まつもと物語 その17

   城下町

 

 数正達は、ひと通り下見が済むと一旦大阪に戻り、城造りの計画と準備に取り掛かった。この城は、徳川に対する包囲網のひとつであるが、秀吉の大阪城に倣って権威と実戦に備えた雄大な築城計画を進めた。

 そして、秀吉の許しを得ると建築資金の援助を受け、秀吉のお墨付きで城郭・神社仏閣を専門とする  堂宮大工を奈良や京都、堺から松本に派遣される事が決まり、石工、瓦師、土木工なども各地から集め 多くの職人を確保することが出来た。また、城郭の細工用金物、三州瓦の調達や運搬の協力も得ることが出来た。加えて、地元の大工、人足、資材確保の準備も万全でなくてはならない。これについては長男の康長を中心に家老らが事前に地元の職人に協力を命じた。

 肝心の城および城下町の設計は、これまで安土城大阪城聚楽第など数多くの城を見てきた数正を中心に行なわれ、城郭の設計師永井工匠と共に構想も固まってきた。

 

 大阪を離れる前日、数正は重臣たちを屋敷に呼び寄せた。

「皆の者、いよいよ明日は信濃松本へ向かう日となった。新しい土地に行くにあたり、その方らの気持ちも様々であろう。松本に着けば、すぐにでも新しい城造りと城下町の整備に取掛らねばならぬ。当面は休らう日もないと心得よ。しかしこれから行く松本は実に素晴らしい土地である。なぜなら、地相が理に適っているからである。又左衛門、お主は四神相応を存じておるか?」

「はっ、確か中国・唐の時代より伝わる四神で平安京平城京が四神相応に守られた都と聞いております」

「うむ、その通りじゃ。実は我々が向かう松本も京と同じ四神相応の土地である事がわかった」

 数正はそう言うと、家臣の前に松本の絵図を広げてみせた。

四神とは、東の青龍・西の白虎・南の朱雀・北の玄武を指し、奈良の明日香村から出土したキトラ古墳の壁画で知られている。四神相応とは、この四方の神々に相応した最も貴い地相を示したものであり、東に 流水のあるのを青龍、西に大道のあるのを白虎、正面の南には窪地のあるのを朱雀、後方の北には丘陵を置いてそれを玄武としている。

「よいか、これが城の位置だ。皆の者この絵図をよく見るがよい。まず、

東の流水を示す青龍としては、近くに女鳥羽川、遠くは薄川の流れがある。

西の大道を示す白虎は、千国街道や野麦街道があり、奈良井川梓川の舟運にも当てはまる。

南の朱雀の窪地には、薄川と田川の合流点から西に広がる低湿地帯がある。

北の丘陵の玄武には、放光寺山・芥子坊主山から伊深山に連なる山々がある。

 

「どうじゃ、松本のこの地は北に高く、南に低く、南北に長く、東・南・西に流水がある所で、紛れもなく四神相応で守られている。これで安心して城造りが出来るというものじゃ」

すると、天野又左衛門が誇らしげに言った。

「その四神の中央に竜を加えたものが「五神」というそうじゃ。さしずめ、中央の竜は殿のことですな」

「とおっしゃると、竜にタヌキを見張るようにと、猿が命じたというわけですね」

「ばか者、たわけた事を言うものではない!」

又左衛門は周りを気にしながら、伴三左衛門を叱った。

 

 天正18年(1590年)八月、石川家の者はこぞって新天地の信濃国松本にやってきた。数正の妻と長男・康長はもちろん、かつて於義丸(結城秀康)に随行した次男の勝千代(康勝)や秀吉に馬廻衆として仕えていた三男・半三郎(康次)も秀吉の許しを得て一緒だった。

 

 数正が松本城主として最初に行なった事は、領地経営の見直しである。戦国時代、領主となった大名は自国の防衛と徴兵、租税の徴収、そして領国の拡大が主な仕事だった。しかし、数正は秀吉から筑摩郡と安曇郡を領地として与えられると、築城の前にまず、領民からの信頼と支持を集める事を考えた。

 農民や地侍の信頼を得ることも大事だが、最も重要な存在である神社寺院の支持をなくして安定した治政を出来る領主はあり得なかった。秀吉の刀狩令により寺社の武器勢力は無くなったが、領民の心を大きく動かす影響力は絶大であり、その神社寺院の協力により数正は領民の人心を掌握しようとした。その他に新田開発、治水、殖産興業、治安維持にも取り組みに力を入れた。

 

 一方、領民や寺院の僧侶たちは、領主が変わりそれまでの土地の所有権や年貢高(石高)の上限が、一切白紙になる事を恐れた。これに対し数正は寺院の境内に寺を安堵(安全の保障)するための禁令を書いた制札(立札)を掲げた。禁令とは寺の中で殺生・乱暴・強奪を禁止するお布令(ふれい)の事で、この制札を与えることで寺院の権利が守られた。以前の領主だった武田信玄小笠原貞慶もこの制札を各寺に掲げ、人心を得ている。

 数正も着任早々、積極的に各地寺院や農地の検分や寺社への寄進や安堵を行ない正麟寺(蟻ケ崎)や長興寺(塩尻洗馬)、大澤寺(大町)にも禁令の制札を掲げた。

 

 そんな折、松本に赴任して一カ月もたたない八月末頃、数正の仮屋敷をひとりの僧侶が数人の伴を従い訪ねてきた。門前で家臣が用件を伺うと、

「拙僧は真言宗を宗派とする兎川寺(とせんじ)の住職でございます。御所様へ是非とも願いたき事あり、どうかお目通り願いませぬか?」

と面会を申し出た。僧侶たちが客間に通されると、やがて数正が入り上座に座った。

「そちが兎川寺の住職か。貴院は小笠原家の菩提寺と聞いておるがそれは真でござるか?」

「いかにも、その通りでございます。当寺は聖徳太子様が飛鳥寺を建立した時代に創建されたと先代住職から聞いております。宗派は真言宗智山派でございます。小笠原家に於きましては代々菩提寺として毎年法要を執り行なって参りました」

「うむ、なかなか由緒ある寺院と見受けられる。して、わしに願いとはどの様な事じゃ?」

「はい、実は当寺には永年僧侶たちが修行する屋敷を数多く所有しており、小笠原様からも安堵(保障)されておりました。しかし真言宗善通寺派の西明院が昔から当寺を自分たちのものだと言いがかりをつけてきたのでございます。先般、残念ながら小笠原貞慶公が改易されたことをきっかけに再び西明院が訴えてきたのです。どうか御所様のお力をお借りして以前同様、この兎川寺に制札を掲げ、安堵願いたく参りました」

と、話終わると僧侶たちは一斉に深く頭を下げた。

「うむ、話の内容はよくわかった。当方でもよく吟味しその方らの望みが叶うよう取り計うとしよう」

「はい、何卒、宜しくお願い申し上げます」

 

 この数カ月後、数正は経緯を調べ兎川寺に修行の屋敷十一房と石高を保障し「安堵状」を発布した。

この安堵状は現在も里山辺の兎川寺に所蔵されており、境内には石川数正公夫婦の供養塔も建てられている。

 

 十一月に入り、数正と家老・天野又左衛門は馬で領地の検分をひと通り済ませた。

「殿、そろそろ、日が落ちる頃合いですな。少し、先を急ぎましょう。それにしても兎川寺も制札を掲げるだけで、僧侶たちは安心した様子でしたな。所領の年貢高もほぼ定まって参りましたし明日からは、いよいよ築城の準備に取掛りましょうぞ」

「うむ、そうじゃのう。だが、わしはもう一軒行きたいところがある。島立の正行寺という寺じゃ」

「正行寺とはどのような寺でございましょうか?」

「宗派は浄土真宗と聞いた。そちも存じておろうが、わが石川家は元々浄土真宗一向宗)だ。三河一向一揆の際、父・康正は一向宗側となったが、わしは家康公に付き宗派も浄土宗としてきた。だが、わしは本来の浄土真宗の寺をわが石川家の菩提寺にしたいのだ。正行寺こそわしが探していた寺であり、その寺を城下町に移したいと考えている」

「なるほど、それはご尤もです。その寺普請も計画に取り込みましょう」

 

 その後、数正は島内南栗にあった正行寺を松本城下の女鳥羽川沿いに移した。そしてその正行寺を石川家の菩提寺とした。この寺は現在下横田町にあり、住職が石川数正公の法要を今も毎年続けている。

 数正は、松本城の築城を手掛ける前に、近世風の街づくりを重要視した。それは城が出来ても、そこに住む領民が安心して住み続け、豊かで賑わう城下町が出来なければ、やがて城も寂びれてしまうと考えたからだ。

 そこで数正が考えた城下町の構想は、現状、無差別に建てられた粗末な建物を一旦更地にし、町通りを京都の様に碁盤の目の様にすることだった。城の周りに武士を住ませ、南と東側にはなるべく多くの町人が住めるように道路に接する間口を狭くして細長い短冊型の区画割りにした。

 具体的には女鳥羽川を境に以北(大名町、柳町、田町)に城を囲むように侍屋敷を建て、川の南(本町、伊勢町、中町、東町)には町人の住居とした。

 

 次に道路づくりである。この松本は街道が交差する要の土地である。善光寺街道千国街道、野麦街道、甲州街道中山道の集結点であり、人の動き、物流、情報伝達など道路整備は重要であった。中でも城の 真南に薄川から女鳥羽川まで一直線に大通りを造った。これが現在も名を残す善光寺街道である。

 そして女鳥羽川の手前を右に折れた道が中町通り、更に城の東側を迂回する様に北へ続いている。この善光寺街道の両側を町人地とし、さまざまな相手と商いをしたり、旅人の旅籠をつくり商業地として豊かな街づくりを目指したのであった。同様に野麦街道から城下町の西の入り口であった伊勢町通りの両側も町人地とし、職人や商人の住居とした。

 更に東側にはいくつもの神社・寺院を築造した。武士にとって治政や戦の勝利を祈願する拝殿は必須で あり、またその土地に暮らす人々の心の拠り所とする重要な建物である。

 因みに、歴代松本藩主もたくさんの寺院を城下に造営している。町の四方の出入り口には、守り神として閻魔が指揮する十王堂(地蔵堂)を置いている。城の守護神として鬼門(東北)に宮村神社、裏鬼門(南西)には浄林寺を配し、小笠原氏は城の南に鎮守・産土(うぶすな)神(かみ)として深志神社(宮村神社)を崇拝した。現代も天神様と呼ばれ松本市民に親しまれている。

 

 そもそも、城とは敵対する者どうしが戦うことを前提にして造るものであるが、数正はいかに大阪の様な賑やかで豊かな城下町にするかを考えていた。多くの街道が交わるこの地は物流の利便性から交易が盛んとなり、自然と人が集まるようになる。人口が増えれば商工業が発展し、経済活動が活発となる。

 つまり、大阪の様に商人に自由に商いをさせ、租税から財源を増やす事が、結果的に豊かで強い国造りに繋がると思ったからだ。これがその後の松本を信州一の商都として発展させる礎となった。

 

 この様に数正は築城の前に、領民の心の拠り所となる神社寺院を安堵させるとともに領地農民の税負担の不均衡を是正し、町人には商いを活発にさせる。これにより数正は徐々に念願だった民からの心服を得ることが出来てきたのだった。

 

 天正19年(1591年)三月、いよいよ城造りである。

 大阪から伴なった家臣や職人たちは、優に数百人を超え、更に事前に手配しておいた地元の職人や人足たちも集められた。それらを縄張(設計)、普請(土工)、作事(木造建築)の三部門に分け作業に当たらせた。完成までの工期は約三年を見込んだ。その為、まずは家臣や職人たちの仮屋敷と転居させた町人の仮小屋を造ることから始めた。住居がなければ最低限の生活が出来ないからだ。

 

 構造物を造る最初の作業は縄張りである。縄張りとは、設計図に伴ない建設地に縄と杭で住居地、道路、城の配置を決めることである。作業は順調に滑り出したかと思われた。

 しかし、設計師の永井工匠が測量を兼ね城の周囲をひと通り見て回ると、普請図を見ながら渋い表情で数正に言った。

「殿、残念ながらこの本丸に計画図通りの天守と本丸御殿を建てるには難がございます。以前、二木氏より頂いた普請図の面積と現状ではかなり相違がございます。このままでは、殿の描く建物は入りきれませぬ」

「なに、では実際の面積は普請図より狭いという事か?」

「正確なところは、再度、測量しなければなりませんが南北凡そ十間(約20m)は足りないと思われます。おそらく、造成の途中で何らかの理由により普請図より小さくなったのではと考えます」

「・・・」

「更に、この場所は女鳥羽川と薄川の複合扇状地と申しまして、一見平らの様に見えますが、城の北側より南と西に傾斜しており、堀の水を一定の高さに保つためには何らかの方法で水位を調整する必要がございます。もうひとつの懸念は地盤の強度に不安があり、重量のある天守を建てるには、その重さに耐えるだけの天守台(基礎・土台)を造ることが必要となります」

「うむ、なかなか難題が多そうだな。して、どうすればよいのかお主の考えはどうなのだ」

「はい、既存の建物をすべて壊し、堀を埋め、一旦更地にしてから新たに造り直すことが必要かと存じます」

「元々、建物は解体更地にするつもりでいたが、堀まで作り直さねばならぬのか?」

「そうしなければ、殿がお考えになった城と城下町は出来かねます。いっその事、城の北側の湿地帯にすべて埋め土をして、城と堀の位置を北側に広く造ることが最善策と思われます」

 数正はやむを得ず、この永井工匠の意見を取り入れ、深志城のあった位置より北側に広げ、当初の計画より大規模な造成工事から始める事となった。高低差は実測すると城の北と南では四間(約7m)もあり全体的に平らにするには大量の埋め土が必要となった。

 そして堀の水位を一定にするため、各所に水門を設け水位を調整する方法をとった。幸いにもこの城の敷地は扇状地の先端部分であり、その地下に流れる伏水流(地下水)の湧水により堀の水を絶やすことがなく、飲料用の井戸水も充分確保が出来た。

 また、三重の堀の一番外側になる総堀の水も湧水で満たし、溢れた水を女鳥羽川へ放流するため連結した。この総堀には四ケ所の馬出と南の大手門は枡形にした。この馬出とは武田軍の堀の出入口を真似た もので敵が侵入した際、三方より弓や鉄砲で攻撃できる場所でもある。

新たに造成したことで、以前の堀より深くし掘り起こした土で土塁を3mの高さに築き上げた。堀の幅も広くし特に内堀の幅は60mを目安とした。なぜなら、その当時の鉄砲の射程距離はそれが限度で、敵の攻撃から守る効果があったからだ。

 もうひとつ、総堀の中に敵を食い止める工夫を施した。それは、堀の中に先端を鋭く尖らせた杭を仕込み堀の中を渡って来る敵兵を防ぐ仕掛けもしたのだ。その数は全部で十万本という途轍もない本数に及んだ。

 新しい城は従来の深志城から北側を広く整地することから始めたので、数正はそれまで本丸があった場所に家族の住居として屋敷を造った。間取りは三十部屋に加え中央に中庭をつくり、秀吉に倣って数寄屋風の茶室もつくった。後にこの屋敷を『古山地御殿』と呼ばれ、現在旧博物館の敷地にその跡が見られる。

 

 こうして、新たな城下町づくりを進め約一年が経過し、いよいよ天守の築城に取掛る段階となった。ところがである、日本国内の統一を成し遂げた秀吉が、次なる野望を打ち出してきたのである。

 それは大陸の明国までも自分の支配下に置き、東アジアのすべてを我が物にしようとする滑稽かつ大胆で空想的野望であった。その足掛かりとして、まずは朝鮮を味方につけ手引きさせようとする魂胆である。

 この狂った野望を秀吉は家臣を集め皆に言い放ったのだが、これを諫める者は誰もいなかったのだ。当然、心の内は誰しもが反対であるが、それを口にすることすら出来なかった。完全に独裁政権である。唯一それを諫言できる人物の家康は、決定した日からだいぶ後になって知らされ、侵攻反対を主張したものの、その時にはもう家康ですら止めることは出来なかったのである。

 

 天正19年七月、松本で城造りの途中であった石川数正も秀吉に呼ばれ大阪に赴いた。この頃、秀吉は朝鮮出兵の基地として肥前国佐賀県)に名護屋城を築城中であり完成までの間、数正を秀吉の「お伽衆」のひとりとして京都に滞在させていた。お伽衆とは読み書きの出来ない秀吉に対し、家庭教師のように書物の講釈や自己の経験談など話相手になる者たちの事である。

 そして、同年八月頃、名護屋城が完成すると数正も肥前へ向かったのである。また、息子の長康や康勝も工事を残し名護屋城へ向かった。数正は肥前に居ても松本城の事が気がかりとなり、家臣の普請見回り役・松林右橘に常に状況を報告させていた。

 

天正20年(文禄元年)の四月、遂に朝鮮出兵文禄の役)が始まった。総大将は唯一この戦いに賛成した宇喜多秀家が務め、一番隊を小西行長、二番隊を加藤清正、三番隊を黒田長政など、続々と朝鮮に送り込んだのであった。

 数正は、十五番衆の命を受けたが、年の瀬になって長年の心労が祟ったのか体調を崩し、念願だった松本城を目にすることなく、遠い地で生涯を閉じたのであった。享年六十歳。遺体は京都七条河原に運ばれ、そこで葬儀が行なわれた。墓石は愛知県岡崎の本宗寺にあるが、菩提寺は松本下横田町の正行寺にあり、里山辺の兎川寺にも数正夫婦供養塔がある。

      松本市兎川寺(とせんじ)境内にある石川数正夫婦供養塔

まつもと物語 その16

   松本城

 

 松本市は十月に入ると、残暑どころか朝晩は急に寒さを感じる様になり、衣服も少し厚手のものが欲しくなる。近くの公園には白やピンクのコスモスが一面に咲き乱れていた。田岡は福島学芸員から松本城の歴史を学ぶため、再び博物館を訪ねた。

「福島さん、お忙しい処、また時間をとって頂きありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ田岡さんになかなか連絡せず、すみません。この前は話の途中で切り上げてしまい、申し訳ありませんでした。さあ、どうぞ」

と言われ、以前と同じ研究室の部屋に通された。

「田岡さん、話の続きの前に先日お預かりしました例の古文書ですが、実は解読に手間が掛かっています。所々の漢字や言葉は読むことが出来たのですが、文章が全く繋がらないのです。どうも通常の手紙と異なり独特の言い回しと言うか、謎かけみたいな複雑な文章なのです。ただ、手紙自体は江戸時代初期のものに違いないと思うのですが、肝心な中身がなかなか読み取ることができません。すみませんが、もう少しお時間頂いてもいいですか?」

「そうなんですか? 何か謎めいた手紙の様ですね。私の方は全然構いません。逆にお手数をお掛けして申し訳ありません」

すると、ドアをノックする音がした。

「こんにちは、田岡さん」と田岡の幼馴染の妙子がお茶を運んできた。

「あっ、こんにちは、お邪魔してます」

 妙子を見ると、以前と様子が変わっていた。髪の毛を短くし、横髪を後ろに流し毛先も少しパーマでカールさせていた。

田岡は、〈とても似合っている。可愛いよ〉と言いたかったが、それは口に出せなかった。それに、前に会ったときは、「安夫君」と言っていたのに、田岡さんと呼ばれただけで、何か大人になった女性を感じさせられた。

 すると、福島が、

「そうそう、田岡さん、うちの花岡さんとは同級生だったね。実は、この古文書の解読を花岡さんにも手伝ってもらっているんだよ。彼女、謎解きが得意だから‥。ははっ」

「福島さん、私、別に謎解きが得意なわけではありません。ただ、興味があって手伝っているだけです」

「でも、助かっているよ。引き続き頼むよ。僕も本当はこの古文書にもっと集中したいのだが、色々と仕事が重なってしまって、なかなか時間がとれないんだ。田岡さん、実は花岡さんって、すごく優秀なんですよ」

「もう、福島さんたら、からかわないで下さい。もう手伝うのやめますよ」

「ごめん、ごめん。そんなこと言わずお願いします」

妙子は、照れくさそうに軽く会釈をすると部屋を出ていった。彼女がドアを閉め終わるのを見ると、

「いやあ、本当に彼女は熱心に古文書を調べてくれて助かっていますよ。学芸員の資格の勉強もしているのにね」

 田岡も以前、妙子が学芸員を目指していることは聞いていたが、今考えてみると、確かに中学の時の彼女の成績はかなり良かったらしい。

「ところで田岡さん、今日は前回の続きの話でいいですか? たしか、小笠原貞慶松本城主になった後、家康の支配下となり、息子の秀政を石川数正のもとへ人質に預けたというところまで話をしましたよね」

「はい、お願いします。実は、あの後、清水先生のご自宅に伺って、石川数正の話をたっぷり聞かせてもらいました。数正が家康から秀吉のもとへ出奔して、家康が秀吉の臣下になるところまでです。出奔の際、数正が人質の小笠原秀政も一緒に連れて行ったという話でした」

「そうでしたか。歴史好きの、あの先生の事だから得意げに話をされたのでしょうね」

「はい、まるで講談師の様でした」

「あははっ。まるで目に浮かぶようです。僕は先生の様な話し方は出来ませんが、知っている限りの歴史について順を追って話していきますね。また、途中わからないところがあったら、遠慮なく訊いて下さい」

「お願いします」安夫は、カバンからノートを取り出し、メモの用意をした。

 

「では、まず小笠原貞慶のその後の話ですが、天下統一を目指す秀吉が家康を臣従させた後、天正15年に九州平定で島津義久を臣下にさせると、続いて関東を領土としていた北条氏政・氏直父子を降伏させるため、今度は小田原征伐に向かいます。

小笠原貞慶は、この小田原城攻めにおいて前田利家軍に従って軍功を挙げ、天正18年にこの功によって秀吉から讃岐半国を与えられたのです。

そこまでは良かったのですが、九州平定の際に不祥事を起こし秀吉に追放された尾藤知宣という武将を貞慶が客将として匿った事が露見し、それを知った秀吉の怒りにふれ、貞慶はすべての領地を没収されたのです。この事がきっかけで改易、つまり松本城主を剥奪されたということです」

「えっ、貞慶って三十三年間も放浪して、やっと松本城を取り戻して城主になった人ですよね。それが尾藤っていう人を匿っただけで秀吉の機嫌を損ねて城主を剥奪されたなんて、何か可哀想ですね」

「確かに貞慶は悔しかったと思います。その後、家康の家臣になったのだけれど、結局松本に戻ることなく息子の秀政と共に古河(茨木県)に移り、五十歳で生涯を閉じたという事です」

「それで、その後、松本城は誰が城主になったのですか?」

「誰だと思いますか? 田岡さんが清水先生から詳しく話してもらった人物です」

「ああ、石川数正ですか」

「そうです。石川数正は秀吉のもとに行ってから、先ほどの小田原攻めで同じく功績が認められ、河内国内で八万石を与えられていたのですが、小笠原貞慶が改易されたことを機会に数正は松本の領土を与えられたのです。そして、貞慶に代わり松本城主になったという訳です」

「なるほど。では、いよいよ石川数正松本城を造っていくわけですね。ここは、是非詳しく説明願います」

 

「わかりました。では、ここから城づくりの話を始めます。石川数正が秀吉の命(めい)で信濃・松本十万石に移封となったのは、天正19年(1591年)のことでした。この時、数正は58歳でした。そして、松本へは息子の康長や家老の天野又左衛門、渡辺金内らも一緒でした。

 実は、この時秀吉からは関東に移封となった家康を監視するようにと命じられたようです。松本は以前も説明した通り、各街道の要となる土地でもあったからです。でも、数正にしてみれば、もともと君主だった家康を監視するって複雑な心境だったと思います」

「数正に家康を監視しろと秀吉が命じるという事は、まだ秀吉の心の中にいつか家康が天下を奪い取るのではと疑っていたのですか?」

「そうかも知れませんね。良く後世の人が家康のことを「タヌキ親父」って言うのは、表面には決して出さないが心の中では、いつか自分が天下をとるぞと狙っていたからでしょうね」

 

 福島は手にしていたお茶を一口含むと、

「そこで、秀吉が数正に命じた松本城というのは、以前小笠原貞慶が取り戻した深志城と呼ばれた平城を改築するのではなく、守りに強い城郭を新たに築城せよということでした。

そして、数正は、この松本平にそびえ立つ堅固にして雄大な城を描くことになったのです。この時、石川数正という人物は城造りに相当熱を入れ込み、本気で取り組んだようですよ」

「何か、凄い意気込みですね」

「そうですね。では、城造りを始める背景から話をしましょうか」

そういうと、福島は日本地図と松本市の地図を広げながら話を始めた。

 

 

     信濃移封

 

 天正17年(1589年)秀吉は全国に許可なく大名の私闘を禁じる法令「惣無事令」を発布した。これに対し北条氏政・氏真父子は、これを無視し真田領地の名胡桃城(群馬県)に軍勢を入れた。

 これを契機に秀吉は北条氏の本拠となる小田原城を攻めた。一夜の内に城を築いたかに見せ、北条氏を畏怖させた、いわゆる一夜城で知られる「小田原征伐」である。

この戦いには、北条と同盟を組んでいた徳川軍を敢えて当たらせた。加えて織田信雄上杉景勝毛利輝元前田利家など全国の大名が周囲から攻め圧倒的な軍勢で北条氏を降伏させた。これには石川数正も武者奉行として千五百人の兵を率いて参戦している。

 また、秀吉は陸奥国伊達政宗へも出陣命令を出していたが、北条と同盟関係にあった伊達は戦が終わった頃を見計らい、やっと小田原に到着した。作為的に遅参した伊達政宗は白装束で秀吉の前で詫びた。この政宗のパフォーマンスに秀吉は苦笑し許された。そして伊達政宗も遂に配下となった。これにより、島津、北条、伊達をすべて臣下とさせ、秀吉は名実ともに天下統一を成し遂げたのである。

 

 その後、秀吉は小田原征伐が終わると、それまでの北条の領土となっていた関東に家康を移封させた。秀吉の考えは強力なライバル家康を大阪や京より遠ざけ、関東から東北方面を家康に守って欲しいという理由であった。

 この領地替えに対し、当然三河武士は猛反発したが、家康はかつての領土である三河遠江駿河、甲斐、信濃を去り、新たに関八州を与えられた。家康の心中は図り知れないが、ここで秀吉に抗うより広大な関東平野に大阪に負けない程の東の都をつくることを選んだのだ。また、石川数正が人質として預かっていた小笠原秀政(後の松本城主)も下総三万石を家康から与えられ古河城(茨木県)に移った。

 

 そして、翌年天正18年(1590年)その小笠原貞慶が改易されたことを機会に、石川数正河内国から信濃国松本へ移封を命じられたのである。領国は筑摩・安曇の二郡であり知行高は十万石であった。

その目的は戦略上、徳川軍が京・大阪へ踏み込むことを封じ、家康の動きを監視するための包囲網をつくった。それは関東を囲むように上田城小諸城松本城、諏訪高島城を信濃国に設け、更に沼田城甲府城岐阜城駿河城の計十ヶ所を設け、その拠点のひとつとして松本に城をつくる事を数正に命じたのである。

 因みに、秀吉はこれらの城の屋根瓦の一部に金箔瓦を使用する事を命じている。これは、他の大名に豊臣の威信を示すものであり、以後秀吉の許可なくして金箔を使用する事を禁じたのである。徳川幕府の時代になって、これを尽く破壊したのであるが、松本城からもこの金箔瓦の一部が出土している。

 

 秀吉から移封を命じられた数正は、松本の地形とそこにある松本城(深志城)を調べるため、長男・康長や家臣たちを伴い下見に向かった。大阪を発つと、京都、彦根、岐阜を過ぎ、多治見、恵那、飯田、塩尻東山道を七日間かけてようやく松本平に至った。

 数正達にとって、信濃松本に足を踏み入れたのは、この時が初めてであった。周りは高い山ばかりだ。西側に大天井岳常念岳乗鞍岳が連なり、南は鉢伏山塩尻峠、東には武石峰、茶臼山などに囲まれ、北方だけが大町にいたる細い平野部である。そして、西には奈良井川梓川と合流し北に向かって流れていた。この地は日本列島南北の分岐点であり、塩尻峠(塩嶺峠)や善千鳥峠には太平洋側に流れる雨水と日本海側に流れる雨水の分水嶺がある。

 

「ううむ、確かに松本は開けた盆地ではあるが、回りは山また山に囲まれておりますなあ」

と家老の渡辺金内が言った。

「まるで、山に囲まれた広大な要塞のようじゃな。二十年前までは、信玄公がここを信濃の拠点にしていたそうじゃ。あそこに見える深志の城もその時に造ったと聞いておる」

 数正は、松本城に目を向け指差した。城と言っても、三重の堀に囲まれた本丸には丸太で造った見張り用の櫓(やぐら)が西南の角に一棟造られており、あとは二階建てが一棟と平屋の建物がいくつか軒を並べているだけで天守閣というものは無かった。

 城の南側には南北に長い大通りがあるが、その脇には粗末な民家が並び建っていた。今まで大阪や京都の賑やかな街並みを見てきた数正にとって、この松本はとても城下町とは言えない、なんとも侘しい簡素な村に見えた。

城下を流れる川は主に二つ、女鳥羽川と薄川である。特に城造りで重要なのが女鳥羽川だ。

数正も直ぐにこの川に関心をよせた。信玄がこの川の水を利用して天守の回りに二重三重の堀を造ることは当然である。なぜなら、この城は周りに何もない平城である。山城と違って守りに強い要塞にするためには、深い堀と高い塀が不可欠であった。この松本平は見晴らしがよく敵の動きが良く見える代わりに、ひとたび攻められると守りにくいのが欠点である。これを補うためにも堀と塀は更に作り直さなければならない。そして、その城の周りに広い城下町をつくり武士を住まわせることも防御力を高める最善策と数正は考えたのだった。

 

「しかし、こんな所で徳川を監視せよとは、太閤殿下もよほど家康公が怖いとみえますな」

「うむ、それだけ、関白様は日本全国の隅々まで目を光らせておるという事だろう。折角、信長公も出来なかった天下泰平の世になろうとしているのだから、我々は殿下の言いつけを守るまでだ」

「しかし、殿はこの松本をどの様に変えるおつもりですか? わしには何から手をつけてよいか皆目、見当がつきませんぞ」

「それは、これからじっくり考えていく事だ。だが、松本の様子はだいぶ分かってきた。又左衛門、よいか、わしはこの本丸に立派で堅固な五重の天守閣を建て、賑やかな城下町を造ってみせるぞ。楽しみにしておれ、あははっ」

 自慢の髭をピンとさせ、数正の眼にはすでに、この松本にそびえ立つ雄大な城郭が拡がっていた。

家老・天野又左衛門、筆頭家老渡辺金内、伴三左衛門など家臣にとって、屈託のない数正の笑顔を見るのは何年振りであろうか。岡崎からの出奔以来五年という月日が流れたが、久しぶりに心が和む一刻だった。

 

 その日は城下の旅籠に泊まった。翌朝、この旅籠に豪族のひとり、二木何某という者が数正を訪ねてきた。家臣がこの男の素性を聞くと、小笠原家とは古くから誼があり、大阪から数正一行が松本に来たことを知り挨拶に来たという事であった。

 

「二木殿と申されたが、わしにどの様な用件で参られたのじゃ?」

数正が訊ねると、男は顔を上げた。歳は四十代半ば過ぎ、やや頬がこけた精悍な顔つきをした武士であった。

「はっ、それがしは、小笠原家家臣・二木重吉と申す者です。長年、長時様と貞慶様に仕えておりました。しかし、誠に無念ながら、主君貞慶様が改易となられ拙者もお供致すつもりでしたが、殿は、拙者にこの松本城を守れと申され、今までそれに従い留守居役を務めて参りました。しかし、ご覧の通り今は空城で君主もおらず荒れる一方でございます。尽きましては、幸松丸様を大阪にお連れした石川伯耆守様が、もしや貞慶様か幸松丸様の居所をご存じあらば是非とも伺いとうございます」

「それを知って、貴殿はどうなさるつもりじゃ?」

「拙者も、改めて小笠原家にお仕えしたいと存じます」

「うむ、そうであったか。なかなか殊勝な心がけじゃ。幸松丸殿は太閤殿下より偏諱を賜り、今は小笠原秀政と申される。すでに家督も相続し小笠原家の当主になられておる。しかも太閤殿下の仲介で家康殿の孫娘登久姫を娶られた。ところが、貞慶殿の改易に伴って、今は家康殿の臣下となっておる。わしが知るところでは、下総国古河に三万石を与えられたと聞く。父上の貞慶殿も隠居され、そこにおられるのではないかのう」

「そうでございましたか。そこまでお教え頂き誠にかたじけない。では、拙者も下総へ訪ねてみることにしたいと存じます」

「うむ、そうなさるがよい。そちの様な家臣を持って、秀政殿も喜ばれることじゃろう。ところで二木殿、わしからも訊ねたい事があるのだが、聞いてはくれまいか?」

「はっ、それがしに分かる事ならば何なりとお申し付けください」

「実は、わしは太閤殿下の命により河内国からこの地に国替えとなったのだ。つまり、この松本城を新たに立て直し、城下町を更に拡張し豊臣家の重要な拠点にせよと言い付かって参ったのじゃ。そこで、長年この土地に住み小笠原家の家臣であったというお主に訊ねたいのだが、この筑摩や安曇のことを詳しく教えて欲しいのだ」

「なるほど、そういう事でございましたか。承知致しました。拙者は、この先下総へ参る身でございます。石川様が今後、この松本を栄えた城下町になさるのでしたら、喜んでお力添え致します」

「そうか、それは有難い。では、早速だが、この筑摩・安曇の詳細がわかる絵図が欲しいのじゃ。併せてこの城の普請図も見たいのだが用意出来そうかの?」

「はい、城の普請図面や土地の絵図は城中の書物部屋にございます。しばらく、こちらでお待ち頂ければ 城に戻り絵図を取り揃えて参ります」

「いやあ、実に助かりますなあ。これで我々が測量する手間が省け、詳細な地形がわかるという事だ」

と渡辺金内は嬉しそうに言った。

 

暫くすると、手に持ち切れないほどの書類を運んできた。そこにはこの城を建築する際の普請図(設計図面)や城下町の形成が一目でわかる絵図があった。これは武田信玄が基礎となる城下町を造った町割りを更に小笠原貞慶が拡張し細分化したものであった。また、この地の川や山の位置を絵図にした 図面も何枚か揃っていた。

「うむ、これだけの絵図があれば、城や街づくりの目論見も出来るというものだ。有難い。二木殿、厚く礼を申すぞ」

 

          武田氏時代の深志城(のちの松本城)の想像図

まつもと物語 その15

             葉守りの神

 

 話が終わると、清水先生は目の前の麦茶を一気に飲み干し、ふっと息をついた。

「どうだい、石川数正は自ら裏切り者となって、家康と秀吉という偉大なふたりの仲を取り持ったというわけだ。凄い人物だとは思わないかい?」

「はい、石川数正という人物は単なる裏切り者ではないということが、先生の話でよくわかりました」

 田岡も長い時間、先生の話を夢中で聞いていたので、話が終わると身体を少しほぐしながら答えた。

「田岡君、だが、この石川数正が秀吉の元へ出奔した理由は、今も歴史家たちの間では謎とされていて本当のところは分からないんだ。数正の私利私欲で裏切ったと言うのは無さそうだけれどね。

 いくつか説があるのだが、代表的なのは三つくらいかな。ひとつは、秀吉の巧妙な口説きにより心変わりをさせた説。実際、他の大名の家臣を巧みに口説き寝返りさせた例はいくつもある様だ。二つ目は、秀吉の巨大化した勢力から徳川家を守るため、数正が家康に危機感を煽(あお)って出奔したという説。そして、三つめが、内密に家康が数正に大阪の情勢を探るため懐へ飛び込ませたというスパイ説。

 こうやって色々推理するのも面白いよね。他にも朝日姫がどういう背景で家康へ嫁いだかという謎もあるんだ」

「先生、そう言えば、テレビドラマ劇の中で家康と政略結婚させるために、秀吉は、すでに結婚している妹を夫と無理やり離婚させて、その夫が自殺したので朝日姫が悲しんでいる場面を見たことがあります」

「確かに、ドラマや小説には、朝日姫は夫の佐治日向守と離婚させられるストーリーになっているけれど、どうもそれは江戸時代中期の創られた物語らしいよ。本当は、秀吉の家臣で副田吉成という人が前夫なんだが、家康と結婚する時は、信長を守れなかった責任を取らされ、すでに離婚していたらしい。歴史というのは、事実とは異なり後世の人が書いた物語が大衆の人に読まれ広まっていくうちに、いつのまにか史実 のようになっていく事が多いんだ。どれが創作でどれが真実か探っていくのも歴史の面白さなんだよ」

「へえ、そうなんですね。だから、清水先生は歴史がお好きなんですね。僕もさっきまでは、猿飛佐助が実在の忍者だと思っていました」

「そうだね。娯楽としては、その方が面白くて一般大衆にも受けるから本も売れるしね。ははっ」

「そうかもしれませんね」

「そもそも、戦いに勝った方の書物にはその経緯を正当化させたり、武将たちも英雄として描かれるのだが、負けた方の書物は焼かれたり、建築物も殆ど破壊され、なるべく後世に残さない様にしている。特に徳川幕府になってから、そういった傾向が強くなっていたようだね。だから真実を探求する歴史家たちは苦労しているらしいよ。博物館の福島君も学芸員として苦労しながら研究しているんじゃないかなあ」

「そう言えば、福島さんにこの前お渡しした古文書はどうなったのでしょうね」

「そうだな、福島君はあれを見てかなり興味深そうだったからな。そろそろ、どうなったか聞いてみよう。田岡君、時間があったら、また訪ねてみたらどうかね」

「はい、そうしてみます」

 すると、奥さんが部屋の前で声をかけた。

「あなた、そうめんを用意しましたから、田岡さんにも召し上がる様におっしゃって下さい」

「ああ、そうだな。田岡君も食べていきなよ。そうだ、機会があったら大久保長安の話をまた今度しよう」

「はい。ありがとうございます。じゃあご馳走になります」

 

 昼に近づくと、益々気温が上がってきたが、庭には柏の木があり、その大きな葉が、いい具合に日陰をつくっており暑い日差しを防いでいた。よくみると、いくつかの葉の裏には蝉の抜け殻が付いていた。

 柏というのは家族の繁栄を象徴する木、あるいは「葉守りの神」が宿る縁起の良い木として、庭木として植えている家が多かった。

 

 

     台風災害  

 

 それから何日か過ぎ、八月に入ると更に暑い日が続いた。田岡は新しい市役所での仕事もだいぶ慣れてきた。何より嬉しいのは、この新庁舎が冷暖房の空調設備を備えていることである。この時代、都市部のビル建設ラッシュに伴い空調設備の技術が高まり、松本市役所も例外ではなかった。しかし、一歩外に出ると田岡は夏の熱気に当てられ、毎日ワイシャツの下は汗まみれだった。

 

 それにくらべ弟の健は夏休みをしっかり楽しんでいる。夕方になると、額に水玉模様の手拭いを鉢巻きにして青い法被を着る。そして提灯のろうそくに灯をともし、近所の公民館に集合する。夏の風物詩でもあり松本の行事である「青山様」だ。杉の葉を乗せた神輿を担ぐのだが、主に五年生と六年生が担ぎ手となるので、三年生の健はなかなか担がせてはくれない。だからいつも不満顔だった。

「青山様だい わっしょいこらしょ 青山様だい わっしょいこらしょ 塩まいておくれ」

と子供たちは、声をそろえて歌を唄いながら町内を練り歩き、各家庭からお賽銭を頂く。

 

 この男の子が行なう青山様に対し、女の子は「ぼんぼん」である。紙で作った大きな花を頭に飾り、可愛い浴衣を着て赤い帯をたすき掛けする。手には、ほおずき提灯を棒の先にぶら下げ、ぽっくり下駄を履き、列をつくって町内を練り歩く。

 

  ぼんぼんとても きょう明日ばかり

  あさってはお嫁の しおれ草

  しおれた草を やぐらにのせて

  下からお見れば ボタンの花

  ボタンの花は 散っても咲くが

  なさけのお花は いまばかり

  情けのお花  ホイホイ

 

 哀愁のこもった唄をやさしい声で歌うのが、とても情緒のある風景であった。

この青山さまとぼんぼんは、江戸時代末期から明治時代にかけて、松本・城下町の親町三町である本町・中町・東町を中心に始まったといわれる貴重な行事であり、平成四年に松本市重要無形民俗文化財に指定されている。

 

 そして、お盆休みの8月14日、朝方である。ラジオやテレビで台風が接近しているという警戒警報が流されていた。

安夫は外の雨風が相当強かったが、いつも位の台風が来たかという程度しか思っていなかった。ところが、時間が経つに連れ、雨風は増々狂ったように強くなり徐々に不安を感じる様になった。念のため家の周囲で風に飛ばされそうな物はすべて物置にしまい、雨戸も締めてあった。その雨戸が強風で物凄い音で揺れ、まるで地震の様でもあった。   横殴りの雨はシャワーの様に道路を叩いている。八時を過ぎた頃であろうか、家のそばで吃驚する様な地響きが鳴った。何か大きな建物が倒れた様だった。そっと窓から覗くと、隣の 古い家屋の土壁が崩れ落ちていた。家の者が大声で何か叫んでいる。

家族全員で、二階に非難していたが、その声を聞いた安夫は、

「お義父さん、助けに行った方が良くないですか?」

「いや、今外に出るのはかえって危険だ。へたに動くと却って大怪我をするかもしれない。もう少し、風が弱まるまで待とう」

安夫はヤキモキしながら、窓から隣を見た。隣の家族も危険を感じたのか家の中に引き籠っている様子だった。

 

 安夫の家は比較的まだ新しいが、あっちこっちでギシギシと軋むような音が鳴り響いていた。安夫と義父は時々外を確認しては不安な表情を見せている。健は母の背中にしっかり抱きついて動かない。

それでも、一時間ぐらい経っただろうか。少し風が弱くなってきた。もう一度道路を見ると、もうそこは道路ではなくなっていた。濁流に木片とかバケツとか色々なものが流れており、完全に河川状態だった。

「ちょっと、一階へ降りて様子を見てくる。皆はここに居なさい」

と義父が階段を降りかけた。すると大きな声で、

「たいへんだ! 家の中まで水が流れてきている。安夫、ちょっと手伝ってくれ!」

 玄関は式台まで完全に浸水しており、もう少しで玄関框から水が溢れ床上まで届きそうな状態だった。

「安夫、タオルか手拭いをありったけ持ってきてくれ。母さん! ちょっと降りてきて手伝ってくれ。健は降りてきてはいけない。そこに居なさい」

「お義父さん、手拭いとタオルを持ってきた。それからバケツも持ってきたよ」

「よし、じゃあ、そのバケツで玄関の水を汲みだして風呂場にでも流してくれ。俺は、玄関戸の下にこれを詰め込み水の侵入を抑えるから。あっ、母さんもっとタオルとバケツあったら持ってきてくれ!」

 皆、必死で床の上に水が上がってこない様に水を掻きだした。玄関戸の隙間をしっかり塞いだせいか、水の侵入も弱くなった。

昼過ぎになると台風は過ぎ去ったらしく、雨も止んだが、ネズミ色の雲の流れが異常に早かった。

しかし、外の水はなかなか引けなかった。安夫は、窓を開け大きな声で隣家の老夫婦に声を掛けた。

「大丈夫ですか! ケガはないですか!」

すると、隣の家に住んでいるお爺さんが情けない顔を出した。

「ああ、何とか大丈夫だ、ありがとう。だが、家の中まで水浸しで困っとる。まあ、水が引けるまで待つしかないか」

 

 確かに道路の水は、今の状態ではどうにもならなかった。

安夫の家の近くに大門沢川という河川が流れている。市内北部の岡田地籍を源に三か所から集まり開智で合流し城西を経由して奈良井川に流れ込む川である。普段は川幅が3ⅿくらいで子供が水遊び出来るおとなしい浅瀬の川である。その川が氾濫したのである。

 

 数日後、道路の水は何とか引けたが、残った泥の山が皆を悩ませた。とりあえず、スコップで道路の端に寄せるしかなかった。どこから流れて来たかわからないが、住宅の木材、トタン板、樹木の根や枝などもあふれており、どこから手を付けたらよいやら完全にお手上げ状態である。悪臭も酷かった。市内の下水工事が始まったばかりで、まだ殆どの家が汲み取り式便所だったため、糞尿も泥水に混ざっていた。

 その日は土曜日で、翌日にかけて、町内の人たちは皆協力し合い道路の泥と瓦礫(がれき)類を片づけた。幸いにも水道の水は問題がなく、蛇口にホースをつなぎ家の周りの泥を洗い流すことが出来た。その二日間で、とりあえず道路は人が歩ける状態にはなった。しかし、道路脇にはまだ泥と瓦礫が山となって残っていた。

 安夫も泥だらけになった自転車を水で洗い流し明日からの通勤に備えた。

 

 月曜日になると、安夫は家を早めに出て、市役所に向かった。途中の道はどこも泥と瓦礫が散乱しており、改めて今回の台風の凄さに驚き、街全体は災害のあとの傷ましい傷跡を残していた。

 この台風七号は、14日の朝6時半頃、静岡県駿河湾に上陸し、甲府市松本市長野市を通過し、時速60㎞の猛スピードで10時過ぎに日本海へ抜けた。この台風の被害は、死者・行方不明234名、負傷者1528名、住家全半壊約1万4千棟、床上下浸水約15万棟と日本における台風の歴史上、記録的な被害となった。

 松本盆地は、山に囲まれているせいか例年台風の直撃は殆どなく、今回の様に中部地方を横断し松本を直(じか)に通過するのは極めて稀なケースだった。

 だがしかし、この昭和34年の台風被害はこれで終わらなかった。むしろ前哨戦とでもいうべきか、この後、更に大きな台風が襲ってきたのである。

 9月26日、台風15号いわゆる「伊勢湾台風」である。

まだ、前回の台風被害が癒えていない上に更なる超大型台風が日本を襲った。今度の犠牲者は死者5千人、負傷者3万人以上、家屋全半壊約15万棟、床上下浸水約16万棟と、明治以降の日本における台風災害史上最悪の大惨事となった。

 最大被災地は愛知県と三重県で、二県合わせて4千6百人の死者を出している。

伊勢湾台風は26日の18時に和歌山県潮岬に上陸し、紀伊半島を縦断し岐阜、富山から一旦は 日本海へ抜け、カーブするように27日に秋田、青森へ再上陸した。長野県はルートから少し逸れていたが、暴風雨の影響は、前回の台風七号と同様、松本市にも大きな被害を及ぼした。特に女鳥羽川が前回以上に決壊が激しく、中町通りも完全に泥水の河川化となった。床上浸水も多く水の深さは大人の膝上まで達していた。

 

 この、二度にわたる大型台風の被災地を救済してくれたのは、松本駐屯地の陸上自衛隊の活躍だった。負傷者の救助、食料運搬、道路の泥と瓦礫の片づけなど、多くの市民を助けてくれたのだった。また、この大きな被害を教訓に防災意識が高まり、各地で川の改修工事が行われた。女鳥羽川も今回の氾濫で土手が大きく崩れたため、その改修工事として、川幅を拡幅し強度のある間知ブロックを積み重ね、高さも確保した。また、川沿いにあった旧開智小学校も、この年に移転する事を決定したのである。

 

 田岡が市役所に着いた時には、窓口に大勢の松本市民が押し寄せていた。もちろん、台風後の相談や苦情を持ち込んだ人ばかりであった。その多くは道路の泥や瓦礫の山を早く片付けて欲しいといった内容が殆どである。市役所としては自衛隊だけに後片付けを任せるつもりはない。重機や大型ダンプを所有する建築会社や清掃業者の協力を仰ぎ、各役所の職員も手伝い泥やゴミの撤去作業を行なった。田岡もその日から連日作業を手伝った。松本市民総出の作業が続いたのは言うまでもない。

 また、糞尿の混ざる汚水や残暑の高温による細菌やカビの繁殖に対し消毒作業も欠かせなかった。特に食中毒や感染症の恐れもあり、衛生面での気配りは最も重要であった。市としては、二次災害を何としてでも抑えたかったのだ。

 こうして、皆の必死の努力により、10月の中旬には、一般道路の人や車の通行に支障はなくなった。

川の水位も下がり、以前の穏やかな流れを取り戻した。何度か降った雨で道路の汚れもきれいに洗い流された。

 

 松本市としては、今回の糞尿被害を教訓に、市内の下水道計画をより早期に行き渡らせる様、市民に訴えた。すでに8月には汚水処理場として、宮淵浄化センターの供用開始し、それまでの汲み取り式から水洗化を拡大することが出来つつあった。

 もう一つの教訓は河川改修工事である。松本市内を流れる女鳥羽川、薄川、田川、大門沢川など氾濫対策として、川幅の拡幅、堤の高さ確保、橋の強化工事などの予算を大幅に取り入れた。こうして、昭和34年の災害の年をさかいに松本市は、日に日に住みやすい街づくりを具現化していった。

 

 市役所での田岡の本来の仕事は、松本城を中心とした観光都市にする事である。その為にも田岡自身、松本城や城下町の歴史をよく理解し、観光地として市内の環境を整え県内外にアピールすることである。

しかし、思わぬ二度にわたる台風被害による市内の被災地復興作業に田岡も手をとられ、観光振興課の仕事が後回しになった。

 

           伊勢湾台風後の 商店街の様子

まつもと物語 その14

 関白秀吉

 

 大阪城の屋根が晩秋の薄日に照らされ黄金色に輝いていた。入り組んだ城内を数正は複数の兵士に囲まれながら五重の天守へ導かれた。天守外壁は白の漆喰、腰板は黒い漆が塗られている。しかし、真っ先に目を奪われるのは、何といっても金色の装飾を設えた大きな破風である。他にも軒丸瓦や軒平瓦など、いたるところに金箔が施されていた。五階には外から囲む回廊が威圧的に下々を見下ろしている。絢爛豪華ではあるが、それは秀吉の「卑しい出」を徹底的に覆い隠すような金色でもあった。

 

 数正は大広間に通された。初めて目にしたわけではないが、今日の数正はことさら威圧感を感じた。両脇には羽柴秀長を始め、浅野長政片桐且元石田三成など大勢の重臣たちが整然と居並んでいる。正面の高座に秀吉が脇息にもたれ数正の顔をじろっと見た。以前に会った時に比べ、関白太政大臣という官職に就いた秀吉は、威厳に満ちた豪華すぎる衣装を身に纏い、更なる抑圧が前面に出ていた。

「石川殿、よくぞ参られた。いつかわしの元に呼びつけるつもりだったが、自ら出奔してくるとはわしも意外じゃわい」

「恐れ入ります。彦根城から護衛の方々に守られ、無事、大阪に入らせて頂き、誠にかたじけなく感謝申し上げます」

「いやいや、大義であったのう。奥方や康長殿も無事で何よりじゃ。しばらくは身体を休めるがよい。これからは石川殿もわしの元でおおいに働いてもらわにゃならんでのう」

 砕けた口調の秀吉に対し、数正は少し遜りすぎる姿勢でいたが、きりっと背筋を正すと、

「恐れながら、拙者は羽柴家の家臣にして頂きたく参ったのではなく、あくまで徳川家臣として、於義丸様、いや秀康様の世話役として参りました。関白様をお支え出来るよう秀康様を立派に育てあげる所存でございます」

「なに! まあよい。しかし、しばらくはわしの傍におれ。三河のことをたっぷりと聞かせてもらいたいからのう」

「はい、この度は手土産と致しまして、関白様のお望みのものをお持ち致しました」

「なに、わしの望んでいるものと申したか?」

「徳川家の軍法を書き記したものでございます」

「うむ、そのようなものをわしに見せるとは、石川殿は徳川の裏切り者にでもなったわけか?」

「はい、確かに裏切り者と言われて当然でございます。しかし、これは徳川家の滅亡を防ぐものと思い、持参いたしました」

「それはどういう意味じゃ?」

「これが、大阪方にわたれば、当然、家康殿は容易に攻める事も守る事も困難となりましょう。要するに関白様に抗う事を諦め、臣従することが徳川家の存続を維持することだと気づいて欲しいのです。私の望みは、徳川家の滅亡を防ぐことです。しかし、これは、関白様のお決めになる事。関白様の今の勢力をもってすれば、徳川家を破滅させることは容易いことであり、生かすも殺すも関白様のお心ひとつでござりましょう」

「なるほど、石川殿、敢えて聞くのじゃが、これは家康殿の指図で出奔して来たのではないだろうな?」

「関白様がそう思われるのでしたら、私を今すぐ追放するか、磔なり死罪をお申し付けください」

「わははっ、お主の心意気はわかった。では、わしもわしの本音を話してつかわそう。わしは徳川家を滅ぼそうなどと思ってはおらぬ。むしろ逆じゃ。わしはこれから、九州征伐にいくつもりじゃ。薩摩の島津をわしに従わせんといかんでなあ。その為にも家康殿には上洛してもらい、わしに代わって伊達や北条など関東・東北の睨みをきかせて欲しいのじゃ。

しかし、家康殿はなかなか大阪に来てくれんで困っとる。石川殿、なんとかいい知恵はないかのう」

「はっ、ならば、家康殿を安心させる手立てが必要かと‥」

「なに、わしの方から誰か人質を出せとでも申すのか? バカな、その様な事をわしがすると思うか。うむ、だがそれも一案だな、考えてみようかの」

 数正は、秀吉が本気で徳川家を滅ぼすつもりはなさそうだと聞かされ、少し安堵した。

「ただ、今一度、家康殿に大阪に上洛するよう督促してみては如何でしょう。拙者が関白様のもとに出奔したと知れば、当然軍法書が渡ったと考えるでしょう。さすれば、今、徳川軍は戦意喪失しているはず。この機会をもって再びご下命あれば、必ず大阪に足を運ばざる得ないと存じます」

 すると、数正に向かっての返事よりも、石田三成を呼び寄せすぐさま家康に手紙を届ける様に指示した。

「はっ、かしこまりました。すぐ、手配致しまする」

「しかし、それでも家康殿が来ない時は、わしも腹を決めぬといかんかも知れぬのう。そうであろう石川殿」

数正は、何も言わず頭を下げた。ただ、家康が上洛してくれることを願うしかなかった。

 居並ぶ重臣たちは黙って二人のやり取りを聞いていたが、石田三成だけは、数正に対し疑いの目で見続けていた。

数正もまた、三成の視線を感じ取っていたが、自分の出奔が家康の命令と匂わせるのも、秀吉の二の足を踏む効果的演出かもしれない。自分を信じるも、疑うも、数正にとってはどちらでもよいことであった。

 

 その日から、五日が過ぎた。しかし、相変わらず家康からは上洛する様子は全く見られなかった。

また、その間、信濃で上田攻めに加わっていた小笠原貞慶は、人質に出していた我が子・幸松丸も数正と共に秀吉の元へ行ったことを聞き、徳川支配下を離反し秀吉側へ寝返った。

とうとう、しびれを切らした秀吉は、

「家康め、わしからの手紙を無視しておる。何も返事を寄こさぬという事は、関白のわしの命令に従えぬということらしい。三成、九州へ行く前に三河を攻める。皆にそう伝えよ」

天正13年11月19日、秀吉は、家康成敗を発令した。このことは、すぐに家康の耳にも入った。また、上田の真田昌幸にも秀吉から通達はあったが、家康はすでに全軍を上田から引き上げさせており、岡崎で臨戦態勢を整えていた。いよいよ秀吉と家康の戦いが再び行われようとしていた。

 

 ところが、思いもよらぬ事態が発生したのである。

同年11月29日深夜、美濃・尾張・伊勢を震源マグニチュード8の巨大地震が発生したのである。実は、その二日前も越中・飛騨を震源とするマグニチュード7の地震があり、この連日の大地震中部地方がほぼ壊滅的な大災害に襲われたのであった。その後も余震はひと月あまり続いた。(天正の大地震

 この地震で、美濃大垣城が全壊、清須城が半壊、織田信雄の居る長島城も倒壊した。また、伊勢湾では大津波が発生し各地で地盤沈下も起き、琵琶湖の北部・長浜の集落も完全に水没してしまった。京都では三十三間堂の仏像が六百体も倒れ、全国で死者は無数出たのであった。 

そのため、秀吉が家康討伐のために準備していた兵糧倉が倒壊し、焼失したため、討伐どころではなくなり中止せざる得なかったのだった。

 

 三河の状態はというと、岡崎城も大きな被害を被っていた。酒井忠次に命じ改築を始めていた岡崎城も、まだ乾ききらない白壁はすべて剥げ落ち、積んだばかりの石垣は無残に崩れ落ちた。そして、北条父子との和睦も延期せざる得なかった。しかし、この地震により、秀吉からの攻撃は免れ幸運にも家康と三河の危機は過ぎ去り、最悪の事態は回避できたのだった。

 

 

    家康謁見

 

 年が明け、天正14年(1586年)一月も半ばを過ぎた頃、秀吉は次の行動をあれこれと思案していた。目的は、何としてでも家康を大阪に呼び出し臣下の礼をさせたかった事であり、その方策を考えていたのだった。

「石川殿、やはり家康は来ないではないか。昨年の地震さえなければ力づくでも押さえ込めたのだが、どうしたものかのう。石川殿、いったい家康はどうすれば、わしの臣下になってくれるのだ?」

「はっ、やはり家康殿が安心して大阪に来れる環境を作り出すほか無いと存じます」

「すると、やはり、こちらから人質を用意せねばならぬのか。しかし、わしには子供がおらん。養子ならばおるが、それでは動かんだろう。すると身内では弟の秀長か妹の朝日か、妻の寧々殿⁉ いかん、いかん、寧々は大事なわしの妻、そして秀長も出せん。わしが一番頼りにしている奴じゃ。すると、朝日か‥。じゃが朝日は前の夫・副田吉成をわしが本能寺で信長公を守れなかった責任として離縁させたから、わしを恨んでおる。その朝日に三河に人質に行けと言っても行くはずはないだろう。わしの言うことなど全く聞く耳を持たんでのう」

「関白様、家康殿は以前築山殿を亡くされて以来、今も正室を持たないでおります。ですから、朝日様を家康殿の正室として嫁ぐ様にお話なされたらいかがでしょう」

「なに、朝日を家康殿の正室にだと。しかし、朝日は今年で四十四だぞ。充分年増ではないか。その様な者を家康殿が迎えるであろうか」

「家康殿も今年で、確か四十五。年は釣り合っております。家康殿も関白様が大事な妹君を輿入れされると申し出れば、無碍にお断りなさらないはず。何卒、ご思慮なされてはいかがかと存じます」

「なるほど、家康へ朝日が嫁ぐことになれば、家康とわしは義兄弟となるわけだ。これは妙案かもしれぬなあ」

 

 その後、数正の献策を取り入れた秀吉は、何度も朝日への説得を試みた。当然、最初は受け入れなかった朝日も秀吉の粘り強い口説きで、とうとう説き伏せる事ができた。しかし、朝日の心中いかなものか推し測るに忍びなかった。

 朝日に同意を得ると秀吉は、同年2月22日、織田信雄の家臣・滝川雄利を使者として三河吉田に派遣し、酒井忠次を介して、家康を懐柔するための縁組を持ちかけた。戸惑った家康だったが、これを了承し大阪には榊原康政が代理として上洛して結納を交わすこととなった。

こうして、5月14日、朝日は家康に輿入れしたのだった。しかし、その後も家臣の激しい諫言もあって、それでも大阪に来ない家康に対し、秀吉は実の母親・大政所を朝日に会わせるという口実で一旦、三河に預けることにした。徳川方はこれを確かな人質と解釈し、そこまでする秀吉の実直さに心を動かされた家康は、ようやく重い腰をあげた。

 

 その頃、関白となった秀吉に正親町(おおぎまち)天皇から〈氏〉として「豊臣」を下賜された。その頃の〈氏〉は源・平・藤原・橘の四つしかなく、「豊臣」というのは天皇から特別に賜った異例の氏である。これを境に、羽柴秀吉を改め豊臣秀吉となったのである。

 

 朝日が家康に嫁いでから実に半年後の10月27日、家康は大阪城で秀吉に謁見することとなった。

実は、家康が登城するその前日、大和(奈良)の秀長の別邸で宿泊していた時のことである。

突然、秀吉が家康のもとに現れた。あまりの唐突な行動に小姓たちは吃驚し慌てたが、秀吉は人払いをすると、

「家康殿、よう参られた。ようやく大阪に足を運ぶことを決意頂き、誠にかたじけない。お主とは兄弟同士になったとはのう、いやはや、ついこの間までは考えられなかった。時の流れとは面白いものじゃ。家康殿、実は今日わしは胸襟を開いて話に参ったのじゃ。わしは関白・太政大臣の位を得たが、お主も知っての通り、下賤の生れが禍しわしをいまだに侮っている輩も少なくない。いままで、何人もの大名が上洛して、わしへの臣下を誓ってくれたのだが、果たして心から本当にわしに従っている者は幾人いるかわからない。

 わしが望んでおるこの国を統一して戦の無い泰平の世をつくれるかどうかは、すべて家康殿にかかっておる。そこで、折り入って家康殿に頼みたき事がある。明後日、大阪城に登城した際に、どうか皆の前で恭順の姿勢をとって欲しいのじゃ。他の者ならいざ知らず家康殿がわしにちょこっと頭を下げてくれるだけでいい。そうすれば、それを見た他の大名が、家康殿が臣従するなら、自分も従おうと思うはずじゃ。だから、頼む。演技でもよいのじゃ」

 

 家康も天下泰平の世をつくりたいという志は同じである。ならば、今はこの秀吉に任せ、いずれ自分がそれを引き継げばよいと、この時そう思うようになった。

「太閤殿下、承知致しました。関白太政大臣として、この国をみごと泰平の世になさるのなら、わしも喜んで臣下となりましょう」

「そ、そうか引き受けてくれるか。いやあ、有難い。これでわしもやっと安心できるわい」

「その代わり、大阪での正式対面で謁見する際、私に太閤殿下の陣羽織を下さりませんか?」

「なに、わしの陣羽織を‥ わかった。では、その時に家康殿に譲ることにしよう」

 

 家康は、三千人の兵を京に待機させ大阪城に入城した。伴は二人の小姓と四人の重臣そして数十人の家臣だけだった。取り巻く大阪方は皆、関白秀吉と義兄弟となった家康を丁重に迎えた。

 大広間に案内されると、そこには秀吉の家臣、豊臣秀長石田三成黒田長政らと共にこれから九州征伐に加わる大名が整然と並んでいた。その数ざっと百人を越えていた。

 正面高座には、金色を基調に赤や黄色の色彩豊かな菊を誂えた豪華な衣装に身を包んだ秀吉が満足そうな笑みを浮かべていた。先日の態度とは違い、大袈裟に威厳を前面に出していた。

「徳川殿、よくぞ参られた。遠方より足をお運び大義でござった。わしも徳川殿が来られる日を、首を長ごうしてお待ち致しておったぞ」

「はっ、本日は太閤殿下のご尊顔を拝し誠に恐悦至極に存じます。殿下への拝謁が遅くなりました事、深くお詫び申し上げます」

「よい、よい、徳川殿にも色々と事情がござろう。わしの妹・朝日が家康殿に輿入れさせて頂き不束な奴じゃが、どうか大事にしてやってもらいたいでのう。今後とも近しい親戚として豊臣家と徳川家の両家が強い絆で繋がって参ろうぞ」

「はい、それがしも全く同感でござりまする。今後とも末永くご厚誼を賜れば幸いと存じます」

それを聞いた秀吉は大きく頷いた。

「つきましては、太閤殿下、あなた様の後ろに飾ってある陣羽織を所望致したく、何卒それがしに譲って頂きとうございます」

「なに、陣羽織を欲しいと申すのか。いや、いかん。いくら家康殿でもそれは無理じゃ。これはわしの大切な戦場での目印じゃでのう」

「太閤殿下には、その陣羽織、もうご不要かと存じます。我々が殿下に代わり、どこへでも出陣致す覚悟。殿下にはもう身の危うい戦場など行って頂きたくございません」

すると、秀吉はすっと立ち上がり、そこに列座している家臣たちに向かい、

「皆の者、今の徳川殿のお言葉、聞いたであろう。徳川殿は、わしに二度と陣羽織を着せぬと申した。これからの戦はわしを煩わせるまでも無いとな。秀吉はよい妹婿を持ったぞ。それを聞いては譲らぬわけには参るまい。さあ、この陣羽織、喜んで、おことに進上致そうではないか」

 こうして、秀吉と家康は前もって打ち合わせをした通り、見事な演技を家臣の前で披露したのであった。

それを見ていた家臣たちは、一同に感嘆の呻き声をあげた。

秀吉は、小姓に陣羽織を渡すよう指示すると、自ら高座を下り、片膝で家康の元に寄ると家康の手をとり両手でしっかりと握った。この時、秀吉の眼には真の涙が零れ落ちた。

まさしく、豊臣家・徳川家の両家を盟友として結びつけたのは、他ならぬ数正の功であったことは間違いないのである。

       現在の大阪城(三代目) 豊臣時代→徳川時代→昭和

 

まつもと物語 その13

   数正出奔

 

 石川数正は、岡崎に戻ると、二、三日自分の部屋に閉じ籠った。その間、数正は机の上に硯を置き、ひたすら徳川の軍法を書き綴っていた。軍法とは、徳川の戦における戦略・戦術など兵法や陣法のことであり、重臣しか知らない最高機密である。

 徳川から出奔し、これを秀吉に渡そうとしている自分は、明らかな裏切り者であることはわかっていた。敢えて、裏切り者になる事により、強硬派が犇めく三河の戦闘意欲を封じ込めるのが、最善の策と数正は心に決めたからである。数正の目的は圧倒的な秀吉勢力による徳川家滅亡を防ぐことであり、いつか家康が天下統一する日を待ち望むことでもあった。

 しかし、この裏切り行為は、裏目に出ることも承知だ。なぜなら、秀吉が徳川の軍法を手にすれば、それを踏まえて一気に徳川を潰す好機を与えることにもなる。要は秀吉の考えひとつでこの軍法が徳川家の吉にも凶にもなってしまうのだ。

 

 数正の出奔計画は、限られた家臣以外は、外部はもちろんの事、妻や子供たちにも今日まで明かさなかった。

 いよいよ、明日、11月13日を決行日とし、部屋に妻と長男・康長、三男・半三郎(康次)を呼んだ。そして、父・康正の代より石川家に仕えている家老・天野又左衛門、そして重臣の渡辺金内、本多七兵衛の三人も加え、数正の考えを話始めた。

「わしは、家康殿にほとほと愛想が尽きた。わしはこれより徳川家の裏切り者となり出奔いたす」

と言って、皆の顔を順番に眺めた。

 

 最初に口を開いたのは、家老の天野だった。

「殿、まさか先代・康正公と同じ道を選ばれる覚悟ではござりますまいな」

同じ道とは、これより20年前の三河一向一揆の際、三河門徒総代であった数正の父・石川康正は、家康に改宗を迫られたが容易に応じきれず、自害し果てた。石川家にとって悔恨の因縁である。つまり、家康を諫めるに割腹をもってする「諌死」することだった。

「父・康正は自裁の道を選んだが、わしは己の身を自ら虚しくする気などない。家康殿と秀吉とが再び争う事にならぬよう火種を踏み消すことがわしの務めと思うておる。そして、わし自身何をなすべきか、考えに考えた挙句、行きついた先の結論を皆に申す」

「‥」

「それは、家康公を諫めるため岡崎を退き、秀吉に随身しようと腹を決めた」

「と申されるは、殿、主君を裏切る謀反(むほん)に等しい行為ではござりませぬか」

「そうだ。わしは徳川の裏切り者になる。わしが三河に居るのも今日限りだ。明晩、大阪の秀吉のもとへ逐電(ちくでん)致す」

「‥」

「わしに付いて行動を共にするもよし、この三河に残るのもよし、決めるのはお前たちの考え次第である」

すると長男・康長が食いつくように問いただした。

「父上、その様なことをして、もし徳川家臣に捕まれば、良くて牢獄、最悪は磔となりましょう。更に石川家一族・親戚や家臣も同罪、三河に居残る者はすべて悲惨な末路になるではありませんか」

「確かにその通りかもしれぬ。捕まれば切腹は免れまい。ただ、それはわしひとりに罰せられることで、関わりないそなた達は軽い罪で赦免されるだろう。家康公はそういうお方なのだ」

「父上、なぜそこまでして秀吉方に行かれるのですか?」

「康長、まだそちは腑に落ちぬという顔をしておるな。ならば、わしの本意を申そう。いま、各国の大名は次々と秀吉の臣下となっている。その勢力は以前の数倍大きくなっているのは、そちも知っておろう。この秀吉と真っ向から対抗しようとしているのが今の三河だ。家康殿もそれを知りながら、意地と勢いだけで勝てるだろうと錯覚している三河武士に翻弄されている。このままでは徳川家は必ず滅亡する。殿の目を覚まさせるには、わしが秀吉のもとに走り、とても勝ち目がないと諫めることしかないと思う。 わしは、わしのやり方で徳川家を守ると決めたのだ」

「父上が、そこまでお考えになったとは‥。わかりました。私は父上とは長く同行させて頂き、大阪の秀吉公にも目通り致しており、父上の考えも理解いたしました。これからも、私は父上と同じ道を歩む覚悟です。どうか私も連れて行って下さい」

「そうか、康長。お前も同意してくれるか」

すると、奥方も目を潤ませて、

「わたくしも、付いて参ります。あなた様とは三十年連れ添って参りました。これからもどうぞお傍に置いて下さいませ。そして、この半三郎も連れて行って下さいますか。 半三郎、よいか?」

「はい、私も連れて行ってください」とまだ幼さを残した丸い顔で母に倣(なら)った。

三人の家老・重臣たちも、当然とばかりに同意した。

 

 亥の刻(夜十時)、岡崎城は門番以外、家臣は既に帰宅しており人気が少なかった。数正らは寒さに備え厚着をし、手早く旅支度を終え事前に用意しておいた馬にまたがると一行は城を離れた。伴にする家臣は十数名。その殆どが、長年数正に仕えた石川家一族郎党ばかりである。そこに加えて小笠原貞慶の長男・幸松丸(小笠原秀政)もいる。幸松丸は天正壬午の乱の後、信濃が家康の配下になった折り、貞慶が家康に家臣の証として人質に差し出し、それを石川家が預かっていたのであった。数正はまだ幼い幸松丸をひとり城に残すわけにもいかず、一緒に連れ出したのである。

 

 余談であるが、この時の石川数正石川康長、小笠原秀政の三人が後(のち)の松本城主として代々引き継いで行くことになろうとは、誰も予想出来ない希有な運命である。

 

 数正としては、大人数の出奔ではそれを見た者は必ず不審に思い騒ぎ立てるので、なるべく目立たない気配りが必須だった。

一行は岡崎から名古屋城近くの米野城までの八里(約30㎞)を一気に駆け抜けた。幸いにも月明かりが提灯を無用としてくれた。ここまで皆、休むことなく無口を保った。

 米野城主・中川宗兵衛は、織田信雄重臣であり、数正の妻の遠戚にあたる。以前、小牧長久手の戦いが終わり、秀吉と織田信雄との和睦後、数正が大阪に祝賀に行く際、何かと面倒をみてくれたのが宗兵衛であった。

 

 数正は城に着くと皆に声を掛けた。

「ここで、しばらく休息をとるが、追手が来るかもしれぬ。皆、気を緩めるでないぞ」

すると、城の大手門に中川宗兵衛が直々に出迎え、

「石川殿、ご無事で何よりじゃ。今、温かいものを用意してござる。ささ、皆も中に入って身体を休めるがよかろう」

宗兵衛には、事前に手紙で知らせておいたので、数正は、

「中川様、誠にかたじけない。だが、ゆっくりも出来ぬ。少し馬を休ませたら、すぐに大阪に向かう故、いつか改めてお礼をさせて頂きとうございます」

「いや、石川殿、しばらくお待ちくだされ。石川殿が出奔される事をわしは既に清須城の織田信雄様へ伝えてある。そして、信雄様は太閤殿下へ護衛の者を依頼されているはずじゃ。その護衛の者たちと清須城で落ち合う手筈も整えてある。清須までここから一里もない。この後、皆を連れ急いで清須に向かうが宜しい」

「中川様、何もかも我らを救う段取りまで整えて下さるとは、この数正重ねて礼を申す」

と、数正は目に涙を浮かべ感謝を伝えた。

「なんの礼には及ばぬ。太閤様にお会い出来たら、くれぐれも臣下を誓うが宜しいぞ」

 

 この宗兵衛の手助けは、数正の脱出計画に不可欠なことであった。

一行は、用意された湯漬けを腹にかけ込み一息つくと、すぐさま、庄内川をわたり清須城に向かった。ここには事前に指示を受けた秀吉の家臣・富田知信と津田隼人が迎えに来ていた。富田知信は以前浜松城で家康に於義丸を養子として出すように願い出た滝川雄利と共に来た使者だった。

「これは、富田殿ではござらぬか。わざわざ此度、我々の護衛をしていただけるとの事、誠にかたじけない。太閤様のご慈悲を賜り、貴殿にもお手数をお掛け致します。何卒宜しくお願い申し上げまする」

「石川伯耆守様、お待ちしておりました。あの節は石川殿のお口添えがあればこそ家康殿が於義丸様を養子に出されたのだと感謝しております。今でも太閤様は於義丸様を実の子同様に大切にされておりますぞ」

 

 ここまで来れば追手の心配はない。翌朝、琵琶湖沿いを数正達は護衛に付き添われ、ほっと息をつくと数正の心にゆるみが出来たその時、不覚にも涙が零れ落ちた。永い年月を君主家康の為に生きてきたが、今自分がしている裏切り行為は、果たして本当に徳川の為に行なってよい事だったのか。今更ながら後悔の念に苛まれる自分がいた。「いや、これで良かったのだ。これがわしにできる最善の策であったのだ」と数正は自分に言い聞かせた。不安と疲労を抱えた一行はその二日後、大きな障害もなく大阪に無事到着することが出来たのだった。

 

 一方、岡崎城では、夜中に城を出発した集団を不審に思った門番が、城に当直していた家臣のひとりに報告したことから、数正の出奔が発覚した。驚いた家臣は、すぐさま早馬で浜松の酒井忠次と本多重次に急を知らせた。

そして、本多正信が忠次から知らせを受け、浜松城の家康にこれを告げたのは寅の刻(午前四時)だった。

「殿、一大事でござる。ご就寝のところご無礼と存じますが、何卒、お目覚め願いとうございます」

「何事じゃ。まだ、夜明け前ではないか」

と、家康は不機嫌そうな顔で床から起き上がった。

「申し上げます。只今、岡崎城より早馬で使いが参りました。石川殿が夜中に出奔された様子とのこと!」

「なに、数正が出奔しただと!それは誠か?うむ、数正め、とうとう行きおったか‥」

本田正信は、手にした書状を家康に渡すと、手燭を家康の手元に置いた。

「殿、岡崎の石川殿の部屋にこの置手紙があったとの事です」

家康は、すぐそれを受け取り、急いで読み取った。そこには、前置きの文言の後に、「大阪の於義丸の元へ参る」と記されていた。それは、決して秀吉の元に下るのではないという数正の最後の意地であったのか。

「殿、すぐにでも追手をさしむけましょうか?」

「それには、及ばぬ。すでに琵琶湖当たりを走っている頃だろう。今更、追っても無駄であろう」

 正信は、意外と落ち着いている家康の様子を見て、

「お館様、石川殿の出奔をさして驚きなされませぬな。恐れながら、石川殿は殿の秘命を受けて‥」

「うかつなことを口にするな正信! わしがそのような小策を弄(ろう)すると思うか。夜が明け次第、皆の者を大広間に集めよ!」

「はっ、心得ました」

正信が去っていくのを見届けると、家康はまた部屋にひとり閉じ籠った。

「数正め、そんな手立てしか思い付かなかったのか‥」

と小さく呟いた。

 

 翌朝、大広間には怒りと緊張の色をかくせない重臣たちが集まった。家康が高座に座ると、すぐさま酒井忠次が声をあげた。

「やはりわしが言った通り、数正は秀吉に通じておったことが、これではっきりしましたな。殿、どうされるおつもりですか」

「忠次、そう熱り立つな。数正が秀吉に下ったのは明白じゃ。皆の者よく聞け、これからわしが申す事を一刻も早く行なうのじゃ。数正は徳川の政治も軍事も知り尽くしたおる。その軍法を秀吉に渡ることは 皆が承知せねばならぬ。軍法の機密を持っていかれたからには即刻陣立てを変える必要がある。ついては、本田正信、お前は、甲州におる鳥居元忠にすぐ城に参るよう伝えよ。よいか、軍勢を引き連れてこいと言っているのではないぞ。鳥居には信玄公の国法、軍旅(軍隊)の備え立ち、武器武略を詳細に調べておくように命じてある。それを至急持参せよという意味じゃ。

 次に、酒井忠次岡崎城の改築をすぐに進めよ。必要あらば堀を新たに増やし、兵の配置換えも行なうのじゃ。それから、西尾城から海の備えを盤石にせよ。不足の物があれば、すぐに申し出よ。よいか、すぐ出立いたせ。

 本多重次、お主には大事な交渉を申しつける。北条父子との和睦じゃ。先方と連絡をとり和睦の段取りをすすめよ。交渉はわし自ら北条へ出向くとしよう。よいか皆の者、数正に対する愚痴や不満を言うのは、これを済ませた後じゃ。すぐに取掛れ!」

 

 重臣たちは一斉に「ははっ」と返事をすると、すぐさま、大広間を後にした。

この時、家康の心の内は、急場しのぎの軍法の変更が無力であることを充分承知していたのだ。なぜなら、新しい軍法を徳川内部に定着させるのは半年や一年では無理であったからである。

    富田知信(富田一白)秀吉の外交使節として活躍。後に茶道の茶人となる

まつもと物語 その12

     秀吉の勢い

 

 大阪までの随行は、数正の家臣20騎に加え、警護役の井伊直政の30騎のみである。

こうして、於義丸が浜松城を発ったのは、使者滝川雄利が戻ってわずか20日後の12月12日であった。

 

 一行が大阪城に着き、大広間に通されると、秀吉をはじめ、秀吉の弟・羽柴秀長など多くの武将が整然と並んでいた。

秀吉が於義丸を見つけると、

「おう、於義丸じゃな。もそっと近くへ」と親しげに手招きした。

徳川家康が次男、於義丸でござりまする。羽柴筑前守秀吉さまのご尊顔を拝し‥」

と12歳の於義丸は口ごもりってしまった。

「緊張するのも無理なかろう。しかし、今日からは秀吉の子。強く逞しくならぬといかんぞ。そうだ、今日から名を於義丸から羽柴三河守秀康と名を改めるがよい。秀吉の「秀」と家康の「康」じゃ。どうだ良い名であろう。」

「はい‥」

「うむ、実はこの羽柴秀康の名は年明けに元服式で披露するつもりだったが、つい口がすべってしもうた。家康殿にも喜んでもらえると思うが、いかがかな数正殿」

「はっ、申し分なき御名を頂き、また、早々に元服をお考えとは、恐悦至極でございます」

「さようか、家康殿には気忙しい思いをさせたと思うが、年を越せば何かと忙しゅうなるので、慶事は年内に済ませ、新年を迎えようと思うてな」

その後も、秀吉は於義丸(秀康)と仙千代を相手に、軽口など言って笑いあっていた。

 

 ほどなく、年は暮れ、天正13年(1585年)の正月を迎えた。数正は秀吉に拝賀に赴いた。

秀吉の上機嫌は年を越しても変わらず、秀康の為に新たな屋敷の築造を進めていた。

また、本丸広間で元服式が行われ、秀長によって大勢の武将の前で「養子・羽柴秀康」が披露された。

 次第に数正は、秀吉の秀康に対する接し方は少なくとも秀康を人質扱いしていないことが察せられた。

正月も終わりかけた1月20日頃、秀吉は、数正を呼び出した。

「おお石川殿、大阪の暮らしはどうじゃ。なんか困ったことがあったら、何でもわしに言ってくれや。それはそうと、近頃だいぶ寒くていかんわ、どうじゃ、わしと一緒に有馬温泉に行かんか。あそこの湯はあったまるでのう。おみゃあさん、最近、腰が痛くて困っとると聞いたぞ。有馬の湯は腰痛にも、えりゃあ効くらしいからのう」

 数正は秀吉に言われるがまま、有馬温泉に行くと、そこでも数正の為に茶人の天王寺屋宗及を伴い茶会を催してくれた。その後も数正へのもてなしは怪しいほど続いた。

 しかし、秀吉の頭の中は、常に各国の大名を自分の配下にする為の策略を廻らせていた。既に、中国地方の毛利輝元も越後の上杉景勝も人質を送り、秀吉の配下となっている。また、家康が手を焼いている真田昌幸も上杉に臣従している。

 秀吉の天下統一において、残すは九州の島津義久、関東の北条氏政、東北の伊達政宗であったが、彼らを屈服させるのは容易ではない。その前段として、いかに徳川を自分に屈させるかが最大の課題である。その為にも家康の懐刀である数正をなんとか自分に取り込むことを考えていたのである。

 

 3月21日、秀吉は家康と講和した為、背後を気にすることなく、十万の兵力で再び出陣した。相手は、小牧・長久手の戦いの際、徳川軍に味方した紀州(和歌山)根来・雑賀衆である。彼らは秀吉が小牧で家康と対峙していた頃、留守だった大阪城・堺・岸和田を攻撃し、秀吉の背後を脅かしていた。

 雑賀衆とは、新型鉄砲を大量に装備し強力な軍事力を持っていた自治集団である。また、雑賀と隣接する根来衆も同様に鉄砲を大量に所持し強い軍事力を持った根来寺の僧兵集団である。その軍事力で雑賀・根来衆は共に徳川軍傭兵となって秀吉を攻めていたのだった。彼らは信長の時代から秀吉に反抗していた集団でもある。

 しかし、家康と講和すると、秀吉の矛先は彼ら雑賀・根来衆に向けられた。まず、羽柴秀長・秀次が率いる先方隊は、たった二日間で岸和田を攻め千石堀城など五か所の砦をすべて陥落させた。これを聞いた本隊秀吉軍は翌日、根来衆の拠点である根来寺を焼き討ちした。 

 残るは、紀の川近くの太田城である。ここには、逃げ落ちた根来・雑賀の残党五千が籠城していた。攻める羽柴軍に対し、雑賀・根来衆は鉄砲や弓で激しい迎撃をした。堀を深くした太田城は予想外に堅固な城の為、秀吉は紀の川を堰き止め、備中・高松城と同様、得意の水攻めにすることにした。城の周りに全長7㎞、高さ5ⅿほどの堤防を造り、その中に紀の川の水を一気に注ぎ込んだ。すると城の回りは完全に水没し城は浮島のようになった。それからしばらくして城主の太田左近は自害し、太田城は落城した。

 

 この後、太田村の百姓は助命し農具を返還する代わりに武器となる刀・槍・弓をすべて持つことを禁止した。これをきっかけに、武士以外の僧侶や農民に武器所有を禁止する「刀狩」を全国に布告した。

羽柴軍は4月26日、僅か一カ月余りで、この「紀州征伐」を終え、大阪城に凱旋した。

 数正は、陣中見舞いを装い、秀吉の脇で戦況を眺めていたが、羽柴軍の圧倒的な強さをまざまざと見せつけられた。かつて、徳川軍の味方であった雑賀・根来衆は無残にも壊滅してしまった。

 

 数正は、この巨大化している秀吉の勢力をいち早く家康に伝えなければならないと思った。なぜなら、家康は上杉に臣従し徳川から離反した真田昌幸に業を煮やし、大久保忠世鳥居元忠ら七千余勢を上田城に向け派していたのだ。

 真田と戦うことは、その後援の上杉と戦うことでもあり、上杉と戦うということは、ひいては秀吉と再び争うことになりかねない。何としてでも家康に思い留まらせねばならぬ。その為にも、一刻も早く浜松城に戻ることにした。

 

 この頃には、すでに秀康の新しい屋敷は完成を終えていた。また、近々秀康に河内国一万石を与えると秀吉は言っている。秀康に対する養子としての扱いを確信した数正は、秀吉に三河に戻ることを申し出た。すると、秀吉は別れを惜しむような姿勢で、手土産として何某かの金子(きんす)を無理やり懐に押し込み、

「家康殿にも是非、大阪城に足を運んで欲しいだがや。わしは首を長うして待っとると伝えてくれんかのう」

 と笑顔を見せた。しかし数正は秀吉の眼の奥から得体の知れぬ眼光で身を射すくめられた。さも、これは秀吉の厳命と言わんばかりに。

 

     黒い噂

 

 大阪を出て、十日後の夕刻、数正は長男・康長を伴い浜松に着いた。登城は翌朝とし、その夜は本多重次の屋敷に寄った。屋敷には城から戻ったばかりの重次がひとり夕餉をとっていたが、数正が着いたとの知らせを聞いてすぐ客間に通した。

「数正殿、お役目ご苦労でござった。して、若君のご様子はいかがか? お仙は無事お仕えしているのか?」

 本多重次は、於義丸(秀康)と大阪に随伴し、数正ともそこで別れた以来だった。

「ああ、秀吉は予想以上に、秀康殿を養子として大事に扱ってくださっている。人質などと心配しないでもよさそうだ。仙千代やわしの勝千代もりっぱに秀康殿にお仕えしておる。ご安心召され」

「そうか、それを聞いて安心した。ところで、大阪の情勢はどうであった?」

「滞在が長引いたおかげで、色々と秀吉の事が耳に入り、その事で明日、殿にはどうしても諫言せねばならぬことがある。お主にも事前に話をしておこう。その前に聞きたいが、上田城はどうなった?」

「それが、上田城の守りが予想外に固いのだ。わが軍に加え旧武田軍にも攻めさせたのだが、まったく城は落ちそうもない。それどころか、相手は千人程の軍勢に対し、わが軍は七千。数的には圧倒的に有利のはずなのだが、攻めれば攻めるほど犠牲者が多く出たとの話だ」

「真田の昌幸という男は、余程、戦術に優れた武将のようだな」

「おい、数正、相手の武将を誉めてどうする」

「それで、撤兵をしたのか?」

「いや、撤兵どころか、井伊直政が援軍を引き連れて、三日前に上田に向かったところだ」

「ばかな、真田の後ろには上杉が待ち構えておる。ますます、わが軍の犠牲者が増えることになるぞ。まったく殿は何を考えておる。重次、鬼作左と言われたお前がなぜ止めなかった?」

「わしが、殿の決断を覆すことなど出来なかろう。それに酒井忠次や他の連中は、何が何でも真田をぶっ潰してやると息巻いておる。わしひとりが、反対した所でどうにもならんわい」

 

 翌朝、登城した数正と重次のふたりは家康と対面した。まずは、養子として秀康の扱いと屋敷新築の話をして家康を和ませた。しかし、その後、家康の方から、

「数正、わざわざ腰の痛みをこらえて於義丸(秀康)の話だけをしに来たのではなかろう。お主が聞きたいのは上田城の事ではないのか?」

「はっ、恐れ入ります。では、申し上げますが、殿、速やかに上田城より撤兵を進言すべく、馳せ参じました」

「やはり、数正の言いたい事はそこだったか。しかし、それはならぬ。お主が危惧しているのは、真田と戦えば後援の上杉と戦うことになり、さらには秀吉と戦うことになりはしないかという事であろう」

「殿、そこまで承知の上でこの戦いをお続けなさるつもりですか」

「むろん、承知の上じゃ。上杉の威勢を恐れて、目先の真田昌幸の裏切りを見過ごせば、わが徳川の面目は丸つぶれぞ」

「世間の体面など気にする殿ではござりまするまい。そもそも、此度の一件は、上杉景勝真田昌幸を焚きつけて起こしたこと。よって、上杉方の裏をかき、さっさと兵を退いてしまうことが上杉から徳川攻めの口実を避ける妙案と存じます」

「待て、それでは、上杉との戦いを回避するため、真田の裏切りを認めることになるではないか。さすがの 数正も心身とも疲れ切っておるとみえる」

 そこで、重次が口を挟んだ。

「このところ、数正殿は秀吉との誼を深める為、奔走しており疲労困憊しておりますが、数正の申しておることは、秀吉と戦わぬためなら、たとえ真田を寝返らせた上杉であろうと相手にせぬ方が得策と言っているのでしょう」

「つまり、わしと秀吉を戦わせる上杉の謀略だと言うのであろう。まさしく謀略に違いない。しかし、それに気づいていながら、援軍を送り込み、この際一気に上杉も打ち破ることが出来よう」

「まさか、上杉を打ち破った後、また秀吉との一戦を覚悟されているおつもりですか」

「秀吉が上杉に味方するというなら、戦うしかあるまい」

「殿は今の秀吉と戦って、負けぬとお思いか。秀吉と戦えば、せっかく養子となられた秀康様の御身が危うくなる事をよもやお忘れになったわけではござるまい」

「わかっておる。秀康ばかりか、そなたたちの子、勝千代や仙千代までも人質にされよう。しかし、秀吉と ここまで築いた誼を切り崩さんとする上杉の謀略が許せんのじゃ。秀吉との合戦まで憂慮するとは、考えすぎじゃ。疲れが度を越しているゆえであろう。どうじゃ、数正、岡崎に戻りしばらく静養してみては」

「岡崎で静養? そろそろ隠居せよと仰せですか?」

「いや、数正にはまだ隠居は許せぬわ。岡崎城主として腰を落ち着かせ、秀吉の動きにのみ目を光らせてくれればよい。真田や上杉のことは井伊直政らに任せればよいであろう。心配致すな」

 すると、本多重次が家康の顔を覗くように言った。

「という事は、数正殿にまつわる黒い噂を、しばらく岡崎城に封じ込めておこうと‥」

「待て、重次。黒い噂とは何だ。聞捨てならぬぞ」

「いやいや、ついつい、言いそびれておったのじゃ。実はのう数正」

重次は、ひょいと首をすくめてから、観念したように言った。

「お主の、大阪城よりの帰還が遅すぎた。そのせいで〈石川数正は秀吉と通じてしまったんではないか〉という噂がまことしやかに独り歩きしだしてしまったのじゃ」

「なんということぞ。まさか殿は、そんな馬鹿げた噂を信じて、この数正を岡崎城に幽閉しようとお考えではありますまいな」

「当たり前じゃ。されど、噂の足は早いでのう。上田城攻めが片付けば、根も葉もない噂だったと知れ渡ろう。しばしの我慢じゃ、承知してくれ」

 数正は虚しかった。ほかの家臣が何を言おうと我慢できるのだが、長年家臣として仕えた家康も噂を半信半疑の態度であったことが、何ともやる瀬なかった。

 

 その日、屋敷に帰った数正は、鬱々たる心の中をどうすることも出来なかった。思えば、家康が今川家に人質になった時から追随し、五十数年間、徳川家存続の為、数々の武将と戦い、あるいは交渉を続けてきた。そんな自分を家康は噂に惑わされている。そして、あくまでも秀吉には屈しない考えを変えようとしない。更に秀吉からは、何としてでも家康に上洛させろと迫って来る。このふたつの巨大な岩石の中に挟まれた自分に何の力もないことを思い知らされた。今、ひとり部屋に籠った数正を言い知れぬ孤独感が襲った。また、苦悩の一夜は数正に眠る事さえ許さなかった。

 

 秀吉の領土拡大は休むことを知らない。四月に紀伊の雑賀・根来衆を倒したばかりであったが、五月四日、今度は四国統一していた長曾我部元親を攻めた。羽柴軍十万に対し、長曾我部は四万の兵力。秀吉は軍師である黒田官兵衛に先鋒を命じ、総大将を羽柴秀長、副将を秀次とした。長曾我部と手を組んでいた毛利は既に秀吉に臣従しており、その毛利軍も攻撃に加わった。その絶対的有利の勢力で長曾我部元親を土佐に追い込み、長曾我部は秀吉に人質を出すことにより、土佐の一国を安堵され許された。

こうして秀吉の四国制圧は容易に終わった。

 

 秀吉はこの四国討伐の最中、朝廷内で二分し紛糾していた関白職を巡る争いに、絶妙なタイミングで介入し、近衛前久の猶子(養子)になると、7月11日には自身が関白職に就くという異例の昇進を果たした。関白とは天皇の代理として政治の実権を握る地位であり、実質上の公家の最高職である。つまり、信長も果たせなかった天下人となったわけである。

 関白になった秀吉は各地の大名を大阪城に呼び寄せ臣下を誓わせた。既に越後の佐々成政も加賀の前田利家に撃退され、先頃、臣従したばかりであった。これにより、秀吉は徳川と結束していた雑賀・根来衆、長曾我部元親、佐々成正を次々と破り、家康と同盟関係にあるのは小田原の北条氏政・氏直父子のみとなった。秀吉は家康に対しても再三登城するように通達したが、真田討伐に託け、登城を引き伸ばししていた。この戦に対し秀吉は仲介を試みるも、徳川軍は尚も一歩も引き下がらなかった。

 

 そんな中、10月14日付けで織田信雄からも家康宛に手紙を送られてきた。内容は「関白様より四国・九州と日本中を平定するまですべての大名は大阪表へ人質を差し出す事とご下命あり。ついては、改めて石川伯耆守数正ほか数名を秀吉の元へ参上させ、今後のことを相談するが宜しいかと。関白様も家康殿の境地を理解しておるので慎重に事を運ぶだろう」と。

 信雄は、秀吉と和睦した後は、織田と羽柴の関係は主従逆転し、関白秀吉となった今は完全に秀吉の手先となっていた。何度か信雄から家康宛に手紙はきていたが、すべて秀吉の差し金である。内容の殆どは、家康に早く上洛せよという事である。今まで無視し続けていた家康も今回は簡単に無碍には出来ないでいた。家康の気持ちも揺らいできたのは間違いなさそうだ。

 

 十月も終わろうとしている早朝、浜名湖のほとりは湖沼霧があたり一面漂っている。浜名湖の東には 野面積み石垣の浜松城がそびえ立っている。以前は曳馬城と呼び今川義元が君臨していたが、桶狭間の戦いで信長に倒され今川家は滅び、元亀元年(1570年)に家康が入城している。家康は武田信玄を牽制するため本拠地を岡崎城からこの浜松に移し、その際に名前も浜松城とした。しかし、その三年後の元亀三年、三方ヶ原の戦いで信玄から大敗を喫し家康にとって惨めな思いを残した城でもあった。

 

 その浜松城で、家康と重臣たちは皆、険しい顔つきで評議をしていた。

「秀吉め、わしが中々返事を返さないものだから、だいぶ苛々しておるようじゃのう。今度は信雄を使って手紙を寄こし、力量のある家臣たち2、3人を人質として出せと言ってきおった」

「今や各大名は我も我もと人質を出してきたと聞いておる。殿、秀吉の魂胆は見え透いておりますぞ。何が何でも殿も秀吉の前で頭を下げさせ、徳川家も他の大名と同じ様に自分の配下にするつもりに違いない。殿、決してあの人たらしの口車に乗ってはなりませぬぞ。秀吉め、あの弁舌だけは抜きん出とるわ。なにせ、あの信長公でさえ秀吉に言い包められたこともあったでな」

 

 酒井忠次は家康をたしなめる様に言い放った。それを受け本多信正も、

「秀吉はもう、自分が天下をとった気になっておる。徳川は絶対に屈せぬと、改めてわからせる必要がございますな」

「やはり、小牧の戦いの折に、討ち倒しておればよかった。それにしてもあの時、信雄が和解などしなければ、今頃、殿が天下をとっていたものを。ううっ、思い出しても腹が立つ」

 家康を始め家臣が皆、秀吉に反抗的であった。おそらく、上田攻めに行っている本多忠勝井伊直政、小諸で戦っている大久保忠世など、ほぼ全員が同じ意見であろう。

 

 しかし、ただ一人、異議を申し立てる者がいた。石川数正である。

「各々方、それは徳川家の行く末を本当に考えて申している事でござるか。秀吉の勢力はもはや誰の手でも止める事は困難でござろう。今年に入ってからも、紀伊・四国・越中はすでに秀吉の配下となっておる。軍事力も今の秀吉は最盛期の信長公よりも力を持っている。強力な鉄砲や大筒部隊を配下に持っており兵力の差は歴然としておりましょう。

そんな中、我らがどんなに秀吉に抗っても勝てる戦ではもうござらん」

すると、酒井忠次が顔を真っ赤にして、

「数正、うぬは、何度も秀吉の元へ行き、徳川を早く臣従させろと命令されているのであろう。貴様が秀吉と通じているのは、もう明らか。誰もが知っていることだ」

「な、何を言うか。わしは秀吉の部下など断じてござらん。わしもれっきとした三河武士だ。根も葉もない噂を流しておるのは、酒井殿、お主ではござらんのか!」

「なに~!」

数正も顔色を変え激高し、互いにつかみ掛る寸前だった。そこで家康は、

「二人とも、よさんか! 忠次、めったな事を口にするな。数正、わしはお前を信じておる。お主は常にわしの傍で徳川家の将来を考えておること、わしが一番わかっておる。確かに秀吉の兵力が多くなっていることは、わしも承知だ。だが、わしはどうしても秀吉に屈するわけには参らぬ。わしが望む天下泰平と秀吉が望む天下統一とは、大きなズレがあるからだ。わしはあくまでも秀吉と対抗していくつもりだ」

 家康と他の重臣たちは、すでに秀吉と戦うことを前提に話を進めていた。完全に数正のみが孤立していた。

「殿‥。なぜわかって頂けないのだ。わしは、徳川家が滅亡するのを黙ってみている訳には参らんのじゃ」

数正の眼に無念の涙が溢れ、これほど骨にしみる孤独を味わったことが無かった。

 

 評議が終わり、皆が席を立つと、数正は、部屋に戻ろうとする家康のそばへ寄った。

「殿、わしはこれで失礼し岡崎に戻ります」

「おお、数正、大義であった。忠次の申したことはあまり気にするでない。帰ったら岡崎の守り一層固くしておいてくれ」

「はっ、わしは暫く浜松に来ることはないと存じ、一言だけ殿に申し上げたきことがござる」

「何じゃ、あらたまって」

「わしは、どんな事がござろうと最後まで徳川家の家臣であること、何卒お忘れなき様願いとうございます」

「その様な事はわかっておる。わしもお前を最後まで信じておるから安心いたせ」

数正は、次の言葉を詰まらせ、家康の眼をじっと見据えた。そして、何も言わず頭を軽く下げると踵をかえした。

          家康の居城だった浜松城 (野面積み石垣)

 

まつもと物語 その11

     和議の礼

 

 家康は、講和後の秀吉の真意を探るためにも、〈和議の礼〉を家康の懐刀といわれた石川数正に託した。数正は武将として頼れている存在だけでなく、かつて「桶狭間の戦い」の後、今川から離反した家康が、信長と対等同盟(清須同盟)となる交渉を行なったり、今川氏真と人質交換の交渉では瀬名(築山殿)と長男・信康を無事救助するなど、こういった外交的手腕を買われてのことだ。また、数正は以前、秀吉が「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を討ち坂本城に凱旋した際に、先勝祝いの品として名高い茶入れ「初花」を届けており、その時から秀吉に気に入られている事も家康は承知していた。

 しかし、今回数正は敢えて、何も持たず秀吉に会い家康の口上を伝えるとした。むろん狙いは、家康としては秀吉との厚誼を従来通り維持すること。つまり、和議は受け入れるが家康が秀吉に臣従するものではないと、しっかり釘を刺すことである。

 天正12年11月、数正にとって一年ぶりの大阪である。大阪城の外堀はまだ普請中であったが、その広大な規模は信長の安土城とは比較にならないほどである。出来上がったばかりの大阪城天守の大広間に案内された。井草の匂いがまだ新しい畳が敷かれ、襖には虎の眼がこちらを睨んでいる。何といってもその広さと豪華さに数正は度肝を抜かれた。訪れる者を、まずここに招き入れ、萎縮させようという秀吉の意図がある。

 しばらく、緊張した空間の中でひとりぽつねんと待たされた数正の前に、ふたりの小姓を伴い秀吉が入ってきた。

「これは、これは、数正殿、お待たせして申し訳なかった。遠路お越しいただき大義でござった」

と、高座に腰を据えると、座敷の中央で畏まっている数正に向かい親しげに声を掛けた。

「数正殿、そこでは遠くて話もできぬ。もそっと、近くにお寄りくだされ。さあ、もそっと」

「ご無礼つかまつります」

と、指し示すあたりまで座を進めると、秀吉の饒舌は止まらなかった。

「徳川殿は、有能な武将をたくさん抱えておって、ほんに羨ましゅうてたまらんわ。亡き信長公もこう申していたぞ『徳川殿に過ぎたるものがひとつある。石川数正じゃ』 とな。わしも石川殿がそばにおってくれたら、どんなに心強いかのう。どうじゃ。石川殿、わしのもとで働かんか‥  ははっ、冗談じゃ、冗談!こんな事を家康殿に聞かれたら、わしはどえりゃあ叱られてしまうがや」

 数正は、秀吉の話術に嵌るまいと、必死で矛先をかわした。

「しからば、我が殿の口上を申し上げます。まずもって、羽柴・織田ご両家の間に和議がなりましたことを謹んでお慶び申し上げます。また、その余慶を蒙り、わが徳川家とご両家との絆が、従前どおり厚誼のうちに保たれること事と相成りましたことに感謝申し上げる次第です」

まず、秀吉への臣従を誓うためではないことを示唆した。

「そして、どうしても、お伝えしたき儀のひとつは、こたびの戦をわが殿・家康は、当初より〈勝たず、負けぬ戦〉とせねばならぬと申しておりました」

「ほう、徳川殿がのう。実はわしも同じことを考えておったぞ。なるほど、〈勝たず、負けぬ〉と決めた同士が戦っても決着が着こうはずも無いわけじゃな。あはっはっ」

秀吉は呵々(かか)と笑い飛ばした。

「ついでに白状しておくが、〈勝たず、負けぬ〉であれば、最後は和議で終わらせるしかないと思うてたわ。徳川殿は信雄に担がされて、仕方なく戦をさせられたのじゃからのう。もともと、わしと家康殿は亡き信長公のもとで共に天下泰平を望み、働いた仲だったではないか。羽柴家と徳川家との和議も当然のことじゃ」

 秀吉の猿芝居もここまでいくと、実に滑稽であったが、あえて数正も「御意でござる」と答えた。

そして、数正は懐から一通の書面を取り出した。

「羽柴殿、これは我が殿より預かりし手紙でござる。これには、殿の本意を書き記してございます。要約して申し上げるならば、今後、徳川としては、羽柴殿に対し決して刃を向けることは致さぬので、羽柴殿も徳川に攻め入ることの無きようにとの事。あくまで共に戦の無い太平の世を望んでおられる由にございます。これこそが、お互いの理に適うものと信じております」

 秀吉は手紙を受け取ると、とっくりと読み終えた。

「家康殿の言われること、誠にもっともである。わしも同感であると、そう家康殿に伝えてくれるかのう。ところで、どうじゃ、明日はわしがこの大阪城を案内しよう。よかったら、堺もお連れ致そうぞ」

「身に余るお心づかいを賜り、痛み入ります。なれど、それがし、今日中に京へ行き用事を一件済ませ、明後日には岡崎に戻り殿に報告致したいと存じます」

「さようか、仕方あるまい。ならば、茶事だけとしようかのう」

「恐れ入ります」  

数正は拍子抜けするほど、秀吉が終始、数正の訪問を嬉しいものとして捉えているように見えた。

 しかし、このことが、数正を苦しめるひとつの要因となってしまった。なぜなら、秀吉に渡したこの手紙が、いつのまにか、「数正は家康の内情を密告した。秀吉に内通しているのではないか」などと噂となってしまったのだ。これは、秀吉が間者を使って噂を拡散させ、数正を家康から引き離し、徳川の内部分裂を図ったことではなかろうか。

 

 その日数正は、大阪城を後にし、二条室町の茶屋清延(きよのぶ)邸に着いた。

この茶屋清延は徳川家とは深い結びつきがある。元々は、信濃小笠原長時の家臣であった中島明延が戦で負傷し、それを機に武士をやめ名を茶屋清延と変え京都に移って茶葉や呉服商を始めた。そして、家康の家臣になった小笠原貞慶に引き合せてもらい家康とも懇意となった。

 茶屋清延は本能寺の変の際は、堺に滞在していた徳川家康一行に早馬で一報し、「伊賀越え」と言われる明智勢からの脱出の支援をした。言わば、家康にとって命の恩人でもある。それにより、徳川家康の御用商人として取り立てられた。屋号を茶屋四郎次郎という。清延も元はといえば三河武士でもある。

 茶屋清延は単なる公儀呉服師だけでなく、京の情勢に詳しく堺衆など町衆との繋がりも強かった。

「石川様、大阪城で秀吉に会い、さぞ、お疲れのことでしょう。あちらの部屋で一席ご用意致しましたので、お寛ぎください」

清延は、ねぎらいの言葉をかけると、自ら奥座敷に案内した。部屋には京料理に酒が添えてあった。

腰を落ち着けると数正は、酒を口にしながら、

「清延どの、いつもながら、かたじけない。今日は堺衆について色々とお主に訊ねたいことがあるのだが‥」

「なるほど、石川様は秀吉と堺衆との関係が気になるとおっしゃるわけですね。わかりました」

と言うと、清延は、数正に酒を注ぎ足し、自分も手にした酒を一気に飲み干すと、語り始めた。

「町衆というのは、単なる商人ではなく、どの武将に近づけば得をするかを嗅ぎ分ける才に秀でている者が少なくありません。特に堺衆は、明や朝鮮・琉球との交易で財をなし、その財力で信長様へ協力し、鉄砲・弾薬だけでなく兵糧や装具等を供給し、その代わりに多額の商権の利を得ていました。その信長様がお亡くなりになった今、今度は秀吉が代わって堺衆と茶道を通じて交わりを強くしようとしています。ところが、その堺衆の中には秀吉を良く思わぬ者がおります。それは信長様の頃から重用された茶道の今井宗久や津田宗及・千宗易千利休)らです。ご存じの通り、茶湯は政の場として秀吉も利用しているのですが、侘び寂びの今井宗久と金の茶器、金の屏風と派手好きな秀吉とは相性がよい訳がありません。もし、徳川殿が隙をつくとすれば、そのあたりでしょうか」

「うむ、家康殿はあまり茶道を好んではおらぬが、天下を牛耳るには、堺衆との繋がりが必須というわけだな」

 

 

     二人の使者

 

 数正が、京で秀吉の近況を茶屋四郎次郎清延から探り岡崎に戻ると、自分より先に返礼の手紙が届けられていた。秀吉の機敏な行動に驚かされたが、その内容には、こたびの答礼として当方から使者を近々に浜松に差し向けたいと書かれていた。数正は、また自分より先に使者が家康に会うことを危惧し、岡崎で二、三日疲れを癒すつもりだったが、急ぎ家康がいる浜松に向かった。

 

 浜松城で数正は家康と二人だけで大阪城での経緯(いきさつ)を報告していると、案の定、秀吉の使者が早々に到着したと知らせが入った。

広間にて数正のほか、本多重次、酒井忠次本多正信らを従えて、家康は使者と対面した。

使者は二人、滝川雄利(かつとし)、富田知信(かずのぶ)と名乗った。

「こたび、信雄・秀吉の講和を祝する使者を差し向けて頂き、誠に感謝致しまする。早速ですが、わが殿羽柴秀吉より、徳川様に懇願すべき儀を授かり参りましてござりまする。徳川・羽柴ご両家の親睦が深まりましたるうえは、更に盟友としての絆を深めん為、徳川様の若君お一人を是非とも羽柴家のご養子に迎えたき由に‥」

「ちょっと待ってくれ、滝川殿。いきなり養子などと、ちと性急すぎるのではないか」

 本多重次が慌てて、使者の口上を制した。

「はっ、仰せ、ごもっともでございます。よって、この場で応諾を得ようというのではござりませぬ。ただ、めでたき話ゆえ、内諾だけでも得て参れとのご下命でござれば、われら両名、徳川様の意の決するまで、ご当地に留まる覚悟でござりまする」

「ふむ。されば、とくと思案すると致そう。まずは今宵だけでも、この城に留まり、旅の疲れを癒されるがよかろう」

 戸惑を隠し切れない家康だったが、あえて、冷静さを保ちながら言った。すると、滝川雄利が返答した。

「はっ、有難き仰せ痛み入ります。誠勝手ながら、今一つお願いの儀がございます。わが殿秀吉より、そこに御座す石川伯耆守(ほうきのかみ)殿のご高名は数多く伺っております。我らも石川殿の様な聡明な家臣になる様、よく見習えと再三言われております。就きましては、伯耆守殿に肖(あやか)りたく、我らに陣羽織か旗を譲って頂くわけには参りませぬか」

 家康をはじめ周りにいた家臣は唖然とした。特に数正は驚きのあまり、

「な、なにをおっしゃる! 秀吉殿が何を申されたか知らぬが、その様な過大な賛美は無用でござる。お断り申す」

 これを聞いた他の家臣たちは、「なんだこれは?」「数正は秀吉に随分気に入られているではないか」「数正は寝返っているのではないか?」と益々疑心暗鬼で数正を見るようになってしまった。

 

 使者両名が退席したあと、最初に口を開いたのは、酒井忠次だった。

「願ってもない話ではござらぬか、殿。羽柴秀吉に実子はなく、いずれ跡継ぎは養子より選ばれましょう。徳川様の若君、於義丸さま、あるいは長松(秀忠)さまのいずれかが羽柴の後継者となられた暁(あかつき)には、一滴の血も流さずに、羽柴家は殿の手中に収まりましょう」

すかさず、本多重次が、反対の意を唱えた。

「とんでもござらん。養子というのは建前で、実際は殿の若君を人質にとるという肚ではござりませぬか。おおかた、殿の若君を囮(おとり)にして、いずれ殿を大阪城に呼び寄せ、秀吉の配下にでもするつもりでしょう。断じて、この件はお断りするのが至極当然でござろう。そうであろう数正」

 重次は、数正に同意を求めた。

「先ほど、酒井殿が言われた跡継ぎとしての養子は承服致しかねる。すでに秀吉の養子には甥・秀次があり、更に秀吉の正室ねね殿の甥も近々養子に迎えると聞き及んでおります。いずれにしても後継は羽柴家の血縁の者より選ばれましょう。ただ、この養子縁組が整えば、両家の盟友は深くなることは確か。ここは、じっくり考慮すべきかと存じます」

「うむ、数正の言う通りじゃ。ここは一晩でも二晩でも時間をかけて考えてみよう」

と言い残し、退座した家康だったが、翌日、早々に家臣と共にふたりの使者を広間に呼び出した。

 

「お使者に伝える。わが子・於義丸を羽柴家の養子として遣わすと致そう。日取り等々については追って知らせる」

いきなり、家康は言い放った。

於義丸とは、築山殿の侍女で後に家康の側室となったお万の子である。しかし、お万が妊娠した時は正室の築山殿が側室と認めなかった為、長い間、家康の子と認知されておらず、父子の対面すらなかった。そもそも、どの側室と子供を作るかを決める権限は正妻であり、正妻が認めた相手との子供だけが正式な一族の一員となる。しかし、お万もその子の於義丸も正妻である築山殿の認めるものではなかったのだ。

 

 武田と内通しているとの猜疑により築山殿が殺害されてから徳川家に入ったのは六歳の時であった。それから五年後、今度は養子という名目のもとで秀吉に人質に出される事となったのだった。

秀吉の使者たちは、意外にも早い内諾を家康からもらうと、喜び勇んで、大阪へと戻って行った。

 

 しかし、本丸の重臣だまりに集まった連中は、この養子縁組を喜ぶ者など誰もいなかった。

「きっと、あの使者たちと石川数正は事前に岡崎で打ち合わせし、何としてでも殿の若君を養子と偽り、人質にとろうと画策したに違いない」

「我らは、はっきりと反対しようぞ」

と、秀吉の人質要求を批難するより、石川数正への疑念を益々強いものにしていった。

そんなことを数正は薄々感じ取っていたが、翌日、家康へ提言した。

「殿、於義丸どのが、無事、秀吉の元で養子として扱われるか心配でござろう。この数正が於義丸どのに随伴し、養子として確信を得るまで、後見役として大阪に留まる覚悟でおりますが、ご承諾頂けますでしょうか。また、昨夜本多重次とも相談しましたが、小姓として数正次男・勝千代と、重次の嫡男・仙千代を伴わせて頂きたく存じます」

「おお、数正、行ってくれるか。かたじけなく思うぞ」

家康にとって、この数正の提案はおおいに願うところであった。自分もかつて今川に人質として出された。その時の寂しく辛い思いは誰よりもわかっている。ましてや子煩悩の家康が、我が子を喜んで人質になど出すものか。家康は、まさしく身を切られるような思いで於義丸を養子に出すのだった。

      徳川家康の懐刀と言われた武将 「石川数正