった狭い木造庁舎とは比較にならない近代的ビルであった。

 また、隣には日本銀行松本支店も庁舎より一年前に本町(現松本郵便局)から移転新築していた。そして、道路の右斜向かいには外堀を埋めた場所に松本裁判所庁舎がある。明治41年に建てられた入母屋屋根で寺院の様な厳かな大きな平屋は、いかにも格式の高い建物である。この場所は元々二の丸御殿があり、そこを筑摩県の県庁舎として使用していたが、明治九年六月、火事で焼失しその跡地に建てられたものである。

 この裁判所庁舎は70年ほど使用され老朽化のため昭和57年に解体されたが、貴重な建物であったので現在は松本博物館の分館として島立「歴史の里」に復元されている。

 

 

     縄手通り

 

 その日、田岡安夫は定時を過ぎると庁舎から通勤用の自転車に乗り城西町にある自宅に帰った。いつも通り居間で丸いちゃぶ台を囲み家族全員で夕飯をとった。テレビで流されていた「日本プロレス中継」が日本中大人気である。特に力道山が外人プロレスラーを空手チョップで倒す場面は日本人にとってなぜか恨みを晴らすようで最高に盛り上がった。

 田岡家でも、至って義父はプロレスが大好きで外人レスラーが投げ飛ばされると手を叩いて喜んだ。

だが、弟の健(たけし)はそれほど興味がなさそうに、

「ねえ、お兄ちゃん、今度の日曜はお仕事休み? お城の遊園地に連れてって」

と甘えた声でせがんた。

「お母さんに連れてってもらいなよ」

と断ったが、結局、母とも一緒に三人で松本城の西側にある遊園地へ行く事になった。

 この遊園地は、二年前の昭和32年に完成し子供たちの憧れの場所である。特に飛行塔は人気があり、今日は日曜日とあって家族連れが列をなして順番待ちであった。健も母とこの飛行機型の乗り物で、20mほどの高さの鉄塔の回りをグルグルと旋回した。健の嬉しそうに、はしゃいでいる姿を安夫は下から見守った。

「ああ、面白かった。また乗りたい」

健は満足そうに言うと、すぐ今度はお猿の電車、回りブランコ、豆自動車と次々と母にせがんで乗せてもらった。

 

 しばらく、遊園地で遊ぶと、健はすぐそばにある松本城を指さしながら聞いた。

「ねえ、お兄ちゃん、あのお城は誰が造ったの? 昔のおサムライさん?」

聞かれた安夫は一瞬、答えに困った。

「そうだね。昔のお侍さんはすごい物つくったんだね」

と返事をしたものの、実際、いつ、誰が、どうやって造ったのか、まったく知らなかった。

普段、松本市が好きとか、松本城はカッコいいとか言っているが、何も知らない自分が情けなかった。

 そもそも、松本城や城下町ができる前は、松本ってどんな所だったんだろう? そんなことを考えると不思議な思いもする。この時いつか、しっかりと調べてみたいという思いに駆られた。

 

 三人は、内堀の近くまで歩いていくと、城の西側には朱色の埋橋(うづみばし)というクランクに折れ曲がった欄干橋が堀に架けられている。橋の途中の少し広くなっている場所で、お堀の中をみると、たくさんの大きな鯉が泳いでいるのがわかる。ここを通ると突き当りに小さな門があったが、閉まっており通り抜けることは出来ない。

 現在、この橋は老朽化して通行止めになっているが、朱色の橋と天守がとてもマッチしてここは最高の撮影スポットである。しかし、この橋は歴史的な建造物ではなく、昭和30年に観光用としてつくられた近年の橋である。

 

 健と手をつないで歩いていた母が、「ついでに四柱神社でお参りしていこうよ」と言うので、大名町通りを通って三人は縄手通りに向かった。正式な読み方は「よはしら神社」なのだが、多くの松本市民は「しはしら神社」と呼んでいる。

 縄手通りという名前の由来は、城の総堀を造る際、その外側に張る水縄(昔の測量用具)の線を水繩手といい、総堀と女鳥羽川との間にできた細い道が「水繩手道」と呼ばれたことからだ。明治以降は松本城下の南端の総堀を埋め立て特異な盛り場となった。この縄手通りには年中露店が軒を並べ、大勢の市民が店を覗き込みながら往来している。

 

 ちなみに、総堀(惣堀)とは外堀の更に外側に本丸を囲むように掘ったもので、現在の四柱神社が建っている場所も元は総堀だった。また、西堀という地名の場所や松本神社・地方裁判所の北側も昔は総堀だった。今は殆ど埋め立てされ、松本市役所東庁舎の東側にその総堀の名残りとして一部だけ残っている。

縄手通りに入り少し進むと大きな鳥居があるが、四つの祭神(天照大神など)を四柱に祀ったことでこの名称になっている。

 この四柱神社の社殿を建立したのは、総堀を埋め立てた後の明治12年になってからで、翌年13年には明治天皇もお迎えしている。しかし、明治21年4月松本大火災により焼失し、大正13年に再建した比較的新しいお社である。松本市民からは神道(しんとう)さんの呼び名でも親しまれている。

 

 三人は、神社に入ろうとしたが、健がいきなり安夫の後ろにかくれ、怖がるようにそっとのぞいて見た。

鳥居の柱の横に三人の傷痍(しょうい)軍人がいたのだ。横には白い布で「傷痍者更正募金」と書かれてた箱がおいて ある。

戦闘帽を被り、白い軍の病衣を着て白い布マスクをしている。それぞれ、片腕を失くし義手を付けたり、片足を失くし茶色の木製義足を付けている。もう一人は両足を失くしたのか小さな箱車の上に座って大きく俯(うつむ)いている。二人はアコーディオンとハーモニカで悲しそうな軍歌を奏でていた。目の前にひしゃげたアルミカップが置かれている。母は五円玉をそっと放り入れた。

「お国のために戦った人」という風に見てもらい、通行人から同情をかい物乞いをしている。

戦争が終わり十四年も経っているのだが、この人たちにとっては、まだ戦争が終わっていないらしい。

 

 参拝が済んで、母は伊勢町でちょっと買い物をしたいというので、商店街をブラブラした。すると、またしても健が「はやしや百貨店」に行きたいと母の手を引いた。

買い物は口実で、健の目的は、屋上の小さなゴーカートがある遊園地だ。

「今日はだめよ。さっきお城の遊園地で遊んだばかりでしょ」

と言って店の前を通り過ぎた。健はちょっと拗ねて見せたが、すぐあきらめ母の後を追った。

 すぐ横で「チンチンドンドン、チン、ドンドン」と鉦(かね)や太鼓を鳴らしながら、歌舞伎役者の様な化粧をした三人のチンドン屋さんがパチンコの新装開店チラシを配りながら練り歩いていた。

 

 はやしや百貨店というのは、井上と並んで、松本の二大デパートだった。しかし昭和48年に廃業し、その跡地の中央一丁目の公園通りには「信州ジャスコ」が出来、更にその後の昭和59年、大型商業施設の「松本パルコ」に建替えたが、これも閉店となった。立地環境は悪くないのだが、時代とともに郊外の広い駐車場のある大型スーパーへ客は行ってしまう様だ。

        松本城西側公園の飛行塔 昭和34年頃 (現在は解体済)