まつもと物語 その10

 戦国時代話

 

 松本も七月の半ばを過ぎると梅雨が終わり、盆地特有のうだるような暑さが続く。松本は比較的湿度は高くはないが、高原にでも行かない限り都会人が言うほどさわやか信州でもない。

 田岡の家も、夏の必需品といえば、扇風機、団扇、蚊取り線香、そして寝るときに絶対必要な蚊帳だ。多少の暑苦しさは夜になれば我慢できても、蚊に刺されることだけはは殊(こと)の外嫌いな安夫だった。健には子供部屋があったが、なぜか寝るときはふたり一緒だった。だから折角蚊帳の中で寝ていても、寝ぐせの悪い健は時々、足を蚊帳の外に飛び出すことが多い。そんな時に限って蚊が入り込み安夫を狙った。文句を言うのだが、寝相の悪さだけはどうにもならないらしい。

 

 健は夏になると、待ち遠しいことがあった。それは、お城の北側、消防署の隣の松本市民プールだ。泳ぐというか水遊びというか、とにかく健はもちろんの事、松本市民の夏の憩いの場所でもある。

 健が通う小学校は、その近くにある田町小学校である。四年後の昭和38年に旧開智小学校と合併して、新たな開智小学校が現在の場所に造られるので今はもう無い。新たな開智小学校は、木造が当たり前だった当時としては、初めての鉄筋コンクリート造りの近代的な校舎だった。現在の建物は平成10年に再建築され開智小学校の三代目である。因みに、田町小学校の跡地には、それまで丸の内にあった石川島芝浦タービンの附属病院を昭和43年に、そこに新築移転した。現在は、渚の奈良井川沿いへ再度新築移転したのだが、この「丸の内病院」も名前の通り、元々は松本城敷地に所縁(ゆかり)がある。

 

 清水先生は、その田町小学校から200mくらい北に進んだ沢村に自宅を構えていた。近所には「高橋家住宅」という三百年前の松本藩士武家屋敷があり、長野県でも最も古い時期の建物のひとつとして松本市重要文化財に指定されている。

 

 田岡がメモした先生の家の地図を見ながら、やっと探しあてた建物は、築40年ほどの和風平屋であった。大きめな庭石を積んだ塀の間にアジサイが群生しているが、暑さのせいか少し色褪せてきている。道路に面した白御影石の石段を数段上がると細目の縦格子戸の門がある。表札に「清水」と書かれていたので、ここで間違いなさそうだ。約束した10時より少し早いが玄関のベルを鳴らすと、五十代の奥様らしき婦人が迎えた。

「こんにちは。田岡と申します。清水先生とお会いする約束で、本日伺いました」

「いらっしゃい。主人から聞いております。どうぞお上がりください」

少し上品な感じの女性は、田岡の顔を見ると笑顔で案内してくれた。

 

 田岡は廊下を進み、書斎の入り口で「こんにちは、お邪魔します」と声をかけた。

「ああ、田岡君、待ってたよ。さあ、遠慮なく入ってくれ」

先生の書斎に入ると、壁には本棚が並び、大小の本がぎっしりと詰まっている。入りきらないのか棚の上にも天井に届くくらい積み重ねてある。背表紙を見ると、信長とか家康の文字がやたらと多く、いかにも戦国武将に関する本が多い。

本棚が重いせいか、畳が少し落ち込んでいるのがわかる。転倒防止のために本棚の下には折られた新聞紙が畳との間に差し込まれていた。

「古本屋で、時々買い集めていたら、いつの間にか本棚に入りきれない程増えてしまった」

と、頭を掻きながら言った。

「本当ですね。これだけ本があれば、先生いつか古本屋を始められますね。ははっ」

「休みといえば、殆どここで本ばかり読んでいるよ。君は武将の中で、誰が一番好きかね?」

「そうですね。僕は、真田幸村なんかが好きです。子供の頃、猿飛佐助とか霧隠才蔵がでてくる『真田十勇士』は何度も読みました。

「なるほど。『真田十勇士』は私も読んだが確かに面白いね。でも猿飛佐助や霧隠才蔵っていうのは、立川文庫が出版した物語に出てくる架空の人物なんだよ。ただ、三雲佐助賢春っていう人物が猿飛佐助のモデルになったという話もあるんだがね」

「へえ、そうなんですか。でも真田幸村は、かなり強くて家康を悩ませていたんですよね?」

と言いながら田岡は、猿飛佐助や霧隠才蔵が実在していたと思い込んでいたので、内心恥ずかしかった。

「そうだね。特に大阪の陣では、あわや家康の命を奪い取るところまでいき、相当手強い武将だったみたいだね。君も少しずつ戦国武将に興味持ってきたんじゃないかね?」

「実はそうなんです。僕も先日、図書館で伝記物の徳川家康の本を借りて今読んでいる最中です。まだ、信長と家康が武田勝頼を倒す長篠の戦いが終わった辺りまでですが、家康の人生って本当に波乱万丈ですよね。幼いころに人質になっていたんですね。その後も色々な武将から攻められたり、助けられたりして何度も戦をしてますよね。僕も少し前までは〈関ヶ原の戦い〉のイメージしかなかったのですが‥」

 

 先生は奥さんから運ばれた冷たい麦茶を一口飲むと、

「じゃあ、早速、石川数正の話をしてあげよう。君も徳川家康の本を読んだのであれば、今川義元の人質の時に石川数正が小姓として一緒に付いていった事は知っているね」

「はい。石川数正って人は、家康の幼い頃よりずっと有能な家臣として仕えていたんですよね」

「それなのに、秀吉に寝返った裏切り者という悪いイメージが付いているんだ。だが、なぜ寝返ったのかという本当の理由は今も謎とされている。今日は、そこのところから話をしようと思うがいいかい?」

「はい、お願いします」

すると先生はいきなり、背筋を正し、

「時は、群雄割拠の戦乱時代。信長に対し謀反を起こした明智光秀山崎の戦いで主君の仇を撃った秀吉。そして、尚もかつての上役であった柴田勝家を賤ケ岳の戦いで撃ち果たした。残るは最大の敵、家康との決戦を控えていた。豊臣方は十万、対して織田信雄徳川家康連合軍は三万。いよいよ最強の二大武将の戦い、小牧長久手の合戦が始まった‥ パン、パン!」

と膝を扇子で叩いた先生は、まるで昔の活弁士か講釈師の様な語り口調で話をし始めた。そう言えば、高校の歴史授業の時も清水先生はたまに戦国時代の話になると、熱く語るようになり、生徒たちが唖然としたことがあった。

「すまん、すまん。一度、講談師のまねをしてみたかったんだ。でも、小牧長久手の合戦の頃から話をしよう。これは、秀吉と織田信雄(のぶかつ)・家康連合軍との戦いなんだが‥」

と言って、今度は、じっくり話を始めた。それにしても、先生は昔とかわっていない‥と田岡は思った。

 

 

     小牧長久手の戦い

 

 天正十年(1582年)六月、織田信長明智光秀の謀反により本能寺で自刃した。長男の信忠も同時に妙覚寺で自刃した。それまで信長が天下を統制していたが、その後継者を誰にするかを決める為、清須城で信長家臣が集まり論争した。いわゆる「清須会議」である。これにより、羽柴秀吉が推した信長の嫡孫・三法師が継ぐことになった。しかし、それに反抗した三男の織田信孝を推していた柴田勝家は、賤ヶ岳の戦い前田利家の寝返りにより、秀吉に討ち取られ最後は切腹となった。

 残った次男信雄は、三法師の後見役として安土仮屋敷に入った。だが本来、家督を相続することを望んでいた信雄は、徐々に秀吉の傲慢なやり方に不満を持ち、秀吉が大阪城を勝手に築城したことをきっかけに、家康に助けを求めた。

この秀吉と信雄の関係の悪化は、敵対していた家康にとって、信長後継者の信雄の援軍という「大義名分」を抱え、秀吉との決戦となった。これが小牧長久手の戦いの始まりである。

 

 天正十二年(1584年)三月、家康はいち早く尾張小牧山城に陣を構えた。これに対し秀吉は犬山城に着陣し、しばらくはお互い相手の出方を伺う膠着状態が続いた。すると秀吉方の池田恒興森長可から、手薄になっている家康の本城の岡崎城を別動隊が奇襲し、家康を小牧城から誘き出すための「中入り」戦法を秀吉に提言した。この中入り戦法は、別動隊の動きが相手にばれると逆に兵力を減らすというリスクもあった。

 秀吉の許しを得て、別動隊は石川数正が守る岡崎城に向かったが、これに気付いた徳川軍が、密かに小牧城を抜け出し、この別動隊を左右後方から挟み打ちして撃退した(長久手の戦い)。これによって池田・森は討死に、総大将の羽柴秀次(後の豊臣第二代目関白)は徒歩で辛うじて逃げ帰るという失態を演じ、秀吉をひどく失望させた。

これを機に秀吉は兵を大阪に引き上げさせ、家康も岡崎城に戻った。

 

 その後も、秀吉と家康の小競り合いは続いたが、戦局が思わしくないと感じた秀吉は、合戦から半年以上経った11月、家康に気付かれぬように清須城で織田信雄と会い、和議を申し入れた。秀吉から言葉巧みに口説き落とされた信雄は家康に断りもなく和議を受け入れた。これを知った家康は憤慨したが、「大義名分」を失くした家康は戦いを終息せざる得なかった。しかし、元々この戦い、勝ってならず、負ければ身の破滅、つまり〈勝たず、負けぬ〉の戦いだったと家康は思っていた。

 

 戦いは、和議で終わった。だが、三河武士の戦意はそれで済まなかったのだ。

特に長久手の戦いでは中入り戦法の裏をかき、池田恒興森長可を打倒した榊原康政井伊直政は、勝利に酔い痴れている。確かにこの戦いは徳川軍の勝利だった。この勝ち戦に乗じて、強硬派である本多忠勝は楽田城にいる秀吉を討ち取るいい機会だと息巻いていた。しかし、これを強く制したのは石川数正だった。

 数正は尾張と接する西三河の旗頭を任じられていた。家康と秀吉の取次として双方に通じていただけに、大局的に情勢を判断することが出来た。局地的な勝利はあくまで一時の勝利に過ぎない。秀吉の背後には、秀吉に臣従した各地の大名が徐々に数を増している。例え家康が北条と手を組んだとしても数的には圧倒的に不利である。徳川を存続させるためにも、勢いだけで秀吉に立ち向かうことは、絶対に避けなければならない。しかし、このことを他の武将に説けば説くほど、数正に対する反感を買った。また、家康が数正の進言を受け入れた事により、数正に対し嫉妬する者も多かった。

 

「秀吉に我ら三河の力を見せつけるのは今をおいて他にはない。なぜ、お館様は動かないのだ。これも、きっと数正のせいだ。数正が、殿を気後れさせているに違いない。ひょっとして数正は秀吉と通じているのではないか」

などと根拠のない噂を吹聴し始めていた。しかし、家康もあくまで今は動く時ではないと判断し皆を強く抑えた。

 この時を境に、三河武士たちからの石川数正に対する風当たりは強くなってきた。

三河武士とは、真面目で忠義に厚く、辛抱強い。良く言えば質実剛健。しかし、その反面、頑固で意地っ張りであった。

 

 『小牧・長久手の戦い』 秀吉軍は中入り作戦の途中、長久手にて徳川軍に敗北

 

まつもと物語 その9

    古文書

 

 福島は時計をみると、もう正午を過ぎていた。

「話は一区切りしたところで、どうです、お昼ご一緒しませんか?」

三人とも席を立ち外に出ると、昨日から降り続いていた雨も止み、ネズミ色の雲の切れ目に青い空も覗いていた。

 皆は近くの食堂に入ると、小上がりの席に胡坐をかいて座った。壁には五目そば、親子丼、カレーライスなど多種多様のメニューと値段が書かれた札が並んで貼ってある。各々が注文し出されたお茶を一口飲むと、福島が訊ねた。

「どうです、田岡さん少しは参考になりましたか?」

「はい、思った以上に色々な歴史背景があるのには驚きました。小笠原一族も長い歴史の中で代々、時代に翻弄された生き方をしていたのですね。これからどうやって松本城を建てていくのか、早く聞きたいです」

すると、清水先生も、

「やはり、歴史は面白いね。私も小笠原一族や松本がこれほど、当時の戦国武将たちと関りがあるとは知らなかった。私も早く続きを聞かせて欲しいよ」

「わかりました。ところで先生、小笠原氏の初代当主がどこの出身かご存じですか? 実は甲斐(山梨県)なんですよ。源氏の血筋で加賀長清という武将なのですが、山梨西部の山裾(現在の南アルプス市)に小笠原という地名があり、そこから小笠原の姓を名乗ったそうです。しかも武田氏とは同族だったらしいです。信濃守護だった小笠原一族が同族の甲斐守護の武田に松本から追放されるとは予想もしなかったでしょうね」

「しかし、その三十年後、今度は武田一族が滅び小笠原氏が松本城主になるとは、因果だよね」

「そうですね。小笠原といえば、もうひとつエピソードがあります。

家康に従い三河に住んでいた小笠原貞頼(さだより)という人が無人島探検を家康に具申して伊豆の南海を航海したのですが、その時に貞頼は無人島をいくつも発見したそうです。そして、その島を家康の許可の元で「小笠原諸島」と名前をつけたらしいですよ。その後、父島に小笠原神社を建立し、その貞頼を祀ってあるそうです」

「えっ、そうなんですか? 遠く離れたあの小笠原諸島も小笠原一族と関わっていたなんて面白いですね」

 因みに、この昭和34年は小笠原諸島もまだアメリカの統治下であったが、日米間で小笠原復帰協定が締結されたのは、昭和43年の事であり、返還後は東京都の管轄となった。

「それから、松本のことを研究していると、色々興味深い事がでてきます。例えば、「松本」という名前がどうやって生まれたのか。その由来が何なのかということですが、実ははっきりしないのです。しかし、一番の有力説が、先ほど話をしました小笠原貞慶(さだよし)が深志城を「松本城」と名を変えた理由です。

 三十年以上放浪し、いつか深志城に戻りたいとの願いが遂に叶った気持ちを表した「待つこと久しくして本懐を遂げた」の文面から、待つが「松」となり、本懐の「本」をとって「松本」としたという説です。真実はわかりませんが、何となく郷愁を感じませんか?」

 

 三人は昼を済ませると、また博物館の研究室に戻った。福島が話を始めようとすると、田岡が、

「すみません、お話の続きを伺う前に、お渡ししたい物があります」

と言ってカバンから茶封筒を取り出した。そして中の手紙を慎重に取り出しテーブルの上に置いた。

「この手紙を、こちらの博物館で鑑定して頂きたいのですが、宜しいでしょうか?」

「かなり、古そうなものみたいですね。これをどうされたのですか?」

「実は、私の大叔父は大工なのですが、若い頃松本城の修理工事の際見つけたらしく、ずっと自宅に保管していたものです。見つけたのは明治の末頃だと言っていました。前々から市役所に返したいと思っていたのですが、機会を失い渡せずにいたらしいです」

「明治の末の修理工事といえば、小林有也先生が先頭にたって行なった天守閣保存運動「明治の大修理」のことですか。お城が相当傷んでいて、大変な工事だったと聞いています。その時に見つかった手紙ということですね。詳しくはしっかり鑑定してみないとわかりませんが、もしかすると相当貴重な古文書かも知れませんね」

「大叔父ももっと早く返さなければと、申し訳なさそうにしていました。どうか、宜しくお願い致します」

清水先生も、その手紙を覗き込むように見ると、

「福島君、この手紙の宛名が石川玄蕃頭(げんばんのかみ)殿って書いてあるね」

「確かに、そうですね。そうすると、送り主は、この大久保… う~ん読めないな。 ああ、これ「藤」と言う字かな。そうか、大久保藤十郎大久保長安の息子ですよ。きっとそうだ! 内容は、調べないとわからないな。先生、大久保長安はご存じですよね」

「ああ、勿論知っている。彼の死後は謎だらけだ。大勢の人が切腹しているからな。これはひょっとして歴史を調べる上で、何か重要な手掛かりになる手紙かもしれないな。福島君、すぐこの古文書を調べたほうが良さそうだよ」

「そうですね。早速、鑑定します。ところで、田岡さんの大叔父さんは、これを松本城のどこから見つけたと言ってましたか?」

「はい、大叔父が言うには、大天守の最上階で、天井の梁とか垂木が入り組んでいるところらしいです。その内の一本に窪みが掘ってあって、そこに隠すように油紙の包みが入っていたそうです」

「最上階の天井ですか。きっと、桔木(はねぎ)のところですね」

「そうそう、桔木構造とか言ってました」

「そうですか。大天守の天井に間違いないみたいですね。田岡さん、これ、お預かりしてもいいですよね」

「勿論です。でも、大久保長安ってどんな人物なのですか?」

徳川家康勘定奉行だった人です。彼の死後、大問題が発覚して、その影響で松本藩主石川康長へも飛び火したのです」

「はあ、そうなんですか…」と田岡は答えたが何が何だか、さっぱりわからない。福島と清水先生はふたりで話が盛り上がっているが、田岡はひとり蚊帳の外だった。

しばらくして、福島が申し訳なさそうに田岡の顔を見た。

「田岡さん、大変申し訳ありませんが、この古文書を早急に鑑定してみたいので、小笠原氏と松本城についての説明は、後日改めてという事では駄目でしょうか?」

「わかりました。何だかこの手紙は貴重な資料の様ですね。話の続きは後日でも結構です。いずれまた、時間をとって頂ければ有難いです」

「田岡君、今日は残念だが改めて時間をとってもらおう。福島君、鑑定が終わったら我々にも内容を教えてもらえんかな?」

「もちろん、ご報告いたします。田岡さん、本当に申し訳ありません」

「いえ、こちらこそ、今日は色々勉強させて頂き、本当にありがとうございました」

「では我々はこれで失礼するとしよう」

福島は、玄関まで見送りにでてくれた。もう、外は気持ちが良いくらいにすっかり晴れていた。

そびえ立つ様に見える天守閣の屋根がまだ雨後の露に濡れており、それが午後の日差しを受けてキラキラと光っていた。抜けるような真っ青の空を背景に、松本城は相変わらず美しかった。そして、自分に何かをうったえている様な気もした。

 

「田岡君、今度私の家に遊びに来ないか? 戦国時代の話を詳しくしてあげるよ。そうだ、ついでに初代松本城主の石川数正の話もしてあげよう。結構、興味深い人物だよ」

「ぜひ、お願いします。先生のご都合が宜しければいつでも伺います。また、電話頂いても宜しいでしょうか?」

清水先生は「わかった。じゃあ、また」と言って軽く片手をあげ自宅へと帰って行った。

 田岡も帰り道をしばらく歩いたところで、ふと、傘を玄関に置き忘れたことに気が付くと、また博物館に戻った。

すると、玄関で丁度出掛けようとしている女性がいた。女性が田岡に気が付くと、

「安夫君、また戻ってきてどうしたの? 何か忘れ物?」

「あっ、妙子ちゃん、そう、傘を忘れたんだ。妙子ちゃんは今からどこかへ行くところ?」

「ええ、近くの店まで研究室の事務用品を買いに行くところなの。さっき、福島さんから聞いたけれど、安夫君、なんかたいへんな物を持ってきたみたいね。福島さん、なんだかとても興奮していたよ」

「そうなんだよ。大久保藤十郎って人から石川藩主宛の手紙らしいけど、そんなに興奮するような物なのかなあ。僕には全然、わからないけどね。ところで、妙子ちゃん久しぶりだよね。まさか、博物館で働いてるとは思わなかった」

「私、高校卒業して、一般の会社に勤めようかとも思ったけど、前から松本の郷土史に興味あったのね。それで、博物館で働きたいと思い、とりあえず事務員として面接に受かったというわけ。でも、最近は小学校の生徒たちが博物館に見学に来ると、私が説明員として案内しているのよ。

それでね、私、今も学芸員の資格目指して勉強中なのよ。でも難しすぎて何度もくじけちゃう」

「へえ、すごいな。妙子ちゃん、頑張り屋さんだから大丈夫だよ。資格取れるよう僕も陰ながら応援するよ」

「安夫君、市役所に勤めているんだってね。お互い、職場が近いわね。また、今度ゆっくりお話しましょう」

ふたりは、大通りにでると、小さく手を振って別れた。

 

       松本城最上階小屋裏  桔木(はねぎ)構造 

まつもと物語 その8

  天正壬午の乱

 

「では、これから、松本を制した武田信玄についてお話させて頂きます。

武田信玄が、松本を侵攻したのには、理由があります。もちろん領土を拡大したいという野望も持っていたでしょうが、ひとつは、海に面する土地、いわゆる重要な塩を確保する為と貿易をする港が欲しかったのです。つまり、目的は港を持つ越後を自領にする為で、松本はあくまでその中間点だったのです。

 

 もうひとつの理由として、この時代領土を広げるには移動手段となる街道の確保が重要となります。その点、松本は重要な街道の交差地なのです。例えば、関東・甲府・松本を結ぶ甲州街道、京都・岐阜・松本を結ぶ中山道糸魚川・松本を結ぶ千国(ちくに)街道、高山・松本を結ぶ野麦街道、長野・松本を結ぶ善光寺街道など、ほとんどの街道の起点となっています。これら街道を抑える為にも、松本はどうしても手中に入れたかった土地だったのです」

田岡は、福島の差し出した旧街道の地図を見ると、

「あっ、本当だ。確かに松本はすべての街道の起点となっていますね。ここを信玄が狙うのは当然ですね」

「そういうことです。信玄は信濃の中南信での戦いを制すると、すぐさま松本で築城にとりかかります。 

 それまで小笠原氏の本拠地だった林城は焼き払い、それに代わり絶好の場所として深志城に目をつけました。なぜなら、松本は先ほど言いました各街道のちょうど起点地であり、また、次の目標である北信濃を侵攻する拠点としても深志城は便宜が良かったからです。そしてその後、深志城を本拠地とした武田氏の統治は32年間続きました」

「えっ、武田信玄って松本に32年間も統治していたんですか? なんだか意外です」

「でも、その武田信玄のおかげで松本城松本市の基盤が造られたといってもいいんですよ。

 

 信玄はもともと湿地帯だった深志城の周りに内堀・外堀や土塁の他にも武田流築城術の馬出(うまだし)をつくり防御力の強い城づくりをしました。これが、後の松本城を造る原型となります。幸いにも女鳥羽川と薄川が流れ込み、それがお堀づくりに役立っていました。中でも女鳥羽川は北から流れてきた川が清水あたりから縄手通り沿いにほぼ直角に曲がり西へ流れていますが、このL字になっている女鳥羽川がお堀の役割をしていて、好都合だったのです。この女鳥羽川を西に直角に流れを変えたのは武田信玄が行なったという説もありますが、これは、あまり根拠が乏しく真偽のほどは疑わしいです。

 また、この地は扇状地のため湧水が多く、貴重な飲料水を確保することが容易でした。そしてお城のまわりには武家のほかに商人や町人の住む街をつくり、それが、後の松本城下町のベースとなります。各街道の物流が盛んで遠方の商人が売りに来た様々な品を街中の店がまとめて買い取り、それを地元の人に売って商売する。こういった流れで松本は商業都市としても発展していったのです。ですから、松本城と城下町、そして商業都市は、武田家が最初につくったといっても良いと思います」

「そうすると、小笠原長時を追放してから、信玄はずっと、松本を本拠点にしていたのですか?」

「いいえ、松本を支配下にしていましたが、そこに信玄が長く居た訳ではありません。先ほど言いました通り、目的は越後ですので、その後は北信濃長尾景虎いわゆる上杉謙信と『川中島の戦い』を30年近く繰り返しました。ですから、信玄自身不在でしたが、松本は甲斐と越後を結ぶ大事な中間的拠点として、30年以上かけて武田家が小都市に造り上げたということです」

 

 福島が説明していると、清水先生が身を乗り出して、

「話の腰を折ってすまないが、私にもちょっと武田信玄の話をさせてもらってもいいかな?」

「先生どうぞ、是非、補足をお願いします」

「ありがとう。じゃあ早速だが話をさせてもらうよ。

 その武田信玄は松本を制圧した後、次は小笠原長時が逃げ込んだ北信濃村上義清を攻めたんだよ。村上義清は北信濃ではとても強い戦国武将で、五年ほど前に一度戦っているんだが、その時は武田軍が敗北している。信玄にとっては連勝を重ねてきた信濃攻略で初めて敗れた相手だったから、雪辱を晴らす気持ちで村上軍を攻めたと思うよ。結局武田軍に追い詰められ、村上義清は親戚でもある越後の長尾家に逃げ、救援を願ったことから始まったのが、有名な『川中島の戦い』だ。だから、この戦いで上杉謙信としては、信濃の村上氏に頼まれたから信玄を迎え討つという〈大義名分〉のもとに、武田信玄と戦ったというわけだよ」

いかにも歴史教師らしく清水先生の話に、ふたりとも頷いて聞いていた。

「先生、村上義清までご存じとはさすがです。ちなみに、この村上義清正室は小笠原長棟の娘(長時の妹)で、村上家と小笠原家は親戚なんです。だから、信玄に追われた小笠原長時父子は、最初、村上義清を頼ったと言われています」

 

 福島は更に話を進めた。

「この川中島武田信玄上杉謙信と戦っている間、松本は、武田の属国となっていた木曽谷の領主・木曾義昌が、信玄に代わって統治していたのです。

しかし、その後、信玄が病死し、息子の武田勝頼が織田・徳川連合軍に『長篠の戦い』で敗れ、武田家が滅びると木曾氏は信長に仕えるようになり、松本、安曇を治める様になりました。しかし『本能寺の変』が勃発すると、木曾義昌も信長という大きな後ろ盾を失い無力となり、ついに信濃国は誰も統制する者がいなくなる空白状態になってしまいました」

 

 すかさず、清水先生は咳払いをして、お得意の戦乱時代の話を始めた。

「いま話にでた武田氏滅亡、本能寺の変など、これら一連の出来事はすべて天正十年の一年間に起きた戦なんだ。これを『天正壬午(てんしょうじんご)の乱』というんだが、信濃国と旧武田領の土地をめぐり北から上杉、南から徳川、東から北条、西から木曾義昌が攻め、これに真田昌幸が加わった。まさに信濃・甲斐の奪い合いが続いた国盗り合戦の年でもあったんだね。

 

 この天正10年はまず、『天目山(てんもくさん)の戦い』といわれる信長が甲斐武田一族を攻め滅ぼした戦いが3月、秀吉が毛利軍と和解した『備中高松城の戦い(水攻め)』が4月、明智光秀が謀反を起こし信長を自刃させる『本能寺の変』が6月、続いて秀吉が謀反の光秀を討ち果たす『山崎の戦い』が同6月、家康と北条氏が甲斐の若神子で領土争いのため対立する『若御子(わかみこ)対陣』が7月にあった。それから豊臣政権の発端となる『清須会議』もこの年だったね」

「さすが、清水先生! まるで歴史の教師ですね」

「おい、おい、まるで…じゃなく、現役の歴史教師だよ ははっ」

そこで、今度は田岡が質問した。

「ひとつお聞きしたいのですが、先ほど『天正壬午の乱』で信濃と甲斐を奪い合いしたという事でしたが、結局その結果、信濃はどうなったのですか?」

 これには、福島が答えた。

「そうでしたね。結論から先に言いますと、家康の領土になりました。信濃国は何人もの武将が狙っていて、最終的に家康と北条氏政の争いとなったのですが、羽柴秀吉や信長の次男・織田信雄(のぶかつ)から和睦の勧告があり、信雄の仲介で講和が結ばれ、甲斐・信濃は家康に、上野国(群馬)は北条の領土とし、以後お互い干渉しない事と決まったのです。ただ唯一、逆らったのは上田の真田昌幸で、真田は上杉と組んで家康に対抗したのです」

清水先生が、それに続き、

「しかし、この天正十年から二年後の『小牧・長久手の戦い』や四年後の『九州征伐』など秀吉の天下取りの戦いがひと通り終結すると、結局、信濃国も秀吉配下になるんだがね」

田岡は、福島と清水先生の説明を聞き、大きく頷いた。

 

 

     小笠原氏復帰

 

 福島の話は、更に続いた。

「でも、松本の地が豊臣支配下になるのは、もう少し先です。では、その間、松本は誰が治めることになったか田岡さん、わかりますか?」

「え~と、よくわかりませんが、やはり、小笠原氏ですか? でも三十二年前、確か小笠原長時は三男の貞慶(さだよし)とふたりで、長い放浪の旅にでたという事でしたので、松本に小笠原氏はいなかったはずですが‥」

と、田岡は書きとったノートをめくりながら答えた。

「はい、そうですね。実は、信長が本能寺で自刃したことを知った松本の地侍たちが集まって、一気に自立に向け動き出したのです。つまり、自分たちの国主を誰にするか選ぶため相談を始めたのです。

 武田家が滅び、今の木曾義昌では松本城主に適任ではない、越後の上杉の配下になるか、三河岡崎の家康に属するかという様々な意見が出たのですが結局選んだのは、元来、松本の城主は小笠原氏であり、小笠原氏なら誰も文句はないという結論になったのです」

 

 ここから、話は佳境に入り小笠原氏の復活となるので、福島はお茶を一口含むと、一気に話を進めた。

「そして、長時と一緒に越後に逃れた弟の小笠原洞雪斎(どうせつさい)(小笠原貞種)が上杉景勝(謙信の養子)のもとに居る事がわかると、早速、洞雪斎を松本に呼び戻しました。そこで、洞雪斎は景勝の支援により家臣の梶田・八代の両将と二百騎の兵に守られ、府中松本に入ると、地侍と共に深志城にいる木曾義昌を攻め落とし、木曾谷へ追放しました。

ようやく、深志城に小笠原氏が入ることになったのですが、この洞雪斎という人は上杉家臣の梶田・八代の言いなりでしたので、旧小笠原家臣たちは、次第に洞雪斎に不信感を抱き始めました」

 

 田岡と清水先生は黙って話の続きを聞いていた。

「その頃、放浪の旅に出ていた小笠原長時会津蘆名(あしな)氏へ招かれ、息子の貞慶(さだよし)は小笠原家の家督を継ぎ、徳川の家臣となっていました。

この貞慶を旧家臣たちは探し当て、洞雪斎に知られないように使者を送り松本に招致しました。小笠原貞慶自身、前々から信濃に戻りたいと願っていたので、これを即承諾し家康の許しを得ると、途中数百人の兵士を抱え深志城の叔父・洞雪斎を攻めました。

 

 実は、この戦いは、洞雪斎を支援する上杉と貞慶を援護する徳川との代理戦争でもあったわけです。そして、このたった一日の戦いで敵味方、少なくとも数百人の犠牲者が出た様です。しかし、城に籠っていた洞雪斎は貞慶が同じ小笠原氏の一族あり遺恨もないため和解に応じ、その結果、洞雪斎は退き貞慶を正式に深志城の城主として迎えることとなりました。

 洞雪斎に代わって深志城に入った貞慶は、思えば武田軍に父長時と城を追われてから、実に33年ぶりの深志城奪還でした。貞慶の元にはぞくぞくと旧家臣が集まり、城の名前も深志城から『松本城』に改めたのです」

 

 話が終わると田岡は思わず声をあげた。

「貞慶にとって、積年の思いを晴らすような気持ちだったのでしょうね。よく33年間も耐えましたよね。貞慶や旧家臣たちは、この日をどれだけ待ち侘びていたかと思うと、私も少し感動しました。ところで、小笠原貞慶信濃に戻った後は、やはり家康の配下になったのですか?」

「そうです。もともと、放浪中も三河(静岡)に住んでおり、家康の家臣となっていたので当然ですね。でもその家臣の証として、息子の貞秀を家康に人質として差しだしたのです。その貞秀(後の松本藩主・秀政)は家康の家臣・石川数正に預けられました」

 

            松本を中心とした街道図

 

          武田家滅亡後の信濃・甲斐への国盗り合戦

 

まつもと物語 その7

小笠原一族

 

 松本も六月に入ると梅雨の時期となる。ただ、松本は他県に比べそれ程長雨は続かない。どちらかと言うと曇りの日が多く、時々雨が降るという感じだ。したがって、湿度もそれ程不快ではない。

しかし、その日は昨夜から小雨が降り続いており、安夫は博物館まで傘を差して歩いて来た。すると玄関ホールに傘やズボンの裾を払っている人影があった。

 

「あっ、先生、おはようございます。すみません、お待たせしました。先生もだいぶ、濡れましたか?」

「おはよう。いや、私も今着いたところだ。よく降るね。まあ梅雨だから仕方がないか」

ふたりは、早速、受付で福島学芸員を呼び出してもらうと、廊下の奥から男性が歩いてきた。

「おはようございます。先生、ごぶさたしております。雨の中、わざわざ来て頂き恐縮です。さあ、こちらへどうぞ」

 

少し、肥満気味の福島に案内され、研究室のひとつと思われる奥まった部屋に通された。

「先生、お元気でしたか。七、八年前の同窓会以来ですよね。先生から電話頂いて嬉しかったです」

「君も変わりないねえ、と言いたいところだが、前より少し太ったかね? あははっ。そうだ、紹介しよう。こちら、松本市役所にお勤めの田岡君だ。彼も私の教え子だよ。電話で話した件、実は彼からの依頼で、どちらかというと私は付き添いだ」

田岡は、名刺を差し出し、軽く会釈をした。

「田岡と申します。観光振興課という部署におります。今日は、松本城のことを色々教えて頂きたく伺いました。お忙しい処、申し訳ありませんが宜しくお願い致します」

「福島といいます。こちらこそ、よろしくお願いします。私たちの研究している事は、今後すべて市役所へもレポート提出していきます。これからも長いお付き合いになると思いますよ。さあ、どうぞお掛けください」

 

 その時、ドアが開き、女性職員がお盆にお茶を乗せて入ってきた。

軽く会釈をし、「どうぞ」と言ってテーブルに置いた。安夫は、なにげなくその女性の顔をみて、はっとした。左の頬に二つ並んだ小さなホクロに見覚えがある。

「妙子ちゃん?」

女性は少し、驚いたように田岡の顔をみた。しばらく黙っており、なぜ自分の名前を呼ばれたのか不思議そうにしていた。

福島が、その様子を見て、

「田岡さん、お知合いですか? 花岡さん、田岡さんを知っているの?」

それを聞いて女性は、

「えっ、田岡さん? ああ、安夫君! 随分変わったので、ごめんなさい気が付かなかった。お久しぶりです。」

相手の女性もやっと思い出したようだ。田岡も人違いではなかったとホッとし、改めて福島に説明した。

「はい、花岡さんとは小学校と中学の同級生です。偶然会ったので僕も驚きました。中学卒業以来です」

 彼女は小学生の頃、おかっぱ頭だったが、今は髪の毛も長く大人の女性になっている。しかし、あの頃の面影ははっきり残っている。安夫も中学までは坊主頭だったので、最初妙子も気が付かなかったのだろう。

中学の時はクラスが違ったが、同じ図書委員で話は時々交わしていた。

 

 田岡は、もう少し話をしたかったが、福島や清水先生もいる手前、軽く挨拶すると彼女も部屋を出て 行った。

彼女の後姿を見ながら、田岡安夫の頭の中には、あの頃の思い出がよみがえった。安夫が、小学校二年の時である。図工の時間に隣の生徒の顔をお互いに鉛筆で描くという授業だった。安夫の隣は妙子だった。 安夫は絵が得意であったが妙子の顔を丁寧に書きすぎて、完成せずに先生に提出した。自分でもすごく 上手に描けたと記憶している。その時、二人でお互いの顔を見つめあった時間が子供心にすごく嬉しかった。妙子は瞳がとても奇麗だったので特に目のあたりを丁寧に描いたことを覚えている。

 もうひとつの思い出は、学校帰り、どういう経緯(いきさつ)か覚えていないのだが、お城の回りをなぜか二人して 歩いた。ずいぶん歩いた後、「源池の井戸」の横で二人並んで座り、ポケットに入れてあったキャラメルをふたりで食べた記憶もある。今から考えると、あれは人生初デートだったのかもしれない。

 

 田岡が子供の頃の思い出に浸っていると、清水先生の声で我に返った。

「ところで福島君は今年、いくつになったかな」

「はい、今年で36歳です。卒業して20年近くなりますね」

「そうか、そんなになるのか。どうりで福島君も貫禄がつくわけだ。じゃあ、田岡君の12、3年くらい先輩ってことかな」

「失礼ですが、先生はおいくつになられました?」

「私かね。私も58だ。もうそろそろ、定年退職だ。私も引退したら、本格的に日本史の研究をしたいと思っているよ。今日は私も一緒に勉強させてもらうけどいいかな」

「とんでもない、先生に教えるなんて。でも先生が歴史好きなので私も嬉しいです。私も松本の歴史のことでお役に立てれば研究のやり甲斐があるというものです」

福島は、そう言いながら、用意していた資料を机の上に並べた。

「田岡さん、どんな話からすればいいでしょう? 松本城の歴史ですよね」

「すみません、私は生れも育ったのも松本なのですが、松本市役所職員として恥ずかしながら松本城やこの城下町がどうやって出来たのか、全く知識がありません。出来ましたら、まずお城が出来る前は誰がどの様に、この土地を治めていたのかを教えて頂きたいのですが。小笠原氏が元々統治していたということだけは本で読みました」

そう言うと、田岡もカバンから聞き取り用のノートを取り出した。

 

「わかりました。では、年代を追って話していきます。質問があれば、その都度おっしゃって下さい」

福島は田岡に対しなるべくわかりやすい様に話を始めた。

「田岡さん、長野県の県庁って、今は長野市ですよね。でもちょっと時代をさかのぼって奈良時代って、どこにあったと思いますか?」

奈良時代ですか。すみません。よくわからないですが、やはり今の長野市あたりですか?」

「残念ながら違います。実は、この松本にあったのです。田岡さん、学生の頃に歴史の時間で先生から「大宝律令」って習いませんでしたか?」

「はい、最初に中学で701年って習ったと記憶していますが、清水先生からも教えて頂いたと思います」

清水先生の方を見ると、黙ってニコニコしていたが、田岡は詳しい説明をする自信がなかった。それより、そんな古い時代から話が始まったので少し驚いた。

 

 福島はなおも話を続けた。

「当時、政治の中心は天皇、いわゆる朝廷が政権を握っており、その拠点は奈良の平城京でしたが、地方の政治も含め国をどうやって治めるか、それが課題でした。そこで制定されたのが「大宝律令」でこの律令制に基づいて地方の行政区分を律令国とか令制国といいました。その律令国のひとつが、「信濃国」と呼ばれた今の長野県です。そして、その律令国を中心となってまとめる人が「国司」で、国司がいる場所が「国府」です。だから今でいう県知事と県庁のようなものです。そうですよね、清水先生」

清水先生は、相変わらず頷くだけで黙って聞いていた。田岡はまるで学校の授業を聞いている様な思いがした。

 

「と、まあ奈良時代の説明はこれくらいにして、今言った国府が以前は上田にもあったようですが、その後、松本に国府を置き、それ以降、信濃国は松本を中心に行政が行われ続けたのです。それほど、この松本平は地理的にも政治的にも信濃において要の土地だったのです」

「やはり、昔から松本は政治の上でも重要な土地柄だったのですね。益々、松本の歴史に興味を惹かれます」

「その後の鎌倉時代では、源頼朝武家政権を確立させ、武士が政治を司る様になりましたが、足利尊氏が京都室町に幕府を遷(うつ)した頃から国司から「守護」に代わり、その場所も国府から「守護所」という言い方になりました。そして室町時代になると、その土地の有力武士の頭領が守護となり、のちの大名になってその国を支配する様になったのです」

 

「その間、呼び方は代わっても、松本がその先もずっと信濃国の県庁のような場所だったわけですか?」

「そうです。では、信濃国守護大名を代々司ったのは誰だったか。田岡さんご存じですか?」

「確か、小笠原氏ですよね」

「その通りです。初代当主小笠原長清も最初は鎌倉幕府に仕えていたのですが、室町幕府になってからは、七代目当主の小笠原貞宗(さだむね)という人が初めて信濃国の守護となり、松本の井川館(井川城)が守護所となりました。ここからその後の松本の歴史が始まったと言っていいでしょう」

井川城って南松本駅の北側にある所ですよね。本当に井川城というお城があったからその地名になったんですね。ところで、小笠原氏が守護となる前は、松本は誰が支配していたのですか?」

「その時代、朝廷の任命する官僚もいたのですが、地方の政治は、その土地の地侍や豪族と呼ばれる勢力を持った一族が個々に一定の土地を支配していました。松本平もいくつかの豪族が各々の土地を支配していたようです」

「わかりました。そうすると、信濃の国を最初に統制したのは、やはり小笠原氏ということですね」

「はい、そうです。信濃に土着して約百年間代々小笠原氏が井川城で守護を務めていましたが、十三代当主・小笠原清宗(きよむね)が家督を相続し守護となってからは、林城という山城を築城し、ここを本城として井川城から移ったのです。長禄(ちょうろく)三年、西暦で言うと1459年の事です。」

 

福島は黒っぽい表紙の「小笠原史資料」「東筑摩郡 誌」と書かれた本を傍らに置き説明を続けた。

林城っていうお城はどこにあるのですか?」

里山辺です。薄川の南側にある林という地名の場所です。ちょっとした山の中ですね」

「そうなんですか。でもなぜ、井川城から林城へ移ったのですか?」

「実は、長く続いた小笠原家にも内部分裂があって、本家である松本府中小笠原家から、鈴岡小笠原家と松尾小笠原家(飯田市)の二派が分かれ本家と対立していた時期が続いたのです。その鈴岡小笠原家が諏訪氏と組んで、府中松本を攻める様になり、林城へ移ったという訳です」

「同じ小笠原家同士で争いごとが起きたということですね。でも、なぜそんな不便な山の中に城を建てたのですか?」

「それまでの井川城は松本平のほぼ中央にあったのですが、ここは平地ですので、ひとたび攻撃されると防ぎようのない場所です。なので、薄川の中腹にある小高い山の中に防御力のある山城を築城し、攻撃に備えたのです。これが、林城跡地の見取り図です」

と言って、福島はテーブルの上に林城の図面を広げた。そこには細長い集落を挟んで北の大城(金華山城)と南の小城(福山城)の二つの山城があり、それぞれの尾根の上にたくさんの石垣や堀をつくった様子がわかった。

「そして、この林城を本城とし、井川城は支城(出城)としました。支城は他にも犬甘(いぬかい)城(城山)、桐原城山辺)、稲倉城(岡田)、平瀬城(島内)、清水城(島立)など林城を囲むようにたくさん造り、本拠地・林城の守りを固めました」

福島は別の地図を広げると、そこには、松本平の支城の位置を示す分布図が描かれており、確かに林城を囲んで十五箇所くらいの支城が記されていた。

「その後も長い年数、府中本家と鈴岡家は対立と和睦が繰り返されましたが、案の定、支城のひとつだった井川城が鈴岡家に攻められ陥落されました。その代わりとして、15代当主小笠原貞朝(さだとも)が家臣・島立右近貞永に命じて、新たな林城の支城として深志城を造りました。これが、後の松本城の元になる重要なお城です」

福島の小笠原家の話は中盤に差し掛かり、やっと松本城という言葉が話の中に出てきた。

「こんな状態が70年くらい続いたのですが、16代当主の小笠原長棟(ながむね)が、とうとう敵対していた鈴岡家と松尾家を内倒し、分裂していた小笠原氏は再び統一されました。

小笠原氏の前段の話は、ここまでとして少し休憩にしますか。いかがですか? だいたいご理解いただけましたか?」

 

といって福島はお茶を口に運んだ。すると、清水先生が椅子から立ち上がり少し背伸びしながら、

「いままでの話は、鎌倉時代から室町時代にかけての歴史だよね。すると、ここからは私の好きな戦国時代に突入していくという訳だね。いよいよ、武田信玄が現れて来そうですね」

「そうです。宜しければ、話の続きをしますが‥」

「お願いします。深志城って松本城が出来る前に建っていたお城なんですね」

と田岡も話を促すように姿勢を変えた。

「では、話を続けます。でも、まだ松本城が出来るのは、もっと先のことです。先ほど、分裂した小笠原氏が統一したと話しましたが、その頃、甲斐の守護大名武田信玄が徐々に信濃を侵攻してきたのです。最初は伊那へ出兵し、高遠城を陥落させると、佐久を攻め、続いて諏訪を手中に収めました。

 更に塩尻峠を越えようとした時に、17代当主小笠原長時(ながとき)がこれに対抗しました。長時は弓馬に優れた勇猛な武将だったのですが、軍略に長けた武田軍に寝込みを襲われ、激戦の末、小笠原軍は敗退しました。この時の戦いを「塩尻峠の戦い」と言われています。その後も武田勢の侵攻はそのまま続けられ、遂に松本への侵攻を始めました。とにかく、当時の武田信玄の軍勢は強く、誰も敵う者がいませんでした」

 

 更に福島はまるで自分が戦場を観て来たかの様に話を進めた。

武田晴信(信玄)は松本を攻略する上で、まずは村井に本拠地の城をたて、すぐさま、中山にあった林城の支城のひとつである埴原(はいばら)城を即日陥落させたのです。これをきっかけに、小笠原軍は武田の勢力に恐れをなして、寝返る者や逃亡する者が後を絶たず、林城は戦わずして自落しました。こうなると、どの支城もまともに戦う者がなく、武田勢としては簡単に松本を制圧出来たのでした」

「そんな最強の武田軍団に小笠原軍がとても勝てる相手ではなかったということですね」

「そうなんです。それで塩尻峠の戦いで敗れ本拠の林城を失った小笠原長時は三男の貞慶(さだよし)と共に、親戚だった北信濃の武将・村上義清を頼り敗走しました。これから、この二人の長い放浪の旅が始まります」

 

福島は、田岡が必死でノートにメモをとり、眉をひそめた様な顔をしているのを見て、

「ごめんなさい、少し話が早すぎて分かり辛いですか?」

「はい、ちょっと、色々な人物の名前がでてきて、頭が混乱しそうです。もう一度、整理してもらっていいですか?」

「そうですね。それでは、分かり易いように小笠原家の代々の当主を書き出してみましょうか」

福島は、部屋の壁にある黒板に上から順に名前を書きだした。さながら学校の授業そのものだった。田岡もノートの新しいページを開き、それを書き写した。

 

初代当主 小笠原長清(ながきよ)1180年 鎌倉幕府 源頼朝に従事する      

7代当主 小笠原貞宗(さだむね)1334年 初代信濃守護 井川城に守護所を置く  

13代当主 小笠原清宗(きよむね)1459年 井川城から林城へ居城を移し本城とする         

15代当主 小笠原貞朝(さだとも)1504年 島立右近貞永に命じ深志城を築城    

16代当主 小笠原長棟(ながむね)1534年 分裂していた小笠原家を統一する      

17代当主 小笠原長時(ながとき)1550年 武田軍に林城の戦いで敗北 北信濃へ逃走    

 

「福島さん、ありがとうございます。だいぶスッキリしました。小笠原家って初代長清から代々四百年も続いているんですね。もしかすると、江戸幕府の徳川家より長いんじゃないですか?」

「はい、この後の松本藩の第二代城主も小笠原家ですから、確かにそうかもしれませんね」

「すごいなあ。小笠原家って松本において重要な家柄なんですね」

「更に小笠原家は代々受け継いでいるものがあるんです。田岡さん、よく小笠原流って聞きますよね。『弓・馬・礼の三法』といって弓道馬術・礼法も小笠原流が起源なのです。馬を走らせながら矢を的に当てる流鏑馬(やぶさめ)ってご存じですか。これも小笠原流派のひとつです。そして小笠原流煎茶道というのもありますが、長時が放浪しているときも先祖伝来の三法を絶えさない様に苦労しながら各地で伝授したおかげで、小笠原流は現代にも息づいているんですよ」

「すると、小笠原一族の中でも、小笠原長時はとても偉大な人物のようですね」

「そうなんです。長時は、最も偉大で苦労した人物だと、私はそう思っています。長時は確かに武田信玄には敗れ、三男の貞慶(さだよし)を連れ三十年も放浪の旅を続けていましたが、武術や作法を身に付けていたので、将軍足利義輝上杉謙信織田信長など有力武将から指南役として重宝され、各大名からも客分として扱われた様です」

田岡も、小笠原長時を心酔するように福島の話を聞いていた。

      林城(本城)周りを支城で固める  深志城がのちの松本城

 

    歴代の小笠原家  第17代当主小笠原長時(1514年~1583年)

まつもと物語 その6

 新組織

 

 翌日、田岡はいつもの自転車で新庁舎に向かった。通勤途中の松本城が今日も漆黒の姿で雄大にそびえ立っている。青空に浮かぶ白い雲、遠くにわずかに雪が残っているアルプス。爽やかな風が顔にあたって気持ちがいい。いかにも五月晴れの朝だった。庁舎に着き五階建てのビルを見上げると、なぜか顔がほころぶのが自分でもわかった。

 

 田岡は、新庁舎の三階にある環境課に席を置いていた。職場は広いフロアに部署ごとの間仕切りはなく廊下側に長いカウンターを設け、市民が事務所に入りすぐ受付出来るようなレイアウトとなっていた。以前の狭い旧庁舎ではありえない間取りである。

そして、新庁舎になって、何より嬉しいのは建物内にエレベーターがあることだ。初めて乗った時は、皆で「わおっ~」と言って歓声を上げた。松本地域でこのエレベーターがある建物は、信州大学に次いでこの松本市役所にしかなかった。

 しかし、引っ越し後の整理はまだ完全に終わっておらず、フロアの隅にはまだたくさんの書類が入った段ボール箱が積み重なっていた。職員達もまだ新しい庁舎に慣れきっていない様子である。

部長が朝礼で挨拶を始めた。内容は新庁舎完成に伴い、組織も大幅に変更するとの事だった。

 新しい組織表が皆に配られた。田岡は従来の環境政策課から観光振興課に異動となっていた。「詳しくは各課長から個別に話を聞くように」との事だ。以前から組織変更があることを皆承知していたが、自分がどこへ異動するのかは知らされていなかった。

 

 順番に会議室で個別に面談し始め、田岡の番がきた。

「失礼します」と部屋に入り、課長を前にして所定の椅子に座った。

「ああ、田岡君、引っ越しご苦労様でしたね。田岡君は今まで、市内の環境保全や美化推進を中心に行なってもらっていたが、今度の部署は新しく創設した部門だよ。観光振興課というところだ」

「はい。観光振興課といいますと、どの様な仕事内容でしょうか?」

「簡単に言うと、松本市をりっぱな観光都市として確立する仕事だ。松本は、松本城を始め、城下町として歴史と文化のある街だ。ここに大勢の観光客を誘致できる様に市内の環境を整え、松本の良さを他県に アピールして、もっと知名度をあげる街づくりをして欲しいのだ」

「市内の環境を整えるとは、具体的にどの様なことをしていくのでしょうか?」

「従来の市街の衛生・美化はもちろんのこと、街の景観を城下町にふさわしいデザインすることだ。例えば、公序良俗に反する店構えや貼り紙、構造物を完全に撤去し、駅や商店街にも松本城と城下町の雰囲気を強く醸(かも)し出し、訪れた観光客が「松本はとても素敵なところ、また是非来たい」と言ってもらえる様にすることだ。どうだ、イメージはわくかい?」

「はい、仕事の主旨は理解できました。ただ、やるべきことが多すぎそうで何から手をつけたら良いか迷います」

「新しく出来た部署だから、多少戸惑うのは無理もない。草間係長がこれからの直属上司となるから、彼の指示で今後仕事をするように。いいかい、頑張ってくれよ」

「はい、わかりました。私も松本市民として良い街にしたいと思います」

田岡は席を立とうとしたが、思い出したように、

「あっ、課長。 先日、前の庁舎で報告しました古文書の件ですが‥」

「そうだった。ただ、庁舎内にそのような古文書を直接取り扱う部署がないからなあ。しかし、大事な歴史資料かもしれないから、田岡君すまないが、それを博物館に持っていき事情を話し鑑定してもらってくれないか」

その博物館の前身は旧開智学校内にあったが、何度か移転を繰り返し昭和27年、松本城二の丸にあった松本中学講堂の跡地に、新たに松本市立博物館として開館した二階建て木造建物である。

 田岡にとっては、十年前に通った丸の内中学があった場所だった。今、思うと臨時校舎とはいえ松本中学だった建物をそのまま利用し老朽化が進んだ粗末な校舎だったという印象しか残っていない。

 その後、昭和43年に建替え「日本民族資料館」の名称併記で開館し、更に令和五年大手町に新築移転となった。

翌日、田岡は仕事の合い間をみて博物館へ行った。ところが、入り口に「改装中につき閉館」と書かれた 看板が置かれていた。近くにいたヘルメットを被った作業員に聞いたところ、内装工事をしているとの事で、 あと二、三日かかるとの事だった。

受付に預ける事も出来たが、田岡は、担当者に直接会って渡し、少しでもその内容を教えてもらいたかったので、日を改めることにした。結局、また茶封筒を自分のカバンに戻したのだった。

 

     図書館

 

 次の日曜日、田岡は家で昼食を摂(と)るとすぐ松本図書館へ向かった。

現在、城の北側に地方裁判所松本支部があるが、平成三年に現在の開智小学校北に移転される以前は、この敷地に武徳殿(武道活動していた武徳会の道場)の建物を利用した図書館があった。 

 

 田岡はその図書館で松本城に関する書籍を探した。ぎっしりと並んでいる書棚の中から「松本郷土史」を取り出し、近くのテーブルに座った。本を開くと細かい文字で松本の歴史に関する文章が詰まっていた。1500年代の小笠原氏に関する内容が事細かく書かれているが、解りづらい文章ばかりで読解に苦労し頭を抱えた。

 安夫がふっと頭を上げた時、斜向かいに座ってやはり黙々と本を読んでいるひとりの中年男性に目が留まった。見覚えのある風貌だ。「ひょっとして?」と思いつつ安夫は身体をずらし、そっと顔を覗き込んだ。

「あの~、すみません、清水先生ですか?」

「えっ!」と顔をあげると、訝しげに田岡の顔を見た。

「僕、田岡です。田岡安夫です。深志高校の清水先生ですよね。以前、先生のクラスでお世話になりました」

そこまで言うと、やっと思い出したように

「ああ、田岡君か、すまない、あの頃とすっかり変わっていて気が付かなかった。すっかり社会人になったなあ。卒業したのは、五、六年前だったかな」

「はい、28年度卒業です。どうも、ご無沙汰しております」

「そうだ、確か東京の大学に進学したんだったな。今、どうしているんだ?」

「卒業して去年地元松本に戻って、いま松本市役所に勤めています」

「そうか、市役所職員になったのか。よかったなあ」

その時、近くに座っていた学生らしき男が、大きく咳払いをして黒縁のメガネの奥でこっちを睨んでいた。

「田岡君、時間があれば、近くの店でコーヒーでも飲まないか? 私もそろそろ図書館を出ようと思って いたところだが」

「はい、是非お供します。私もちょっと相談ごとがありますので‥」

清水先生は、高校の国語と歴史を担任していたが、特に日本史に詳しく授業中では冗談やダジャレを 言い、よく生徒たちを笑わせていた。比較的厳格な教師が多い中、親しみがあって面倒見がよく少し剽軽なところもあり、生徒たちからは好かれていた。

 

 ふたりは、松本城を迂回して大名町通りにでると、道路右の小さな喫茶店に入った。ドアベルが鳴る扉を開け、奥の席に座った。最近改装したらしく小洒落た感じの店である。炒(い)りたての珈琲豆の香りが店内を漂っていた。夜はお酒を出すのかカウンターの後ろには色とりどりの洋酒が並んでいる。

清水先生はコーヒーを注文すると、

「さっき、来るときに見たんだが、新しい市役所は大きくて立派だなあ。上土の庁舎と比べると雲泥の差だ」

「はい、最近引っ越しが終わって、やっと落ち着いたところです」

「田岡君、市役所では、どんな仕事をしているのかね?」

「まだ、部署が変わったばかりですが、今はこの街を松本城中心とした魅力ある観光都市にするため、街中の環境を整える仕事です。とは言っても、まだ始めたばかりで具体的な仕事はこれからですけど。ところで、清水先生は、今も高校で国語と歴史の学科を担任されていらっしゃるのですか?」

「そうだよ。私個人的には日本史が好きで、日本史の面白さをもっと生徒に色々教えてあげたいのだが、最近は大学受験のための勉強って感じがする。どういう問題が試験に出そうだとか、ここの箇所は押さえておけとか、そんなことばかりだ。まあ、進学校と言われているから仕方ないけどな。あっ、教師がこんな愚痴言ってる様じゃダメか。あははっ」

田岡は、改めて先生に向き直ると、

「先生、それで、お願いしたいことがあるのですが、宜しいでしょうか」

「なんだね、お願いって」

「先ほど、松本を観光都市にする仕事と言いましたが、実は僕自身、松本城をいつ、誰が、どの様に造ったのか、そしてこの城下町もどんな経過で出来上がったのか全く知らないのです。さっきも、図書館で調べようとしたのですが、本が難しすぎて中々理解出来ませんでした。それで、宜しければ先生にどうやって松本の歴史を勉強したら良いのか教えていただきたいのです」

「そうか、松本城の歴史か‥ったということぐらいは知っているが、それ以上の事は残念ながら私もわからないんだ」

先生は、しばらく考えて、

「私も、少し勉強してみるよ。そうだ、私の教え子に松本市の郷土を研究している福島君という学芸員がいる。彼から色々聞いてみるのもいいかもしれないな。なんだか私も興味がわいてきた。どうだ、今度私と一緒に彼を訪ねてみようじゃないか。確か、今も松本私立博物館で研究しているはずだよ」

「博物館でしたら、僕も先日行きました。その日はたまたま、改修工事で中に入れませんでしたが、もうすぐ工事は終わるはずです。是非、先生と同行させてください」

「そうか、じゃあ私から博物館に電話して福島君に会える日程を相談してみるよ。決まったら、君にも連絡することにしよう。連絡先は市役所でいいのかな?」

「はい、僕は今、観光振興課というところにいます。これ僕の名刺です。ここに電話して頂いても宜しいで しょうか?」

「ああ、わかった」

 

店を出ると、

「今日は、ありがとうございました。先生、お住まいはどちらでしたか?」

「沢村だよ。機会があったら遊びおいでよ。よかったら、信長や家康の戦国時代の話をしてあげるよ」

「はい、ありがとうございます。では、失礼します」

田岡は、松本の歴史を調べる事に行き詰っていたが、偶然にも清水先生に相談できて嬉しかった。

 

 それから、二週間が経ったが先生からの電話はなかった。きっと高校の教師として忙しいのだろうと半ば諦めていた頃、

「田岡さん、三番に外線です。清水さんという男性の方です」

と女性職員が声をかけた。

田岡は「あっ、来た」と心の中で叫び、すぐさま受話器をとった。

「もしもし、田岡です」

「もしもし、清水です。連絡遅くなってすまなかったね。学芸員の福島君がしばらく出張に行ってた様で中々約束を取り付けできなかったんだ。それに、私も学校の行事が少し忙しくてね」

「いいえ、先生、お忙しいところ大変お手数をおかけしまして、申し訳ございませんでした」

「それでね、来週の土曜日だったら、先方も都合がいいらしいんだ。田岡君の予定はどうかね?」

「はい、土曜日でしたら、僕も大丈夫です。博物館に直接行けばいいですか?」

「では、十時に待ち合わせしよう。いいかね」

「はい、宜しくお願いします」

 

 田岡は、以前から上司へ観光誘致の仕事の一環として、松本城や城下町の歴史について研修させて欲しいと願い出ていたので、今回の博物館学芸員から説明を受けてくる事を報告した。また、保管していた松本城から出てきた古文書を提出する事も伝えた。

 

         松本市内地図 松本城の東側 松本市役所

                  松本城

                 松本市役所

まつもと物語 その5

  新庁舎

 

 翌日、田岡は旧市役所に向かった。旧というのは、この四月にお城の東に新しくできた市役所に移転することとなり、ここ数日、その引っ越し作業に追われていたのだ。

旧市役所は上土町の女鳥羽川沿いにあり、大正二年に木造二階建ての庁舎が完成してから46年間ほど使用されてきた。しかし、建物内は当初より狭苦しく不都合が多かったようだ。時代と共に行政内容が煩雑となり、職員の人数も増え市民への対応も不十分であることから、もっと広い建物に移転することとなった。    

 ちなみに、跡地は六階建て松本市営住宅上土団地として、旧市庁舎をモデルに大正ロマン風の建物が 現存している。敷地内には「松本市役所旧跡」と書かれた碑がある。

 

 庁舎に入ると、あちらこちらに段ボールや風呂敷が積み重ねてある。書類も散乱している。そんな中、上司も自分の机の前で書類を箱詰めしていたが、田岡が古文書のことを報告すると、   

「そうか、しかし、今はどこの部署も引っ越し作業でかなり忙しいだろう。そんな中でその古文書がどこかに紛れて、間違って捨てられでもしたら大変なことになる。申し訳ないが田岡君、新しい市役所に引っ越しが終わって落ち着くまで、君の家で大切に保管しておいてくれないだろうか?」

「はい、わかりました。私が責任もって管理致します」

田岡は、古文書の入った封筒をカバンに戻すと、自分も引っ越し作業に取掛った。

 

 結局、古文書をしばらくは、自宅の自分の部屋で保管することにした。しかし、自宅に帰った田岡はその手紙の内容が気になり、もう一度そっとその手紙を開いてみた。改めて見ても、くねくねとした毛筆で書かれた文字はかなりのくずし字であり多分書いた人のクセもあるだろう、所々読めそうな漢字があるが文章的に繋がらない。ただ「大久保」「石川」の漢字ははっきりと読めた。つまり、昔の大久保という人が石川という人宛に書いた手紙らしい。だが、肝心の手紙の内容が全く分からなかったので、田岡は諦めて手紙を元通り封筒にしまった。

 

 翌日以降も、田岡たちは皆、連日、大量の書類や什器を新庁舎に移した。大型のトラックで書類の入った段ボール箱を何度も運搬したり、不要になった大量の書類を建物裏の焼却炉に放り込んだりして、誰もが汗だくで作業を続けた。その甲斐あって、ようやく四月の末には引っ越しが完了した。

 

 そして、五月一日、松本市役所新庁舎が完成し業務が開始された。初日は新庁舎のお披露目とあって、大勢の松本市民が見物を兼ねて訪れた。特に物珍しかったエレベーターの前には長蛇の列が並んでいた。降旗市長(全日本花いっぱい連盟会長兼務)が市民の前で挨拶していた。安夫も訪れた市民の対応に奔走して目が回るほどの忙しさだった。だが、新しい庁舎で働けるのが嬉しくて堪(たま)らなかった。

 

 新庁舎は鉄筋五階建で、屋上六階には展望室まである。この展望室から見下ろす松本城とアルプスの景観が、ほんとうに素晴らしかった。松本市民には、一度は訪れて欲しい絶景の場所である。建物は全体が縦窓で統一され、デザイン的にも斬新で、以前の上土にあった狭い木造庁舎とは比較にならない近代的ビルであった。

 また、隣には日本銀行松本支店も庁舎より一年前に本町(現松本郵便局)から移転新築していた。そして、道路の右斜向かいには外堀を埋めた場所に松本裁判所庁舎がある。明治41年に建てられた入母屋屋根で寺院の様な厳かな大きな平屋は、いかにも格式の高い建物である。この場所は元々二の丸御殿があり、そこを筑摩県の県庁舎として使用していたが、明治九年六月、火事で焼失しその跡地に建てられたものである。

 この裁判所庁舎は70年ほど使用され老朽化のため昭和57年に解体されたが、貴重な建物であったので現在は松本博物館の分館として島立「歴史の里」に復元されている。

 

 

     縄手通り

 

 その日、田岡安夫は定時を過ぎると庁舎から通勤用の自転車に乗り城西町にある自宅に帰った。いつも通り居間で丸いちゃぶ台を囲み家族全員で夕飯をとった。テレビで流されていた「日本プロレス中継」が日本中大人気である。特に力道山が外人プロレスラーを空手チョップで倒す場面は日本人にとってなぜか恨みを晴らすようで最高に盛り上がった。

 田岡家でも、至って義父はプロレスが大好きで外人レスラーが投げ飛ばされると手を叩いて喜んだ。

だが、弟の健(たけし)はそれほど興味がなさそうに、

「ねえ、お兄ちゃん、今度の日曜はお仕事休み? お城の遊園地に連れてって」

と甘えた声でせがんた。

「お母さんに連れてってもらいなよ」

と断ったが、結局、母とも一緒に三人で松本城の西側にある遊園地へ行く事になった。

 この遊園地は、二年前の昭和32年に完成し子供たちの憧れの場所である。特に飛行塔は人気があり、今日は日曜日とあって家族連れが列をなして順番待ちであった。健も母とこの飛行機型の乗り物で、20mほどの高さの鉄塔の回りをグルグルと旋回した。健の嬉しそうに、はしゃいでいる姿を安夫は下から見守った。

「ああ、面白かった。また乗りたい」

健は満足そうに言うと、すぐ今度はお猿の電車、回りブランコ、豆自動車と次々と母にせがんで乗せてもらった。

 

 しばらく、遊園地で遊ぶと、健はすぐそばにある松本城を指さしながら聞いた。

「ねえ、お兄ちゃん、あのお城は誰が造ったの? 昔のおサムライさん?」

聞かれた安夫は一瞬、答えに困った。

「そうだね。昔のお侍さんはすごい物つくったんだね」

と返事をしたものの、実際、いつ、誰が、どうやって造ったのか、まったく知らなかった。

普段、松本市が好きとか、松本城はカッコいいとか言っているが、何も知らない自分が情けなかった。

 そもそも、松本城や城下町ができる前は、松本ってどんな所だったんだろう? そんなことを考えると不思議な思いもする。この時いつか、しっかりと調べてみたいという思いに駆られた。

 

 三人は、内堀の近くまで歩いていくと、城の西側には朱色の埋橋(うづみばし)というクランクに折れ曲がった欄干橋が堀に架けられている。橋の途中の少し広くなっている場所で、お堀の中をみると、たくさんの大きな鯉が泳いでいるのがわかる。ここを通ると突き当りに小さな門があったが、閉まっており通り抜けることは出来ない。

 現在、この橋は老朽化して通行止めになっているが、朱色の橋と天守がとてもマッチしてここは最高の撮影スポットである。しかし、この橋は歴史的な建造物ではなく、昭和30年に観光用としてつくられた近年の橋である。

 

 健と手をつないで歩いていた母が、「ついでに四柱神社でお参りしていこうよ」と言うので、大名町通りを通って三人は縄手通りに向かった。正式な読み方は「よはしら神社」なのだが、多くの松本市民は「しはしら神社」と呼んでいる。

 縄手通りという名前の由来は、城の総堀を造る際、その外側に張る水縄(昔の測量用具)の線を水繩手といい、総堀と女鳥羽川との間にできた細い道が「水繩手道」と呼ばれたことからだ。明治以降は松本城下の南端の総堀を埋め立て特異な盛り場となった。この縄手通りには年中露店が軒を並べ、大勢の市民が店を覗き込みながら往来している。

 

 ちなみに、総堀(惣堀)とは外堀の更に外側に本丸を囲むように掘ったもので、現在の四柱神社が建っている場所も元は総堀だった。また、西堀という地名の場所や松本神社・地方裁判所の北側も昔は総堀だった。今は殆ど埋め立てされ、松本市役所東庁舎の東側にその総堀の名残りとして一部だけ残っている。

縄手通りに入り少し進むと大きな鳥居があるが、四つの祭神(天照大神など)を四柱に祀ったことでこの名称になっている。

 この四柱神社の社殿を建立したのは、総堀を埋め立てた後の明治12年になってからで、翌年13年には明治天皇もお迎えしている。しかし、明治21年4月松本大火災により焼失し、大正13年に再建した比較的新しいお社である。松本市民からは神道(しんとう)さんの呼び名でも親しまれている。

 

 三人は、神社に入ろうとしたが、健がいきなり安夫の後ろにかくれ、怖がるようにそっとのぞいて見た。

鳥居の柱の横に三人の傷痍(しょうい)軍人がいたのだ。横には白い布で「傷痍者更正募金」と書かれてた箱がおいて ある。

戦闘帽を被り、白い軍の病衣を着て白い布マスクをしている。それぞれ、片腕を失くし義手を付けたり、片足を失くし茶色の木製義足を付けている。もう一人は両足を失くしたのか小さな箱車の上に座って大きく俯(うつむ)いている。二人はアコーディオンとハーモニカで悲しそうな軍歌を奏でていた。目の前にひしゃげたアルミカップが置かれている。母は五円玉をそっと放り入れた。

「お国のために戦った人」という風に見てもらい、通行人から同情をかい物乞いをしている。

戦争が終わり十四年も経っているのだが、この人たちにとっては、まだ戦争が終わっていないらしい。

 

 参拝が済んで、母は伊勢町でちょっと買い物をしたいというので、商店街をブラブラした。すると、またしても健が「はやしや百貨店」に行きたいと母の手を引いた。

買い物は口実で、健の目的は、屋上の小さなゴーカートがある遊園地だ。

「今日はだめよ。さっきお城の遊園地で遊んだばかりでしょ」

と言って店の前を通り過ぎた。健はちょっと拗ねて見せたが、すぐあきらめ母の後を追った。

 すぐ横で「チンチンドンドン、チン、ドンドン」と鉦(かね)や太鼓を鳴らしながら、歌舞伎役者の様な化粧をした三人のチンドン屋さんがパチンコの新装開店チラシを配りながら練り歩いていた。

 

 はやしや百貨店というのは、井上と並んで、松本の二大デパートだった。しかし昭和48年に廃業し、その跡地の中央一丁目の公園通りには「信州ジャスコ」が出来、更にその後の昭和59年、大型商業施設の「松本パルコ」に建替えたが、これも閉店となった。立地環境は悪くないのだが、時代とともに郊外の広い駐車場のある大型スーパーへ客は行ってしまう様だ。

        松本城西側公園の飛行塔 昭和34年頃 (現在は解体済)

まつもと物語 その4

郷原街道

 

 次の日曜日、安夫は家を出ると松本駅へ行く前に商店街へ向かった。今町通りまでくると、右手に大きな百貨店(井上デパート 明治十八年創業)があり、屋上から幾つものアドバルーンが上がっている。大きな赤い気球の下には『紳士服は井上で 販売中』と書かれた垂れ幕が風になびいている。

 その百貨店の前には、東西に長く延びた六九商店街がある。何年か前にアーケードが造られ、その屋根のおかげで雨や雪の日であっても買い物は本当に便利になった。

六九というのは妙な名前だ。以前、近所のおじさんから、

「江戸時代に、このあたりに馬屋が五十四棟あってな、六掛ける九が五十四だから、六九といったんだ。はははっ」

 この時、おじさんのつまらない冗談だと思ったが、どうやら、その話は本当らしい。

その通路は洒落た石畳で舗装された歩道で、その商店街には大勢の人が往来している。ここは年中、車両通行禁止となっており、言わば歩行者天国だ。中に入ると通路には、たくさんのワゴンが置かれ、そこにぎっしりと古本が詰め込まれてある。今日は古本市らしく面白そうな本が並んでいるが、用事があるのでグッと我慢した。お茶屋さんの店先では、客寄せの為わざとお茶を煎じており、なんとも言えないくらい良い香りをまき散らしている。安夫はその隣の和菓子屋に入り、手土産用の菓子をいくつか買い商店街を出た。

 木造二階建ての松本駅前に着くと、さすがに往来の車が目立つ。自家用車、オート三輪、市内バス、タクシーが何台もゆっくり流れている。突然、後ろで「チン、チン」と大きなベルが鳴った。駅前通りを走る一両だけの路面電車だった。屋根の上のパンタグラフと電線がときどきパチッパチッと小さな火花を見せた。

 この路面電車は本通りをまっすぐ東に進み、突き当りの信州大学文理学部(現在は重要文化財旧制高等学校校舎)の前をほぼ直角に北に折れ、浅間温泉まで行く電車である。途中何か所にも停車するが二十分程で到着する。聞くところによると、この急カーブを曲がり切れず度々脱線したという。その度に数人の大人がバールを持って軌道に戻したらしい。

 カーブを曲がり暫くするとその先は道路がまだ舗装されておらず、結構、土煙がたつので時々散水していた。ちなみにこの通称「チンチン電車」は大正12年から40年間市民の足となっていたが、昭和39年に車の交通量が増えると共に道路が混雑するという理由で市民から惜しまれながら廃止となった。

 安夫は小銭を出し塩尻までの切符を買った。駅構内に入ると、入り口で国鉄駅員が手慣れたハサミでパチパチ音を鳴らしながら、切符の端に小さなM字型の切れ目を入れた。足元には切られた紙片が散らかっている。しばらくホームで待っていると、列車が入ってくる。この頃には石炭を燃料とした蒸気機関車は煤煙が不快だと乗客から苦情が強くなった為大幅に減少し、代わってディーゼルエンジンが主流となった。 

 ホームに入って来たこの列車もいわゆるディーゼル機関車である。五年ほど前、安夫達家族で直江津に海水浴に行った時は、大糸線は汽車(蒸気機関車)だった。トンネルに入る際、誰かが開けていた窓を閉め忘れ、車内にへんな臭いの煙が入ってきて、皆が大騒ぎしたことを思い出した。

 松本から新宿へ行く列車は、安夫が大学に入った年の昭和29年に準急列車アルプスが登場し一日一往復だった。現在の特急あずさが運行開始したのは昭和41年であり、当初は一日二往復しか運行していなかった。

しかも、塩尻から諏訪へ行く為には辰野回りだったので、更に時間も三十分ほど多くかかった。塩尻ー岡谷間の塩嶺トンネルが開通したのはそれから二十年後の昭和58年である。だから、安夫が松本から新宿へ行くには四時間、夜行列車だと六時間もかけなければならなかった。

 塩尻駅に着いた。駅前は松本駅とは全く違い、人も車もまばらだった。ここ塩尻は三月までは塩尻町だったが、この年の昭和34年4月1日付けで広丘や片丘と合併して塩尻市になったばかりだ。

 バス停で郷原行の時刻表をみると、次のバスまで四十分以上待つこととなる。安夫は歩いていく事にした。郷原までの道のりは草ばかり生えて舗装などされていない轍(わだち)の残る歩きにくい道だった。周りは畑ばかりで民家もまばらである。どちらかと言うとブドウ畑が多く目立つ。老舗のワインメーカーもこの地にある。

 また、この辺り一帯は桔梗ヶ原といい、昔、甲斐の武田信玄信濃に侵攻した際、戦場となった場所でもある。この〝桔梗が原合戦〟に勝利した信玄がその後、何年も信濃を領地として支配していたという歴史がある。

 三十分ほど歩くと、郷原街道に着いた。ここは善光寺街道とも呼ばれ、幕府支配下中山道とは違い、江戸初期に松本藩によって造られた宿場街である。道の両側には町家家屋と街道との間に二間(約3.6m)の前庭を置くことが定められていたので、とても美しい景観の宿場街である。

 江戸や大阪から多くの善光寺参拝客が途中の宿場として利用したらしい。建物の殆どが本棟造りといって、正面の玄関の上には大きくゆるい勾配の切妻屋根となっており、屋根の棟(むね)には雀おどしと呼ばれる棟飾りが建物全体に威厳を感じさせている。現在は宿として営んでいる家は殆どないが、いまでもそれぞれの玄関横にその旧宿の屋号の札(伊勢屋、川上屋など)が掛けてあるのが見られる。

 

 少し先に行くと、右手に郷福寺(きょうふくじ)があった。古井戸跡とその横に「高野山真言宗 桔梗山郷福寺」と書かれている碑(いしぶみ)がある。ここも昔は大名の宿泊宿として利用したらしい。本堂前には俳人松尾芭蕉も訪れたのか芭蕉の詠まれた句碑もあった。その郷福寺の横に東に向かって細い道が続いている。200m程進むとその先に叔祖父(おおおじ)の田岡敏夫の家があった。母に地図を描いてもらったが、ここまでくると子供のころ母と来た記憶がよみがえった。

 

 さほど、大きくはない二階建ての母屋とその横に土蔵が並んでいる。手拭いを頭に被った年配の女性が畑で何やら作業をしている。安夫はその女性の背中に向かって、

「おばちゃん、こんにちは」

と声をかけた。振り向いた顔は少し日に焼け、額にうっすらと汗が光っていた。

「エッ、ああ、安夫ちゃん?」

一瞬驚いた様だったが、やがて顔がほころび笑顔になった。

「安夫ちゃんじゃないの! まあ、よく来たねえ。すっかり立派になって、おばちゃん見違えちゃったわよ」

前掛けの土ぼこりを手で軽く払い落としながら、

「はあるかぶりだねえ。さあ、さあ、家におあがり。お父ちゃんも家にいるからさあ」

と言う大叔母(おおおば)に安夫は案内され、玄関の敷居をまたいだ。

「こんにちは、安夫です。おじゃまします」

と叔祖父に聞こえるように少し大きな声をだして内に入った。

 

 居間に入ると、縁側で大きなひじ掛けの付いた籐の椅子にゆったり腰かけている叔祖父の姿が見えた。

「おお、安夫君か、久しぶりだな。大きくなったなあ。もういくつになった?」

「やだなあ、もう子供じゃないですよ。今年二十三になりました。ほんとにお久しぶりです。小学校のころ母と来た以来かなあ。そうだ、これ松本駅前で買った美味しいお菓子です。よかったら皆さんでどうぞ」

と和菓子の入った紙袋を大叔母に渡した。

「まあ、これはご丁寧に。安夫ちゃんありがとね。あとで頂くわ。今お茶いれるからゆっくりしてってね」

そういうと、台所へ支度しに行った。

 

 安夫は大叔父の顔を見ながら、子供の頃の記憶では筋肉質のがっちりした印象だったので、少しやせたかなと思った。

「おじさん、身体こわしたって聞いたけど、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ。心配かけてすまないね」

お茶を運んできた大叔母が、口をはさんだ。

「お医者さまが言うには、軽い脳梗塞だっておっしゃるんだ。しばらく安静にして様子を見てくださいって。詳しくは近いうちに、また検査するそうよ」

「大した事がなければいいけど、やっぱり心配ですよね。今も大工さんの仕事を続けてるんですか?」

「いや、最近は身体がいうこと効かなくなったから、しばらく休んでるよ。もうわしも年かな」

今年、七十歳になった敏男は身体をさすりながら、笑って答えた。

「お父ちゃん、去年まではそこの郷福寺の補修工事もしていたのにね」

「なあに、ちょっと仲間の大工に頼まれて、少し手伝っただけだ。たいした仕事じゃなかったよ。だが、わしも昔はお寺や神社の建て替えや改築工事をよくやったもんだ」

「へえ、宮大工だったんですね。すごいなあ。尊敬しちゃう。匠(たくみ)の技ってやつですね」

「あははっ、そんな、たいそうなもんじゃないよ。安夫君もずいぶんお世辞がうまくなったもんだ」

安夫も案外、大叔父が元気な様子で安心した。

「安夫くん、昼はまだだよね、よかったら蕎麦でも食べていくかい。うち母さんの手打ち、なかなかいけるんだよ」

敏男は大叔母に向かって

「おい、母さん、安夫君に食べさせてあげたらどうだ」

「そうだね、安夫ちゃん、ちょっと待っててね。おばちゃんが今、美味しいお蕎麦用意するからね」

「えっ、お蕎麦ですか? うれしいなあ。お願いします」

「ところで、安夫君は今どんな仕事をしているんだね?」

「はい、去年から松本市役所に勤めています」

「たしか、高校卒業して、東京の大学へ行ったんだよね。大学卒業して市役所勤務か。本当にたいしたもんだ」

大学に合格したことは安夫の母から聞いていたらしく、敏男もうれしそうに言った。

「公務員になれたのはよかったのですが、まだ、わからない事ばかりで、毎日先輩から叱られています」

松本市役所か‥

「あった。確かこの袋だ」

そう言って、少し色あせた茶封筒を安夫の前に置いた。

「実は、安夫君にこの中に入っている物を市役所に返して欲しいんだ」

「えっ、市役所に返すって、何か借りていたんですか?」

「いや、そうではないんだ。実は、言いにくいことなんだが‥」

敏男は籐椅子に座りなおして、ゆっくり話を始めた。

その話というのは、敏男が若い頃、松本城の修理工事に携わったというところから始まった。

 

 松本城は、明治以降何度も危機的状況を迎えていた。

徳川幕府大政奉還後、明治維新が進むと、全国の天守が無用の長物となり、他県の城郭と共に松本城も破却の候補となった。

 

 明治四年(1871年廃藩置県により、それまで全国260あった藩がなくなり、「府」と「県」をつくり明治政府が中央集権化し行政を行うようになった。これにより、今まで各大名の持ち物で藩庁となっていた城が事実上役目を終えた為、明治六年には全国に廃城令が公布された。

この「廃城令」は城をすべて廃棄しろということではなく、明治政府として利用価値があるものは残すが、それ以外は廃城し、城の土地や資材(天守・櫓・門など建物や樹木)はすべて競売の対象となり、民間に売り払うというものだった。

 事実、一般の民間人が買い取るケースもあったが、主に地方公共団体の庁舎(市役所)や学校の用地として売却された。そして、松本城も大蔵省によって競売にかけられ、天守閣が235両、付合物を合わせて計309両で笹部六左衛門という個人に売却されてしまった。現在の金額で1千万円位と思われる。

 これを知った長野県初の新聞「信飛(しんぴ)新聞」を発刊していた市川量造は、天守がみすみす壊されてしまうことを憂い、これを買いもどそうと尽力し自分の私財を投げうち東京・大阪で募金を集めたり、有志らと松本城で博覧会を五回開催し、その収益でなんとか松本城を無事買い戻すことが出来た。

 

 二度目の危機は、松本城が長年の風化により、瓦や壁は剥げ落ち、更に大きく傾いてしまい倒壊寸前の状態であった。その様子を見かねたのが、当時城内の二の丸に建築されていた松本中学校の初代校長小林有也(うなり)である。小林は松本の人々の賛同を得て「松本天守閣保存会」を立ち上げ、広く募金を集めて修理に取掛ったのである。その工事は明治36年から大正2年までの十一年間かけて行われた。これが住民の力を結集した松本城「明治の大修理」である。

その後、昭和11年天守が国宝に指定され、昭和25年から五年間にわたり、今度は国の事業として天守の解体修理「昭和の修理」が行われ、現在の松本城が見事に復元されたのである。

 

 大叔父の敏男の話は、その「明治の大修理」に携わったころの話であった。

「俺がまだ大工見習の頃だったが、親方から松本城の修理工事が始まるからお前も手伝えって言われ、それから、ずっと親方についてまわったんだ」

「それって、いつ頃の話ですか?」

安夫は身を乗り出して、敏男の椅子のそばに座りなおした。

「確か、明治の終わりころだったと思うよ。完成したのが、大正二年だったからな」

 目を細めながら、敏男は話を続けた。

「最初に松本城を見たときは、さすがにびっくりしたよ。なんせ、壁のあっちこっちにひび割れができて、屋根瓦は崩れ、草がぼうぼう生えて、何といっても天守の最上階が傾いていて、いつ崩れるんじゃないかと思ったよ。天守建物の中に入ることすら、みんな怖がって文句言っていたのを覚えてる」

「そんなに酷い状態だったんですね。今の松本城があんなに立派なお城なのに」

「どこから、どう手を付けたらいいか、なかなか仕事が始まらなかったなあ。佐々木喜重(きじゅう)って棟梁が中心になって何度も設計の先生と棟梁たちが揉めていたっけ。崩れた石垣を直したり、天井や壁に太い筋交いを入れたり、屋根になんとか足場だけはつくって作業を始めたが、ヨロビ直しはみんな命懸けの仕事だった」

「ヨロビ直しってなんですか?」

「建物の傾きを直すことだ。地盤と基礎が弱かったのか自重に耐えられなかったのか、そのせいで本丸の傾きがひどかったから、それを直すには相当な工事だったんだ。天守の五階の通柱に何本も太いロープを巻き付けて、城の北側と東側から牛、馬、人力で引っ張るんだ。城を垂直に直すのに皆必死にやったが、何日もかかったなあ。ようやく天守の五階と四階が終わった頃に日露戦争が始まって、二、三年ほど一旦工事は中止になった事もあった。その後、親方と俺たちの組は大天守の最上階の梁や垂木の補強工事をしたんだが‥」

 話がまだ途中だったが、その時、大叔母が声をかけた。

「安夫ちゃんお待たせ。お蕎麦が出来ましたよ。野沢菜も食べてね。お父さんもこっちに来て座ってください」

「おお、出来たか。安夫君、話の続きは、これを食った後にしよう」

「はい、そうですね。あっ美味しそうなお蕎麦ですね。これ、おばちゃんの手打ちですか? すごいなあ」

「そうよ、この家に嫁いでから、義母に教わったの。たくさんあるから、いっぱい食べてね」

「はい、頂きます」

ズルっと一口啜ると、コシがあって歯ごたえが良い。更に口の中に蕎麦の旨みがひろがり、咽喉ごしも良かった。

「おばちゃん、すごく美味しいです。ツユもだしが効いてて、ホントうまいです」

「安夫ちゃん、そんなに誉めてもらうとおばちゃん嬉しいよ。よかったら、少しもってかえって家の人にも食べてもらって」

「ありがとうございます。きっと喜びます」

敏男は、松本城の修理工事のことで大事な話が残っていたのか、黙って蕎麦を啜った。

 

お皿の上のそばがきれいになると、

「どうだ、うまかっただろ?」

敏男は蕎麦湯を飲みながら言った。

「はい、美味しかったです。ごちそうさまでした」

 

 食べ終わって、少し落ち着くと、敏男はまた籐椅子に座りなおした。安夫はさっきから茶封筒の中身が気になっていた。

「さてと、話の続きをしよう。さっき大天守の最上階の梁や垂木の補強工事をしたって話をしたな。最上階の天井は桔木(はねぎ)構造といってな、重い瓦屋根の軒先が下がらないように、たくさんの垂木がテコの原理で入り組んでいる箇所があるんだ。わしは親方や仲間といっしょにその垂木の傷んだ箇所を補強していた時のことだが、一本の垂木の上に化粧板が貼ってあったんだ。妙なところに化粧板があると思って、それを剥がしてみると中に窪みがあって、そこに油紙に包んだものが入っていてなあ。ちょっとびっくりしたんだ」

そこまで話をすると、敏男はふうっとため息をついた。

 

「安夫くん、その茶封筒の中をみてごらん」

安夫はすぐにその封筒の中をのぞきこんだ。中には今、話にあった油紙と思われるものがあり、それをそっと抜き出した。かなり年代物らしく少し黒ずんでいた。ゆっくり丁寧にその油紙を開いてみた。すると中に手紙らしきものが折りたたんであった。少し引っ張っただけで、すぐ破れそうだったので、より慎重にその手紙を開いてみた。

しかし、一目見ただけでクネクネと達筆で書かれたその内容を読むことなど、安夫には到底出来そうもなかった。

「おじさん、これって昔の人の手紙ですよね。いったい何が書いてあるんですか?」

「残念だけど、俺にもわからない。手紙の中身はともかく、わしはとんでもねえ事をしたかもしれない。松本城といえば、国宝だろう。その建物から出てきた手紙を勝手に持って帰ってしまったんだ」

「おじさん、それって‥」

「そうだ。わしは泥棒って言われても仕方がないんだ」

敏男はすまなそうに俯(うつむ)いた。しばらく二人の間に沈黙が続いた。

「言い訳をいうようだが、あの時は、皆忙しくて殺気立っていたんだ。なにしろ竣工の日程が迫っていて、連日連夜の作業で皆疲れ切っていた。そんな時に親方に余計な手間をかけたりすれば、怒られるのはわかっていたので、仕事が一段落してから話せばいいかと、とりあえず家に持って帰ってタンスに入れておいたんだ。その後、わしも殆ど忘れていて、気が付いた時にはもうかなり月日が過ぎていたので、なかなか言い出しにくくなってしまってね」

「それで、今日まで、ずっとタンスに入れっぱなしだったんですね」

「そうなんだ。今更、お城でこれを見つけましたなんて言えなくてなあ。だが、やっぱりこれは役所に返さなければいけないだろ。だから、安夫君、ほんとに悪いんだがお前から事情を話して市役所の担当者に渡して欲しいんだ」

「わ、わかりました。僕のほうから、なんとかうまく話してみます」

心配そうな顔をして、そばで聞いていた大叔母が口を開いた。

「安夫ちゃん、お願いしますね。うちの人、根は真面目で正直で、ホントにそんな人様の物を盗んだりできない人なんだよ。私、お父ちゃんが警察に捕まったら、どうしよう。安夫ちゃん助けてね」

「おばちゃん、警察なんてちょっと大袈裟ですよ。心配しないで。だって五十年も前の話でしょ。もう時効じゃないのかなあ。そもそも、この手紙が本当に貴重なものかどうかも調べてみないとわかりませんよ」

「だが、国宝の城から持ち出したのは確かだ。いずれにしても、返さなきゃならないものだ。そうだろう安夫君」

「わかりました。それでは、僕が松本市役所の職員として、この書類を正式に受理します。僕が責任をもって関係する部署に届けますので、安心してください」

「そうか、それを聞いて、なんだか肩の荷が下りた気がする。ありがとう、よろしく頼むよ」

 少し緊張気味だったふたりは互いに顔を見合わせながら、徐々に頬がほころんだ。

 

「それでは、僕、そろそろ帰りますね。おじさん、手紙のことはもう心配しないで。それより、身体大事にしてください。おばちゃん、お蕎麦ごちそうさまでした」

「気を付けて帰ってね。お母さんにもよろしく伝えてね」

「はい、おばちゃんたちも今度松本に遊びに来てください。では、失礼します」

 玄関で二人揃って、見送りをしてくれた。安夫は軽く頭を下げ、元来た道を帰って行った。

                   傾いた松本城 明治30年